第3話「――……そうだけど。悪い?」
「――……なんだっけ? 『ないない。大丈夫だって』……だっけ?」
視界の外から届く、冷たい声があたしに突き刺さる。
「いえ、あの、」
「とりあえずー……こっち向こっか『唯ちゃん』?」
その瞬間、背筋が凍り付いた。
由希があたしのことを『唯ちゃん』と呼んだことなんて、これまで一度もない。
声の調子といい、明らかに怒っている。
長い付き合いだけど、由希があたしに怒るのは初めてのことだった。
――でも、それは。
今の光景を見た由希が、ヤキモチを妬いている、ということでは?
恐る恐る首を戻す。
緊張して顔を向けたその先、あたしのかわいらしくて美人な彼女は、明らかに普段とはかけ離れた笑みを浮かべていた。
その笑顔に妙な圧力を感じて、身震いした。猫に睨まれたねずみってこんな感じなのかもしれない。
「今の子に迫られてるじゃん」
「いや、今のは……」
「迫られてるよね?」
「未果とは、そんなんじゃなくって……」
由希の顔から、笑顔がすっと消えた。
「……迫られてるよね?」
俯きながら、そう静かに訊いてくる由希に、あたしは――
「……うん……多分……」
――認めるしかなかった。
ただ、そのスキンシップの多さから、未果からは薄々そんな気配を感じてはいた。
だって、由希と付き合う前のあたしと同じ匂いがしたから。
自分の本心を隠して、茶化して相手と触れ合おうとする、ずるい匂いが。
「はぁ……だから心配してたのに……」
大きくため息を吐いて天を仰いだ由希は、ポテトを何本も手に取ると一気に口へと押し込んだ。
いつもの由希からは考えられないような乱暴な食べ方で、ポテトがみるみる減っていく。
適当にポテトを掴んで食べてるけど、味が混ざらないのかな、なんて場違いな考えが浮かぶ。
由希のその様子に、胸が締め付けられるような感覚を味わう。
こんなに不機嫌そうな由希、初めて見た。
「……んぐんぐ……んっ……、あの子、絶対唯のこと好きだよ……」
潜めた声でそう言って、由希が横目で、カウンターで注文をしている未果に視線を送った。ポテトを食べる手が止まっている。
そんな由希を見ていると、先ほどの考えが再び頭をよぎる。
まさかそんな、と否定しようとする自分がいるのだけど、今の由希を見ているとそうとしか思えない。
だって、まるで、さっきのあたしみたいだったから。
「……もしかして、ヤキモチ妬いてる?」
だから、思わず、そう訊いてしまった。
由希の気持ちを、確認したくて。
あたしの問いかけに、由希は――
「――……そうだけど。悪い?」
目を細めて、ジトッとした視線を向けてきた由希が、唇を尖らせながら、硬い声でそう言った。
その表情は、いつもの由希からは考えられないほどだった。
「えっ、いや、あの……ゆ、由希?」
思っていた反応と違って、あたしは慌てた。
いつもみたいに穏やかに笑って「そんなわけないじゃん」とか言って、流されるかと思っていた。
まさかそんな顔で肯定してくるなんて。
でも、慌てるのと同時に、そのことをうれしくも思うあたしもいた。
だって――由希がヤキモチを妬いてくれている。
たとえ、それが友情の延長線上からくるものだとしても。
はぁぁぁ、と深いため息を吐いた由希が真剣な表情のまま、またもやピッ、とあたしにポテトを向けてくる。
「……あのね、こうなったらもう言っちゃうけど、唯は私の気持ちを軽く見すぎ」
――私の気持ちを軽く見すぎ。
その言葉が、ぐるぐるとあたしの頭の中でリフレインする。
軽く見すぎ――って、どういう意味?
由希がヤキモチを妬いてくれたのはうれしかったけど、でもそれはきっと、由希が仲が良い友達を取られたような気分になったからで……だって、由希は『普通』の女の子のはずで……。
「私だって、唯のことが好きなんだよ? そのこと、ちゃんとわかってる?」
「わ、わかってる、けど……」
「いーや、わかってない」
向けていたポテトを、由希が自分の口に放り込む。
「――じゃあなんで、手も繋いでこないし、抱きついてきたりもしないの?」
頭の中が真っ白になる。
心臓が跳ねる。
いきなり頭を殴られたかのように、ぐらぐらと視界が揺れる。
――由希に、バレていた。
「前はあんなに私のこと触ってきてたのに。今の関係になってからは一回もないよね。なんで?」
由希から言葉で殴られる。
あたしのことをじっ、と見つめる、その視線にも打ちのめされる。
「当ててあげよっか。私のことを信じてないから、でしょ?」
言い当てられて、あたしは言葉を失った。
何も言い返せない。
また、ポテトが突き付けられる。
「私の『好き』って言葉を、唯は信じてない。自分の感情とは違うものだって思ってる。だから怖がって触れてこない」
びくん、と肩が跳ねた。
その通りだった。
あたしは由希が言った『私も唯のこと好きだし』という言葉を、心の底では信じていなかった。
その『好き』は恋愛感情じゃなくて、友情の延長線上にあるものだとずっと思っていた。
だから、手を繋げなくなったし、抱きつくこともできなくなった。
あたしだけが本気みたいで、本気の感情をぶつけたら由希が離れてしまう気がして。
それに、由希からあたしに触れてこないのも、そう思っていた理由の一つだった。
「で、でも、だって……由希だって、あたしには何も……」
「そこは……ごめん。私も悪かったよ」
由希が頭を下げ――上げられた顔には、やっぱり笑顔はない。
「でもね、私から唯にそういうことしなかったのは、唯が私との関係を内緒にしようって言ったから。さっきだって『人』って言って誤魔化したよね?」
――あたしたちの関係は、内緒にしておかない?
付き合い始めてすぐ、あたしが由希に言った言葉を思い出す。
別に、由希と――同性と付き合っていることを隠したくて、そう言ったわけじゃない。
昔から女の子が好きで色々と覚悟ができているあたしと違って、きっと由希はそうじゃないと思ったから。
周囲からの偏見や好奇の目に曝されて、それであたしから離れていくのが怖かった。
あたしに突き付けられていたポテトが、力なく下ろされた。
「……内緒にしたがるし、それに、触れてこないから、やっぱり私と付き合うの、嫌だったんじゃないかなって……」
「ち、違うの! そんなことない! それは――」
目を伏せ、唇を震わせ、由希がそんなことを口にし――瞬間、あたしは思わず立ち上がって、声を張り上げて否定した。
ファストフード店の簡素な椅子が床を鳴らして、あたしの声とその音で、注目を集めてしまったのがわかった。
それでも、今はそんなことを気にしていられなかった。
――そこへ、のんきな声が割って入ってきた。
「なになに、けんか? だめだよー、けんかは」
キッ、と横を見れば、手にトレーを持った未果がすぐ近くに立っていた。
それどころか、あたしの隣に無理矢理座ってこようとさえする。
「ねーねー、唯ちゃん。一緒に食べていい? 一人で来たから寂しくてさー。あっ『お友達』の方もいいかな?」
「ごめん未果、今大事な話をしてるから」
「大事な話って? あっ『お友達』の方、はじめましてー! わたし、唯ちゃんの『親友』の未果でーす!」
机にトレーを置いて、未果があたしの隣の椅子に腰かける。一瞬、由希が顔をしかめて、でも、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。
未果の空気を読まない言動。
普段は流しているそれが、今は無性に気に障った。
「――……じゃない」
「えっ? なになに、どうしたの唯ちゃん」
「お友達じゃない! 由希はあたしの彼女!」
――思わず叫んでいた。
未果に由希のことを『お友達』と言われて、胸の奥で何かが弾け、想いがあふれた。
店内が一瞬静まり返り、目が一斉にこちらを向く。店員がカウンターから出てくるのが視界の端に見えた。
「由希、行こ!」
呆然とした表情であたしを見つめていた由希の手を取って立ち上がらせた。ハッとした由希が、慌てて鞄を手にする。
あたしも自分の鞄を肩に引っ掛けると、ポテトがまだ残るトレーを乱雑に片付けた。
そして、あたしはそのまま由希の手を強く握って、店の外へと飛び出した。