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近代ヨーロッパ

あなたが他の誰かと結ばれる日の朝も

作者: 櫻まど花
掲載日:2026/07/03

「お妾だなんて、そんな甘いまやかし、わたしは絶対に嫌だわ」


 彼の胸に抱かれながら、わたしはそう言葉をこぼした。

 パリの街外れ、モンマルトルのうらぶれた坂道にひっそりと佇む、古びたアパルトマンの一室。

 華やかな貴族らの行き交うオペラ座からも、贅を尽くしたフォーブール・サン=ジェルマンの彼の生家からも遠く隔たったこの狭い部屋だけが、わたしたちにとって唯一許された隠れ家であった。

 窓の隙間から差し込む冷ややかな月光が、掛けられたレースの向こうから、寝台の上に横たわるわたしたちの肌を物寂しく照らし出している。シーツからは洗いざらしのリネンと、雨上がりの夜のにおいがした。


「……同じ墓に入ってやれないのは分かっているよ。僕だって、すべてを投げ打つ勇気はない」


 互いのぬくもりを確かめ合いながら、ルイはわたしの髪に長い指を絡ませた。わたしのうなじに触れる指先は、あきらめきれない未練を訴えるように、じっと熱を帯びていく。


「君を妻にできない僕が、君を日陰に閉じ込めようとしている。これがどれほど自分勝手な提案か、僕にだって分かっているんだ。だけどね、僕の理性がまともなのはそこまでなんだよ」


 すべてを承知しているはずの彼が、どうしてそんなふうに、壊れそうな声を出すのだろう。むごい申し出をしているのはルイのほうであるのに、まるで自分こそが一番深く傷ついているかのようだった。


「君をこのまま放り出せば、明日には別の男たちが、君のパトロンになろうと金貨を握りしめて列をなす。……そんなのは嫌だ。どうしたって嫌なんだ、ジネット」


 彼はそれ以上言葉をつづけることができず、ただきつく、わたしを胸のなかに抱き寄せた。その腕の強さは、わたしを閉じ込めるためのものではなく、彼自身の心がばらばらに崩れてしまわぬよう、縋りついているのだと分かって、拒むこともできぬまま、わたしもまた彼の背中にきつく腕を回した。


 わたしたちはもはや、正しく愛し合うことをあきらめてしまったのだろうか。

 誰もが羨むような、光の射す場所で手をつなぐ未来は、二度と選べないのかもしれなかった。彼はわたしを気高く愛する道を捨てようとしていて、わたしもまた、まっとうな幸福を望むのをやめかけている。


 けれど、こうして重ね合う肌の、心臓の痛むほどの熱さを知っているのは、この世でわたしたちふたりだけである。綺麗に愛せないからといって、この手を離してしまうことなど、どうしたってできはしなかった。

 耳の奥で鳴り響く、せっかちな彼の鼓動を数える。そのあたたかさに包まれるうちに、わたしは浅いまどろみのなかで、かつてわたしたちが何者でもなかった頃の、遠い日の夢を見ていた。


 あの頃わたしはまだ、きらびやかなオペラ座の舞台の、いちばん端っこで踊る群舞の一人にすぎなかった。役も名前もなく、ただ舞台に華を添えるためだけに、他の大勢の少女たちと一緒に、つま先で立ち続けるだけの小さな女の子。

 

 毎日、毎日、果てしなく踊り続けていた。擦り切れたトウシューズのなかで、足はいつも悲鳴を上げていた。けれど、わずかでもステップが乱れれば、マダムの叱声は容赦なく飛んでくる。

「代わりなんていくらでもいるのよ」──その言葉が恐ろしくて、わたしはただ痛みを噛み殺し、作り物の笑みを張り付けて踊るほかなかった。


 終演ののち、わたしは衣装をまとったまま、薄暗い裏階段の片隅にうずくまった。きつく結ばれたリボンを解き、張り付いた布を剥がすたびに、容赦ない痛みが走る。惨めさと、明日もまた叱られることへの恐怖にとうとう堪えきれなくなって、わたしは膝に顔を押し当て、一人きりで泣いていた。

 誰も助けてくれない、誰も見ていない。この暗がりこそが、世界で一番孤独な場所に思われた。


 そこへ、あまりに場違いな、あわただしい足音が近づいてきた。社交界の息苦しい大人のざわめきから、迷子のように逃げ出してきた、仕立ての良い上着の少年──それがルイだった。


 彼は暗がりにうずくまって泣くわたしを見つけると、息を呑み、綺麗な眉を痛ましげに歪めて、ひどく狼狽した様子であった。上品な靴が埃っぽい床を踏み、わたしの目の前で止まる。


「……大丈夫かい。どこか怪我でも」


 あまりに実直なその声に、わたしは顔を上げることさえできず、ただ血の滲む足先を両手で隠そうとした。見られたくなかった。自分のみすぼらしさを、そのような清らかで眩しい世界からやってきたらしい少年に見られることが、たまらなく恥ずかしかったのだ。


 けれど、彼はためらわなかった。床の埃も厭わず膝をつき、わたしの前にそっと跪いたのである。


「見せて。……こんなに血が出るまで、ずっと我慢して踊っていたのか」


 ルイはわたしの手を優しく退けると、血に染まった足先を見て、自分のことのように顔をしかめた。彼は自分の上着のポケットを探り、紋章の刺繍が入った美しいハンカチを取り出すと、何のためらいもなく、両手でそれを引き裂いた。


 布の裂ける音が鋭くひびく。わたしは驚いて、ようやく彼の顔を見あげた。


「あ、あの……そのような、上等なものを……!」


「いいんだ。君の足の方が、ずっと値打ちがあるよ」


 ルイはそっけないほどあっさりそう言うと、裂いたハンカチをわたしの傷口にそっとあてがった。


「痛む? ……ごめん。もっと器用にできたらいいんだけど。すぐ終わるから」


 ぎこちない手つきながらも、彼はわたしを痛がらせぬようにと、真剣な眼差しで一心に布を巻きつけてくれた。最後に端を結ぶとき、その指先がかすかに震えていたことに、わたしは彼の誠実さを見た気がして、うれしかった。


「よし、これでいい。……少しは楽になるといいんだけど」


 包帯代わりとなった白いシルクを見つめながら、ルイは満足げに息をつき、それからまっすぐにわたしの瞳を見つめて言った。


「君、舞台の一番端にいただろう? 僕は客席のボックス席から、ずっと君ばかり追いかけていたんだ。誰よりも熱心に踊っていたから。……だから、そんなにみじめな顔をしないで。僕にバレエの素晴らしさを教えてくれたバレリーナが、そんな風に泣いていたら、僕のほうが悲しいよ」


 その言葉のなかには、打算も、下心も、まやかしも、何ひとつだって混ざっていなかった。

 お妾だとか、パトロンだとか、そうした言葉を覚えるずっと前。わたしたちはただのルイと、ただのジネットだった。あの清らかな光のなかで、互いの孤独をただ見つめ合い、純粋に恋に落ちたのだ。


 だが、パリの踊り子という生き物は、ただ美しく踊るだけが生業とするわけではない。

 やがて時が経ち、いやおうなく思い知ることになった。ガルニエ宮のきらびやかな舞台の裏側で、名もない踊り子たちがどんな風に大人の男たちに品定めされ、買われていくのかを。

 どれほど気高くあろうとしても、持たざる少女がここで生き残るための道は、いつだってただひとつしか用意されていなかった。


「ルイ、お願い……聞いて」


 震える声を絞り出し、彼の、今や大きくなった手を、指先が白くなるほど強く握りしめた。かつてわたしのつま先を優しく包んでくれた、あの綺麗な手を。


「あなたもご存じでしょう。このオペラ座がどのような場所で、わたしたちがどのような存在か。もう耐えられない。見も知らぬ大人の男たちに、値踏みされるのは……。あなたがいいの。他の誰にも、わたしに触れさせないで」


 かつて彼が与えてくれた、立派なバレリーナという夢を、自ら泥のなかに投じるような告白だった。彼を汚し、自分を貶める、これ以上ない背徳だ。

 ルイは息を呑み、鋭い刃物で胸を突かれたかのように、その顔を苦痛に歪めた。彼がどれほどわたしを清らかなままで愛そうと努めてくれていたか、わたしには分かっていたはずなのに。


「ジネット……何を言っているんだ。君は、そんな……」


「あなたがいいの。どうせ娼婦になるのなら、あなたひとりの娼婦にして」


 涙に視界をにじませながら、わたしは拒まれることを恐れるように、彼の唇にみずからの唇を押しあてた。わたしの純潔を誰が幾らの銀貨で競り落とすのか──そんな噂話が忍び寄り、わたしの足もとを濁らせようとしていたあの日、わたしは初めて、自ら彼にすがりついたのだった。


「……ジネット、ジネット」


 耳もとで、切なげに名を呼ぶ声がして、わたしはかすかに瞼をひらいた。夢から覚めても、目に映るのはやはりルイの顔であった。だが、夢のなかの無邪気な少年よりも、いまの彼はずっと悲しげな、すべてをあきらめた大人の男の顔をしていた。

 寝室の隙間から忍び寄る空気は、少しずつ、セーヌの川霧を含んだ朝の気配へと変わりはじめていた。


「もうすぐ朝が来る。ジネット、聞いてくれ。僕は君を……生涯、僕の妻として迎えることはできない。僕の一族が、それを決して許しはしないからだ。君を日陰の身に留め置く不実を許してほしい」


 ルイは一度言葉を切り、喉を詰まらせるようにして、わたしの頬をそっと撫でた。


「けれど、神に誓って君を無下に扱いはしない。世間の心ない連中に、君を後ろ指差させはしないと約束しよう。……パッシーの静かな通りに、庭の広い屋敷を用意したよ。そこは君だけの城だ。召使いも、暮らしに必要なものも、すべて僕が不自由なく整える。君を娼婦とは呼ばせない。僕の、たった一人の愛しい人だ。……だから、どうか僕のそばにいてくれ」


 かつて彼が与えてくれた白い絹のハンカチは、いまやパッシーの豪奢な屋敷という名の、ひとつの檻へと姿を変えようとしていた。

 もしわたしが別の女であったなら、あるいは歓喜のあまり、彼の胸に飛び込んでいたのかもしれない。だが、その屋敷がどれほど贅を尽くしたものであろうと、わたしにとってはいささかも意味を持たなかった。

 わたしが望んでいたのはただひとつ、あの暗闇のなかからわたしを引き上げてくれた、彼の混じり気のない愛情だけだったのである。


「……いいえ、できないわ。だって、あなたに形ばかり娶られるお嬢さまが、あまりにかわいそうだもの。誰かを泣かせてまで、あなたの隣に居座りたいとは思わないわ」


「……ジネット、それは……」


「お屋敷も、お金も、これ以上は何もいりません。ルイ、もうわたしを困らせるのはよして」


 妻のほかに日陰の女を囲い、都合よく愛を語る──そのような俗悪な大人の男たちなら、オペラ座には掃いて捨てるほどいた。わたしはただ、気高いルイをそのような場所に引きずり下ろすことだけは、どうしてもしたくなかったのだ。わたしという存在が彼の美しさを曇らせる澱になるくらいなら、いっそこの身を引き裂かれたほうがましであった。


「……死んでしまおうなんて言われたら、怖くて逃げ出してしまうくらい、わたしは意気地のない女だけれど」


 これ以上、彼の残酷なまでのやさしさに絆されてしまわぬよう、わたしは寝台からそっと身を引き離した。窓の外に目をやれば、夜の底が、すでにゆっくりと白みはじめていた。


「でもね、そんなずるい帳尻合わせで、あなたと繋がっていたくはないの」


 ルイは寝台の上に半身を起こし、行き場を失った両手を、宙にさまよわせた。


「行かないでくれ、ジネット。頼むから、僕のあずかり知らぬ場所で、誰かのものにならないでくれ……。誰が君を否定しても、僕の心は君のものだと、僕は何度でもそう言いつづけよう」


 その声には、もはや取り繕う余地のない、剥き出しの懇願が滲んでいた。たとえ世界じゅうが移ろい、変わり果てようとも、この指先が覚えているぬくもりだけは、決して嘘にはならないだろう。わたしはそう信じることにした。


「ルイ。朝が来るわ。……朝が来るわ。朝が来るのよ」


 まるで呪文でも唱えるように、わたしは同じ言葉を繰り返した。


「いつ、どんな時でも。わたしたちがどれだけ別れを惜しんだとしても。……あの裏階段で、泣いていたわたしの足を手当てしてくれた、あの日のあなたが、わたしに夜明けを連れてきてくれたみたいに」


 窓の外では、セーヌの霧を含んだ光が、しだいに部屋のなかへとにじり寄ってきていた。わたしは彼の手からそっと自分の手を離し、崩れゆく夜の名残のなかに、彼をひとり残して立ち上がった。

 哀しみも、未練も、すべてはこの朝の光とともに、いずれ薄れて消えてゆくのだろう。そう信じたかった。そう信じるよりほかに、わたしにできることは、もう何ひとつ残されてはいなかったのである。

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