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やつと私と雨の庭  作者: 渡来亜輝彦
黄昏の邂逅

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4/10

春霞の宴席

 やつがいつ現れるかどうかは、あくまで気まぐれなやつの気分次第だった。

 

 かつては黄昏の時間を狙ってやってきていたが、やつの来るのを受け入れてしまってからは、随分と好き放題に来るようになった。

 朝、昼、夜。

 いつでも、やつの気分次第。

 好きな時間に好きなところに現れる。

 そういう自由なやつに、私は近頃、静かな生活を乱されている。

 

 *


 時は三月にさしかかり、にわかに春めいていた。

 もののけのハシクレのやつでも、春は眠いものなのだろうか。

 今日などは、日中だというのに、やつはもうやってきていて、畳の上にごろごろしている。

 寝床に使われても困るのだが、お構いなしだ。

 やつは、最近はすっかり慣れて、私のこの別宅に居座っている。私の付き人や家族にも見えないので、やつがいたところで私以外に何の迷惑もかけないのだが、かといってべったり居座られても面倒ではある。

 そんなことを思いながら、所用を済ませて戻ってくると、やつはちょうど起きてきて伸びをしているところだった。

 まったく。遠慮会釈もないやつめ!

「やっと目が覚めたか? もう日が高いぞ」

 私が声をかけると、やつはあくびを噛み殺していた。

「お前が早起きなだけだ。まったく、年寄りでもないのに、早朝から騒がしい野郎だな」

 やつは開き直ったように、

「おれは夜行性なのだ。そういうさがなのだから仕方ないだろう」

「改めて欲しいものだがな」

「無理だな。大体、てめえがおれのことを、散々魔物だと言っておいて今更なんだ。魔物は夜が本分だ。逆に日が上ったころに眠る時間になる」

 やつはちょっと不機嫌になった。

「それにおれとて、ダラダラして、お前の家にいるばかりではない」

 そういえばそうだった。

 近頃のやつときたら、夜歩きを覚えている。

 いや、元からどこから現れたのともしれぬものだから、夜歩きを覚えるというのもおかしなものかもしれないが。

 やつは近頃、私のいる場所の近くではあれば、この別荘から離れることもできるようだ。

 散歩、と言っていたが、時折、風もないのに庭の木の枝が不自然に揺れることがあり、多分そういう時、やつは外に出ているのだと思う。

 近所でやつを目撃したような噂はないから、悪いことはしていないとは思うが……。

 そうこうしているうちに、やつはまだ伸びをして、ついでにちらりと外を見た。

 やつは私より相当背が高いので、ちょっと伸びただけで、外の風景が見えたものらしい。

「今日は随分霞んでやがるな。晴れておるというのに空が随分と白んでいる。これじゃあ、京の街も山も霞んじまってるな」

 やつが顔を上げてそんなことを言った。

「春だからな。春は霞むものだ」

 私はそっけなく答えた。

「春か」

 ぼんやりとやつはいった。

「なるほど、眠いのはそれだな。春眠暁を覚えずというだろう」

「お前のそれは春とは関係なかろう」

 私が皮肉っぽくそういうが、やつは気にしておらず、話を変えてきた。

「そうそう、ここから見ているだけだと気づかなかったが、京の街とやらも随分変わったな」

 久しぶりに遊びにきた観光客のようなことを言うやつだ。

「街を歩いたのは、お前の仕事の時にきてから初めてだったが、しばらく見ねえうちに細々と変わりやがる」

 む、と私はそれを聞き咎めた。

「お前、どこかに行っていたのか?」

「貴様の仕事中にな、ちょっと観光してきたのだよ。いやあ、なかなか楽しかったぞ」

 やつは付け加えた。

「そんなツラするなよ。貴様の仕事場からは少し離れたところで遊んでいる。そこは安心しろよ」

 ふむ、と私は唸った。

 当初は、ここで留守番をするだけのやつが、近頃、私の仕事にもついて出歩けるようになったのは感じていた。

 しかし、前にも本人が言っていた通り、撮影所に来ることはない。私に無闇に憑いているのを悟られるのは、やつも遠慮しているらしかった。

 撮影所は、やつとのゆかりが深いものが多い。ひょんなことから姿を見られて厄介なことになるのは、私もごめん被りたい。この状況を説明するのは難しいし、口下手の私には説明を考えるのも億劫なのだ。

 ここは、やつとは利害が一致している。

 やつの行動範囲がどれほどかは、私には知れぬこと。しかし、この別荘以外では私からある程度近いところである必要があるらしく、京都なら京都の、それもあまり遠くない範囲、あまり私から離れた遠くには行けないようだ。

「騒ぎは起こしておらんだろうな?」

 私は心配になって、ため息混じりに尋ねた。

「騒ぎ? あんなところに出てきて、何かするわけねえだろう。大体、何をするというのだ?」

 やつは思い当たらないといった顔つきだ。

「どうだが。お前は何をするかわからん男だからな」

 私はやつを睨むようにして言った。そう言われて、やつはちょっと笑った。

「ああ、騒ぎとは、人を斬っていないかとか、そういうことか? まさか?」

 やつは苦笑した。

「この現代社会にいたって、そんなことをしたら目立って仕方がねえ。そりゃあ、殺人鬼として作られたおれには悪癖もあろうが、見ての通り、この世界では、おれは大体の者に見られることも、触れられることもできん。逆に触れることもできん。りたくなっても、これではろくに人間に害を加えることはできねえよ」

「それなら安心だが」

 私は演者だから、作られた当初、やつがどういう性格づけをされたものか知っている。

 やつは自分で言っていた通り、好んで殺生を行う悪党として作られた。

 その後は、少しキャラクタアには変化があったが、要するに狂っていて暴力的な特異な役柄なのだった。

 なので、こやつがそのままの性質なら放置するのは危険だ。人に危害を加えかねないし、人には見えぬ存在とはいえ、いずれは官憲に目をつけられてしまうだろう。

 いわば、私には監督責任があるのだ。

 が、どうやら、やつが物理的にこの世界に影響できるのは、本人が言う通り限定的であるらしい。今のところ、他人に触れられないという。

「まあ、安心しろよ。別に発散の方法はないわねじゃあねえから」

 やつがニヤついた。

「なんだと?」

 嫌な予感がするので、私はじろりとやつを睨んだ。

「慌てるな。ニンゲンを斬らなきゃいいんだろう?」

「動物もダメだ。要らぬ殺生はするな」

「何言いやがる? おれは元から犬も猫も斬ってねえよ。先生だって、おれにそんなことしろって言わなかったぜ。おれが斬るのは、この世のものじゃねえ。それなら問題なかろう」

 やつは不本意だというようにそういって、

「ここは土地柄、なんらかの怪異が多いだろう。おれも似たようなものだが、それだけによく喧嘩を売られる。あのなア、化け物は化け物同士で色々あるのだ」

 やつは憂鬱に、しかし、にんまりと笑った。「そういう奴らを返り討ちにして遊べば、十分満足できる」

「またそのようなことを」

 私はやつを睨んだ。

「余計な揉め事はよさんか」

「しかし、殺生はしてねえ。あいつら、生きてるわけじゃあねえだろう」

 む、と私は唸る。やつは得意げに、けけっと笑う。

「それに迷惑もかけてねえ。なにせ、害意のあるヤツを斬ってるんだから。狙われているてめえらにも良い話だろうが。退治してるようなもんよ」

 むむ、と私は眉根を寄せる。

「それで十分だからな。おれは今は人間には手を出すつもりはないぜ」

 正論、のような気がする。

 やつに襲いかかるような怪異など、どうせ碌なものではない。

 きっと人にも害をなす存在だ。となれば、人を傷つける前にやつに退治されたのなら、良いことのような気がした。

 そんなふうに絆されそうになったところで、私はハッとする。

 いやいやしかし。

 だからといって、こんなやつを放し飼いにして良いのだろうか。やっていることは、結局、やつの快楽を満たすだけの暴力では?

 よろしくないことな気がする。

 うーんと私は唸り、考え込む。そんな私を見て、やつは柱によりかかってニヤリとした。

「ははは、あんまり難しく考えるなよ」

 やつが嘲笑うように笑った。

「別にてめえに迷惑はかけてねえのだからな」

 そして、当然のように手元に置いていたぐい呑みを引き寄せて口元に運ぶ。

 私はムッとした。こやつ、いつのまに。

 寝る前からそこに置いてあったのか? 私の酒を勝手に持ち出して!?

「何が手を触れられないだ。酒は飲むくせに」

 私は、やつが近頃、頻繁に私の酒を盗み飲んでいることを知っている。

 今とて、やつの目の前に徳利とぐい呑みが置かれているのだが、中身が少しずつ減っている。

 他人に見られもしないし、人に触れることもない。

 しかし、私の煙草は失敬してふかしているし、襖や障子は開けるし、物をどかす。

 やつめ、少しずつだがやつはだんだん影響を及ぼせるようになりつつある。

 まだその輪郭は半分闇に沈んでいるが、私がやつをここに留め置いているせいか。だんだん、現実に及ぼす力が強くなっているのだ。

 良い傾向ではない。

「ああ、これか」

 やつは左目を瞬かせて、

「流石に沢の鶴ばかりで飽きたぞ。なんだ、他のはねえのかよ。他のも仕入れてくれ」

「何を贅沢な……」

「まあ、こんな俗世離れした場所で酒が飲めるだけマシだがな」

 ははは、とやつは笑う。

「お前は酒はあまり強くないだろう? すぐ酔っ払って絡む癖に。それくらいにしておけ」

 こやつ、酒は好きだが、実はさほど強くはない。すぐに酔って人に絡んでは、くだをまく。本人は楽しく酔っ払っているが、酔われて絡まれると私が困る。鬱陶しいことこの上ない。

「世間的には強えことになっているんだがな。どうも酒豪の貴様には勝てそうもない」

 やつが珍しく唸る。

「元はと言えば、貴様が蟒蛇うわばみみたいなやつだから、おれが酒呑みに見られちまうんだ」

 ふん、と私が鼻を鳴らして無視をきめこむ。

 やつはそのうちその話題に興味をなくしたらしく、酒を飲みながら窓の外を眺めているようだった。基本的に気まぐれなのだ。

 その目は、すでに酔っているらしく少し赤い。

「しかし、今日は本当に空が霞んでおる。山も霞んでいて見えねえぞ。どこかで花が咲いたか、良い香りがする日だ」

「春だからな」

 そうすげなく答えたつもりだったが、ついやつの視線を追ってしまう。

 ふいにちらりとするのもが視線の先をよぎった。

 桜にはまだ早かろう。しかし、山桜だろうか。

 なにか白い花が散っているらしく、顔を上げた私の目の前をちらちらと花びらが飛んでいくのが見えた。

 やつはそれを視認して、動きを止めたものだったろうか。

 霞んでいる下の街や遠くの山を前にして、雪のように花が乱れ飛んでいくのに、思わず見入ってしまう。

「故人西ノカタ黄鶴楼ヲ辞シ」

 そんな声と共に、目の前に猪口が置かれて私は顔を上げる。

「煙花三月揚州ニ下ル……」

 やつはそういうと相変わらず片側しか見えない目を細めた。

「李白か。柄にもないことをいう」

 そう皮肉を言うと、

「柄じゃあねえが、ここだって黄鶴楼みたいなもんだろう。見晴らしも良いしな」

 そういいながら、やつはニヤリとした。

「こんな日に、ひとりでやるのも寂しいもんだぜ。つきあえよ」

 押し付けられてやつを睨むが、やつはにやにやしているだけだ。

「勝手にここを酒楼扱いするな」

 ため息をつきながら、私は猪口を取った。

「李白のようにここから見送ってやる。付き合えば揚州に下ってくれるんだろうな」

「さあて、おれは孟浩然じゃあねえからなア」

 やつはぬけぬけというのだった。

「春霞の三月、こんな良い日にこんな良いところから出ていくわけがねえだろう」


 どうやら、やつはまだここに居座るつもりらしい。

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