第38話:神木の慟哭
砂漠の民に「風」を取り戻し、帝都の喉元を締め上げる『神搾取工場』の一つを沈黙させたアラタたちの前には、新たな羅針盤が指し示す過酷な旅路が広がっていた。
次なる目的地は、大陸の最北端に位置する監獄工場『氷鎖の棺』。そこへ至るには、広大な大陸を縦断し、いくつもの神域を越えていかねばならない。
一行を乗せた魔導帆走車『嵐駆丸』は、砂漠の熱砂を抜け、見渡す限りの草原を滑るように進んでいた。風の民から譲り受けたこの車両は、帝国の機械のような不快な咆哮を上げない。代わりに、車体各所に組み込まれた風精霊の触媒が、清らかな鈴の音を絶え間なく響かせている。それは、調律師であるアラタが調整を重ねた、世界と調和する「正解」の音だった。
「……空気が、変わってきたわね」
助手席で耳をぴくぴくと震わせ、ミラが窓の外を見つめた。つい数日前まで彼女の肌を焦がしていた灼熱の太陽は、今は薄い雲に覆われ、湿り気を帯びた冷たい風が車内に入り込んでくる。彼女の瞳には、かつて「被検体04」として閉じ込められていた時とは違う、自由を謳歌する光が宿っていた。
「ああ。砂漠の乾燥した響きから、もっと重く、複雑な音の層に入ろうとしている」
ハンドルを握るアラタが答える。彼の指先は、まだ帝都での激闘や砂漠での調律の代償で、微かな震えが残っている。だが、その手元を、肩に乗ったワラシが自身の霊体で優しく包み込み、熱を与えていた。
「アラタよ、気を引き締めるのじゃ。……この先から聞こえるのは、風の囁きではない。……何かが、激しく悶え、絶叫しておる。……そんな禍々しい音が、森の奥から溢れ出しておるぞ」
ワラシの警告通り、数日後に窓外の景色から色が消えた。
かつては精霊たちが集い、世界を浄化する緑の聖域であったはずの『神木の森』。だが、一行が辿り着いたその場所は、もはや森と呼ぶにはあまりにも無残な姿を晒していた。
巨大な神木たちは無造作に切り倒され、大地には深い轍が刻まれている。何よりもアラタたちを戦慄させたのは、視界を覆う沈痛な灰色と、鼻を突くほどの重油の匂いだった。それは森の腐葉土の匂いを強引に塗り潰し、生命そのものを窒息させる、帝国の支配の臭気であった。
アラタは『嵐駆丸』を停めた。いや、停めざるを得なかった。フロントガラスの向こう側、かつての森の入り口であった場所には、帝国の巨大伐採機『機鋼鋸・ギルティ』が、幾重にも重なる巨大な回転刃を剥き出しにして鎮座していた。その巨大な刃が回転するたびに、空間には金属が擦れる不快な音が響き渡り、森の静寂を暴力的に引き裂いていく。
「……っ、耳が……頭が割れそう……!」
ミラが耳を塞ぎ、身を屈めた。獣人としての鋭い聴覚が、機械が発する高周波のノイズを直接脳に叩き込んでいた。ナギもまた、凍り付くような鋼鉄の冷たさを湛えた瞳で、破壊された森の惨状を見つめている。
「……帝国め。龍の都を焼いたあの火と同じだ。……奴らは、神さえも資源としてしか見ておらぬ」
アラタは車から降り、ふらつく足取りで森の深部へと歩を進めた。彼が背負った袋の中で、修理槌『桜雷』が、かつてないほど激しい拒絶の振動を上げていた。
足元の地面は、神木の血とも言える樹液と、帝国の機械から漏れ出した重油が混ざり合い、黒い泥濘と化している。一歩踏み出すたびに、靴の裏から重油の鼻を突く匂いが立ち昇り、アラタの胸を悪くさせた。
「……アラタ、行くな! ここはもう、汚染されすぎている!」
ナギが制止するが、アラタの耳には仲間の声さえも届かないほど、巨大な「不協和音」が直接流れ込んできた。それは、目で見える惨状を遥かに上回る絶望の集積だった。
「……聴こえる。この森、泣いているんじゃない。……帝国への、底なしの怒りで燃えているんだ」
アラタは、一本の巨大な切り株の前に膝をついた。それはかつて、この森の長として千年の時を刻んできたであろう、伝説の神木『イグドラ』の成れの果てだった。切り口からは本来の琥珀色の樹液ではなく、汚染された魔力――どす黒い廃液のような液体が、泡を立てて溢れ出している。
アラタはその汚れを厭わず、手を切り株の断面にそっと添えた。瞬間、金属が擦れる不快な音を何万倍にも増幅したような、暴力的な衝撃がアラタの魂を貫いた。
『――熱い。……苦しい。……我が子らを、枝葉を、すべてを鉄に変えられ……!』 『……許さない。……根の一本までを機械に変えた、あの者たちを……呪ってやる……!』
それは、数百、数千という神木たちの意識が一つに混ざり合った、呪詛の合唱だった。帝国の伐採機は、ただ木を切り倒すのではない。その根に直接「霊的毒」を注入し、思考を奪い、死してなお「機鋼建材」として効率よく利用できるように、神々の魂を根こそぎ破壊していたのだ。
「……ああ、ああああああ……ッ!!」
アラタは頭を抱え、泥の中に崩れ落ちた。切り株から溢れる「不協和音」が、彼の神経を逆撫でし、掌の傷口から帝国の汚染された魔力が侵入してくる。だが、彼は手を離さなかった。汚染された魔力の奔流の中で、彼は懸命に「核」となる一音を探し続けていた。
(……あるはずだ。どんなに汚されても、どんなに怒りに呑まれても……君たちが、かつて奏でていた……あの穏やかな緑の旋律が……!)
アラタの脳裏に、かつての森の記憶が断片的に浮かび上がる。雨上がりの土の匂い。朝露を弾く葉音。精霊たちが歌い、龍が休み、風が吹き抜けていた、あの調和の調べ。
今、切り株から溢れているのは、その美しい過去を奪われたことへの「無念」が波長を狂わせたものだった。
「……聞こえるよ。……ごめん。……君たちの誇りを、こんな鉄の屑に変えさせてしまって」
アラタの涙が切り株に落ち、汚染された黒い液体と混ざり合う。彼は『桜雷』を引き抜き、その石突を優しく、慈しむように切り株の断面に置いた。戦うためではない。救うためでもない。ただ、彼らの断末魔の「調律」を開始するために。
「……みんなの声、僕に預けて。……君たちが抱えているこの『怒り』を、帝国を討つための『力』に繋ぎ直してみせるから」
アラタの魂と、死せる神木の怒りが、一筋の細い共鳴の糸で結ばれた。煤煙に煙る空の下、灰色の森に、かつてないほど激しく、しかしどこか悲しい桃色の火花が散り始めた。
この慟哭を、希望の咆哮に変える。アラタは歯を食いしばり、自らの内側に溢れ出す数千の不協和音を、一本の巨大な旋律へと編み上げようとしていた。
その光景を、森の奥で伐採作業を指揮していた帝国森林制圧部隊の指揮官が、冷酷な笑みを浮かべながらスコープ越しに捉えていた。
「――面白い。……あの被検体、森の断末魔を吸い上げているのか。……ならば、その怒りごと、鉄の肥やしにしてやれ」
伐採機のエンジンが、嘲笑うような蒸気の噴射音(プシューッ!)を上げた。森の悲鳴が、ついに戦火の爆音へと変わろうとしていた。




