第44話:魂の盟約、そして凍てつく北の果てへ
水の都アクア・ルミナスに、数十年ぶりの「本当の静寂」が訪れていた。それは帝国の規則的な歯車の回転音に塗り潰された沈黙ではない。都の至る所を流れる清流が奏でる水琴窟のような調べと、遠くで響く清らかな鈴の音が溶け合う、生命の息吹そのものだった。王城の奥深く、水精霊の加護を受けた療養室で、アラタは長い眠りから意識を浮上させた。
「……あ、……ここは……」
微かに開けた視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む宝石のような水色の陽光と、傍らで祈るように自分を見つめる仲間の姿だった。
「アラタ!よかった……、本当に!」
ミラが駆け寄り、アラタの手を握りしめた。その繋いだ手の温もりが、命を削る調律で冷え切っていたアラタの芯に、柔らかな熱を灯していく。
アラタが身を起こそうとすると、枕元に座っていたナギが制止するように手を添えた。その瞳には、かつての孤独な放浪者としての面影はなく、一国の王としての、そして一人の友としての深い慈愛が宿っていた。
「アラタ、動くな。貴殿の魂は、あの一撃で極限まで削られた。……今、私の命を分け与える。これは恩返しではない。……これからの戦いを共に生き抜くための、龍の盟約だ」
ナギは自身の左手の掌を、鋭い水の刃で一筋切り裂いた。滴り落ちるのは、透き通る水の色の魔力を孕んだ、龍王の真紅の血。ナギはその手をアラタの傷ついた掌に重ね、古の龍人族に伝わる秘儀の言葉を紡ぎ始めた。
「……我、ナギ・ルミナス。我が血を器とし、我が霊力を芯となさん。調律師アラタよ、貴殿の奏でる旋律に、私の命の震動を重ねよ。……魂振・水月盟約」
瞬間、二人の重なり合った手から、夜明けの海のような深い蒼と、サクヤの桜を思わせる桃色の光が激しく交錯し、溢れ出した。アラタの体内を、冷たくも力強い龍の魔力が駆け巡る。削り取られた霊力の穴が、ナギの純粋な生命力によって一つずつ修復され、補強されていく。
(……聴こえるよ、ナギ。君の心臓の音が、僕の鼓動と重なっていく……)
二人の魂が同じ周波数で共鳴し、深い精神の底で握手を交わしたような確かな感覚。それは魔力による結合を超えた、運命の共有であった。アラタの『桜雷』が、持ち主の快復を祝うように、枕元で清らかな鈴の音を短く、美しく響かせた。
儀式が終わり、アラタの顔に赤みが戻った頃、救出された王女イナリが静かに部屋に入ってきた。彼女の瞳はかつての輝きを取り戻していたが、その奥には帝都で視た「絶望」の影が、消えずに残っている。
「調律師様、そしてナギ。……あなたがたがこれから向かう最北の地には、帝国がひた隠しにしてきた『最後の不協和音』が待っています」
イナリは窓の外、黒い雲が渦巻く北の空を見つめ、静かに語り始めた。
「私は帝都で、イザベラの心臓部に繋がれた装置を通じて、彼女の記憶の断片に触れてしまいました。……彼女は、ただ世界を支配したいのではありません。……彼女は、あまりにも繊細で、あまりにも多くの『音』を聴きすぎてしまったのです。……死にゆく者の悲鳴、神々の断末魔、愛する人が壊れる音。……それらすべてに耐えられなかった彼女は、世界から『情緒』を消し去ることで、自分を救おうとしているのです」
イナリの語るイザベラの正体。それは、完璧な秩序という名の「墓場」を築くことで、二度と誰の悲鳴も聴かずに済む静寂を求めた、悲しき生存者の成れの果てだった。
「彼女の狂気は、愛の裏返しです。……最北の監獄工場『氷鎖の棺』は、彼女の心の防壁そのもの。あそこは、近づく者すべての心を凍らせ、思考を停止させる『絶対零度の静寂』に満ちています。……調律師様、どうか……彼女の凍りついた涙を、あなたの音で溶かしてあげてください」
数日後。アクア・ルミナスの港は、旅立つ一行を見送る龍人族の民たちで埋め尽くされていた。港に停泊した魔導帆走車『嵐駆丸』は、カイトの最終調整によって、船体各所に龍人族の精霊石が組み込まれ、その装甲は蒼い光沢を放っていた。
「準備はいいか、アラタ。ここから先は、笑えるような寒さじゃねえぞ」
カイトが舵輪を握り、煤けたゴーグルを直しながらニヤリと笑う。ミラの背負った袋の中では、復活した『精霊の卵』が元気に光を放ち、ワラシは「わらわの幸運、余さず使ってやるのじゃ!」と景気よく拳を振り上げた。
「――全速前進!アクア・ルミナスの風よ、僕たちを最北へ運んでくれ!」
アラタの号令と共に、嵐駆丸が水面を力強く滑り出した。背後からは龍人族の戦士たちが操る幾百の小舟が、一斉に勝鬨を上げ、水を叩いて彼らを送り出す。都を離れるにつれ、空気は急速に冷たさを増し、重油の鼻を突く匂いを孕んだ黒い雪が、空から舞い落ちてくる。煤煙に煙る空が支配する、死の海原。
アラタは、ナギと誓い合った手の温もりを確かめるように、『桜雷』の柄を握りしめた。都で得た仲間たちの祈り、そしてイナリから託された敵の孤独。すべての旋律を胸に抱き、一行を乗せた嵐駆丸は、氷の棺が待ち受ける最北の地平へと、白銀の航跡を刻みながら疾走していった。




