7
千早が多岐を訪ねたのは、あくる日。
まだ明けきらない夜が空を紫に染めて、名残を惜しむころだった。
とは言っても、農民出身者が多い白連塾の朝は早く、もう起きだしているものたちが大半だったが。
「多岐、おはよ」
寮は一応男子寮女子寮に分かれてはいるものの、行き来が出来ないのは夜の間くらいなもので。
声をかけることもせずに多岐の部屋の扉を開け放った千早に、周りのほうが焦った。
「ちょ、千早! 着替え中だったらどうすんだよ!」
「大丈夫でしょ、別に減るもんじゃなし」
とがめるように声を上げる通りすがりの少年に、千早はあっさりと言葉を返す。
「大体男どもなんて夏になったら上裸じゃないの。かわんないでしょ?」
みもふたもねえな、とぼやく周りを追い払うように手を振って、千早は多岐の部屋に侵入を果たした。
大半の者たちはもう朝食もすんでいる時間だというのに、多岐はまだ寝ていた。
耳元でおはよう、ともう一度声をかけてみるものの、さらに布団にもぐりこもうとする。
「多岐、起きろ!!!」
無理やりに布団を引っぺがし、耳元でもう一度叫べば。
多岐はひどく億劫そうに眉を寄せて、くっついて今にも閉じそうなまぶたの隙間からこちらを見やる。
「おはよう、多岐」
「……はよ」
「起きてよ」
「やだよ……俺は眠いんだ」
「なんでそんなに眠いのよ。私のほうが昨日は絶対的に遅かったはずよ!!!」
布団の引っ張り合いに勝ったのは千早で、無理やりに引きはがすと、多岐はそれでも往生際悪く敷布団の上で丸くなった。
「や、たぶん俺のほうが遅い……昨日の晩、那智様に呼ばれてさ。帰って来たの明け方なんだよ」
だから寝かせてくれ……
消え入るような声でつぶやいて、多岐は再び眠りに落ちる。
那智様に呼ばれた、というその言葉が。
千早に多岐を再び起こすことをためらわせる。
昨日の晩、風視が千早に語ったことが本当だとすれば。
那智は2年前の一件についてある程度のことを知っていて、自分のことを疑っている。
多岐に、何を聞いたんだろう。
気になるけれど、下手に聞くのもやぶ蛇な気がして、軽く唇をかむ。
多岐の寝顔を恨めしそうに見やったあと、きびすを返して、男子寮を後にした。
本当は桜ヶ淵に行くことになった、ということを多岐に伝えに来たのだが、結局用件は終わらずじまいだ。とりあえず今日はなんの仕事もない日だから、また後できてもいいだろう。と、そんなことを考えながら、市街へと出る門のほうへと歩を進める。
昼間、天にあるうちはほとんど動かないようにもみえるのに、実は意外と太陽は俊足らしい。多岐との一件でそこまで時間をとったとも思わないのに、夜の名残は消え去り、青く澄んだ空までさっさと駆け上ってしまっている。
「……太陽かぁ」
見上げて思い出すのは昨日のことだ。
ずっと一日太陽にあたっていれば、身体を重くだるく感じることはままあったが、そんなことはあの桜ヶ淵の事件よりも前からで。
というよりも、外で一日太陽の光を浴びて駆け回っていれば、疲れるのは当たり前。
そんなことは今まで気にしたこともなかったのに、あやかしらしき女は出てきて忠告するし、風視にしても、千早の身体に何か異常が起きるようなことをいっていた。那智だってそれを期待しての、昨日の処置だろう。
「わけわからん」
あのとき。
注ぎ込まれる何かに、自分の身体が今までと違ったふうに創りかえられたような気は、確かにした。
けれど、それ以後。千早は普通に人間として生きてきたのだ。あやかし封じの札さえ貼ったことがある。あの一件はいっそ夢なのだと思えるほど……死にかけていたあの日の出来事は、遠く曖昧だ。
「あ~……めんどくさ」
「そんなにご面倒だとお思いですの?」
「すごく。考えるのキライなんだよね……」
特に答えが自分ではわからない問いを考える場合は。
そうさらに言葉をたそうとして、千早は急激に立ち止まった。
「あなた……昨日の」
ぐるり、と音がしそうな勢いで振り返れば、まだ白連塾の敷地内だというのに――白連塾の周りはあやかし除けの札と呪がいたるところに張り巡らせてあるはずなのに。昨日のあやかしらしき女は平然とした様子で立っている。
「ご機嫌うるわしく、千早さま」
にこりと笑む女は今日も美しく妖艶だ。
「……六花、さん」
「まぁ、覚えてくださっていたのですね。光栄でございますこと」
夜を生業にする女たちのようなつやっぽい所作で、六花は横の髪を耳へとかきあげる。
「あの、ここ……まだ白連塾の中なんだけど」
市街への門はもう少し先にある。
千早の言葉の意味がわからないのか、六花は優雅に首をかしげた。
「だってその、あなたあやかしでしょう?」
いきなり現れた六花への動揺を押し隠し、千早はようやっとそれだけを問う。
六花は六花でようやっと質問の意図を解したようで、得心がいった表情でうなずいた。
「たかだか人間がこしらえたあやかし封じの呪が、われらに害をなすことなどありませんわ。千早さまも出入りなさっておいでではございませんか」
くすくす笑う六花に、千早はそうだったとようやく自分の身の上を思い出す。
そういえば、自分にはあやかし疑惑があったのだ。
「私、あやかしじゃないもの。六花さんとは違うと思うんです」
あら、と六花はきれいに化粧をほどこしたあおい縁取りの目をまん丸にみひらいてみせた。
「なんてこと。主さまはまだ千早さまに何の説明もされていらっしゃらないのですね」
困ったことですわ、とつぶやいて。六花は軽くため息をつく。
「千早さまはまだ不完全ではありますけれど、れっきとしたあやかしでいらっしゃいますわ。わたくしは単なる『影』にございますけれど」
『影』は、わかる。
あやかしが〈力〉を分けて造りだす、使い魔のようなものだ。
それはわかる別にいい。
問題は、その先だ。
あやかし???
…………わたしが?!
千早の思考はけっこうな間、まっしろになった。
あやかしの〈力〉で助けられて、『影』みたいな存在になったのかもしれないなぁとは思っていたけれど。
どこをどう間違えれば、あやかし、になるのか。
空高く雲にまぎれて飛んでいく、鳥の声を遠くに聞いた。
あやかし。
古種族の中の最強種。
永の時間を生き、天地の理を知り、呪を良くする存在。ときに人間さえ喰らうもの。
こまったような六花の存在は確かに認知はしていたが、とりあえず凍りついたまま千早はしばらく動けなかった。
ようやく、本人さえ自覚できていなかった正体暴露です。
こぎつけるまでに随分かかってしまいました……