第58話:星を繋ぐ大合奏(グランド・セッション)
「――行けぇぇッ、相棒!!」
アラタの絶叫に呼応し、聖獣コダマが地面を蹴った。桜色の結界が作り出したスローモーションの世界の中、コダマは唯一、光の速さで疾走する流星だった。目の前に迫るのは、汚泥に埋もれた神の胸部。そこに同化し、悲痛な叫びを上げている皇帝ゼノンの姿。
あと、数メートル。届く。この距離なら、確実に調律できる。
だが、その刹那。ゼノンの瞳に、狂気と諦念が入り混じった冷徹な光が宿った。
「無駄だ! 神はもう、何者も受け入れない! ……永遠の沈黙こそが、唯一の安らぎなのだ!」
ゼノンが、自身の魂そのものを燃やし尽くすように絶叫した。
ズゥゥゥゥン……!!
神の周囲の空間が、完全なる「無」へと固定される。それは物理障壁ではない。あらゆる音、振動、魔力干渉を吸い込み、無効化する高密度の「静寂の壁」。アラタたちが奏でてきたセッションの旋律さえも、その壁に触れた瞬間に虚無へと消えていく。
「しまっ……弾かれ……!」
コダマがたたらを踏む。『桜雷』を構えたアラタの腕に、鉛のような重圧がかかる。槌が届かない。音がない世界では、調律師は無力だ。絶対的な拒絶の盾を前に、希望の音が途絶えそうになった、その時だった。
「いいえ、一人じゃない! ……諦めないで、アラタ!」
背中に張り付いていたミラが叫んだ。彼女の美しい緑色の瞳が、燃えるような決意で輝いている。
「私の命、全部使って!」
「ミラ、何を……!?」
「いいからッ!」
ドスッ! ミラの纏う『翠輝神緑鎧』から、血管のような無数の根が飛び出し、アラタの『共鳴外骨格・奏』の隙間へと深く突き刺さった。
ドクンッ!!
「ぐ、ぁ……ッ!?」
アラタの体内を、爆発的な熱量が駆け巡る。それは魔力という無機質なエネルギーではない。獣人の、森の、土の、そしてミラという一人の少女の、熱く脈打つ心臓の鼓動そのもの。彼女は、自身の生命力をすべて「音」に変換し、アラタという楽器に注ぎ込んだのだ。
「……ありがとう、ミラ。……聴こえるよ、君の音が。みんなの音が!」
アラタの外骨格が、限界を超えて虹色に輝き出す。静寂の壁に、ヒビが入る。音のない世界に、生きている者の鼓動が無理やり割り込んでいく。
「ゼノン! 君は『うるさい』と言った! 『騒音』だと言った!」
アラタは『桜雷』を大きく振りかぶった。その切っ先には、旅で出会った全ての人々の声、風の音、街の喧騒、そして仲間の想いが収束していく。
「でも、君が嫌ったこのノイズこそが……僕たちが、この星で生きている証なんだ!」
振り下ろされる一撃。それは破壊の鉄槌ではない。神へのラブソングであり、迷子への道標であり、世界への肯定だった。
「――星律・天地開闢ッ!!」
カァァァァァァァァァァンッ!!
虹色の閃光と共に、アラタの槌が「静寂の壁」を紙のように突き破り、ゼノンの胸板ごと、その奥にある神の核を正確に叩いた。
衝撃音はなかった。爆風も、悲鳴もなかった。
地下空洞に響き渡ったのは、凍てついた冬の朝に遠くで鳴る鐘の音のような、あるいは赤ん坊が初めて肺いっぱいに空気を吸い込んで上げた産声のような、澄み切った「始まり」の音だった。
波紋が広がる。虹色の音色が触れた場所から、世界が塗り替えられていく。
ドロドロに腐敗していた黒い泥が、音色を吸い込み、キラキラと輝く透明な結晶へと変わっていく。鼻を突く腐臭は消え去り、代わりに雨上がりの土の匂いと、咲き乱れる野花の香りが満ち溢れた。
醜悪な怪物の姿をしていた巨神が、美しい鉱石の大樹へと変化し、その中心からゼノンの体が解放される。
「……な、なんだ……この音は……」
ゼノンは崩れ落ちながら、自身の掌を見つめた。泥の拘束は解けている。だが、彼はもう動こうとはしなかった。
「うるさいはずなのに……雑音のはずなのに……なぜ、こんなに……心地よい……」
彼の冷徹な硝子玉のような瞳から、オイルのような、けれど温かい涙が零れ落ちる。 彼は初めて知ったのだ。自分が守ろうとしていた「死のような静寂」よりも、不格好でも温かい「生の喧騒」の方が、遥かに神を癒やすのだと。
「……見事だ、調律師……」
ゼノンは穏やかな笑みを浮かべると、無数の光の粒子となって霧散し、消えていった。
そして、その向こう側。浄化された神の核から、ひとつの影が浮かび上がった。それは性別も年齢もない、純粋な光そのものでできた、子供のような存在。「最初の神」の、本当の姿。
光の神は、キョトンとした顔でアラタを見つめた。それから、小さな手を耳に当て、耳を澄ませた。
聞こえてくるのは、アラタたちが奏でたセッションの余韻。そして、地下の天井を突き抜けて微かに届く、地上の人々のざわめき。笑い声、泣き声、足音、風の音。
神は、ふわりと微笑んだ。
(……きれいな、おと)
声なき声が、全員の心に直接響く。それは「許し」であり、「感謝」だった。
神は満足げに瞳を閉じると、パァンと弾け、無数の光の蝶となった。蝶たちは地下の天井を透過し、地上へ、空へ、そして星の隅々へと飛んでいく。世界を滅ぼすはずだったエネルギーは、傷ついた大地を癒やし、枯れた森を芽吹かせるための温かな春風となって、世界中へ拡散していった。
「……行ったか」
ナギが『光の角』の輝きを収め、静かに呟く。緊張の糸が切れ、崩れ落ちそうになるアラタを、背中にいたミラが強く抱きしめて支えた。
「うん。……もう、迷子じゃない。あの子は、この世界そのものになったんだ」
アラタの手の中で、『桜雷』が役目を終えたように、静かにその輝きを弱めていく。戦いは終わったのだ。
その傍らに、元の子供の姿に戻ったワラシが降り立った。十二単は消え、いつもの赤い着物に戻っている。だがその表情は、どこか大人びた、数千年の時を見守ってきた母のような慈愛に満ちていた。
「やれやれ、世話の焼ける大家じゃったのう。……じゃが、これでやっと、本当の『家』になったわ」
ワラシはニシシと無邪気に笑うと、アラタの足元に座り込んだ。
ズズズ……と重い音がして、地下空洞の天井が大きく崩落した。だが、誰も身構えなかった。落ちてきたのは瓦礫ではない。
眩しいほどの、光の柱。それは、帝都を覆っていた赤黒いスモッグの光ではない。神の浄化によって淀みが拭い去られ、数百年ぶりに地上へ降り注いだ、突き抜けるような青空の陽光だった。
「……見て、アラタ。空が……青いよ」
「ああ……。すごく、いい色だ」
長く苦しい不協和音の時代は、終わりを告げた。降り注ぐ光の中で、彼らは互いの健闘を称え合い、笑い合った。調律師アラタと仲間たちが奏でた旋律は、新たな神話として、この星に刻まれることになるだろう。
――『神殺しのハンマー』。後世、その名は伝説となる。だが、それは破壊の象徴ではない。世界を救い、神を救い、けれどただの一度も、「誰か」を壊すことのなかった、優しき調律の槌の物語として。




