梅雨(ばいう)に消ゆる【前】
清明時節雨紛紛
路上行人欲断魂
五月も終わりに差し掛かり、梅雨の足音がする頃だった。
雨の降る早朝のこと。
夕暮れ時と同じだけ、魔の気配の濃い時刻に、やつの気配がする。
それはほんのすこし、憂鬱な気配を帯び、かえらざる過去の記憶を辿るように雨降る庭を眺めているようだった。
やつの憂鬱な声が、遠くから聞こえた気がした。
清明ノ時節、雨紛紛タリ
路上ノ行人、断魂セント欲ス……か。
やつがつぶやいた。
その漢詩は私も知っている。たしか、その意は。
清明節のころ、雨はしきりに降り続く。
道ゆく人の心は、魂が断たれるかの如くだ。
ああ、そんな詩だったか?
しかし、やつは、今、何故、そんなことを呟いたのだろう。
雨の音にやつの声が溶ける。
私は微睡の中にいる時間で、やつが何を考えているかなど、知るよしもなく、夜明けまでの浅い睡眠を辿る。
そのやつのように不確かな事柄は、目が覚めれば、幻のように忘れてしまうのだろう。
*
天候が悪く、じめじめした天気が続くこのごろ、やつと私は、同じく、基本的に引きこもりがちだった。
雨の日、私は庭の手入れもできないから、部屋に篭りがち。やつも日課の散歩がおろそかになる。
流石のやつも雨が降る中、外に行くのはあまり望まないようだった。
仕方があるまい。何せやつは、実体がないくせに雨に濡れてしまうのだ。
こやつは幽霊のような存在なのだが、つくづく不思議なものだ。物理的にものにも触れるので、そういうこともあるかもしれぬが。
今日もさやさやと雨の降る日だ。
悪天候で撮影がないこともあり、しばらく私には時間があった。けれど、仕事がまるでないわけではない。やることはたくさんある。
今日は台本を読み込んだり、仕事のこともしなければならない。家庭に仕事を持ち込まない私は、役作りはここで行うこともあり、都合、別宅の方で過ごす時間も多くなっていた。
となると、次第、やつと顔を合わせる時間も増える。
「やれやれ、しとしとといつまでも降りやがる」
やつがふとつぶやいた。
それは完全な独り言で、私に話しかけたわけでもないのだが、それを契機に私はやつに話しかけてみることにした。
聞いてみたいと思っていたことがある。
「お前でも、雨に濡れるのは嫌か?」
やつは舌打ちしたものだ。
「当たり前のことをきく。だれだって雨に濡れるのは嫌に決まってるじゃあねえか。さすがのおれでもずぶ濡れになっちまうのは、好まねえよ」
それもそうか。
まあ、私としても、ずぶ濡れのやつに、ここにべったり座られても困るから、やつにそういう意識があるのはありがたい。畳を濡らされても困る。
「なぜ雨には濡れるのか。お前のように幽霊のようなものも、雨には濡れるのか?」
少し意地悪な気持ちもあり、からかうつもりでそう尋ねてやる。
「それはおれが知りてえな。こっちも好きで濡れているわけじゃあねえ」
やつは眉根をひそめた。
やつがここに来てから、もうそれなりの月日が経ってきていた。
少なからず半年くらい。
そのせいか、私もこの頃はやつの存在に慣れてしまい、半ば空気のようなものとして扱っている。そして、やつの扱い方にも慣れてきた。
はじめ、やつが頻繁に私のところに顔を出すようになったのは、年が明けて春先の頃のことだった。
行く場所がないからここにきたというが、やつがそれまで辿った変遷を私は知らなかった。
私はこういう性格だから、やつにことさらに事情をきくでもなく、やつもああいう性格だからそれについて詳らかに語ることもない。
もしかしたら、そうした私の性質がやつには好ましいのかもしれないし、私もやつのそういう性質については特に気にはならなかった。
しかし、私とて、やつの側の事情が気にならなかったわけではないのだ。
やつは、果たして行き場をなくしてから、どういう経緯で私の元に来たのだろう。
しかし、結局、私は聞けなかったのだ。
やつとて寄るべき存在と場所を失った痛みはあろう。あれで繊細なところもあるやつなのだ。
私とて鬼ではないのだ。そうして追い詰めて何になろう。
とは思いながらも。
いまだにやつがどういう存在なのだか、結局、私はよくわからないままだった。
果たして何者なのか。
実のところ、やつという存在は、本当にあの作家先生が生み出したものかどうかもよくわからない。
やつは嘘をついてはいないようだが、不確かな妖しい存在の、その記憶の正しさを証明するものはない。そう思い込んでいるだけなのかもしれないからだ。
仕事で狂った私が作り出した、おかしな幻の可能性も捨てきれていないし、悪意のある物の怪の偽装も疑われる。
だが、私は、結局、やつを信用することにしていた。
そもそも、やつには私を守る義理は別にないのだ。
もしやつが怪異なのなら、私をとって食ってしまっても良いわけだった。やつが言うには、私はとても『美味しそうで価値がある』存在らしいのだ。しかし、やつは私に危害を与えていない。
私はやつにある程度、気を許していたのだと思う。
「しかし、貴様、雨とはいえ、散歩に行かなくても良いのか」
「何がだ?」
あまりにごろごろしているので、そう尋ねてみると、やつは話しかけられてきょとんとした。
「いや、この間まで、日課の如く散歩に行っていたではないか。必要があるのだろう?」
「散歩というか、散策だな」
やつは言う。
「アレは物色しているのだ。獲物を見つける時にちょうどいいんだよ」
「その物色のことだ。格を上げるだのなんだの言っていただろう?」
私がいうと、やつはつまらなさそうに言った。
「雨に濡れてまで探しに行く気にならねえだけだ」
「お前のような暴力性の塊が?」
「人聞きの悪いことをいうなよ。おれにも気分はある。どうしても刀振いたいこともあれば、なんとなく憂鬱なこともある」
やつは薄く笑った。
「ほらなんとかいうだろう。雨が降っている時、道ゆく人間は心を挫かれるとかなんとか。五月雨に濡れる憂鬱さのほうが、勝つからでかけねえのだ。まあとはいえ」
と、やつは好戦的な人格の端緒を見せて、にやりとした。
「そりゃあ、おれも剣客。五月雨に濡れる憂鬱よりも、高揚する気持ちが湧くこともあらぁな」
やつは続けた。
「そういう薄暗い日には、あいつらも活発になる。そんな気分になったら、お前の傘を借りて行ってやろう。光栄に思えよ」
「迷惑な」
そんなことのために傘を貸すのは嫌だと思う。
別にあれらは生き物ではないが、血飛沫の代わりのよからぬ穢れの飛沫が、私のお気に入りの傘に染み込みそうではないか。
私の生活は、すっかりやつに侵食されていた。
しかし、やつとの生活は、鬱陶しくはあったが不快ではなかった。
私とやつは、良好な関係というほど仲が良いわけではないと思うが、もちろん険悪ではない。
付かず離れず。そんな関係だと思う、少なからず私は。
寄るべのないやつには、多分私が必要だったのだろうが、それだけでなく、不本意ながら私とやつはきっと相性が悪くないのだ。
私とやつとの間に全く摩擦や衝突がなかったわけではないが、我々がそれなりにうまくやっていたということは、素直に認めざるを得ないことだった。
しかし。
そんな会話を交わした日の夕方、雨が一瞬やんだとき、やつは私の傘を一本失敬して、
「今宵はどうやら、やつらが騒いでやがる。ちょっと出かけてくるぜ」
やつはそう言ってふらっと出て行った。
そして、そのまんま、翌朝になっても帰ってこなかった。
最初は、さほど不思議には思わなかった。
やつの不在は今に始まった事ではない。夜歩きをすることも珍しくはない。
大体、私だって仕事で留守にする事はあるし、家族のいる本宅にも帰る。そうした時にはやつをほったらかしにしているし、何日も顔を見ないことも珍しくはなかった。
毎日お互い安否を確認するような関係でもない。
ただ、いつも、庭に来ると、やつが『いる』気配がしていた。
しかし、やつのいないことに気づいてから、ここに『いる』気配がまったくなくなってしまったのだ。
それは初めてのことだった。
私は気がかりだったが、その後は仕事で忙しく、やつのことを忘れている間に一週間の月日が経っていた。
仕事を片付けてからようやく別荘に戻り、あちらこちらを見て回った。
やつはやはり姿を現さなかった。そして、やつの『いる』気配も皆無だった。
まさしく、やつはいなくなっていた。
夢か幻のように。
煙のように、やつは消えていた。




