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やつと私と雨の庭  作者: 渡来亜輝彦
黄昏の邂逅

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8/10

花あやめの慕情

 新緑の季節が訪れ、爽やかな風の中に僅かに夏の気配が感じられる。

 空は青く晴れ渡り、私の庭にも緑の香りが色濃く漂っていた。

 もうすぐ端午の節句という頃で、花菖蒲はなあやめ杜若かきつばたを見かけるようになっていた。

 今日、私は用事を済ませた後、時間ができたので庭の方に足を向けていた。

 寒くもなく暑くもなく、心地よい季節。

 しかし、私には、最近ちょっとした悩みがあった。

 道すがら、竹藪から伸びる黒い影が、今日も淀んだ空気を纏いながら、坂道を垂れてくるのが見える。

 静謐な空気のわずかな澱みをみつけて、あれらはどこからか這い寄ってきていた。

(またか)

 私はため息をつく。

 どうも近頃、私にはこうしたこの世ならざるものが見えるようになってしまった。

 その大半は、私があえて触れなければ危害は加えてこないようだが、気分の良いものでもない。

 だが、気後れして遠回りするのも、それはそれで癪に触るので、彼等を刺激しないよう、しかし、堂々と私は濃い影を避けつつ道を通る。

 それで何も起こらないことが多い。が、その時は、影が大きく膨れ上がって私の方に向かってこようとしていた。

 私は思わず持っていた風呂敷でそれを払おうとしたが。

 バシッ!

 と、鋭い音が鳴り、黒い影は散り散りになって暗闇の方に逃げ去っていた。

「ちッ、雑魚め」

 ふと声が聞こえた。

「まったく! 気をつけろとさんざんいってやっているのに、おれの言うことも聞かずに、無防備にうろうろと」

 いつのまにか、やつが近くに立っていた。

 やつは手に何本かの菖蒲を持っていた。どうも、先ほどはそれを使って払い除けたようだ。

 剣のように鋭い菖蒲は、やつが握るとさながら刀に見える。

「何がだ。別におそるることもないだろう」

 私はやつに言い返す。

「おおよそのものは刺激しなければ襲ってこない。見えているから気にはなり、鬱陶しく思うだけだ」

「さっきのは刺激しなくても襲ってきたじゃあねえか。ああいう手合いもいるんだよ」

 やつは不満そうに言う。

「まあ、あんな雑魚なら、取り憑かれても生気を吸われる程度だが。ほれ、見ろ」

 やつは左手に握っていた長い菖蒲の葉をひらりと振って、影の逃げ去った方を指した。

 黒い液体が道の上に散らかり、ところどころに黒いシミを作っていた。

「こういう魔除けの植物で叩いただけで、この通り。ま、てめえが取り憑かれても、どうとでもなる相手だ。おれが助けなくても良かったんだがな」

 たまには感謝しろよ、とやつは笑って続ける。

「どのみち貴様の気まぐれであろうが。しかし、私は貴様に感謝はしないでもない。礼はいうぞ」

「素直じゃねえな」

 やつは肩をすくめた。

「それにしても、なぜ菖蒲など持っている? 菖蒲湯にでもするつもりか」

「なんだとは? もうすぐ端午の節句だぞ。おれも準備をしている」

「準備?」

 ふと、やつは、

「おれもこう見えて年頃の男児の父親だからな」

 と唐突に父親めいた表情になった。

 この男も、こんな人の親のような顔をするのか?

 あっけに取られた私をみて、やつは少し不服そうだ。

「なんだ! おれに倅がいるのは、お前だって知っているではないか」

「そういえばそうだったな」

 そういえば、やつには設定上養子がいるし、やつは殺人鬼のくせに不思議と情が深いので、その子を可愛がっている。

 しかし、それは作品的な設定の上だ。

 この現世に顕現してしまった、わけのわからない物怪のたぐいのやつに、どこまでその感情や記憶があるかこちらからはわからない。

 寧ろ、そんな感情などないのではないか。そう思っていたので、私は意外に思ってしまったのだ。

「まあ、その、この世界で息子がどうこういうわけじゃねえが、どこかの世界におれの倅はいるわけだ。生意気盛りとはいえ、まだ年端のいかねえ男児を抱えているのだから、それくらいの祭り事はしてやっても良いだろう」

「貴様がそういうまともなことを言うとは、意外だな」

 まあしかしそうか。こう見えて、仕官経験のある武士の端くれだった。非常識この上ないところもあるが、変なところで常識をわきまえてはいる。

 それにやつが子供を愛しているのは、演じていた私にもよくわかっていることでもある。

「それで菖蒲をな」

「風呂に入れたり、軒下に吊るしたりするだろうからな。多めに取ってきたぜ」

「しかし、貴様は菖蒲が平気なのだな」

 と私はしげしげと菖蒲を見ながら言った。菖蒲の薬草のような青くさい香りがした。

「何がだ?」

「自分で、菖蒲は魔除けの効果があると言ったろう? 魔性の貴様は平気でそれを持っているのだな……と」

 ということは、こやつ、思ったよりも、よこしまな存在でもないのかもしれない。

 やつは、ふっと笑った。

「さて、それはどうだか知らねえが、今のおれはこんなもんが効くほどの小物じゃあねえということだな」

 と言いつつ、やつは悪戯っぽく邪悪に笑う。

「てめえが望むなら、もっと化け物らしいところを見せてやっても良いのだが」

 私は舌打ちした。

「また戯言を。私がそういう冗談が嫌いだと、貴様は知っているはずだろう?」

 私はやつを無視して足を進める。

「そう怒るなよ。今から屋敷に来るのだろう? ちょうど良い。一緒に行ってやろう」

 私は答えなかったが、やつが後ろから送り狼よろしくついてきている気配がした。

 なるほど、確かにこやつがいれば、今日は他のあやかしに出会う可能性もなさそうだ。



 私が別荘について、なにかしらとしている間に、昼になった。私は腹が減ったので、持ってきたちまきを食べることにした。

 まだ節句の前だが、ちまきはぐっと五月を感じさせる。

 確か屈原を弔うためのものだと、なにかで読んだ記憶を私は思い出しながら、周りの葉を外して一口、口に運ぶ。

 と、その時、がさりと音がした。

 そちらを見ると、いつの間にかどこかに行っていたらしいやつが、花菖蒲を手に戻ってきていた。

 どこで手に入れてきたのか、紫色の花が鮮やかだ。その姿は、清浄な香りがここまで漂ってくるようだった。

 やつは無言で、私の持っている花瓶から適当なものを選んできて、ざっくりと飾っていた。

 元が無骨なやつのこと、飾り方もやつによく似てどこか不均等だったが、その飾り気のなさは意外にも風格があり、なんとなく心地よく感じられた。

 特に用事がない時には、我々はそんなに話をしない。やつもそれが自然で、黙って柱の方に身を寄せていた。

 と、その時、私は一つ、あることに疑問が湧いた。

 そういえば、やつは、食事をしない……というより、食事をしているのを見たことがない。

 私の酒を盗んでいるのは見かけるが、食べ物はつまんでいなかった。やつが何か食っているのを見たのは、かつて桜のあやかしを斬り倒して啜っていたあの時だけだ。

 今とて、実体があるのかないのか。

 右側がぼんやりとして曖昧なところのあるやつのこと、そもそも食事など必要としない気もしたが。

「どうした?」

 視線を感じたらしく、やつが怪訝そうな顔をして声をかけてきた。

「いや……」

 私は言い淀み、それから、もう一つあるちまきを手にした。

「ちょうど食事時だが、私ばかりが食っているのも悪いと思ってな。貴様もどうだ?」

「珍しいじゃあねえか。そんなことを気にしてくれるのか」

 にやりとやつが笑う。

(そもそも、食べられるのか?)

 というのは、なんとなく聞くのが恐ろしい気がした。やつがあんな怪異ばかりを食うものだと考えると、流石にゾッとしないのだ。

 やつがにゅっと手を伸ばしてきたので、私はやつにちまきを渡してやった。

 じっと観察していると、やつは口を使ってちまきを解いて行ったが、ふと私の視線に気づいたらしい。

「何を観察しておるのだ。……珍しいのか?」

「いや、渡したは良いが、食えるものなのかと……」

 正直に答えると、ははは、とやつは笑った。

「必須ではないが、食えないことはないんだぜ」

 ぺらりと葉を取り去ると、やつはちまきを齧った。

「しかし、懐かしいな。こういうものを食うのは、先生のところにいた時以来か」

 やつのいう先生というのは、やつを生み出した作家先生を指している。

「ほう。先生のところでは、飯を出してもらっていたのか」

「いや、そういうわけじゃあねえんだが」

 やつは言った。

「先生は、夜遅くまで仕事をしていて、よく細君が握り飯などの夜食を持ってきていた。たまに先生がそれをわけてくれたのだ。……別に食い物は必要ではないのだが、あればそれはそれで良い」

 やつは続けた。

「まあ、貴様のところに来てからは、そういう気にはならなかったから、もしかしたら、ある程度、存在がしっかりしていねえと飲み食いは難しいのかも知れねえな。まだ飲み物は口に入りやすいが……」

「そうなのか」

 私は少しだけ安堵した。

 そこで、意を決して奴に聞いてみることにした。

「では。"あれ"は、貴様にとって、食事というわけではないのか?」

「"あれ"? なんだ、もったいぶると思ったら」

 やつは即座に私の言わんとすることを察したようだ。

「どのみち聞かれるとは思ったがな? おれが桜の化け物を喰ったことについてだろう?」

「そうだ。あれはなんだったのだ?」

 そう真っ直ぐに尋ねる。

 それは、やつがちまきを食い、菖蒲の葉を苦もなく持ち運んでいたからこそ、尋ねられたことなのかもしれない。

 やつの魔性が、さほど恐ろしくなく思えている今だからこそだ。

「あのな、別におれは食わなくたって生きてけるんだが」

 とやつは苦笑いして断りつつ。

「あれはな、いわゆる人間で言うところの食事などではない。おれはヤツらを存在維持の糧にするための餌にするほど落ちちゃあいねえ。なんと言えばいいだろうなあ。簡単に言えば、あれは『格』を上げる作業なのだ」

 やつは言った。

「相手をとって喰らうことで、おれの『格』を上げているのだよ。と、いってもおれは生まれて数年の身だからよ。実のところ、あいつらの中での格はあまり高くねえ。だから、弱いくせに格だけは高く、ロクでもねえ害のあるやつを喰って格をあげているんだ」

「そういうものなのか?」

「そうらしい。といってもおれも『成り立て』だからよくわからねえんだがなア。実際やってみて、段々わかってきたというところだな」

 やつは、不穏極まりないそんな話を、のんきに語る。

「格が高いやつは、食事しなくたって消えたりしねえらしい。もっとも、拠り所にするものがないといけねえらしいが」

 と、やつはにやりとする。

「おれはお前に憑いているから、今のところ、それなりに強いままでいられるらしいんだ。……なので、お前を他の奴に喰われると、こいつァ、ちと困ったことになる……というわけだ」

「あやかしの世界も色々あるのだな」

 私はしみじみため息をついた。

「ということで、今のところ、おれがお前に害を加える道理はねえというわけだぜ」

 やつの言葉に嘘はなさそうだ。

「先生のところにいる時もそうだったのか」

「いや……」

 と、やつは、はたと笑うのをやめて、

「ああやって他のやつを喰うようになったのは、先生のところを離れてからだな。先生のところでは、そんなことをしなくても、安定していられた。そして、他にもおれのように先生に作られたやつがいて、仕事のお供に呼ばれていた。おれたちの役目は、忙しくて外に出られねえ先生を、少しでも楽しませるための話し相手だった」

「お前の先生はたくさんの作品を書いていた。子も多かったのだな」

「ああ。……旅行先で執筆する時は、連れて行ってくれることもあったぞ。そうだ、西比利亜しべりあ鉄道にも乗ってた。お前は赤の広場を知っているか? おれは、実は先生と俄羅斯おろしゃ莫斯科ばくすこうまで……」

 と言いかけたところで、やつがふと顔を曇らせた。

「……まあ、それ以降もずっとおれがそばについているわけじゃあなかったが……」

 と、やつは、寂しそうな顔になった。

「あの時、おれがそばにいたら、……もしかしたら、もう少し、先生を……」

「もう少し? なんだと?」

「ああいや」

 私が前のめりになると、やつは、やや慌てて誤魔化すように話題を変えた。

 やつは、嘘があまり上手くはない。

 触れられたくない話がそこにあるのが私はわかっていたが、追及するつもりはなかった。

「そうだ。話は変わるが、お前は兜飾りや武者人形は飾るのか?」

 ふと、やつに尋ねられた。

「兜飾り?」

 私も男児の父親だ。

 やつは、本宅では飾っているのかと聞いているのだ。

「ああ」

「そうか。せめて花菖蒲をつんできたが、今のおれは流石にそこまでは用意できねえな。千代紙で兜でも折ってやるか」

 なるほど、自分の息子のための兜飾りが欲しいのか。

 鐘馗の絵の掛け軸くらいなら、用意があるが、急には武者人形や兜飾りの手配は難しい。

「余っているものはないから、うちの家のものでお前の子の分も、息災を願っておいてやろう」

 私はそう言いつつも、すこしやつが可哀想になった。やつが、珍しく自分の感情を出してきたのを好ましく思ったのもあるのかもしれない。

 そこで、私はひとつ思いついたことがあった。

 それを行うにあたり、私は一瞬ためらったが、やはりと考えて立ち上がり押入れの襖を開けた。

「兜はないが、これを飾っておくのはどうだ?」

 そういって、私は奥から袋に入れていたものを取り出してきた。

「なんだそれは?」

「撮影用に手に入れたものだ。しかし、家庭に持ち込むには子供に対して危なすぎる。家には仕事や危ないものは、持ち込まん主義だからな」

 だからここに置いている、と、袋から取り出したのは刀だった。

「しばらく、これを撮影で使う予定がないから、節句が終わるまで兜の代わりに飾っておくと良い」

 刀を見て、やつが明らかに反応した。

 やつには、この刀の価値がきっとわかったに違いない。私が大枚をはたいて手に入れたこれの、真の価値が。これは竹光ではない。

 心なしかやつが、少し姿勢を正す気配がした。

 私が袋から出したそれを差し出すと、やつはそれを受け取り、口に下緒をくわえて鞘を払った。

 すっとやつは刀を抜いた。やつの動作はいかにも慣れきっていて滑らかだ。

 刀身は午後の陽光を浴びたが、穏やかとは縁なく魔を照らす鏡のようにギラリと輝いた。

 撮影用の刀だが、私の使っているのは本身、つまり真剣だ。刃引きはしてあるとはいえ、剣魔のようなやつが実際の真剣を持つと、途端に冷えた空気と殺気が周りを支配した。

 この状況であれば、やつは私を簡単に殺せるだろう。

 そう思ったが、それは事前にわかりきったことだった。

 その覚悟をなくして、私は真剣をやつには渡さない。

 やつはどう出るか……と思ったが、刃を掲げて睨み上げるようにして検分していたやつは、しばらくして刀を手元に引き寄せた。

「これはまた大業物だな。これは……関孫六か」

 下緒をくわえたままそう話し、やつは嘆息をついた。

 しばらくそれをじっと眺めた後、やつは刀を鞘に戻して肩にたてかけた。

「こいつア、高かったろう?」

「想像の通りだ」

「だろうな。しかし、貴様も凝り性だな。そういえば、新撰組のなんやらの為に、わざわざ虎徹を買ったのだったな」

 それから、やつがニタッと笑った。

「こいつもおれが関孫六を使ったから、大枚はたいて本物を手に入れてきたのか?」

「そういうわけでもないが、できるなら本物が欲しかったからな」

 やつは笑った。

「そういうことをするから、てめえは取り憑かれやすいんだぜえ?」

 やつはそういったが、ふと視線を落とした。

「しかし、礼は言うぜ。これでおれも端午の節句に親として立つ瀬があろうというものだ」

 やつの礼には、暗に自分に真剣を手に取らせた私への感謝が込められているようだった。

 やつは食べかけのちまきを再び手にした。

 私も、そういえば、ちまきを食べかけだったことに気づいた。

 我々はしばらく無言で、何事もなかったかのように食事を続けたが、ふいにやつが顔を上げた。

「しかし、ちまきとは、貴様に似合いの飯だよな」

 やつが言った。

「何がだ」

「屈原のメシだぞ。屈原なんざあ、偏屈原というじゃあねえか。拘りが強くて偏屈ものの貴様によく似合う」

 やつの揶揄に私は、舌打ちした。

「偏屈は貴様も人のことはいえまい」

「はっ、違いねえ」

 やつはクククと喉の奥で笑った。


 初夏の日差しが木漏れ日の間から入っていた。

 私は一瞬、やつの見せた寂しい表情を思い出したが、爽やかな昼下がりの陽光に、そのことをすぐに忘れてしまった。

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