第49話:母の涙、響き合う終焉の譜面
最北の監獄工場『氷鎖の棺』の最深部。そこは、生命の鼓動を拒絶する白銀の静寂が支配する、巨大な円形祭壇であった。機鋼化したイザベラの背後から伸びる無数の冷却管が、蒸気の噴射音(プシューッ!)を上げながら周囲の熱を貪欲に奪い去っていく。彼女が腕を振るうたびに、絶対零度の衝撃波が走り、広間の鋼鉄の床に真っ白な霜の花を咲かせた。
「無駄ですよ、アラタ。私の奏でる『静止』は、不確かな命がもたらす全ての苦痛を終わらせる福音なのですから」
イザベラの声は、金属が擦れる不快な音のように冷たく響く。だが、アラタの『共鳴外骨格・奏』は、彼女の冷徹な言葉の裏側に潜む、激しい「震え」を捉えていた。
「……っ……、思考が……止まっていく……!」
ミラの『翠輝神緑鎧』が、凍てつく音波に触れてひび割れていく。リッカもまた、自身の整備鎚を握りしめたまま、その場に崩れ落ちそうになった。それは鼓膜を震わせる「音」ではなく、魂の振動そのものを奪い去る、死の静止命令であった。
「――案ずるな。……形など、もういらぬと言ったはずだ」
ナギが静かに前に出た。彼の額にある傷跡から、目も眩むような純白の光が溢れ出す。覚醒した『光の角』が、周囲の絶対零度の不協和音を真っ向から平定し、一行を守る暖かな光の障壁を作り出した。
「アラタ、私の光が道を拓く。……貴殿の音を、あの中枢へ叩き込め!」
「ああ……、ナギ、ありがとう!」
アラタは『桜雷』を高く掲げ、ナギの放つ光の旋律に自身の魂を同調させた。
桃色の雷光と純白の輝きが一つになり、その奔流が、イザベラの絶対零度の障壁を紙のように切り裂く。その隙を突き、アラタは修理槌『桜雷』を構えて肉薄した。
「――世界を、直せええええええええッ!!」
アラタの一撃が、イザベラの白銀の胸部装甲へと叩きつけられた。
――カァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
激しい爆鳴と共に、イザベラを包んでいた無機質な鋼鉄の殻が剥がれ落ちる。だが、そこから現れたのは、悍ましい怪物ではなく、あまりにもか細い、一人の女性の「祈り」の姿だった。装甲の内側、彼女の心臓部にあたる位置には、一人の幼い少女が氷の結晶の中で眠っていた。
「……あ……、あ……。……触れないで……。この子の『音』を、消さないで……!」
イザベラの瞳から、熱い涙が零れ落ちる。それは触れた瞬間に氷の粒へと変わったが、彼女の叫びは確かに熱を帯びていた。彼女が神を電池に変え、世界を凍らせようとした本当の理由。それは、不治の病で魂の崩壊が始まっていた愛娘を、時間が止まった「静止の世界」に閉じ込めることで、永遠に生かし続けるためだった。
「この子が壊れてしまうくらいなら、世界など……不協和音で満ちた世界など、いっそ止まってしまえばいい……!」
母としての狂気、そして究極の愛。その悲しい旋律が、監獄全体を震わせた。
「……それが、君の音なんだね。……悲しくて、優しくて、……でも、間違っている」
アラタは自身の掌の傷から流れる血を『桜雷』へと染み込ませた。彼の全身を包む『共鳴外骨格』が、限界を超えた過負荷で桃色の雷光を激しく散らす。
イザベラは絶望と共に、残された全ての魔力を暴走させた。
「――おやすみなさい、調律師。……『絶対零度の鎮魂歌』!!」
監獄全体の鋼鉄が共鳴し、分子の運動さえも強制停止させる、死の旋律が放たれた 。ミラの蔦が凍りつき、ナギの水の障壁さえも硝子のように砕け散る。
アラタは目を閉じた。彼は自身の全ての神経を、外骨格を通じて『桜雷』の木肌へと直結させた。鼓動、呼吸、血流。自分という存在の全てを「一音」へと変え、イザベラの絶望という巨大な波形に、真っ向から自身の魂をぶつける。
(……聴こえるよ。君の涙の音が。……そして、その奥で震えている、この子の本当の願いが!)
アラタは、思考さえ凍りつく極限の静寂の中、最後の一歩を踏み出した。
「――僕が、その『涙』を調律する!!」
アラタが放った一撃は、イザベラの放つ死の旋律の「結び目」を正確に射抜いた。 重油の鼻を突く匂いが、浄化の雷鳴によって一気に吹き飛ぶ。絶対零度の空間に、アラタの血を媒介とした「命の脈動」が波及し、凍てついた時間が、再び一秒を刻み始めた。
清らかな鈴の音が監獄に響き渡り、イザベラを縛っていた魔導導管が次々と砕け散る 。 光の中で、イザベラは崩れ落ちながら、アラタの手を握った。
「……ああ……、温かい……。……この子の、……鼓動が、聴こえる……」
氷の結晶から解放され、母の腕の中で微かに息を吹き返した少女。その幼い鼓動が、アラタの調律によって再び世界と繋がった瞬間、イザベラの貌から冷徹な将軍の仮面が剥がれ落ちた。彼女は愛娘を抱きしめ、その体温を確かめるように頬を寄せた。そして、震える指先でアラタの『桜雷』が残した桃色の残光に触れ、この旅で初めて、慈愛に満ちた柔らかな微笑を浮かべた。
「……ありがとう、調律師アラタ。……あなたがこの子に与えてくれた音色、……あまりにも、温かくて……」
その声には、金属が擦れる不快な音のような鋭さは微塵もなかった。だが、彼女はすぐに悲しげに目を伏せ、首を振った。
「けれど、……もう遅いのです。……私の魂はすでに帝都の『中央大聖堂』と、……最初の神の脈動と溶け合ってしまいました」
イザベラは微かな、しかし断絶を告げる溜息を吐くと、自らの掌を心臓部のコンソールへ静かに、しかし決然と叩きつけた。
「……私の役割は、時間を稼ぐこと。……今、帝都ゼノフィアで、最初の神が目覚めます。不確かな感情に満ちたこの世界は……完全なる沈黙という名の福音へと、書き換えられるでしょう」
イザベラの言葉に呼応するように、監獄工場の心臓部が限界を超えて暴走を始めた。 凄まじい爆鳴。冷却されていた膨大なエネルギーが、一気に熱へと反転し、氷の巨塔が内側から赤熱して崩壊を始める。氷の破片がダイヤモンドダストのように舞い、重油の鼻を突く匂いが爆風と共に吹き荒れた。
「さあ、最後の舞台へ来なさい。……そこで、すべての不協和音を終わらせましょう」
イザベラは感謝を込めてアラタを一瞥すると、その身体を数多の光の粒子へと変えた。彼女と少女の姿は、崩れゆく広間の中で淡く輝き、彗星のような軌跡を描いて北の空――帝都の方向へと霧散し、消えていった。後に残されたのは、崩壊する監獄の断末魔と、北の地平線に不気味なシルエットとしてそびえ立つ帝都ゼノフィアの影だけだった。
「……クソっ、逃げられたか! だが、イザベラのあの顔……ありゃ、ただの敵の顔じゃなかったぜ」
カイトの操る『嵐駆丸』が、崩落する天井の巨大な氷塊を間一髪で避けながら、アラタたちの元へ急行してきた。アラタは吹き付ける熱風に煽られながらも、自身の『桜雷』を折れんばかりの力で握りしめた。ナギの額にある『光の角』もまた、これからの激闘を予見し、周囲の絶望を撥ね退けるように、静かに、しかし烈火のごとき激しさで輝きを増していた。
「……終わらせなきゃ。……あんな悲しい音が、神様の歌にならないうちに」
アラタの決意に呼応するように、遥か彼方、帝都ゼノフィアの空を覆う煤煙が、不気味に赤く脈動を始めた。それは世界の心臓が、最後の不協和音を奏で始める合図であった。




