桜ノ宮【夜】
肌寒い春の宵。
打ち合わせが長引いたこともあり、私が帰路に着いたのは、もうとっぷりと日が暮れてからのことだった。
夜更けとまでは言わないまでも、街ははっきり夜の気配を見せていた。
近場とは言ったが、撮影所の近くには移動したので、帰宅するには時間はかかる。
ちょうど付き人のマサに急ぎの用事があった為、私を途中まで送ったところで彼とは別れた。
「先生、お一人でも大丈夫ですか?」
マサは真面目な男で、私を心配そうにみた。
「安心をしろ。私は目立たない方だから。それに、ここいらは、特に治安が悪いわけでもあるまいから」
私はそう言った。
私は平時は役者であることを知られることは少なく、声をかけられることは稀である。
マサはまだ心配そうだったが、
「お前の用事を優先してくれ。大丈夫だ」
「はい。先生がそうおっしゃるなら」
そう言って頭を下げて引き下がった。
そうして、私は一人で帰途に着いた。
今日は別荘のほうに帰るつもりだったので、私はマサと別れてから歩いて行くことにした。
別宅の近くは、寺社が多かった。
そのためか、街中ほど明るくはなく、薄暗い。
私のような人間には、その薄暗さも時に心地よかったが、今の時分には道端にも桜を見かけた。散りかけて葉桜になっているものもあったが、暗がりで桜の舞い散る様子は、美しさを超えて少し不気味さすら感じさせるものがある。
桜というものは不思議だ。
特に夜桜は。
あんなに美しく儚いのに、夜、薄明かりに照らされたそれは、なぜか何者かの臓物かのように、おぞましさすら覚えることがある。
儚く美しい花であるが、夜気に当てられると元から隠し持っていた魔性が吹き出したかのようだ。
だが、桜は、その魔性があるからこそ、美しい花なのかもしれない。
(そういえば、打ち合わせ中、やつを見なかったな)
桜の花を見たせいか、私はやつのことを思い出していた。
出先で気配を感じなかった。一緒に出発したのは間違いなかろうに。
本当にすねたのかもしれないな。
私はそう思った。
遠くには行けないなどと言っていたが、大阪にでも行ったのかもしれない。あるいは、このままどこかに行ってしまうかもしれないなと思った。
それはそれでしかたないことだ。
元々、やつは身寄りをなくして、寄りつく場所がないものだから、私との因縁を辿ってやってきた。
私と共にいるかどうかは、やつの気分一つ次第で、やつが私を気に入らなくなれば、出ていくだけだ。
私としては、やつに少しは迷惑をかけられてはいるのだから、そんなに悪いことでもない。しばらく、やつを演じる予定もなかったし、少なからずやつがいることで気を揉んできたのだから、私としては厄介払いができたようなものだ。
だが。
何故か、少しだけ心がざわめく。
まさか、やつがいないことを寂しがる私ではあるまいに。
私は自嘲した。
これはあれだ。追い出したようで、すこし罪悪感があるにちがいない。
私はやつのことを少し不憫には思っているのだから。
そんなことを考えながら道を辿っていた私は、突然あることに気がついた。
(なんだ、こんな場所があったか?)
私の住居は、本宅も別宅も、寺社の多い地域にある。
しかし。
突然、目の前に現れたのは、見覚えのない大きな鳥居だった。
鳥居の向こう側には、両側に大きな桜の巨木の並木があり、ざわざわと風に揺れている。その奥は鎮守の森が広がっていたが、黒々としてぽっかりと口が開いているようにすら見える。
そして、さらに不自然なのは、暗い中で街灯もないのに、そこだけが不気味に照明に照らされたように輝き、夜闇の中に浮き出していることだ。
桜はゆらゆら風に吹かれ、花びらが雪のようにはらはらと散っている。桜吹雪という例えがふさわしいほどだが、強い光に照らされ、まるで撮影でもなされているかのようだ。
舞台の作り物のように美しい桜吹雪だ。
その様子は幽玄を越えて不気味だった。
私は滅多なことでは驚かぬつもりだった。しかし、その時ばかりは流石にぞわりと悪寒を感じた。本能的に、これはいけないと思ったのだ。
私は、そこから足早に立ち去ろうとした。
しかし、進んでも進んでも、また同じ鳥居の前に戻ってくる。角を曲がっても、真っ直ぐに進んでも、また同じ鳥居が現れる。
見間違いではない。同じ鳥居で、同じ桜が散り、強い照明がそれらを彩る。
(これは、尋常なことではない)
五度目に鳥居が見えた時、流石に私はだらだらと冷や汗をかいていた。
(これはなんだ。魔物の世界に入り込んだのか?)
と、その時、ふと、声が聞こえた。
女の声だ。
『おやおや、こんなところに惑うてきて。そろそろ、腹が減っていた頃合いに、折良く良いものが来たものだ』
そこに煌びやかな着物を着た妙齢の女が立っていた。
長い黒髪が照明に艶やかに輝き、女優のような美しい顔に優しげな笑みを浮かべている。歪んだ赤い唇が艶やかに輝くのが、ここからでも見えていた。
しゃらりと鳴るのは、女が手に持つ桜の枝のようだった。作り物のようだが、桜の花は本物らしく、振るうたびにちらちらと散る。しかし、一向に減る様子はなく、散ったそばから咲き始める。
私が立ち止まると、女はそれで私を招くようにした。
『おいでおいで。はよう、こちらに来。そんなところにいては、他のに喰われてしまう。どのみち、お前は逃げられないのだから』
女はそう言って笑う。
『どうせなら妾に喰われた方が、幸せじゃ』
女は、時代錯誤な煌びやかな平安調の着物を着ている。妖しげな美しさは、美しい女優を見慣れている私ですら、目を見張るほど。
しかし、それが私をさらに怪しませた。
この世のものではない美しいものは、やはりこの世にいる存在ではない。
この女は、怪異なのだ。
しかし、足が勝手に鳥居の方に向かう。
ダメだと思うのに、いつのまにか鳥居をくぐる。鳥居は私を喰らって飲み込むかのように、大きく口を開けて私を迎え入れる。
そうして進めば、気がつけば女との距離が程近い。
間近で見た女は、その妖しい美しい顔でにっこりと笑った。
『ほう、お前、なかなか良い男じゃな。美男ではないが、清廉な空気を纏うくせに色気がある。精進潔斎している割に、何故そのように激情と色を隠しているのか。お前はただものではなさそうだ』
女からは桜の優しい香りがする。
女は妖しげな美しさを放ちながら、私の前で桜の枝をたおると、戯れに振った。それが私の顔を撫でる。
『これは上物じゃなあ』
まるで物狂いのような所作だったが、女は物狂いなどでなく明らかにあやかしの類だった。ここは舞台の上のように、強い光が浴びせられている。その光を浴びて、私の足元には影があるのに、女には影ができていない。
桜は光を浴びて、活き活きと、しかし、悍ましい不気味さを放ちながらざわざわ音を立てていた。
それが私に声になって聞こえてきた。
——これはこれは、久しぶりに良い獲物だ。
——ああ、早く食べてしまいたい。
女の周りからそよそよ囁く声が聞こえる。
——血の一滴すら残さず、我々の養分にしてやろうぞ。
私は意を決して声を出した。
「何者だ?」
『ほほほ、古風だねえ。お前は』
私の少し時代がかった言い方が面白かったのか、女は笑った。
声は聞こえるが口が動いていない。いよいよもって、これは尋常ではない。
「あやかしの部類だろう。私を脅かそうとしても無駄だ」
『ふふ、ほんに気が強い。お前は面白い男じゃな。それでこそ上物』
女は桜の枝で私の顎を上げさせる。
『しかし、お前はそんなことを知らずとも良い。どのみち』
女は私の顔を桜の枝ではたき、それを捨てながら高笑いした。
『お前は、どうせここで妾達に喰われるのだからね』
おほほほほほ——。
女の甲高い笑い声が響くと、不意に女の長い黒い髪の毛がぶわりと広がった。
そして、私を食おうとするが如く、黒い髪の毛が襲いかかってくる。
私は応戦しようとしたが、体が動かない。せめて身を硬くした。
と。
目の前に何か白いものが飛び出てきて、私と女の間に入った。
それは桜の枝を蹴り上げてそれを手にし、それで女の髪を目一杯叩きつけた。
ぎゃっと女が声を上げて飛びのく。
何者かは、私の前に背を向けて立ちはだかった。それは顔の右半分に狐の面を被った白い着物を着ていた。しかし、右側の輪郭がぼやけて、闇に溶けている。影もない。
ふざけているような狐の面が、一層、浮いて見えている。
「桜ノ宮の物狂いにしては」
とその掠れた声には聞き覚えがある。
やつだ。
やつは私を見ないで、続けた。
「てめえも、随分と好き勝手やっているな。子供を探して彷徨うものなら、まだ哀れにも思わなくもないが、その正体が男を引き摺り込むような阿婆擦れでは、雰囲気も台無しだ」
「貴様、なぜここに!」
私が声をかけると、やつはちらりとこちらを向いた。闇に溶けかけた右半面を隠した白狐の面をずらして、やつは冷たく笑う。
「勝手に遊んでこいというから、離れていればこの始末。おれを粗雑に扱ったからこうなる」
それからニヤリとした。
「この借りは高くつくぞ。覚悟しやがれ」
そして、やつは女の方を向いた。
やつの殺気に当てられて、女の周囲の空気が、一斉にやつに殺意を向けた。やつはその殺意をやすやすと吸い込みながら、ガリリと牙を剥く。
「去ね、女ア」
やつは女を睨んだ。
「今、こいつのところにはナ、おれが居候しているのだ。汝れにこいつが喰われるとおれの居場所がなくなって困る。悪いが喰うなら別のやつにしろ」
それに負けずに女が体勢を整えると、ざあっと桜が散って我々の前に渦を作っていく。
『く、何を言うか。成ったばかりのバケモノが生意気な口を。そのような上物を独占して喰らおうと片腹痛い』
「ふふ、古ければ良いというものでもあるまい。それに汝れが古い由緒ある化け物というわけでもなかろう。こんなところで通行人を喰おうというのだからなァ、ハハッ!」
やつは挑発的に言った。
「汝も、大方、桜に取り憑いた外道であろうが。外道なれば、成り行きで化け物になったおれと大差はないはずだぞ」
やつは追い詰めるように言った。
「いや、寧ろおれのほうがまだ良かろうな。美しい桜をさんざ喰らって見かけだけは倣っても、中身は救いようのねえ腐れ外道とは!」
『ぬかしたな! この下衆が!』
女の髪がますます長く伸びていく。女の顔は、憤怒のあまり般若の如くになり、今ではひどく醜く崩れていた。
『貴様から消し炭にしてくれる!』
「ふっ、これだからここは暇しねえ」
やつは冷笑して、手にしていた桜の枝をくわえると、腰の刀に手を伸ばした。
その瞬間、女の髪が四方からやつを襲った。私が声をあげるいとまもない。
しかし、やつは軽く足を運んで迫る一撃目をかわすと、目に見えない速度で刀を抜いた。
強い光にギラリと刃物の白が光る。
やつの刀は、女の伸ばす髪を抜き打ちざまに切り裂いていた。髪は黒い樹液のような液体になり、その場に飛び散る。
やつは、そのまま女の懐に入り込んだ。
そして桜の枝を口から外し、ニヤリと笑った。
「てめえには桜は似合わねえな!」
やつは女の額に桜を叩きつけた。ばっと桜が飛び散ると、女の顔が崩れ始めた。あの美しさはどこはやら、先ほどよりもさらに醜く崩れ果てていく。
『おのれ!』
もはや声も女ではなかった。野太い人外の声だ。
やつは、笑みを強めると、真正面から逆袈裟に切り倒した。
女の、しかし、女とも聞こえぬ、濁った低い悲鳴が響いた。それは煌びやかな着物を残しながら溶けていく。
いつのまにか、やつの足先の地面には、美しい着物と黒々とした液体だけが残っていた。
「さて、これでは」
やつが嘲笑った。
「本当は女であったかどうかすらわからんな」
やつはそう吐き捨て刀を納める。
ぱちんという音とともに、私の足にかかっていた不自然な力が緩んだ。
やつは私に声をかけない。やつは、刀で女の残した着物を捲り上げ、しゃがみ込んだ。
「お前、何をして……」
私は声をかけようとしたが、はたと立ち止まった。
やつは、無言で、その溶けた黒い何かを左手で掬い上げた。何をするのかと思ったが、やつはそれを水を飲むように啜りだしたのだ。
(まさか、こやつ、喰っている?)
やつはその手の中のものをずるりと飲み込んでしまうと、呆気に取られている私に気づいて振り返った。
「おれが何者かわからん。そんな顔をしているな」
と、やつは立ち上がった。足元には煌びやかな着物と桜の花びらだけがある。
強烈な光を浴びて、そこに立っているやつは、さながら映画の主役のようだ。血と魔の気配に満ちている。
おもわずぞっとしていると、やつは試すような顔で言った。
小首を傾げて挑発的に笑う。
「臆したか?」
そう問われて、私は我に帰った。と、同時に、思わず腹が立った。
「馬鹿な。今更ふざけたことを言うな!」
私はやつを睨みつけた。
「その程度で恐れるなら、とっくにお前を放り出している。私を救ってくれたことには礼を言うが、あまり戯言をいうな!」
ぴしゃりといってやると、やつはきょとんとした。
「帰る」
私は鳥居の外に出るべく歩き出すと、やつが慌ててひたひたついてくる気配があった。
「おいおい、本気じゃねえ。ちょっとからかっただけだ。そう怒るな」
やつが私に追いついて、慌てて弁明してきた。
「私は戯言は好まん」
「あれが戯言か」
やつがくっくと笑う。
「そうか。貴様は存外面白い男だな」
「何を言うか」
「いや、そうだな。貴様はおれのことはよく知っているはずだ。お前が案外に豪胆なこともしっているぜ。先ほどの問いは、今更であった。悪かったよ」
歩いていくうちに、いつのまにか、照明のような強い光は消えていた。鳥居も桜も闇に溶けるようになくなり、いつもの帰路に戻っていた。
私は、やつがついてきているのを振り返らなくてもわかっていた。やつも草履の足音を隠していない。ひたひた、そう音が鳴る。
どうもこやつとの腐れ縁は切れないらしい。私はため息をついた。
「今日は花見でもしたのだろう。どこかの桜祭りにでも出かけたか」
「そうだな。稲荷の桜を見に行ったのだ。気晴らしに良かったぞ」
それで狐面なのか?
やつは続けた。
「しかし綺麗な桜は散々見てきたというのに、先ほどのは穢れた幻を見たのは良くねえ。これで今年の桜を見納めとは、気分が良くねえもんだな」
私はそれに直接返事をせず、
「実は明日、大阪で観劇するつもりだ。打ち合わせで急遽決まった。次に演じる作品の芝居があるので、参考に見に行って欲しいと」
やつが反応した気配があった。
「私も見たい舞台だった。貴様もついてくるなら、桜ノ宮でもなんでも物見に行けばよかろう」
そういうと、やつがにやりとしたようだ。
「そうか。それは良いことをきいた」
私もやつもしばらく無言で歩く。
不意にどこかから飛んできた桜の花びらが、一迅の風と共に我々の間を通り抜けた。
やつの体を花びらが通り抜けていく。
それでも、やつが私のそばにいることは、全くの幻でもないのだと、私は思った。
影のないやつを従えて、私は夜闇に舞う桜吹雪の中、家への道を歩いて行った。




