目が覚めたら敵国宰相の息子に憑依していたので、ひとまず敵情視察をします。
目が覚めたら、敵が寝ていた。
寝台に横たわっているのは、ベルク王国の宰相ヴァルトだった。
国境の砦を落とし、こちらの抗議を退け、先月の会談では私を「話の通じぬ男」と評した人物である。
こちらも同じ評価を返したので、その点についてはお互い様だ。
しかし、なぜ私がその寝室にいる。
「ルーカス様。お父上は、わたくしどもが見ておりますから」
背後から声をかけられた。
振り返ると、侍女らしい女性が、気遣わしげにこちらを見ている。
「どうぞ、お部屋へ。まだ顔色もよろしくありません」
ルーカス。
たしか、ヴァルトの息子がそんな名だった。
私は寝台の脇に置かれた水差しを見た。磨かれた銀の表面に、小さな顔が映っている。
淡い色の髪。丸い頬。十歳ほどの少年。
手を上げると、銀の中の少年も手を上げた。
……どういうことだ。
「父は」
口から出た声まで、幼い。
「まだ、お目覚めになりません。ですが、お医者様がついております」
「いつから」
「昨夜からです。ルーカス様も同じ頃に倒れられて……本当に、ご無事でよかったです」
私は侍女に連れられ、部屋を出た。
扉の外には兵士が立っていた。彼は私を見ると道を空けたが、侍女には低い声で念を押した。
「閣下のことは、くれぐれも」
「承知しております」
ヴァルトが倒れたことは、秘密らしい。
敵国に知られれば、動揺につけ込まれる。そう判断するのは当然だった。
では、私は。
昨夜、自分の執務室で書類を読んでいたところまでは覚えている。
その後、私の身体はどうなった。
アステル王国の宰相アルフォンスは無事か、と、この家で聞くわけにもいかない。
部屋に戻って、私はもう一度、鏡を見た。
少年が、ひどく険しい顔をしていた。
ひとまず落ち着こう。
戻る方法がない以上、ここでできることを考えるしかない。
敵の宰相の家にいる。
情報を得るには、これ以上ない場所ではないか。
そう考え直したところで、侍女が朝食を運んできた。
「お食事のあとは、お薬です」
……まずは、これを飲むところかららしい。
———
二日目には、外へ出る許可が下りた。
医師は、脈にも体温にも異常がないと言っていた。私は食事をきちんと取り、薬にも文句を言わず、庭を歩いた。
その成果として得たのが、侍女と護衛つきの散歩だった。
執務室には入れない。書類には触れない。大人同士の相談が始まると、部屋から出される。
仕方がない…ならば、街を見る。
ベルク王国は軍備のために民の食糧まで取り上げているという。
市場を見れば、その程度もわかるだろう。
ところが、市場は朝から賑わっていた。
荷車が道を塞ぎ、野菜を積んだ女が御者に怒っている。その横を子供が二人、焼き菓子を手に走り抜けた。
魚屋は声を張り上げ、隣の店主は「うちの客まで逃げる」と苦情を言っていた。
私はパン屋の前で足を止めた。
丸いパンが籠に積まれている。小さなものには、表面に砂糖がまぶしてあった。
「坊ちゃん、甘い方かい?」
店の女が、私の視線に気づいて聞いた。
「値は、以前と変わったか」
「変わったとも。粉も薪も高くなったからね」
女は大きなパンを持ち上げた。
「こっちは値段を据え置いたけど、少し小さくした。うちの旦那は気づかないと言ったけど、お客さんはみんな気づいたよ」
後ろで粉袋を運んでいた男が、こちらを見ずに言った。
「俺は、そんなに小さくするなと言ったんだ」
「じゃあ粉を安く仕入れておいでよ」
侍女が笑った。
私も、少しだけ笑いかけてしまった。
女は砂糖のついたパンを紙に包んだ。
「ルーカス様には、いつものこっちだね」
この子は、この店に来たことがあるらしい。
侍女が代金を払い、私に包みを持たせた。
温かかった。
市場の端には、徴募の告示が貼られていた。
その前で、年配の男が文字を追っている。傍らの女性は腕を組み、何も言わずに待っていた。
「うちの上の子も、あっちに行ってるんだ」
パン屋の女が、私の視線の先を見て言った。
「手紙には、飯は食べてるとしか書いてこない。こっちは、それ以外も聞きたいのにね」
私は紙の包みを握り直した。
軍の食糧事情なら、私も報告を受けていた。
だが、敵の兵士にパン屋の母親がいることは、報告書に書いていなかった。
そんなことは、当たり前だ。
兵士が畑から生えてくるわけではない。
それでも私は、こちらの軍に補給の増強を指示したとき、敵軍を一つの塊としてしか考えていなかった。
パンを一口かじった。
砂糖が、上着に落ちた。
———
屋敷の夕食には、豆の煮込みが出た。
「お父様がいないからといって、残してはいけませんよ」
ヴァルトの妻が言った。
どうやら、ルーカスは豆が嫌いらしい。
私は普通に食べた。彼女はそれを見て、わずかに眉を下げた。
「……無理をしているのね」
否定すると、かえって説明が難しい。
黙ってもう一匙すくった。
食卓には、使われない席が一つあった。
翌朝も、その席の前にだけ皿が置かれなかった。
私の家でも、今、こうなっているのだろうか。
妻は事情を知っているか。
息子のテオは、どうしている。
宰相の息子であるこの子さえ、父親が倒れた理由を知らされていない。
何を聞いても、大人たちは「心配しなくてよい」と言った。
私はこれまで、自分の息子にも何度その言葉を使っただろう。
その日の午後、私は屋敷の厨房で、遠征用の食糧を扱う商人に出会った。
市場へ行く口実を探していたら、侍女に焼き菓子の受け取りを頼まれたのだ。
商人は片足を引きずっていた。
料理人が椅子を出し、脚の具合を尋ねた。
「冷えると、まだ痛みますね。あの襲撃から、もう半年だというのに」
「ローデン橋の?」
私は顔を上げた。
ローデン橋…両国の国境に架かる橋だ。
半年前、我が国の穀物輸送隊がそこで襲われた。生き残った御者は、ベルク軍の旗を見たと証言した。
その後、護衛の増員、橋の封鎖、砦での衝突と続き、今の争いになった。
「アステルの兵は、商人まで襲うんですか」
若い下働きが言った。
商人は、答えるまで少し間を置いた。
「旗は、そうでした」
私は菓子の籠を置いた。
「いつの話だ」
全員が私を見た。
口調を改める余裕もなかった。
「ローデン橋で、穀物の荷車が襲われたのですか」
「はい。雪解けの月の十二日です。坊ちゃんも、お父上からお聞きに?」
日付まで同じだった。
「荷車は何台」
「私どものは六台。橋の向こうから来ていた隊も、巻き込まれました」
橋の向こう。
我が国の輸送隊だ。
「向こうの荷も、…焼かれた?」
「ええ。どちらの荷も、まとめて」
我が国の報告には、そんなことは書かれていなかった。
商人は、膝に置いた手を見下ろした。
「私は橋の下に落ちたので、全部は見ていません。ただ、あの連中、穀物を奪う気はなかったようで」
「何をしていた」
「荷に油をかけていました。あと、旗を取り替えていたのを見ました。私の場所からでは、柄までは……」
料理人が息をのんだ。
「それは、お役人に話したんだろう?」
「話しましたよ」
商人は困ったように笑った。
「怪我もしていたし、煙もあった。見間違いでしょう、と言われましたが」
私は、その場でしばらく動けなかった。
こちらには、ベルク軍の旗を見た者の証言が届いた。
あちらには、アステル軍の旗を見た者の証言が届いた。
同じ日に、同じ橋で、両方の荷が焼かれている。
確認しなければならない。
我が国の御者に、もう一度。現地を調べた役人に。そして、ヴァルトに。
その晩、私は彼の寝室に入れてもらった。
面会は短く、と言われ、寝台の脇に椅子が置かれた。
眠っているヴァルトの顔を見た。
会談で見たときよりも、ずっと疲れて見えた。
「お前は、どんな報告を受けた」
小声で尋ねた。
返事はない。
こちらの抗議を退けたのは、自分たちが襲われたと思っていたからか。
それとも、旗の話まで知ったうえで黙っていたのか。
会って、話したかった。
使者に文書を持たせるのではなく、質問をしたら、その場で答えを聞ける形で。
そのためにも、自分の身体に戻らなければ。
———
次に目を開けたとき、妻が椅子から立ち上がった。
「アルフォンス?」
握られた手は、私の手だった。
細い指でも、小さな掌でもない。
「……何日だ」
「倒れてから、四日目よ」
妻は答えてから、廊下へ向かって医師を呼んだ。
診察が終わるまで、私はろくに質問もできなかった。
意識を失っていた間のことは、屋敷の外には伏せられていた。公務は病を理由に延期され、急ぎの書類だけが代理に回されたという。
私は白鷺橋の記録を取り寄せるよう命じた。
そして、テオを呼んでもらった。
息子は扉のところで立ち止まった。
「父上」
「おいで」
手招きすると、ようやく近づいてきた。
肩を抱いた。こんなに小さかったかと思った直後、ついさっきまで自分も同じほどの背丈だったことを思い出した。
「心配をかけたな」
「僕も、ずっと眠っていたそうです」
息子の顔を見た。
「お前も?」
「父上と同じ晩に。でも、昨日は起きて、市場にも行ったって。僕は覚えていなくて」
胸の奥が、妙に騒いだ。
テオは上着の裾を握った。
「夢は、覚えています。知らない人が、起きたら父上に伝えてほしいって」
「何と」
「『ルーカスの目はどうだった?』」
私は息子の肩に置いた手を止めた。
「それから?」
「『明日の日没、ローデン橋の南にある水車小屋へ。話したい相手も来ます』って。忘れないように、何度も一緒に言いました」
私は息子に礼を言った。
「ちゃんと覚えてくれたんだな」
「大事なことでしたか」
「ああ。とても」
———
水車小屋は、何年も使われていないようだった。
護衛を外に残し、扉を開ける。
中にいた男が、椅子から立った。
ヴァルトだった。
四日前まで、彼の寝台を見下ろすには、椅子に近づかなければならなかった。
今は、ほぼ同じ高さから顔を見られる。
「……目が覚めたのか」
「お前もな」
互いに相手を眺め、それから、もう一人の人物へ視線を移した。
水車の軸のそばに、一人の女性が立っていた。
地味な旅装だったが、手には、三つの小さな銀の円盤を持っている。
「私が、お二人に呪いをかけました」
彼女は言った。
ヴァルトが、一歩近づいた。
「まず、息子について聞こう」
「お二人のご子息は、その間、夢の中にいました。私が話しかけられるようにしてあります。元の身体に戻った今、呪いは残っていません」
「医師にも調べさせる」
「はい」
彼女は逃げずに答えた。
「なぜ、こんなことを」
私が尋ねると、彼女は革鞄から書類の束を出した。
「私は、レゼン公国の宮廷術師でした」
両国に武器と軍馬を売り、仲裁を申し出ている国の名だった。
「ローデン橋の襲撃を手配したのは、我が国の軍務卿です。実行した傭兵への支払いの写しと、指示書を持ってきました」
私は差し出された紙を受け取った。
日付、金額、輸送経路。
すぐに真偽は判定できない。だが、調べるべき名前はあった。
「これを持って、最初から来ればよかっただろう」
ヴァルトの声は低かった。
「最初は、そうしました」
彼女は、書類の一枚を指さした。
「アステルの国境司令部と、ベルクの外務局に。それぞれ、別の者を通して。…どちらも、届きませんでした。…その後、私の部屋が調べられ、協力者も一人捕まりました」
私は紙を見た。
文書を受け取ったという役人の名に、覚えがあった。
「その者も加担していると?」
「それは、わかりません。握り潰したのか、誰かに預けたのか。私は、お二人まで届く方法を探しました」
「それが、息子の身体か」
彼女は頭を下げた。
「巻き込んだことは、申し訳ありません」
私はしばらく黙っていた。
礼を言う気には、まだなれなかった。
だが、話を聞かずに追い返すこともできなかった。
「戻れたのは、なぜだ」
「お二人が、元の身体で相手と話したいと望んだからです。両方がそう思うまで、解けない呪いでした」
ヴァルトと目が合った。
「お前も、私の息子に?」
「ああ。市場へ連れていってもらった。お前の国では、卵がずいぶん高いな」
「飼料が入らなくなった。国境を閉じたからだ」
言ってから、口をつぐんだ。
封鎖を指示したのは、私だった。
ヴァルトは、手近な椅子を引いた。
「ローデン橋の話から、聞かせてくれ」
私は座った。
———
話し合いは、日が落ちたあとも続いた。
私が会った商人は、ヴァルトが受け取った報告にも名前だけは載っていた。旗を取り替えたという証言は、記されていなかった。
こちらの記録には、ベルク側の輸送隊が被害を受けたことさえ抜けている。
抜けたのか。抜いたのか。
どこで、誰の手によって。
調べることは増える一方だった。
レゼンの術師の書類も、そのまま信用するわけにはいかない。彼女は調査への協力を約束し、しばらく身を隠せる場所を求めた。
私たちはまず、ローデン橋の生存者から、改めて話を聞くことにした。
新たな進軍については、双方とも命令を保留する。
それを各国でどう説明するか、というところで、また意見が割れた。
すんなり運ぶことなど、ほとんどなかった。
それでも、話は続いた。
帰り際、術師が銀の円盤を一つずつ差し出した。
「この三つの間で、声を交わせます。中央に触れて、相手の名前を呼んでください。相手が応じれば、つながります」
ヴァルトが円盤を裏返した。
「今度は、妙な仕掛けはないだろうな」
「調べていただいて構いません」
「そうする」
私も受け取り、懐へ入れた。
小屋の外で、ヴァルトは自分の護衛を呼びかけ、それから私を振り返った。
「私の息子は豆を食べないんだ」
「私が食べたら、母親が心配していたぞ」
「あれは、もう何年も嫌っている」
そう言った彼の口元が、少し緩んだ。
私は、テオの顔を思い浮かべた。
「うちの息子は、お前が入っていた日のことを知りたがっていた」
「何をしたのか、と?」
「ああ」
「たいしたことはしていない。街を歩いて、食事をして……算術の宿題をやった」
「宿題?」
「机にあったからな」
それは、困る。
あいつは宿題をきちんとやったことなどないはずだ。
私の顔を見て、ヴァルトが初めて声を出して笑った。
———
三日後、我が家の食卓に豆の煮込みが出た。
テオが一匙食べて、私を見た。
「父上、何かついていますか」
「いや」
私は自分の皿に視線を戻した。
我が息子は豆を残さず食べ、代わりに付け合わせの人参を二切れ残した。
夕食のあと、私は執務室で銀の円盤を取り出した。
術師による検査は済んでいる。
中央に指を置き、ヴァルトの名を呼んだ。
しばらくして、声が返ってきた。
『何かわかったか』
「御者の居場所がわかった。明日、話を聞く」
『こちらも商人を呼んだ。記録を送る』
「頼む。それと、一つ聞き忘れていた」
『何だ』
「市場の砂糖をかけたパンだが、あれは一日中売っているのか」
向こうが静かになった。
ややあって、ため息が聞こえた。
『昼には売り切れる。ルーカスも、朝から行きたがる』
「そうか」
『食べたいのか』
「ああ」
『……次の会談は、朝にするか』
私は机の上の予定表を開いた。
調べるべき事件も、説明すべき相手も多い。
失われた命は戻らず、国境には今も兵がいる。今日の話し合いに、明日誰かが反対するだろう。
それでも、次の会談の日を書き込むことはできた。
課題は山積みだが、良い方へ進むと私は信じている。




