第40話:深淵の予言、鉄の悔恨、黒き水の再会
神木の森に、数十年ぶりの静寂が訪れていた。帝国の巨大伐採機『ギルティ』が沈黙し、立ち昇っていた重油の鼻を突く匂いは、ミラの覚醒がもたらした雨上がりの土の匂いと、神木たちが吐き出す清浄な霊気によって洗い流されていた。アラタは、まだ微かに震える手で『精霊の卵』を抱え、その柔らかな琥珀色の光を見つめていた。卵の中から聴こえるのは、この世の何よりも純粋な、新しい命の産声だ。
「……よかった。この音だけは、守れたんだね」
アラタの呟きに、自身の『翠輝神緑鎧』を解いたミラが、慈しむような微笑みを返した。だが、その平和な情景を打ち破るように、アラタの肩に乗ったワラシが、ふらりと地面に降り立った。
「……アラタよ。わらわの内に流れる『幸運』の質が変わっておる」
ワラシの言葉に、一同の視線が集まる。彼女の小さな霊体は、以前よりも透き通り、その周囲には清らかな鈴の音が、どこか不規則な不協和音を伴って響いていた。
「これまでは、ただの『良い兆し』を呼び寄せておった。じゃが、先ほどから視えるのは、因果が捻じ曲げられ、すべてが一点へと吸い込まれていく……巨大な『無』の渦じゃ」
ワラシは、霧に包まれたような瞳で北の空を見据えた。
「帝都の最深部……そこには、イザベラさえも制御しきれぬ『最初の絶望』が眠っておる。……あれは、神を電池に変える装置などではない。世界そのものを、永遠の静止という名の墓場に変えるための『揺籃』じゃ。……今のままでは、お主の槌でも、あの巨大な静寂を打ち破ることはできぬかもしれぬ」
ワラシの不吉な予言は、森を抜ける風と共に冷たくアラタたちの心を撫でた。
一行を乗せた魔導帆走車『嵐駆丸』は、草原を抜け、ナギの故郷へと続く渓谷へと入っていた。夜の静寂の中、車内には魔導音叉の微かな共鳴音だけが流れている。 ハンドルを握るカイトの背中は、いつになく強張っていた。アラタは、隣で地図を凝視するカイトに、ずっと気になっていた問いを投げかけた。
「カイト、……君は、どうしてあんなに帝国の兵器に詳しいんだ? ただの運び屋には見えないよ」
カイトは答えず、ポケットから古びた真鍮製の歯車を取り出した。それは帝国の規格品だが、表面には手作業で磨かれた跡がある。
「……俺は、かつて帝都の『第一設計局』にいた。……イザベラの直属、いや、彼女の師であった男の弟子だったんだ」
カイトの告白に、後部座席で目を閉じていたナギが瞼を開いた。
「俺は信じていた。機械の音で、世界を豊かにできると。……だが、俺たちが引いた図面の裏側で、イザベラは神々の解体図を書き進めていた。……俺が設計した『高周波振動炉』が、初めて神の叫びをエネルギーに変えたあの日、俺の魂は死んだ」
カイトの指が、ハンドルの革を白くなるほど握りしめる。
「俺は図面を盗み、帝都を逃げ出した。……この『嵐駆丸』のエンジンも、元はと言えば神を搾取するための回路を逆転させたものだ。……アラタ、俺はお前が眩しいよ。お前の槌は、俺が汚したこの世界の『音』を、まだ信じさせてくれる」
カイトの過去。それは帝国という巨大な不協和音の一部となっていた者の、血を吐くような悔恨であった。
夜明けと共に、『嵐駆丸』はついにその目的地へと到達した。かつて「世界の宝石」と称えられ、龍人族が守護してきた『水の都アクア・ルミナス』。だが、そこにあるはずの白大理石の街並みは、ドロドロとした黒い廃液の海に沈んでいた。
「……これが、私の故郷……?」
ナギの声が、絶望に震える。運河を流れるのは清流ではなく、機械の油と魔導廃棄物が混ざり合った腐敗の泥水。重油の鼻を突く匂いが、古の水の都の香りを完全に奪い去っていた。都の中央には、心臓の鼓動のような規則的な歯車の回転音を立てる巨大な「魔導冷却システム」が、不気味な黒い脈動を繰り返している。
アラタたちはカイトの案内で、冷却システムの中枢――かつての王城へと潜入した。 そこは、外部の熱をすべて吸い取ったかのような、凍り付くような鋼鉄の冷たさが支配する氷の地獄だった。
「――ああ、よくぞ戻ったな、ナギ」
広間の中央。巨大な冷却管が幾重にも繋がれた祭壇の上に、一人の女性が拘束されていた。ナギの姉、王女イナリ。だが、彼女の美しいはずの鱗は廃液に焼かれて黒ずみ、瞳には意志の光が欠けていた。彼女の背中からは無数の導管が伸び、都全体の汚染をろ過するための「生体フィルター」として、その命を絶え間なく削られていた。
「姉上……姉上ッ!!」
ナギが駆け寄ろうとするが、イナリの周囲に展開された「静止の防壁」が、金属が擦れる不快な音を立てて彼を弾き飛ばした。
「無駄よ、ナギ。……私の音は、もう……この黒い水の中に沈んでしまったわ」
虚ろな声で呟くイナリ。その姿は、帝国が「秩序」の名の下に行う、最も残酷な「解体」の犠牲者そのものだった。
ナギは黒い泥に膝をつき、力なく垂れる姉の指先を見つめた。かつての英雄としての誇り、龍王としての力。それらすべてを嘲笑うかのように、帝国の機械が、都の断末魔をエネルギーに変えて回り続けていた。
「アラタ……頼む。……この音を、この悲劇を……止めてくれ……!」
ナギの絞り出すような願いが、廃液の都の沈黙を震わせた。アラタは、震えるナギの肩に手を置き、自身の『桜雷』を強く握りしめた。黒く濁った水面の下で、まだ僅かに聴こえる「水の神」の微かな、しかし清らかな一音を、彼は魂を削って探し始めた。




