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目が覚めたら敵国宰相の息子に憑依していたので、ひとまず敵情視察をします。

掲載日:2026/10/17

目が覚めたら、敵が寝ていた。


寝台に横たわっているのは、ベルク王国の宰相ヴァルトだった。

国境の砦を落とし、こちらの抗議を退け、先月の会談では私を「話の通じぬ男」と評した人物である。


こちらも同じ評価を返したので、その点についてはお互い様だ。


しかし、なぜ私がその寝室にいる。


「ルーカス様。お父上は、わたくしどもが見ておりますから」


背後から声をかけられた。

振り返ると、侍女らしい女性が、気遣わしげにこちらを見ている。


「どうぞ、お部屋へ。まだ顔色もよろしくありません」


ルーカス。

たしか、ヴァルトの息子がそんな名だった。


私は寝台の脇に置かれた水差しを見た。磨かれた銀の表面に、小さな顔が映っている。

淡い色の髪。丸い頬。十歳ほどの少年。


手を上げると、銀の中の少年も手を上げた。


……どういうことだ。


「父は」


口から出た声まで、幼い。


「まだ、お目覚めになりません。ですが、お医者様がついております」

「いつから」

「昨夜からです。ルーカス様も同じ頃に倒れられて……本当に、ご無事でよかったです」


私は侍女に連れられ、部屋を出た。

扉の外には兵士が立っていた。彼は私を見ると道を空けたが、侍女には低い声で念を押した。


「閣下のことは、くれぐれも」

「承知しております」


ヴァルトが倒れたことは、秘密らしい。

敵国に知られれば、動揺につけ込まれる。そう判断するのは当然だった。


では、私は。


昨夜、自分の執務室で書類を読んでいたところまでは覚えている。

その後、私の身体はどうなった。


アステル王国の宰相アルフォンスは無事か、と、この家で聞くわけにもいかない。


部屋に戻って、私はもう一度、鏡を見た。

少年が、ひどく険しい顔をしていた。


ひとまず落ち着こう。

戻る方法がない以上、ここでできることを考えるしかない。


敵の宰相の家にいる。

情報を得るには、これ以上ない場所ではないか。


そう考え直したところで、侍女が朝食を運んできた。


「お食事のあとは、お薬です」


……まずは、これを飲むところかららしい。


———


二日目には、外へ出る許可が下りた。


医師は、脈にも体温にも異常がないと言っていた。私は食事をきちんと取り、薬にも文句を言わず、庭を歩いた。

その成果として得たのが、侍女と護衛つきの散歩だった。


執務室には入れない。書類には触れない。大人同士の相談が始まると、部屋から出される。

仕方がない…ならば、街を見る。


ベルク王国は軍備のために民の食糧まで取り上げているという。

市場を見れば、その程度もわかるだろう。


ところが、市場は朝から賑わっていた。


荷車が道を塞ぎ、野菜を積んだ女が御者に怒っている。その横を子供が二人、焼き菓子を手に走り抜けた。

魚屋は声を張り上げ、隣の店主は「うちの客まで逃げる」と苦情を言っていた。


私はパン屋の前で足を止めた。


丸いパンが籠に積まれている。小さなものには、表面に砂糖がまぶしてあった。


「坊ちゃん、甘い方かい?」


店の女が、私の視線に気づいて聞いた。


「値は、以前と変わったか」

「変わったとも。粉も薪も高くなったからね」


女は大きなパンを持ち上げた。


「こっちは値段を据え置いたけど、少し小さくした。うちの旦那は気づかないと言ったけど、お客さんはみんな気づいたよ」


後ろで粉袋を運んでいた男が、こちらを見ずに言った。


「俺は、そんなに小さくするなと言ったんだ」

「じゃあ粉を安く仕入れておいでよ」


侍女が笑った。

私も、少しだけ笑いかけてしまった。


女は砂糖のついたパンを紙に包んだ。


「ルーカス様には、いつものこっちだね」


この子は、この店に来たことがあるらしい。

侍女が代金を払い、私に包みを持たせた。


温かかった。


市場の端には、徴募の告示が貼られていた。

その前で、年配の男が文字を追っている。傍らの女性は腕を組み、何も言わずに待っていた。


「うちの上の子も、あっちに行ってるんだ」


パン屋の女が、私の視線の先を見て言った。


「手紙には、飯は食べてるとしか書いてこない。こっちは、それ以外も聞きたいのにね」


私は紙の包みを握り直した。


軍の食糧事情なら、私も報告を受けていた。

だが、敵の兵士にパン屋の母親がいることは、報告書に書いていなかった。


そんなことは、当たり前だ。

兵士が畑から生えてくるわけではない。


それでも私は、こちらの軍に補給の増強を指示したとき、敵軍を一つの塊としてしか考えていなかった。


パンを一口かじった。

砂糖が、上着に落ちた。


———


屋敷の夕食には、豆の煮込みが出た。


「お父様がいないからといって、残してはいけませんよ」


ヴァルトの妻が言った。


どうやら、ルーカスは豆が嫌いらしい。

私は普通に食べた。彼女はそれを見て、わずかに眉を下げた。


「……無理をしているのね」


否定すると、かえって説明が難しい。

黙ってもう一匙すくった。


食卓には、使われない席が一つあった。

翌朝も、その席の前にだけ皿が置かれなかった。


私の家でも、今、こうなっているのだろうか。


妻は事情を知っているか。

息子のテオは、どうしている。


宰相の息子であるこの子さえ、父親が倒れた理由を知らされていない。

何を聞いても、大人たちは「心配しなくてよい」と言った。


私はこれまで、自分の息子にも何度その言葉を使っただろう。


その日の午後、私は屋敷の厨房で、遠征用の食糧を扱う商人に出会った。

市場へ行く口実を探していたら、侍女に焼き菓子の受け取りを頼まれたのだ。


商人は片足を引きずっていた。

料理人が椅子を出し、脚の具合を尋ねた。


「冷えると、まだ痛みますね。あの襲撃から、もう半年だというのに」

「ローデン橋の?」


私は顔を上げた。


ローデン橋…両国の国境に架かる橋だ。


半年前、我が国の穀物輸送隊がそこで襲われた。生き残った御者は、ベルク軍の旗を見たと証言した。

その後、護衛の増員、橋の封鎖、砦での衝突と続き、今の争いになった。


「アステルの兵は、商人まで襲うんですか」


若い下働きが言った。

商人は、答えるまで少し間を置いた。


「旗は、そうでした」


私は菓子の籠を置いた。


「いつの話だ」


全員が私を見た。

口調を改める余裕もなかった。


「ローデン橋で、穀物の荷車が襲われたのですか」

「はい。雪解けの月の十二日です。坊ちゃんも、お父上からお聞きに?」


日付まで同じだった。


「荷車は何台」

「私どものは六台。橋の向こうから来ていた隊も、巻き込まれました」


橋の向こう。

我が国の輸送隊だ。


「向こうの荷も、…焼かれた?」

「ええ。どちらの荷も、まとめて」


我が国の報告には、そんなことは書かれていなかった。


商人は、膝に置いた手を見下ろした。


「私は橋の下に落ちたので、全部は見ていません。ただ、あの連中、穀物を奪う気はなかったようで」

「何をしていた」

「荷に油をかけていました。あと、旗を取り替えていたのを見ました。私の場所からでは、柄までは……」


料理人が息をのんだ。


「それは、お役人に話したんだろう?」

「話しましたよ」


商人は困ったように笑った。


「怪我もしていたし、煙もあった。見間違いでしょう、と言われましたが」


私は、その場でしばらく動けなかった。


こちらには、ベルク軍の旗を見た者の証言が届いた。

あちらには、アステル軍の旗を見た者の証言が届いた。


同じ日に、同じ橋で、両方の荷が焼かれている。


確認しなければならない。

我が国の御者に、もう一度。現地を調べた役人に。そして、ヴァルトに。


その晩、私は彼の寝室に入れてもらった。

面会は短く、と言われ、寝台の脇に椅子が置かれた。


眠っているヴァルトの顔を見た。

会談で見たときよりも、ずっと疲れて見えた。


「お前は、どんな報告を受けた」


小声で尋ねた。

返事はない。


こちらの抗議を退けたのは、自分たちが襲われたと思っていたからか。

それとも、旗の話まで知ったうえで黙っていたのか。


会って、話したかった。

使者に文書を持たせるのではなく、質問をしたら、その場で答えを聞ける形で。


そのためにも、自分の身体に戻らなければ。


———


次に目を開けたとき、妻が椅子から立ち上がった。


「アルフォンス?」


握られた手は、私の手だった。

細い指でも、小さな掌でもない。


「……何日だ」

「倒れてから、四日目よ」


妻は答えてから、廊下へ向かって医師を呼んだ。


診察が終わるまで、私はろくに質問もできなかった。

意識を失っていた間のことは、屋敷の外には伏せられていた。公務は病を理由に延期され、急ぎの書類だけが代理に回されたという。


私は白鷺橋の記録を取り寄せるよう命じた。

そして、テオを呼んでもらった。


息子は扉のところで立ち止まった。


「父上」

「おいで」


手招きすると、ようやく近づいてきた。

肩を抱いた。こんなに小さかったかと思った直後、ついさっきまで自分も同じほどの背丈だったことを思い出した。


「心配をかけたな」

「僕も、ずっと眠っていたそうです」


息子の顔を見た。


「お前も?」

「父上と同じ晩に。でも、昨日は起きて、市場にも行ったって。僕は覚えていなくて」


胸の奥が、妙に騒いだ。


テオは上着の裾を握った。


「夢は、覚えています。知らない人が、起きたら父上に伝えてほしいって」

「何と」

「『ルーカスの目はどうだった?』」


私は息子の肩に置いた手を止めた。


「それから?」

「『明日の日没、ローデン橋の南にある水車小屋へ。話したい相手も来ます』って。忘れないように、何度も一緒に言いました」


私は息子に礼を言った。


「ちゃんと覚えてくれたんだな」

「大事なことでしたか」

「ああ。とても」


———


水車小屋は、何年も使われていないようだった。

護衛を外に残し、扉を開ける。


中にいた男が、椅子から立った。


ヴァルトだった。


四日前まで、彼の寝台を見下ろすには、椅子に近づかなければならなかった。

今は、ほぼ同じ高さから顔を見られる。


「……目が覚めたのか」

「お前もな」


互いに相手を眺め、それから、もう一人の人物へ視線を移した。


水車の軸のそばに、一人の女性が立っていた。

地味な旅装だったが、手には、三つの小さな銀の円盤を持っている。


「私が、お二人に呪いをかけました」


彼女は言った。


ヴァルトが、一歩近づいた。


「まず、息子について聞こう」

「お二人のご子息は、その間、夢の中にいました。私が話しかけられるようにしてあります。元の身体に戻った今、呪いは残っていません」

「医師にも調べさせる」

「はい」


彼女は逃げずに答えた。


「なぜ、こんなことを」


私が尋ねると、彼女は革鞄から書類の束を出した。


「私は、レゼン公国の宮廷術師でした」


両国に武器と軍馬を売り、仲裁を申し出ている国の名だった。


「ローデン橋の襲撃を手配したのは、我が国の軍務卿です。実行した傭兵への支払いの写しと、指示書を持ってきました」


私は差し出された紙を受け取った。

日付、金額、輸送経路。

すぐに真偽は判定できない。だが、調べるべき名前はあった。


「これを持って、最初から来ればよかっただろう」


ヴァルトの声は低かった。


「最初は、そうしました」


彼女は、書類の一枚を指さした。


「アステルの国境司令部と、ベルクの外務局に。それぞれ、別の者を通して。…どちらも、届きませんでした。…その後、私の部屋が調べられ、協力者も一人捕まりました」


私は紙を見た。

文書を受け取ったという役人の名に、覚えがあった。


「その者も加担していると?」

「それは、わかりません。握り潰したのか、誰かに預けたのか。私は、お二人まで届く方法を探しました」

「それが、息子の身体か」


彼女は頭を下げた。


「巻き込んだことは、申し訳ありません」


私はしばらく黙っていた。

礼を言う気には、まだなれなかった。

だが、話を聞かずに追い返すこともできなかった。


「戻れたのは、なぜだ」

「お二人が、元の身体で相手と話したいと望んだからです。両方がそう思うまで、解けない呪いでした」


ヴァルトと目が合った。


「お前も、私の息子に?」

「ああ。市場へ連れていってもらった。お前の国では、卵がずいぶん高いな」

「飼料が入らなくなった。国境を閉じたからだ」


言ってから、口をつぐんだ。

封鎖を指示したのは、私だった。


ヴァルトは、手近な椅子を引いた。


「ローデン橋の話から、聞かせてくれ」


私は座った。


———


話し合いは、日が落ちたあとも続いた。


私が会った商人は、ヴァルトが受け取った報告にも名前だけは載っていた。旗を取り替えたという証言は、記されていなかった。

こちらの記録には、ベルク側の輸送隊が被害を受けたことさえ抜けている。


抜けたのか。抜いたのか。

どこで、誰の手によって。


調べることは増える一方だった。


レゼンの術師の書類も、そのまま信用するわけにはいかない。彼女は調査への協力を約束し、しばらく身を隠せる場所を求めた。


私たちはまず、ローデン橋の生存者から、改めて話を聞くことにした。

新たな進軍については、双方とも命令を保留する。


それを各国でどう説明するか、というところで、また意見が割れた。


すんなり運ぶことなど、ほとんどなかった。

それでも、話は続いた。


帰り際、術師が銀の円盤を一つずつ差し出した。


「この三つの間で、声を交わせます。中央に触れて、相手の名前を呼んでください。相手が応じれば、つながります」


ヴァルトが円盤を裏返した。


「今度は、妙な仕掛けはないだろうな」

「調べていただいて構いません」

「そうする」


私も受け取り、懐へ入れた。


小屋の外で、ヴァルトは自分の護衛を呼びかけ、それから私を振り返った。


「私の息子は豆を食べないんだ」

「私が食べたら、母親が心配していたぞ」

「あれは、もう何年も嫌っている」


そう言った彼の口元が、少し緩んだ。


私は、テオの顔を思い浮かべた。


「うちの息子は、お前が入っていた日のことを知りたがっていた」

「何をしたのか、と?」

「ああ」

「たいしたことはしていない。街を歩いて、食事をして……算術の宿題をやった」

「宿題?」

「机にあったからな」


それは、困る。

あいつは宿題をきちんとやったことなどないはずだ。


私の顔を見て、ヴァルトが初めて声を出して笑った。


———


三日後、我が家の食卓に豆の煮込みが出た。

テオが一匙食べて、私を見た。


「父上、何かついていますか」

「いや」


私は自分の皿に視線を戻した。

我が息子は豆を残さず食べ、代わりに付け合わせの人参を二切れ残した。


夕食のあと、私は執務室で銀の円盤を取り出した。

術師による検査は済んでいる。


中央に指を置き、ヴァルトの名を呼んだ。

しばらくして、声が返ってきた。


『何かわかったか』

「御者の居場所がわかった。明日、話を聞く」

『こちらも商人を呼んだ。記録を送る』

「頼む。それと、一つ聞き忘れていた」

『何だ』

「市場の砂糖をかけたパンだが、あれは一日中売っているのか」


向こうが静かになった。

ややあって、ため息が聞こえた。


『昼には売り切れる。ルーカスも、朝から行きたがる』

「そうか」

『食べたいのか』

「ああ」

『……次の会談は、朝にするか』


私は机の上の予定表を開いた。


調べるべき事件も、説明すべき相手も多い。

失われた命は戻らず、国境には今も兵がいる。今日の話し合いに、明日誰かが反対するだろう。


それでも、次の会談の日を書き込むことはできた。


課題は山積みだが、良い方へ進むと私は信じている。

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