梅雨(ばいう)に消ゆる【後】
*
やつがいなくなって、またしばらくが経過した。
久々に晴れた日。空模様は怪しいが、まだ雨は降らないだろう。
ぼんやりと外を見ていると、私の付き人のマサが庭を掃除してくれていた。
やつは結局帰ってこなかった。
建物にも庭にも、やつの姿はどこにもなく、まるでそんなものは最初からいなかったかのようだった。
やつがいたこの数ヶ月が、全て、私の妄想の中であったかのようだ。
やつのいたことを示す痕跡もない。
いや、ひとつだけあるか。
やつが持っていった、私の気に入りの傘が、そのままなくなってしまっていた。
しかし、それとて、私がどこかに置き忘れてしまっただけのような気もした。
全ては、私の妄想なのかもしれない。
物憂げな春は、人を狂わせるものだから。
「先生、もう梅雨に入ってしまいそうですね」
そんなことを考えていたところ、私の付き人であるマサに声をかけられ、私は我に帰った。
「夕暮れまでに、また一雨きそうですよ」
彼は私の付き人として、勤めてくれている男だ。
私は自分でもとっつきにくい人格だと思っているので、私に付き従ってくれている彼には内心感謝している。
マサはがっしりした男だが、力仕事も繊細な仕事も任せられる。庭師にも頼んでいるが、マサにもここの細々とした管理について任せていた。
「じめじめした季節が続きそうですね。嫌になります」
「そうだな」
こちらを見たマサの顔には大きな火傷あとがある。体にも火傷がある。
そして、それは私も関わっていた撮影中の事故で負った傷だった。彼は私を庇って負傷した。それは本来私が負うべき傷だった。
それ以降、私は彼をそばに置いている。それは償いのようなものでもあった。
しかし、私はこういう男で、気の利いたこともできないし、恩を仇で返すような私の我儘もいう。それでも、マサは付き合ってくれる。彼は不器用ながら実直で誠実な男だった。
彼は魑魅魍魎渦巻く世界の中で、限りなく信頼できる男だった。
だからこそ、この別荘に滞在を常に許せる人物だった。
「そういえば先生」
思いを馳せていると、マサが尋ねてきた。
「最近は、ぐい呑みは二ついらないんですか?」
聞かれて、私は正直ドキリとした。
「いえ、先生、その、ちかごろ、お酒を召し上がる時、猪口を二つお使いになっておりましたので。しかし、先日からお一つしかお使いになりません。何かございましたか?」
そう、きかれたのだ。
(まさか、マサにはやつのことを勘づかれていないはずだが)
やつは私が飲んでいると、分け前をねだりくるのが常だった。
無視するのも面倒で、やつと一緒に飲むことも多く、ぐい呑みが二つ、畳に転がっていることが多かったのは間違いない。
マサは確かにそれを片付けてくれていた。彼が不自然に思うことなど、思い至らなかった。
それに私はいささか慌てた。
「い、いや、し、仕事の仲間に外地に行ったものがいるのでな。その男の無事を祈り、陰膳がわりの献杯をしていたのだよ」
慌てた割には我ながら上出来な、それらしい理由が述べられたものだ。
マサはそれで納得してくれたらしい。
「ああ、そうでございましたか」
「それで、そいつは無事に帰ってきたのでな。それで、陰膳は不要になったので、最近はしていなくてな」
「ああ、そうでございましたか。それはその方もご無事で何よりでございましたね」
マサは無口な男でもあるし、忠誠心も強い。あえて私にそれ以上追及してこなかったので、正直助かった。
マサは胸襟を割って話せる信頼できる男とは言え、妄想とも幻覚ともしれぬ、怪しげなやつのことを話すのは流石に気が引ける。
とうとう狂ったかと思われても困る。
午後になり、雨が降りそうになったので、マサは予定を早めて帰宅することにし、私に挨拶をしにきた。
私は彼を見送って、そのまま縁から外を見ていた。
夕方までは持ちそうだというマサの観測は外れ、ぽつぽつと雨が降る。水滴で濡れる庭石を見ながら、私はマサは雨に降られてしまったろうと思い、気の毒になった。
明日会った時に、ねぎらいの言葉をかけてやろう。
そして、雨に降られたのは、きっとマサだけではないだろうと思った。
(しかし、もう半月ほど経ったか)
降りしきるあめは、梅雨入りの気配を感じさせていた。
(やつはどこにいるのだろうか。もしどこかにいるのであれば、外では濡れているのだろうな。やつは雨には濡れるから)
と私は心配にはなっていた。
どこかの軒下で雨宿りしながらも、濡れているかもしれないやつを想像した。
それならまだ良いかもしれない。これだけ帰ってこないなら、荒事の好きなやつのこと、もしかしたら格上の相手に絡んでいて消えてしまった可能性だってなくもない。
私は、私が演じていた『やつ』は、とても強い男と思っていたけれども、正直、あれが私の演じていた『本物』なのかわからないから、実際の強さは不確定だった。
幽霊なのか化け物なのか、それともただの私の妄想の産物なのかもわからない。やつが自分で言った通り、生まれたてといえばそうで、妖しいものたちの中での格はまだ高くもないし、負けることもあるのかもしれない。
元はと言えば、やつは産みの親の作家先生に憑いていたと自分でいっていた。しかし、彼が亡くなり、この世では寄るべなく困って私の元に一時的に立ち寄っただけのことだ。
そう、やつは、作家先生が亡くなってから私の元に来たのだ。
私は知らないふりをしたが、やつは先生を慕っていた。
もしかしたら、作家先生のところに行く気になったのかもしれない。
本来、被造物であり、あの先生の子であるやつはそうなるべきだったのかもしれない。創造主と共に被造物のやつも、この世から消える方が幸せだったのかもしれない。
そういう気持ちになり、私はやつに腹を立てるのを辞めた。私に一言もなく消えたやつのことを、私が責める資格はない。もはや創造主のいない、この世がやつにとって住みづらいのは、私にはなんとなくわかるから。
「ああ、そうか」
私は思い至ってぽつりと呟いた。
「あれから、一年、……経ったのか」
しとど降る雨。
清明の時節、雨は紛紛たり。
清明節などとっくに過ぎているのに、何故そんな詩を持ち出したのかと思ったが、本来、大陸では清明は墓参りを行う節句だともいう。
やつがそれを知っていたかどうか、定かではないが、春が終わり、夏が始まる頃、あの先生はいなくなってしまった。
やつは春の終わりの雨に、それを思い出したのだろうか。
それで、やつは、いってしまったのか。
じっとりとした湿気が、草や苔のふわりとした、独特の青臭さを際立たせていた。
私はぼんやりと庭を見ていた。
雨は本降りになり、庭に降り注ぐ。いつのまにか、日は傾き、薄い雲間から橙の光が漏れている。
もう暮れの時間だ。
雨が湿った香りを、薄暗い空間に漂わせている。
この雨の日の香りは私は嫌いではない。
この湿った青臭さも少し鼻につく事はあるけれども、だんだん馴染んで気持ちを落ち着かせてくれるものだから。
私には、この薄暗さが心地よい。スポットライトの明るい照明に晒されていると、私は時に不安になる。強い光はいつか来たる闇の濃さを思い起こさせてしまう。
だから、この一人だけの孤独な時間も心地よいはずなのに。
それなのに、今日は認めたくもない寂寞とした感情が心の底にあるようだ。
「全く、勝手なやつだ」
私はそう吐き捨てると、気晴らしに酒を飲もうかと、帰る前にマサに用意させていたぐい呑みに手を触れた。
とその時だ。
「なんだ、今日は俺にくれる酒はねえのか」
縁側の方だった。
ふと顔を上げると、縁側から雨の中に傘をさした男が私の方を向いて立っていた。
着流しを着ているが、傘は番傘ではなく黒い蝙蝠傘だった。あれは私の傘だ。
霧の中で相変わらずぼんやりと幽玄で消えてしまいそうだが、不敵な笑みはほんのりと血の香りをさせているようだ。
もう夕暮れ。薄くなった雲はかすかに赤く光り黄昏の気配を覗かせる。
それを背景に男が立っていた。
やつだ。
「久方ぶりだな」
やつはにやりとした。
「お前、どこに行っていた」
私は思わず、そう、ぶっきらぼうに尋ねた。
「どこにと言われてもな、ちょっと長めの散歩に行っただけだぜ」
やつは平然と答え、それから揶揄うようにニヤリとした。
「なんだ、お前。おれがいなくて寂しかったのか?」
「何を言う。そんなはずがないだろう」
「怒るなよ。実のところ、道に迷ってナ。おれは京には土地勘がねえんだ。同じような道ばかりだし。奥のほうに入り込んだら、抜けられなくなっちまったうえに、何せ京には古くて厄介な奴輩も多いことだから、絡まれちまってなあ。いやいや、退屈しなかったぜ」
やつはニヤリと笑う。
「そういう奴らを斬り払いつつ、苦労しながら、ようやくここまで戻ってきたって言うわけだ。おいおい、なんだ、その面は。そんな遠くで迷子になって、大変な目をして戻ってきたおれだぞ。多少ねぎらってくれてもいいんじゃあねえか」
やつに私はますますむっとしたが、なんとなく少し奴がやつれているような気もしたので、仕方なく私は「上がれ」と言った。
普段のやつはそんなことを許可されなくても、平気で上がるような男だったけれども、私にそう言われてようやく草履を脱いで上がってきた。
一瞬だけ、微かに白檀の香りがした。それはおそらく線香の香りなのだ。
「濡れているなら、そこでちゃんと、ちゃんと雫は払ってから来い」
「仕方ねえだろう。おれだって濡れたくて濡れたわけではない」
やつがそういった時、私はやつに手ぬぐいを投げ渡し、そして尋ねた。
「お前は鎌倉に行っていたのか?」
やつは頭を拭う手を止めた。
鎌倉は、あの作家先生の眠る場所だ。
「……うん、まあ……、その」
やつは言い淀む。
「……すっかりここと紐づけられちまっているから、ここから離れるのは、なかなか苦労をした。離れりゃ離れりゃであまり強い力を維持できなくてな……、戻るのに時間がかかった」
やつはそう正直に告げた。
私は多くを聞くつもりはなかった。
ただ、ぐい呑みをもう一つ用意した。
やつはいつもの定位置、柱のあたりに座った。私はやつの前にそれをおいた。
「お前のようなものでも、雨に濡れれば体が冷えるだろう。仕方がないから今日は一杯ぐらいは許してやろう」
「ちっ、そんなもので体が温まるわけないだろう」
とやつは不満そうに言ったが、私の方を見た。
「お前は変わってるな。はは、流石に追い返されるものかと思ったぜ」
と苦笑した。
それっきり、しばらく無言で雨の中で我々は酒を啜った。
雨は、止まずにしとしとと降り注ぐ。
別に先ほどと何ら変わらない。やつがいようと、いまいと。
やつはふと思い出したように懐を漁って、なにかを私の足元に投げてきた。
「そうだ。良いものを拾ってな。これは土産にやろう」
それは古い書が書かれたような扇子だった。
「なんだこれは」
「厄介な奴を斬った時に、そいつが飲み込んでいたものだ。お前は、そういうものが好きだろう?」
ぱらりと扇子を開いてみると、漢詩が書き付けてある。
「好雨、時節を知り……、春に当たって乃ち……」
「風ニ随ヒテ夜ニ潜入シ、物ヲ潤シテ細カニシテ声無シ……と続く」
「杜甫、だったか?」
「ご名答」
やつはニヤリとして、
「暁ニ紅ノ湿フ処ヲ看レバ、花ハ錦官城ニ重カラム。良い雨は降る時を知っている。細やかな雨に降られた夜の後、朝の古都には赤い花が咲いている……とな。まるでこの庭のことのようじゃあねえか。ふふふ、もう夏だが、雨の日の土産にちょうどいいだろう?」
やつは存外に漢籍に詳しいらしいが、そう言って得意げに笑う。
「酒代ぐらいの土産にはなるだろうが。もう一杯くれよ」
やつのそういう図々しい発言を聞きながら、私は、ああそうか、やつが結局、ここに戻ってきたのだということを実感した。
先ほどまでと何ら変わらない、雨の庭。
そう、やつがいるだけで、何ら変わらないはずなのに。
雨は風にのり、夜のうちに忍び込み、万物を潤すのに声も立てない。
私は扇子を見やりながら思った。
厄介な湿気のようなものだというのに。
気づいてしまった。
認め難いことに、私はやつの存在に内心少し安堵していたような気がするのだ。
それは腹立たしく忌々しい。
だが、やつに労いの言葉ひとつかけるだけで、なんとなくやつに負けた気がしていて、私はぐっと我慢をした。
私とやつの間。
私とやつが座る部屋の外は、相変わらずしとしとした雨が降っている。
「もうすっかり梅雨だな」
やつがポツリと言った。
夏の入り口に、私とやつは結局そろって立っていた。
なんとなく、今年の夏は暑くなりそうだった。
隨風潛入夜
潤物細無聲
『黄昏の邂逅(春) 了』




