第55話:奈落へのダイブ、泥濘(でいねい)の神
帝都ゼノフィアの中央。かつては威厳ある大聖堂が鎮座し、人々の祈りを吸い上げていたその場所には、いまや星の核へと続く巨大な「奈落」が、醜悪な顎を開けていた。
崩落した地盤の断面からは、千切れ飛んだパイプや鉄骨が肋骨のように突き出し、奈落の底からは、どす黒い瘴気が噴き上げている。それは、地下水でも溶岩でもない。鼻を突く強烈な腐敗臭。そして、大気を物理的に震わせるほどの、凄まじい「不協和音」の暴風だった。
「――オ、オオオ……。イタイ……ウルサイ……」
底の見えない闇の奥から、呻き声が響く。それは鼓膜ではなく、脳髄を直接掻きむしるような生理的な拒絶の音。文明が垂れ流した汚泥と欲望にまみれ、安息を奪われた神の、悲痛な叫びそのものだった。
魔導帆走車『嵐駆丸』の甲板で、アラタはその風圧に顔をしかめながらも、しっかりと前を見据えた。恐怖はない。あるのは、この悲しい神を救わねばならないという、調律師としての使命感だけだ。
「――逃がすかよ! 全員、しっかり掴まってな!」
カイトの怒号が、轟音を切り裂いた。彼はゴーグルを押し下げ、歯を食いしばりながら舵輪を強引に押し込んだ。
「野郎共、起きろ! ここが正念場だ! ドワーフの意地と龍の石の底力、見せてやれぇッ!!」
カイトの操舵に応え、『嵐駆丸』の機関部が咆哮を上げる。船体側面から突き出ていた広大な帆が、機械的な駆動音と共に畳まれ、代わりに鋭角的な装甲板が展開される。空気抵抗を極限まで減らし、魔力障壁を前方に集中させた、一点突破のための「突撃形態」への変形だ。
白銀の船体が、流星のように機首を下げる。目指すは、全てを飲み込む暗黒の穴。
「行くぞ! 飛べる者は自ら飛び、道を切り開け!」
ナギが叫び、甲板の手すりを蹴った。虚空へと身を躍らせた彼の背後で、物理法則を超えた蒼き燐光が爆ぜる。
「我が角は折れず、我が光は曇らず! ――蒼天咆哮!!」
ナギの全身が、蒼き龍のオーラに包まれた。彼は一筋の閃光となり、奈落から噴き上げる瘴気の嵐を真っ向から切り裂いていく。その光に触れた汚泥の飛沫は、瞬時に浄化され、清らかな水となって霧散した。
「……ふふ。先陣を譲るつもりはないわ」
続いて舞い降りたのは、純白のドレスを翻したイザベラだ。彼女の背中には、ダイヤモンドダストを固めたような、美しくも鋭利な「氷の翼」が展開されている。かつては敵を凍らせるための冷気だったものが、今は仲間を、そして神を守るための盾となって輝いていた。彼女が通過した軌跡には氷の道ができ、後続の『嵐駆丸』への熱干渉を防いでいく。
「……重力干渉、開始。……道を、あけて」
カグヤがふわりと宙に舞う。彼女の動きは重さを感じさせず、まるで月面を歩くように優雅だった。だが、その掌から放たれる力は絶大だ。彼女が指先を振るうたび、落下してくる瓦礫や鉄塊が、見えない手に弾かれたように軌道を変え、壁面へと突き刺さる。
三人の英雄が切り開く、地獄への一本道。だが、そんな彼らを追い抜くように、小さな影が飛び出した。
「お主ら、遅れるでないぞ! おチビ、競争じゃ!」
『アオォォンッ!!』
高く、澄んだ遠吠えと共に、聖獣コダマが風となって駆け下りていく。その背には、覚醒したワラシの姿があった。いつもの赤い着物ではない。星の守り神としての威厳を示す、桜色の光で織られた十二単が、暗い奈落の中であかあかと燃えるように靡いている。
「わらわたちの家の床下掃除じゃ! 気合を入れよ!」
ワラシが笑い、コダマが加速する。新緑の疾風と、桜色の光。絶望的な腐臭に満ちた奈落に、生命の彩りが叩きつけられた。
「……すごいな。みんな、迷いなんて一つもない」
その背中を見送りながら、『嵐駆丸』の甲板でアラタは修理槌『桜雷』を強く握りしめた。隣には、彼の鼓動とリンクしたミラが寄り添っている。
「行きましょう、アラタ。……あの子が待ってる」
「ああ。……今度こそ、本当の朝を届けに」
カイトの操る『嵐駆丸』が、仲間たちが切り開いた光の道をトレースし、最大戦速で闇の底へと突入した。星の核。そこは、汚れた神が眠る棺であり、新たな世界が産声を上げるための揺り籠でもあった。最後の調律が、今始まろうとしていた。




