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神鳴の共鳴(シンクロニシティ) ―機鋼帝国ゼノフィアと八百万の祈り―  作者: amya
11章

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第59話:世界で一番、運の良い旅


 世界から、あの重苦しい「油の匂い」が消えてから、一ヶ月が過ぎていた。


 帝都ゼノフィアの近郊、なだらかな丘の上。かつては赤黒い荒野だったその場所は、今や見渡す限りの草原へと変わっていた。神の浄化の光が、数百年分の自然の営みを一瞬で早回しにしたかのように、色とりどりの野花が風に揺れ、甘やかな香りを漂わせている。


 その丘の一本桜の下、かつては枯れ木だったが、今は満開の花を咲かせているその下に、魔導帆走車『嵐駆らんく丸』が停まっていた。


「……ふゥ。こんなもんかな」


 アラタは、修理槌『桜雷サクラライ』を腰に差し、額の汗を拭った。彼の手元にあるのは、世界を救うための兵器でも、神を鎮めるための道具でもない。ただの、古びたオルゴールだ。帝都の瓦礫の中から見つかったそれを、彼は丁寧に分解し、錆を落とし、歪んだ音階を直していたのだ。


 ゼンマイを巻くと、ポロン、ポロン……と、拙くも愛らしい音色が草原に響いた。


「いい音。……直ったのね」


 背後から、柔らかい声と温もりが近づいてくる。ミラだ。彼女は濡れた洗濯物を入れた籠を抱え、穏やかに微笑んでいた。その瞳には、かつてのような不安のかげりはなく、頭上の青空と同じくらい澄んだ輝きがある。


「ああ。中身はボロボロだったけど、芯の音は生きてたからね」


 アラタがオルゴールを渡すと、ミラは愛おしげにそれを耳に当てた。戦闘用の『翠輝神緑鎧』はもう解除されている。今の彼女は、麻のシャツにエプロンという、ごく普通の少女の姿だ。だが、その指先から零れる生命力は、周囲の草花をさらに生き生きと輝かせていた。


「平和だね、アラタ」


「ああ。……静かすぎて、耳がくすぐったいくらいだ」


 二人は顔を見合わせ、クスリと笑った。工場の駆動音も、悲鳴も、爆発音もない。聞こえるのは、風が草を撫でる音と、遠くで仲間たちが笑い合う声だけ。それは、アラタがずっと探していた「世界のあるべき音」だった。



「ほらほら、カグヤ! 口の周りがクリームだらけだぞ!」

「ふふっ。だって、イザベラが作ってくれたケーキ、美味しすぎるんだもん」


 『嵐駆丸』の傍らに広げられたシートの上では、ささやかなティーパーティーが開かれていた。エプロン姿のイザベラが、甲斐甲斐しくカグヤの口元をハンカチで拭いている。かつての氷の将軍の面影はどこにもない。そこにあるのは、娘を守り、慈しむ、一人の母親の姿だった。


 彼女の愛娘は、まだ帝都の療養院で眠っているが、カグヤの歌声と神の光によって、その病状は劇的に回復しつつあるという。カグヤもまた、イザベラを「お母様」と呼び、甘えることで、長年檻の中で凍えていた心を溶かしていた。


「……変われば変わるものだな。あのイザベラが、菓子作りとは」


 ナギが紅茶を啜りながら、目を細める。彼の額にあった『光の角』の輝きは落ち着き、今は普通の龍の角のように静かに鎮座している。だが、その全身から溢れる王者の風格は、以前よりも増していた。


「ナギ様、そろそろ出発の時間ですぞ。龍人族の里再建のため、皆が貴方の帰還を待っております」


 部下の龍人が声をかける。ナギは頷き、立ち上がった。彼はアラタたちの元へ歩み寄ると、無言で右手を差し出した。


「アラタ。貴殿との旅、生涯忘れぬ。……私の角が折れた時、貴殿が奏でてくれた音色が、私を王に戻してくれた」


「ナギ……。君がいてくれたから、僕たちはここまで来れたんだ」


 アラタがその手を握り返す。固い握手。

「また会おう。……世界が再び不協和音を奏でそうになった時は、いつでも呼んでくれ。風よりも速く駆けつけよう」


 ナギはニヤリと笑うと、イザベラやカグヤ、そして整備をしていたリッカとカイトにも別れを告げ、部下たちと共に空へと飛び立っていった。蒼き龍の軌跡が、雲ひとつない青空に美しい飛行機雲を描いていく。



「しんみりするのは早いのじゃ! まだ一番の大仕事が残っておるぞ!」


 感傷的な空気を打ち破るように、元気な声が響いた。アラタの肩に、トンッと小さな重みが乗る。赤い着物の少女、ワラシだ。そしてその足元には、すっかり大きくなった聖獣コダマが、尻尾をブンブンと振ってじゃれついている。


「大仕事って……。ワラシ、また何か拾ってきたのか?」


 アラタが呆れ半分で尋ねると、ワラシはニシシと悪戯っぽく笑い、背中に隠していた「それ」を差し出した。


 それは、虹色に輝く巨大な結晶石だった。神が浄化された際、その欠片が大地に残ったものだ。内包されたエネルギーは計り知れず、これ一つで国が買えるほどの価値があるだろう。


「森の奥を散歩しておったら、コダマが掘り当ててな! ……どうじゃ、これぞ『千載一遇』の幸運! わらわがいる限り、この一行は食いっぱぐれなしじゃ!」


 ワラシが胸を張る。確かに、この旅の間、ワラシの「運」には何度も助けられた。弾が逸れたり、隠し通路を見つけたり、絶体絶命のピンチで活路を開いたり。彼女は「家の守り神」から「星の守り神」へと覚醒したが、その本質は変わらない。近くにいる人を幸せにする。ただそれだけの、シンプルで最強の力。


「それにしても、こんなお宝……どうするんだよ」


「決まっておろう! これを換金して、『嵐駆丸』をさらに改造するのじゃ! お風呂も広くするし、キッチンも最新式にする! ……なにせ、これからは『世界巡回・無料調律の旅』なんじゃろ?」


 ワラシの言葉に、アラタは目を丸くし、それから吹き出した。そうだ。戦いは終わったが、旅は終わらない。世界中にはまだ、戦争の爪痕や、悲しみの音が残っている。それらを一つずつ直して回る。それが、アラタが選んだ新しい生き方だった。


大家おおや殿。わらわとコダマの分の部屋代と食費、これで数百年分は前払いじゃ。……文句はないな?」


 ワラシがアラタの鼻先をつつく。コダマも「クゥン!」と鳴いて、アラタの頬をザラザラした舌で舐めた。


「……ああ。文句なんてないよ。ずっといてくれ、僕たちの『家』に」


 アラタが答えると、ワラシは満面の笑みを咲かせた。その笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。



「おーい! アラタ! イザベラたちが帝都へ戻る準備ができたってよ! 俺たちも出発だ!」


 カイトの声が響く。リッカがエンジンの最終調整を終え、サムズアップしている。イザベラとカグヤは、帝都で復興の指揮を執ることになっている。別れは寂しいが、いつでも会える距離だ。


「よし、行こう。ミラ、ワラシ、コダマ!」


 アラタたちは『嵐駆丸』に乗り込んだ。エンジンが始動し、心地よい振動が伝わってくる。それは以前のような悲鳴のような駆動音ではなく、まるで猫が喉を鳴らすような、ご機嫌なハミングだった。


「全速前進! ……次の目的地は、風の吹くまま、気の向くまま!」


「そして、わらわの『運』の導くままじゃ!」


 アラタが舵を取り、ワラシが進行方向を指差す。『嵐駆丸』がふわりと浮き上がり、桜吹雪を巻き上げながら空へと駆け出した。


 眼下に広がるのは、再生した緑の大地と、平和を取り戻した人々の営み。その中を、一隻の船が往く。世界で一番腕の良い調律師と、世界で一番運の良い座敷わらし、そして愛すべき仲間たちを乗せて。


 彼らの旅路には、もう二度と「不協和音」が響くことはないだろう。なぜなら、彼らが奏でる笑い声こそが、この世界を幸福にする最高の音楽なのだから。





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