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六花はかなり気長に待ってくれた。
千早が少しまともに会話が出来るようになるくらいまでには。
「人間が、あやかしになるとか……あるんですね」
ため息まじりの千早に、六花はただ笑んだ。
「まれなことではございますけれどね」
お茶屋に場所を移した千早は、六花をみつめたまま、熱いお茶を一口含む。固く焼き上げた菓子をかじれば、ほろほろと溶け出す甘みが身体に染み入っていくような心地がした。
「あやかしに助けられた死にかけの人間は、みんなあやかしになるんですか」
「われらが人間を救うこと自体がまれなことではございますけれど、千早さま。助けた人間がすべてあやかしになるとすれば……あやかしと人間の関係はもっと友好的になると思いましてよ」
確かに、そうかもしれない。
千早自身、あやかしになったといわれても、ぴんと来なかったし。ちょっとした体調の変化以外、特に自覚できる症状というものはないようなのだ。
「9割がたは、『なりそこない』と呼ぶ存在になるのでございますわ」
「なりそこない?」
「もとはあやかしと人間の混血児のことを指す蔑称ですけれどね、身体は人間のままなれど、あやかしの〈力〉をわずかにもつもの――もしくは、あやかしの身体を持ちながらも、なんの〈力〉も持たぬもの、といったところでしょうか」
六花の繊細な指が、きれいな砂糖菓子をつまみあげる。
「われらのような〈力〉の弱いものに救われたものは『なりそこない』になりますわ。仮にわが主さまのように〈力〉のあるものでも、わずかの〈力〉で救えば『なりそこない』になりますけれどね」
口に放り込んだ菓子を飲み込んで、六花はにこりと笑った。
「わたくしはそろそろおいとまいたしますわ。那智にはくれぐれもお気をつけ下さいませね? 風視どのが千早さまをお守りするとはおっしゃっていらしたけれど。あの方は抜けていらっしゃるから」
しばらく芽津をはなれる挨拶にきたのだと、六花はいった。
優雅な様子で去っていくその後姿は、すぐにひとなみにまぎれて消える。
「……このまま、白連塾にいていいのかなぁ」
意識は変わってないとはいえ、白連塾は古種族を狩るための組織だ。
この二年間、人間ではなくなってしまったかもという不安から幾度も繰り返した問いは、あやかしになったという確証を得た今、決断を迫るように眼前にぶら下がっている。
ただ。
「でも、風視さん……一緒に桜ヶ淵にいこうって言っただけで、首とかなにもいってなかったんだよね」
風視は邪言使いの異名をとる、白連塾でも一二を争う影狩師だ。
塾長の信頼も深いと聞くし。
その風視がなにも言わないのならまだ決めなくてもいいかと、千早は楽なほうに流れて、湯飲みに残っていたお茶を一息に飲み干した。
※ ※ ※ ※ ※
「桜ヶ淵の件ですが、どのように考えているのですか?」
床からのびる、白い塔……もとい。
積み上げられて人間の身長ほどの高さになっている書類の塔が乱立する隙間から、涼やかな声が響いた。
「どうって。誰かが何かたくらんでいるんだろう」
気のなさそうに答える風視は、勝手に部屋を物色してどこからともなく上物の菓子を探し出してきた。さらにごそごそと棚をあさり、湯飲みとお茶っぱをもとりだすと、手際よくお茶を淹れはじめた。
「陵王も飲むかい?」
「……いただきますけど」
涼やかな声の主は、呆れている様子を隠そうともしない。
そんな彼に、風視はわずかに目を細めた。
「有能なのはいいことだけどさ、何もかも抱え込むと、そのうち破綻するよ」
「その助言は那智にこそいってみてはいかがですか」
「あの堅物の坊やが聞くはずないだろ? 僕のこと大きらいなんだからさ」
「その坊やは、私のことなんて若造と侮って話すらまともに聞いてはくれませんよ」
ため息をついて、彼――白連塾塾長の陵王は筆をそのあたりに放り投げた。
「おやおや、やさぐれているね」
「あなたが来ると仕事にならないんですよ。休憩です」
風視のほうにやってくるときに肩が書類の塔にふれたらしく、うちのひとつが盛大になだれ落ちたが、陵王は一顧だにしなかった。完全に見なかったことにしている。
「あやかし疑惑の少女のほうはどうでしたか?」
「疑惑も何も、あやかしだったよ。本人はわかってるのかどうか怪しいけどさ」
風視がわたした茶を、陵王は無言ですすった。
わずかに眉がよったところを見ると、ちょっと熱すぎたのかもしれない。
「……少しは、白連塾も本来の意義に立ち直れるといいのですが」
「まぁそんなに期待はしてないよ」
自分でいれたお茶は、やはり少し熱すぎたようだ。
それを無理やりに飲み下し、小さく息を吐く。
塾長室から見える中庭では、今日も祈樹が花びらを散らしている。
「でもまぁ。少しは変わればいいと思いはするよ」
小さくつぶやけば、聞こえたのかどうなのか。
陵王の笑みがわずかに深くなったような気がした。