新自由主義とリバタリアニズムと保守主義の違いについて及び保守主義と新保守主義の違いについて
現代日本の論壇やメディアでは、新自由主義・リバタリアニズム・保守主義が混同される傾向がある。しかしこの混同は、思想的な系譜や価値観の相違を曖昧にし、政策的理解を妨げる。故に私はこの三者の思想を明確に区別する。また、私は新保守主義は保守主義ではないと考えている。この文章では新保守主義と保守主義の違いについても説明しようと思う。
まず、新自由主義とリバタリアニズムの違いを確認しよう。両者はしばしば市場の自由を重視する点で混同されるが、その根拠と目的は大きく異なる。
新自由主義は、経済の効率性と市場の自由を最優先する思想だ。この思想は、政府による規制を最小限に抑え、自由競争を促進することで、社会全体の富が増大すると考える、功利主義的な発想に基づく思想だ。しかし、その実践においては、市場の効率性と社会の安定という二つの目的を両立させようとする。新自由主義は、経済活動の自由を最大化するために、グローバル化や技術革新を積極的に推進する。例えば、新自由主義は1970年代以降、経済停滞とインフレーション(スタグフレーション)を背景に、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権によって推進された、国営企業の民営化、労働市場の規制緩和、金融自由化、貿易の自由化といった政策が典型例である。チリのピノチェト政権下(1970年代後半〜1980年代)でも、シカゴ学派の経済学者による急進的な市場化政策が実施され、新自由主義の実験場となった。また、ドイツのオルド自由主義は新自由主義の基盤を形成した一形態であり、市場競争を守るために国家が制度的枠組みを整備するという、より規律的な方向性を示した。また、日本では小泉政権下(2001–2006)で構造改革が新自由主義的に展開された。その核心は、市場の効率性を最大化し、富の総量を拡大するという目標にある。そのため新自由主義は、市場の自由を原理的に擁護するというよりも、あくまで経済成長の手段として市場自由化を正当化する。結果として、治安悪化やテロリズムのような社会的緊張のように市場活動を阻害する要因に対しては、監視技術や警察権限強化など国家による強権的介入を容認する傾向を持つ。つまり新自由主義の核心的価値は富の最大化、手段は経済活動の自由、スローガンは政府は市場を重視するべき、である。
一方でリバタリアニズムは、ジョン・ロック的な自己所有権の伝統を継承しつつ、20世紀にはノージックのアナーキー・国家・ユートピア(1974)によって有名になった、自己所有権を重視する自由主義的な発想に基づく思想である。その基盤は、個人の自由と権利を絶対的な原則として擁護する点にある。この思想は、国家のいかなる権力も、個人の自由を侵害してはならないと考える。リバタリアニズムには左派・右派の区別があり、所有権の範囲について異なる見解を持つが、いずれも国家権力による個人の自由への侵害を拒絶する点では共通している。リバタリアンは、政府による監視を、個人のプライバシーと自由に対する直接的な侵害と見なす。彼らにとって、監視技術の導入や警察権限の強化といった政府の介入は、個人の自由という究極的な価値を根底から否定するものだ。故に彼らにとって、国家による監視や警察権限の強化は治安維持という功利的目的のためであっても許されない。言い換えれば、新自由主義が市場のために国家介入を許容するのに対し、リバタリアニズムは自由のために国家介入を拒絶するのである。彼らは、個人の自由という原則を曲げることは決してない。つまりリバタリアニズムの核心的価値は自由の保障、手段は政府の権力の制限、スローガンは政府は国民の権利を尊重するべき、である。
この相違は、イギリスのサッチャリズムやアメリカのレーガノミクス(新自由主義)と、アメリカのリバタリアン党やシリコンバレーのリバタリアン思想の対比に明確に表れる。前者は経済効率性を優先し監視・治安強化を伴いうるのに対し、後者は原則に基づく徹底した国家不介入を主張する。ここに、プラグマティック(現実主義)的な新自由主義と、ドグマティック(教条主義)的なリバタリアニズムの本質的差異がある。こうした違いがあるがゆえに、新自由主義者とリバタリアンは同じ自由を掲げながらも、両者の政策的帰結は異なるのだ。
次に、新自由主義およびリバタリアニズムと保守主義の差異を考察する。
保守主義はエドマンド・バークの保守主義がフランス革命批判の中で定式化した、伝統、慣習、漸進的な改革を擁護する思想に遡る。バークにとって、社会秩序は長い歴史の中で形成された伝統と慣習に根ざしていた。彼は改革そのものに反対したのではなく、革命のような急激で破壊的な変化に反対した。彼は、社会の安定を維持するためには、既存の制度を尊重しつつ、ゆっくりと段階的に改革を進めるべきだと主張した。彼は、人間の理性の不完全性を深く認識していた。そのため、彼は少数の人間が抽象的な理念に基づいて完璧な社会を設計しようとすることは、傲慢で危険な行為だと考えた。しかし、保守主義の思想は、バークの主張に限定されるものではない。彼の思想は、伝統的な保守主義や貴族主義的保守主義の核心を形成したが、その後の時代には、自由主義的保守主義といった、異なる潮流が生まれている。これらの思想は、バークの思想を受け継ぎつつも、自由市場や国家の役割といった点において独自の解釈を加えている。しかしいずれにしても、保守主義の本質は急進的変化への懐疑と漸進的改革の重視にある。保守主義は、イギリスのトーリー党に見られるように、制度と共同体の安定を守るために漸進的な改良を進める立場である。ドイツやオランダ、北欧の多党制においては、比例代表制の下で合意形成を重視する漸進的政治文化が根付いており、これも保守主義的で漸進主義的な安定志向の一例といえる。つまり保守主義の核心的価値は伝統と慣習の維持、手段は漸進的改革、スローガンは政府は漸進的な改革こそが社会の秩序を守る、である。
ところで、新保守主義は保守主義ではない。なぜなら、新保守主義は、エドマンド・バークに代表される保守主義とは、思想の根幹において大きく異なるからだ。
保守主義の中心的な価値観は伝統、慣習、歴史、コミュニティの秩序である。保守主義の特徴として、人間の理性の不完全性を強く認識し、社会を急激に変えることを危険視するというものがある。保守主義は革命のような抜本的な変化よりも、既存の制度を尊重し、漸進的な改革を好む。軍事力の使用には慎重で、自国の安定を最優先する傾向がある。
しかし、新保守主義の中心的な価値観は民主主義、自由、人権といった抽象的な普遍的価値である。新保守主義は、人間の理性によって社会を変革できると信じる点で、むしろ伝統的な保守主義が批判した啓蒙主義の合理主義や革命思想に近い。新保守主義の傾向として、外交においては、アメリカが民主主義と自由を世界に広める責任があると考え、軍事力の行使を辞さない傾向がある。イラク戦争(2003)における体制転換政策は、その最も顕著な例といえる。
新保守主義が保守主義ではない主な理由は、その革命的な側面にある。保守主義は、革命を避け、社会の秩序を維持しようとする。しかし、新保守主義はその名に反し、むしろ革命的合理主義を特徴とする。冷戦期のアメリカで生まれたこの思想は、自らの信じる普遍的価値である民主主義や市場経済を国外に広めようとする。そしてそのために、新保守主義は、他国で体制転換を促したり、軍事介入を正当化したりすることがある。これは、革命という手段を容認するという点で、バークが最も嫌悪した思想と重なる。したがって、新保守主義は、その名称に保守という言葉を含んでいながらも、実際にはバークが批判した理想主義的な急進派に近いと言える。新保守主義は、抽象的理念を普遍化しようとする点ではルソー的な急進性を帯びており、保守主義の安定重視とは対照的である。つまり、新保守主義の核心的価値は民主主義と市場の自由の輸出、手段は軍事的介入や内政干渉、スローガンは民主主義と市場の自由を世界に輸出しよう、である。
いずれにしてもエドマンド・バークの思想に代表される保守主義は、人間の理性には限界があり、抽象的な理念に基づいて社会を急激に変えようとする試みは危険だと考える思想だ。彼らにとって、社会の秩序は、長い時間をかけて形成された伝統、慣習、歴史に根差している。したがって、保守主義は、革命のような急進的な改革を最も嫌い、漸進的な変化を好む。
これに対し、新自由主義やリバタリアニズムはいずれも、自由市場や個人権利といった抽象的理念を守るために、急進的な制度改革を容認する。そのため既存の社会秩序や共同体の伝統を犠牲にする傾向が強い。
例えば、新自由主義は、経済の効率性と市場の自由を最大化するために、労働市場の規制緩和、民営化、貿易自由化といった抜本的な改革を断行する。これらの改革は時にトップダウンで行われることもある。そしてこれらの改革は、伝統的な社会構造や共同体の価値を破壊することがあるが、新自由主義はそれを市場の効率性向上のために必要な代償と見なす。この点もまた、保守主義とは相容れない。例えば、サッチャー政権下での炭鉱労働組合解体は、保守主義的というよりむしろ急進的な新自由主義改革の典型である。同様に、日本の小泉構造改革では郵政民営化を中心に従来の制度的枠組みを大きく揺るがし、中国では国有企業改革が社会的格差の拡大をもたらした。これらはいずれも、新自由主義的改革が伝統的社会秩序に摩擦を生み出すことを示している。また、これらはいずれも理念先行型であり、現実の社会秩序よりも市場原理の徹底を優先する点で急進的と評しうる。
また、リバタリアニズムは、個人の自由という原則を絶対視するため、その実現のためであれば、福祉国家や政府の規制といった既存の社会制度を根本から解体しようとする。これは、伝統や慣習を軽視し、抽象的な原則に基づいて社会を再構築しようとする思想と言える。これもまた社会全体の安定性より理念を優先する急進的立場である。
要するに、保守主義は既存の秩序の維持を基盤に置くのに対し、新自由主義やリバタリアニズムは、自由や効率性などの抽象的な理念を実現しようとし、そのために既存の社会秩序の解体を厭わない急進的な面がある点に違いがある。
この三者の中で、ハイエクはしばしば新自由主義者として分類されるが、その思想的立場はむしろ保守主義に近い。彼は、理性による社会設計を危険視し、自生的秩序の進化を重視した。この点は、バークが伝統と慣習を尊重した態度と響き合う。
ハイエクは、リバタリアニズムの無政府主義的な傾向や、市場を絶対視するドグマ(教義)に反対した。彼は、自由を守るためには、国家が法の支配や最低限の社会保障を提供する必要があると主張した。これは、国家の役割を最小限にしようとする純粋なリバタリアニズムとは異なる。
また、ハイエクは、新自由主義が経済の効率性や成長を重視し、そのために政府が市場に介入することを容認する点に懐疑的だった。彼は、そのような介入が、長期的に見れば自由を侵食する大きな政府につながると警告した。また、ハイエクは新自由主義か時として掲げるトップダウンの改革にも反対した。そういった意味において、ハイエクの主張は新自由主義とは異なるといえる。
ハイエクは、人間の理性の不完全性を強く認識していた。彼は、理性だけで社会を計画的に設計しようとする試みである設計主義的合理主義を危険視し、伝統や慣習が持つ自発的な秩序の重要性を強調した。これは、エドマンド・バークに代表される保守主義の中心的な思想と一致する。
ハイエクが保守主義に最も近いと言える理由は、彼が既存制度の進化的な秩序を重視したからだ。彼は、市場や法律、言語といった社会制度は、少数の天才が計画的に作り出したものではなく、長い時間をかけて試行錯誤の中で自然に形成されてきたものだと考えた。この歴史と伝統を尊重する姿勢は、彼が自由主義という名の急進的な改革を容認しなかったことを示している。彼は、個人の自由を守るという目的は同じでも、その達成方法において、抽象的な理想や急進的な変化よりも、経験と伝統に根差した漸進的な方法を重視した。この点で、彼の思想は保守主義と最も深く結びついていると言える。
したがって、ハイエクは自由を重視するが、その達成方法において保守主義的漸進主義を採用した思想家と位置づけられる。ハイエクはこの保守主義、新自由主義、リバタリアニズム、新保守主義の中で最も保守主義に接近しており、自由主義と保守主義を媒介する思想的架橋を提供したと評価できる。
結論として、新自由主義とリバタリアニズムと保守主義と新保守主義の思想的差異を整理すると以下のようになる。新自由主義は市場効率性と経済成長を目的として市場原理主義を推し進め、治安維持のためには国家介入も容認する功利主義的な思想だ。リバタリアニズムは個人の自由を絶対視し、いかなる国家介入も拒絶する思想だ。保守主義は伝統と慣習に基づく秩序を重視し、漸進的改革を支持する思想だ。新保守主義は、実態としては保守主義ではなく、むしろ普遍的価値輸出を主張するという革命的合理主義に近い性格を持つ。