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やつと私と雨の庭  作者: 渡来亜輝彦


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3/3

鏡の中のやつ

 暖かな日差しの入る日だった。

 障子を開ければ、視線の先の梅の花が、ほんのりと春の香りを運んでくる頃合い。


 それでも、まだ室内は寒く、火鉢のそばで酒を飲んで体を温めていた。

「やれやれ、ここはどうも寒いな。せめて障子は閉めるつもりはないのか?」

 火鉢のそばでやつがそういうのを、私はちらと睨みつけた。

「梅の花が咲いている。少しは花の香りでも楽しめ」

「ふん、この寒い中、花の香りを楽しむ風流心など抱けるものか」

 体の半分が実体化できていないような魔物のくせに、一人前に火鉢には当たるのだから恐れ入る。もののけのくせに、寒さを感じるのだろうか。

「それに貴様ときたら抹香臭くていけねえ。気が向いたら、お堂に籠って南無三南無三、辛気くせえ野郎だなあ」

 やつがそう皮肉をいう。

「貴様はついてきていないだろう? その間寝ているくせに。それに」

 と、私はやつを睨んだ。

「いやなら出て行っても良いのだぞ」

「この寒風吹き荒ぶ中、放り出そうというのか? 良い性格だな」

「今日は比較的暖かだ。雪も降ってもいない。出かけるには良い季節だぞ」

「ちッ」

 やつは舌打ちした。

「まだ店立てされるには厳しい季節だからな。しょうがねえから、大人しくしてやろう」

 結局、居座るつもりではないか。

 とはいえ、私も、別に本気で追い立てるつもりもなかったが。私とて鬼ではないのだし、変に解き放って悪さをされても困る。

 やつは、このところ、この別荘にいることが多かった。

 この間、やつを「受け入れる」発言をしたのがいけなかったのか、やつはすっかり居着いてしまったのだ。

 私以外には、姿が見えていないのだけが救いだろうか。それに客が来ると、やつはそっと姿を消してしまう。あれでも気を遣っているのかもしれない。

(しかし、なぜこのようなことに)

 一旦受け入れた以上、私は無責任なことはしないつもりだ。が、なぜこんなおかしなことに巻き込まれたのか、頭を抱える権利はある。

 私が読経していてもこやつは消えたりしないので、そこまで悪いもののけではないのかもしれないが、それにしても信心深い私が、こんな魔性を抱え込むのも困りものだ。

(こやつはいつからこうだったのか)

 私は酒を口にしながら、横目でやつを見た。瓶底眼鏡のレンズの歪みの影響だけではなく、やつの右半身は歪んで、空間に滲んでいた。しかし、どうしたって私にはやつが見えている。

 もののけは眼鏡をかけると見えないとも聞いたことがあるが、眼鏡のレンズ越しでも、私はやつが見えていた。

 そういえば。

 と、私は思い至った。

(魔性は鏡に映らないというが、こやつは映っている)

 ちらりと私は部屋の中にある鏡に、奴が映っているのを見た。影はないくせに鏡には映る。

(元々鏡の中にいたのだったな)

 私は、やつと初めて出会った時分を思い出していた。


 *

 

 そこでは、ドーランの香りが立ち込めていた。

 私は鏡台の前で自分と向き合っていた。

 私はその時、今より若かった。

 売り出してからしばらく。良い先生と巡り合って、出演作が大ヒットし、スタアへの道を駆け上がっているところだった。

 そうした頃にやってきたのが、『やつ』の話。

 やつは人気の新聞連載の小説の人物で、各社が競作をしていた。すでにその中には先んじて公開されたものもあり、私の出演作が出来上がったのは一番最後だった。

 他の俳優たちへの競争心がなかったかと言われると、否定はできない。私にも野心はあった。

 ただ伝統文化の裏打ちがない私は、とにかく一瞬の光を増大させて送り出すことしかできない。

 つまり、この体を使って目一杯の暴力性を表現すること。そして、役になりきること。

 私はそれに心血を注いだ。

 しかし、どうも私は役に入り込んでしまう性質で、一度入ってしまうと現実に戻れなくなるような興奮状態になることもある。

 背後に彼らの気配をおろして、彼等に取り憑かれてしまったように、私が最初から「彼ら」であった気がしてしまう。そうなると、カメラの前から離れても、しばらく「彼ら」は私から去ってくれない。

 「やつ」もそういう「彼ら」の一人だった。

 そうして取り憑かれることで、私は激しい剣戟を演じることができていた。

 特に、右目を失明している「やつ」を演じる際、私はずっと右目を接着剤で閉じたまま過ごした。それで私はやつの魂を感じようとした。

 さらにやつは右腕を使うことができないから、私の行動は常に危険と隣り合わせとなった。

 もともと近眼の私は、眼鏡を外すと物がよく見えないのだ。それなのにバランスが取れないこの状況。足を踏み外したり、転んだりするのは序の口だった。そもそも真っ直ぐに走れないから、斜めになってしまい、補正しながら全力疾走する羽目にもなる。

 監督である先生の要望も厳しかった。時には顔から地面に突っ込んで刀を咥えて立ち上がるようなことを要求されることもあった。顔に傷が入ると撮影は中断してしまうから、怪我をしないでやらなければならない。

 「できるか」と尋ねられて、私は「やります」と答えた。できるできないではないのだ。やる、やらないだった。売り出したばかりの私に選択権などあろうはずがない。ここは、やらねばならなかった。

 その時は大きな怪我をせずに済んだが、撮影後に、二、三日寝込むのはよくある話だった。


 そんなある日のことだ。

 背後や心の奥に、うっすら存在を感じていただけの「やつ」を、初めて目にしてしまったのは。


 あれは、楽屋で準備をしていたときのことだった。

 私は、普段、自分でメイキャップをしている。無論、撮影後にメイキャップがよれた時の修正も自分でしていた。それはそれで、うまく心情にあったメイキャップができることもある。

 やつの時もそうだった。

 ドーランの香りの立ち込める部屋。

 その時は、そこにいるのは私一人だった。

 手鏡を覗き込み、メイキャップを確かめる。普段は地味な私が、まったくの別人に変わっていく過程。私は自分が手ずから、自分ではない何かになりゆく次第を見ることで、徐々に「彼ら」になっていくことができるのかもしれない。

 それは、私と私でない何者かが、極めて接しやすい場所だった。

 だからかもしれない。

 不意に手鏡の中の私の唇が歪んだ。

 私はわらったつもりがなく、気のせいかと思った。と、今度は目が細められて、明らかに嘲笑するような表情になった。

 私の右目は役柄に合わせて傷跡の特殊な化粧を施していたが、鏡の中の傷跡はもっと生々しく作り物ではないように見えた。

 何か変だった。

 鏡の中のその顔は、メイキャップを施した私とも違う別の男に見えた。

 どきりとして、私は手鏡を下ろして、鏡台の方を見た。

 同じ男が鏡に写っていた。やはり私ではない。着物は同じだが、白塗りをしているわけではなく、青ざめた痩せた顔の男がこちらをみていた。私などよりよほど背が高く痩せぎすで、見える左目は鋭い、射るような目をしている。その目は細い。

 はっと息を呑むと、男は言った。

「ははあ」

 男は笑う。

「おれを見たな、お前」

「だ、誰だ!」

 怯えを悟られぬよう詰問した私に、鏡の中の男は笑う。

「この状況を見てわからないか? おれはお前がなろうとした男だ。わからねえかナ?」

 男はニヤニヤしながら言った。

「昨日は随分と暴れたなア。なかなかてめえも激しい男だ。芝居に真剣持ち出してあんなに暴れるのだから」

 私はやつを凝視した。

「ふはは、なんてツラしてやがる!」

 やつは心底楽しそうに笑った。

「貴様はおれになりきりたいのだろう? だったら、おれの姿を見ておくのも良いじゃあねえか」

 やつは悪辣な笑みを薄い唇に浮かべ、ニタリと笑う。

 私は、それが自分が無意識に話した声ではないかと疑った。連日の撮影の疲れでどこかおかしくなっていて、やつになりきったまましゃべってしまっているのかと思った。

 だが、どうもそうではない。硬直した私と裏腹に、鏡の中のやつは私と違う動作をしている。

「貴様、魔性のものか? 私は魔物に用はない」

 私は自分のおそれをやつに気取らせまいと、精一杯の虚勢を張って鏡を睨みつけていた。

「ふっ」

 が、鏡の中のやつは私の戸惑いを残酷に楽しみ、顎を撫でた。

「面白い男だな、貴様」

「何がだ?」

「お前の他の色んな役者にも会いに行ったが、おれを見たやつも見なかったやつもいた。その上で無視したものも、話しかけてきたものもいる。だが、どうも、お前ほどおれの姿をはっきり見たものはいない。ここまで見えてしまうと、いっそ恐ろしいはずだがな」

 やつは目を細めて言った。

「その上でそんなことを言うものだ。ふふ、なかなか肝が据わっている。……どうやら、貴様はおれとの相性が悪くねえのだろうナ」

 やつの声はどんどん私から離れて、しゃがれた声になっていた。

「おれとお前、外見はこんなに似てもいねえ。お前の心とおれの心も似てやしねえ。それなのに、何故てめえはおれが見えているんだろうな」

「そのようなもの、わかるわけがない」

 だろうな、とやつは笑った。

「しかし、望むと望まぬと、貴様とおれは長い付き合いになるかもしれねえ。しかし、これだけ似ていないと言うのに」

 やつはニヤリとした。

「貴様はおれのようになれるかな?」

 挑発的な声が自分の内から出たものか、外から出たものか。

 ただその声は私の闘志を掻き立てた。

「なれる!」

 私は一言答えた。そして、やつを正面から睨みつけて言い放つ。

「なれぬわけがない!」

 やつの唇の笑みが余計に強く歪んだ。

「はははっ。いいだろう。やれるものならやってみやがれ! そばにいて、見ていてやろう!」

 やつはそういうと、ふっと笑い——。

 次の瞬間、楽屋はしんと静まり返った。

 瞬きしてその後、鏡には私が映っていた。

 先ほどまでの怪しげなやつの姿はそこにはない。跡形もない。

 今のはなんだったのだろう。

 私は冷や汗が背中を流れるのを感じた。

 ただ、私にはわかっていた。その冷や汗をかいた背中の後ろに、やつが立っている気配がする。私はやつをもう取り憑かせてしまっていた。

 その後、私は支度を終えた。

 立ち上がった時、楽屋の大きな鏡の中では、いつのまにか私ではなくやつが鏡の中で笑っていた。

 私は今度は驚かず、やつを睨みつけて楽屋を出て行った。


 *


 あれから、撮影中、幾度かそのようなことがあった。

 けれど、やつが話しかけてくるのは、鏡の中からだった。やつの姿はやはり他のものには見えなかったし、やつの声も私の他には聞いていなかった。

 ただ、撮影中、やつの声が私には聞こえていた。

 撮影が終わったあと、やつは私から離れて行くが、何度かやつの撮影をするたびに、やつはやはり戻ってきて、私を揶揄うように嘲笑いながら鏡の中から声をかけてきていた。

 だが、そんなやつが現実に影響することはなかったのだ、今までは。

 撮影が終わり、しばらくやつと出会わない日々が続いた後、あの姿になって現実世界に現れるやつと再会したのだった。

 果たして、やつは何者なのだろう。

 仕事をしすぎて役に魅入られ、取り憑かれた私の妄想か。それともやつが申告する通り、作者の先生が生み出した存在なのか。

 私には、どちらかわからない。作者先生が亡くなった今、それの判別のしようもない。

 ただ、私の目の前には現実問題、やつが存在している。

「何を考えているのだ?」

 ふいに尋ねられた。

「いつまで貴様がここにいるのかということだ」

 私はため息をついて答えた。

「それは貴様の心がけ次第だな」

 やつはそうはぐらかし、私の手元を見た。

「そういえば、貴様は、一人で手酌でやっているが、おれには酒は飲ませてくれねえのか?」

 そう言われて、私はやつを見た。

「寒い時節、酒を飲んであたたまりもしたいものだぞ」

「ふん、朧げな魔性が何を言っている? 酒など飲めるのか?」

「さて、やってみねえと、ものはわからねえやな」

 やつがそういうので、私はぐい呑みをもう一つ持ってきて、酒を注いでやつの元に突き出した。

「飲めるものなら飲んでみればよい」

「それはありがてえな。素直に御相伴に預かろう」

 やつはそういうと、そっと左手を伸ばした。やつの手は確かにぐい呑みを掴むと酒を口に運んだ。

 畳は濡れていない。酒はやつが飲み込んでいる。

 いよいよ、不可解な怪異だ。「やつ」は。

「梅の花を見、香りをかぎながら飲む酒も風流だよなア」

「先ほどは寒いと言っていたろう?」

「酒が入るとあたたかくなる。おれも火鉢にしがみついていなくてもよくなろうと言うものだ。障子を開けても平気だぜ」

 やつがにやりとした。そして、もう一杯酒を啜った。

「ああ、ひさびさの酒だ。五臓六腑に染み渡るというものだぜ」

(は? 五臓六腑?)

 私はふとその言葉を聞き咎めた。

(そんなものなど貴様にあるのか?)

 幽霊や幻のような、朧げなお前に?

 私はそう心の中で呟き、ふとおかしくなって薄く笑った。

 どうやら、やつが、おかしくなった私の春の幻ではないことは確からしい。


 春先のこの困った幻影は、私の現実世界にはっきりと姿を現していた。

 

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