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97. 未来に向けて

 一月十九日、金曜日。授業がある平日から解放された、その日の放課後のこと。


「……」


 目の前に置いた紙を見ながら考える。指標となるものすら今はまだないのに、果たして答えは見つかるのだろうか。


「何を悩んでるんですか?」


 そんな自分の様子を見て、教室にやって来て間もないアイリスが不思議そうに首を傾げていた。


「進路選択の希望調査ですよ」

「あー……」


 たった一言で悩みまで伝わったのか、納得したような声を上げて机の向こう側にしゃがみ込む。


「二年のこの時期なのに、もうそんなことを聞かれるんですね」

「そうは言っても、あと一年で受験ですからね」

「確かに、そう考えたらあっという間なのかもしれないですけど……」


 両手をちょこんと机の上に乗せ、そう言う割にはあまり考えたくないとでも言いたげな様子で呟く。アイリスはさらにあと一年ある訳だが、それでも気がかりなものは気がかりらしい。


「で、葵さんは進路に迷ってるってことですね?」

「そうですね。受験をするってところまでは決めてますけど……」

「けど?」


 またもアイリスの首が傾く。今日はよく動く首だった。


「どこにしようか迷ってます」

「……まぁ、進路選択で迷うって言ったらそれですよね」


 包み隠さず悩んでいることを打ち明けると、まるで想像通りと言わんばかりの反応が返ってきた。


「学科は決めてます?」

「そこは。化学系にしようと思ってます」

「化学ですか……」

「えぇ。一番好きな分野ですし」


 正直な話、そこまではすんなりと決まった。好き、あるいは得意なのは化学や日本史だが、文理選択で理系を選んでいる時点で、どちらに進むかははっきりしている。


「白衣を着て実験してる葵さんですか……。それもいいですね……」

「頭の中はそればっかりですか」

「えへへ……」

「褒めてませんからね?」


 真面目な話をしていたはずなのに、あっさりと軌道が逸れていく。アイリスと話している時にありがちな流れだった。


「そ、それじゃあ、悩んでるのは大学をどこにするかってことですか」


 念の為刺した釘が効いたのか、やや気まずそうにしながら問いかけてくる。そうなるのが分かっているなら、少しは妄想を抑えたらいいのにと、そう思ってしまうのは無茶な願いなのだろうか。


「そこなんですよね……。絶対にここじゃないといけないって希望もないですし、そもそも、まだそこまで色々調べてないですから」


 思いはしたものの、それを口にすれば、また話が逸れていくだけだろう。アイリス相手にそれは悪手だ。


「どこか住んでみたいところとかは? そういう決め方がいいのかは分かりませんけど……」

「それも特に……。強いて言えば、住み慣れたこの辺りが楽ってくらいで」

「ってことは、近くのあそことか?」

「一応考えてます」


 そう言いながらアイリスが振り返ったのは、その方向に件の大学があるからだろう。


 何の変哲もない、都道府県の名前を冠した国立大学。まだまだ本決まりではない進路希望に書いておくなら、無難中の無難という選択肢のはずだ。


「ひとまずそれで書いておきますか」

「そんな気軽な感じでいいんですか?」

「どうせこの後何回もあるんですから。今悩み過ぎても仕方ないです」


 アイリスに返事をしながら第一志望の欄を埋めていく。これで残りの欄は二つだ。


「そもそもですけど、葵さんがそんなに簡単に書いたあそこ、とんでもなくレベルが高いですよね?」

「みたいですね」

「みたいですねって……」


 呆れたように口にするアイリス。ため息まで吐かれた。


「これだから成績がいい人は……」

「アイリスさんだっていいじゃないですか」

「そういうことを言ってるんじゃないんです。反省」

「どうして……?」


 理不尽な反省を促された。解せない。


「葵さんが普段から頑張ってるのは知ってますけど、それはそれとしてずるいです」

「どうして……?」


 もうそれしか言葉が出てこない。アイリスが何を言いたいのか、一つも理解することができなかった。


 そんな自分の様子に気付くこともなく、畳みかけるようにアイリスの口が開く。


「ちょっとでいいので、ほんとに少しでいいので、成績を分けてくれませんか?」

「何を言ってるのか分かってます?」


 ちなみに、自分は相変わらず分かっていない。


「何々? 何のお話をしてるの?」

「成績がいい人は呼んでないんです。静かにしててください」

「あ、あれ……? 何でいきなりこんな辛辣なことを言われたの……?」


 タイミングがいいのか悪いのか、アイリスがやや面倒な状態になりかけている中で話しかけてしまった碧依が、あっという間に捻じ伏せられていた。今に限って言えば、碧依は何も悪いことなどしていないはずなのに。


「今のアイリスさんは厄介ですよ。気を付けてくださいね」

「もっと早く知りたかったかな……」

「厄介って何ですか」

「厄介は厄介です」


 それ以上の意味も、それ以下の意味もない。今のアイリスを表現するのに、これ以上ぴったりな言葉もないだろう。


「成績がいい人って……。そんなの葵君もアイリスさんもそうなのに……」


 悲しみを引きずったまま、碧依が先程の自分と同じようなことを口にする。やはり、思うことは誰でも同じらしい。


「あ、そういえば」

「どうしました?」

「碧依先輩って、一学期の頃に葵さんに成績で勝つって言ってましたけど、あれって結局どうなったんですか?」

「……」

「……」

「え?」


 そんな悲しみを抱える碧依に、更なる追い打ちをかけるアイリス。本人が何も意識していなそうなところが、よりその言葉の威力を底上げしていた。これもまた、普段から碧依に色々とからかわれている反動なのだろうか。


 何にせよ、急に黙り込んだ自分と碧依の様子を見て、どこか困惑したような声を上げている。


「あ、もしかして……」

「そうだけど!? 一回も勝ててないですけど!」

「あ、はい……」

「毎回毎回あとちょっとなのに……!」

「……」


 今度はアイリスが閉口する番である。珍しくこんな方向で感情を乱す碧依の姿を見て、意外そうに目を丸くしていた。


「ナース服が遠い……!」

「まだ言ってたんですか」


 感情は乱れても、厄介な約束だけは忘れていなかった。悔しさを滲ませる表情の中に、それでも微かな願望の色が窺える。個人的には、いい加減忘れてほしい。


「先は長そうですね」

「そんな先なんてなくていいです」


 今の碧依に何を言っても無駄だと悟ったのか、アイリスの目がこちらを向く。正しい判断だとは思うが、かけられた言葉は何も正しくなかった。


「ほら、いい加減落ち着いてください」

「そんなことを言われて落ち着ける人なんていないよ!」

「そうやって心を乱してるから、本番であと一歩届かないんだと思いますよ」

「よし、落ち着いたよ」

「碧依先輩はそれでいいんですか……?」


 あまりの変わり身の早さに、その様子を見つめていたアイリスが、数分ぶりとなる呆れた様子で小さく零していた。


「んんっ。……で、何のお話をしてたの?」

「しかも、そのままお話を進めるんですね」


 小さな咳払い一つで全てを誤魔化した碧依に突き刺さる視線が、徐々に怪しいものを見るようなものに変わっていく。いつものアイリスと碧依だった。


「進路の話ですよ」

「あぁ、さっき配られたもんね」


 その様が見るに堪えなかった訳ではないが、このまま放っておくと碧依が際限なく傷付いていきそうだったので、思わず助け船を出してしまった。


 そうは言っても、単に話を元に戻しただけなのだが。


「ちょっと気が早いような気もするんだけどねー……」

「ってことは、碧依先輩もあんまり決まってないってことです?」

「うん……。どんな学科にしようかすら決まってないね」


 悩ましげに呟く碧依の状況は、言ってしまえば自分よりもさらに手前の段階で足踏みをしているようなものだ。だが、今という時期を考えれば、多くの人がその段階で足踏みをしていても、何もおかしくはないのかもしれない。


「まぁ、碧依先輩も一応成績はとんでもないですもんね。選択肢が多過ぎるんでしょうけど」

「……これは褒められてるのかな?」

「と思いますよ。素直に喜んでおいたらどうです?」

「アイリスさんが懐いてくれた……!」

「違います。反省してください」

「はい……」


 ぬか喜びした碧依が沈んでいった。その片棒を担いだ自分が言うのもどうかとは思うが、先程から不憫で仕方がない。


「何か好きな教科とかってありませんでしたっけ?」


 その罪滅ぼしというつもりもないが、気分と一緒に表情まで沈みかけている碧依に話を振る。誰かと話すことで、碧依自身の考えを整理できるのではないかという狙いも、あるにはあった。


「理系!」

「でしょうよ」


 自信たっぷりに言う碧依だったが、ここは理系のクラスである。そんなことは聞かなくても何となく想像できる。本当に聞きたかったのは、さらに細分化されたその先のことだ。


「もっとこう、物理とか化学とか。そういうのを期待してました」

「んー……。それで言ったら数学なんだけどね……」

「だったら数学科は考えないんですか?」


 一応尋ねてはみるが、首を捻りながら口にしている時点で、あまり積極的に考えてはいないのだろう。


 曖昧な考えではあったが、その予感は的中した。


「あんまり考えてない、かなぁ……?」

「え。数学が得意なら、それでいいじゃないですか」


 眉間に皺を寄せながら言う碧依に、アイリスが意外そうな様子で言葉を返す。素直なアイリスらしい反応だった。


「それはそうなんだけどね? ほんとはこういう風に進路を選ぶのってよくないんだろうけど、数学科って、あんまり就職の選択肢が広くないイメージがあって」

「あぁ、そういう……」


 言われてみれば、納得できなくもない理由である。入学して終わりではなく、その先も見据えているからこその悩み。ある意味では、この場で一番大人びた考え方だった。


「何だろうね。数学科の先って、今は数学の先生しか浮かばなくて」

「成績のいい人が、そのまま教えるのが上手ってこともないですけどね」

「ねぇ何? 私、今日何かした?」

「私は葵さんに教えてもらいたいですっ」

「聞いてないし!」


 さりげなく碧依を一刺ししたアイリスが、何故か満面の笑みを向けてきた。またも崩れ落ちそうになっている碧依の姿を見てしまった後では、気まずいことこの上ない。


「大丈夫です。碧依さんが渡井さんに教えてるところを見ましたけど、分かりやすかったはずです」

「慰めるなら言いきってよ!」

「仮にそうだとしても、何故か碧依先輩は候補に挙がらないんですよね。日頃の行いが悪いからでしょうか?」

「泣く!」


 追い詰められた碧依の宣言は、実に潔いものだった。


「数学じゃないんだったら、他にはどんな選択肢があるんですか?」


 言葉通りにうっすら涙目の碧依を尻目に、アイリスが勝手に話を進めていく。碧依の状態に構う様子など、今のところ一切見られない。


「……意地悪を言うアイリスさんには教えてあげないし」

「じゃあいいです。絶対に知りたいってわけでもないですから」

「うわぁ!?」

「うわぁ……」


 最近、アイリスと同じ言葉を同じタイミングで口にしたことがあったが、今日は碧依と一緒だった。ただし、そこに込められたニュアンスは全く違うもの。


「今日のアイリスさん何なの……!」


 碧依は悲しそうに。


「攻撃力が高過ぎますって……」


 自分は恐ろしそうに。


 どちらもアイリスに恐怖を抱いたことには変わりなかったが。


「せっかく碧依先輩に普段の仕返しができそうなんですから、今のうちに色々しておかないと」

「つまり、自業自得と」

「そんなことを言ったら、葵君だって色々からかってるでしょ……」

「葵さんからは愛情を感じますから!」

「気のせいだと思いますよ」


 最近ならそうとも言いきれないが、少なくとも過去のからかいに愛情を込めた覚えはない。つまり、アイリスの勘違いである。


「ほら! 本人がこう言ってるんだから、葵君にも仕返ししないと!」

「じゃあ、葵さんにはいろんな服を着てもらってるので、それで相殺ってことで」

「それって相殺できるようなものなの……?」

「どうせ相殺するなら、もっと別の形がよかったです」


 大真面目な顔で言うアイリス。助かったのか、それとも助かっていないのか、判断が妙に難しいところだった。


 ちなみに、致命傷は負っている。


「どうして進路のことでこんなに傷付かなきゃいけないの……」

「自分の日頃の行いを考えてみてくださいね」

「アイリスさんもですよ」

「う……」


 自身のことを棚に上げて碧依を追い込んでいたが、アイリスも大概である。自覚はあったのか、胸元を押さえて苦々しそうな声を上げていた。


「あ、葵さんだって……! 散々からかってきたのは事実じゃないですか……!」

「ぐ……」


 自分も同じだった。


「……」

「……」

「……」


 全員が意味もなく傷付いて、場に沈黙が訪れる。誰一人として得をしない、最高に不毛な時間である。


「もうやめておこうか……」

「……えぇ」

「……ですね」


 三人揃って成敗されて、真冬の放課後は過ぎ去っていった。




 一月二十三日、火曜日。積もりに積もった雪の大半がようやく融け、やっとある程度歩きやすくなってきた、そんな日の夕方。


「ありがとうございました!」


 いつも通りの明るい声で客を見送るアイリスを、その少し後ろから眺める。


「……」


 普段と何も変わらないはずのその後ろ姿は、今日に限っては何故かそわそわしているようにも見えた。


「葵さん? どうかしました?」


 そのまま振り返ったアイリスと目が合う。じっと見られていたことに気が付いたのか、その頬に少しだけ赤みが差す。今更見られて恥ずかしいような接客でもないはずだが、何かが羞恥心を刺激したらしい。


「いや……」

「うん?」


 そんなアイリスに向かって感じたことを正直に言ってしまってもいいのかと一瞬考えるが、黙っていても仕方ないと結論付けて口を開く。


「今日のアイリスさん、何となくそわそわしてません?」

「……っ!?」


 反応はあからさまだった。肩が跳ねたのはもちろんのこと、僅かな間も置かずに逸らされた視線、赤みが増した頬、うろうろと宙を彷徨う小さな手。その全てが、隠し事をしているとはっきり教えてくれていた。


「やっぱりそうですか」

「ちちっ、違いますけど!?」

「隠し事が致命的なまでに下手なところ、アイリスさんのいいところなので、なるべくそのままでいてくださいね」

「嫌ですっ」


 微かに髪が舞う程度に首を横に振るアイリス。図星を突かれてあたふたと慌てる様子も可愛いという意味で言ってみたのだが、どうやら遠回し過ぎて上手く伝わってくれなかったらしい。


 やはり、言葉は直接的なものがいい。


「今の慌て方がちょっと可愛かったって言ってるんですよ」

「え!?」


 ということで、直接言ってみた。「ちょっと」という言葉を付け加えてしまったのは、単なる自分の照れ隠しである。


 その結果は確認するまでもない。林檎のように顔を真っ赤にしたアイリスを見ていれば、その心情など手に取るように分かる。


「そういえば、林檎の旬もそろそろ終わりですね」

「なんで今そんなことを思い出すんですかっ」

「言います?」

「私の顔が赤いからですよね!?」

「よくご存知で」


 その赤みの原因に少しだけ怒りが混ざっていそうな口調だったが、これも単なる照れ隠しだろう。その程度の違いなら見分けられるようになってきた。


「この辺の林檎を使ったお菓子も、もう少しでしばらく見納めですね」


 ショーケースに並ぶ、季節ごとの果物を使ったお菓子のコーナーに目を向ける。ちょうど一年前もそうだったが、年が明けた頃から、少しずつ林檎を使ったものは数を減らしていく。来月になれば、もう影も形もないのだろう。


「代わりに、私の顔を林檎に見立ててってことですか!?」

「そこまでは考えてなかったです」


 そんなところでも季節の移り変わりを実感していると、まさかの発言がアイリスから飛び出した。発想の仕方が常人と違う、流石としか言いようがないアイリスだった。


「じゃあ、いきなり何なんですか……」

「いや、単に気になっただけですって。妙にそわそわしてるなって」

「ほんとにそれだけですか?」


 今この場ではあまり信用がないのか、そんな言葉と共に、疑うような視線を向けてくる。


 そこまで疑われてしまうのなら、仕方がないということで。


「朝も昼も放課後も、その辺りはいつもと変わりませんでしたよね」

「え?」


 何やら雲行きが怪しくなってきたのを感じ取ったのか、アイリスの視線の質が移ろっていく。


「最初におかしいって感じたのは、多分帰りの電車の中ですね」

「あ、あの……?」


 疑念から困惑へ。


「で、ここに来るまでの間でもっとそわそわし始めて」

「葵さーん……?」


 困惑から焦燥へ。


「働き始めてからはずっとそわそわしてるってことは、多分太一さんか柚子さんに関係があることですかね?」

「そこまでは聞いてないですってぇ……!」


 最後は両手で顔を隠されてしまって分からなかった。


「そんなに細かく見てたんですかぁ……!」

「意識して見てたわけじゃないですけど、何となくそう思ったと言うか……」


 確信を持って言えるようなことではないが、アイリスの反応を見る限りでは、大半が当たりらしい。つまり、順調に観察眼が育ってきているということになる。一体何に使えるのか分からない観察眼だが。


「ほとんど見抜かれて恥ずかしがったらいいのか、葵さんが私を理解してくれてることを喜んだらいいのか、もう分からないです……」


 耳まで赤く染めたアイリスが、くぐもった声でぽそりと呟く。言葉通り、その声には色々な感情が混ざっていそうだった。


「今の時期なら、苺を思い浮かべるべきだったかもしれないですね」

「なんでですか……!」


 赤いからである。さらに言うなら、林檎よりも小粒なところが、よりアイリスに合っていそうな気がしたからだ。


「まぁ、そんなことはともかく、本当に太一さんか柚子さんに関係することですか?」

「い、言えるわけがないです」

「これまでの反応で大体確信してるんですけどね」

「何をするかまでは絶対に言いませんからね!」


 最早認めたのと同じ発言である。それでも最後の一線があるのか、そこだけは譲らない覚悟を見せていた。


 自分としても、流石にそれ以上を教えてもらえるとは思ってもいないが。


「何を考えてるのかまでは流石に分からないですけど、上手くいくといいですね」

「……」

「何ですか」

「……何でもないです」


 願望の成就を祈っておいたのに、何故かじっとりとした目で見つめられる羽目になった。祈りが雑だとでも言いたいのだろうか。


 もしくは、普段の信仰心が足りなかったのかもしれない。


「はぁ……?」


 そのまま態度を崩さないアイリス。どんな言葉をかけるのが正解なのか分からなくて、結局曖昧な返事をすることしかできなかった。




「いいですか。私が呼びに行くまで、絶対に下りてきちゃだめですからね」

「分かりましたって。そこまで何回も言わなくても」

「着替えが終わっても、ですよ?」

「だから分かりましたって。待ってますから」


 少しだけ呆れたように葵が言う。そうなってしまうくらいに、自分が何度も何度も念押ししているとも言えるが。


「もし約束を破って下りてきちゃったら……」

「ら……?」


 不安を煽るように、わざとそこで言葉を区切る。狙い通り、葵の顔には微かに怯えのようなものが浮かぶ。


「とびっきり可愛い私服を買って、それで一日外を出歩いてもらいます」

「絶対に下りてきません」


 そんな表情を確認して続けた言葉は、驚くくらいに葵に刺さっていた。個人的にはそんな葵も見てみたい気がするので微妙な気分にはなるが、それはそれ。絶対に聞かれてはならない話をする予定なのだから、今日これからに限って言えば、その約束を破ってもらっては困る。


「下りてきませんけど、あんまり長いと気にはなるので、なるべく早くしてくださいね?」

「頑張りますけど、多分柚子さん次第です」

「何をするつもりですか……」

「内緒です」


 そう言って、口の前に人差し指を立てる。


「まぁ……、いいですけど……」


 その仕草を受けて、葵が諦めたように呟いて階段を上っていく。


 カウンターにいた時もそうだったが、ここまで明らかに何かあると主張しているのに、その内容が一切分からないのが釈然としないのだろう。後ろ姿を眺めていると、小さく首を傾げているのが見て取れた。


「よし」


 とにかく、これで一番気を付けるべき相手は遠ざけることができた。あとは、戻ってきた太一と柚子に頼み込むだけである。


「大丈夫……。ちゃんとお願いすれば……」


 何度か深呼吸を繰り返す。葵がいる訳でもないのに、それでもなお鼓動は速くなる。これに関しては単なる緊張でしかないと、そう思いたかった。


 これからお願いすることは、何日か前から考えていたことだ。近くに迫ったあのことを考えると、太一か柚子にお願いするのが一番いいと、そう自分の頭が弾き出した。


 ただし、それには難点もある。頼み込む内容の性質上、どうしても二人には本音を打ち明けなければならない。太一は大丈夫そうだが、柚子の方がどんな反応を見せるのか分からないのが怖かった。


 と、そんなことを色々と考えていたからなのか。


「何をお願いするの? また葵君に?」

「うわっ!?」


 キッチンの後片付けを終えてバックヤードに戻ってきた太一と柚子に気付かなかったのは。


 完全に不意打ちとなった柚子の一言に、あまりにも情けない声が漏れる。これまでとはまた違った理由で鼓動が速くなった。


「び、びっくりしました……」

「そんなに? 何か考え事でもしてた?」


 声をかけた柚子の方もそんな反応が返ってくるとは思っていなかったのか、少しだけ心配そうな表情を浮かべている。


「考え事と言うか……」

「ん?」


 柚子の脇を通り抜けて机に向かう太一を横目に見ながら、早速切り出す。ある意味柚子が話の口火を切ってくれたので、もうこの勢いに乗って話してしまうしかないと考えたからだ。


 下手にまごついてしまうと、しばらく切り出すことができなくなるような気がしたからという理由もある。


「あの……、太一さんと柚子さんにお願いしたいことがあって……」

「あれ? 僕にも?」


 椅子に腰かけようとしていた太一の動きが一瞬止まる。その顔を見る限り、どうやら自らには関係のない話だと思っていたらしい。


「てっきり、葵君に着せたい服の相談を柚子とするのかと思ってたけど」


 世界中でこの店にしか通用しないであろう予想をしていた太一も太一だが、そう思わせてしまう自分と柚子の行いも行いである。葵が聞いていれば、間違いなく悲しげな顔をしていたことだろう。


「今日はそうじゃなくて」


 だが、お願いしたいことはもっと大事なこと。比喩でも何でもなく、本当に自分のこれからを決定付けてしまう、そんな出来事に必要なものの依頼なのだった。


「ちょっとこっちに来てもらってもいいですか?」

「うん?」


 階段の近くに立っていた柚子を、机がある方に連れていく。万が一にも葵に声が届かないようにという、そんな心配から生まれた行動だった。


「何かあった?」


 そんな心を表すかのようにちらちらと階段の上に視線を向けていると、何かを悟ったらしい柚子の声が若干小さくなった。


「葵君に聞かれたくないことだったりする?」

「……します」


 否定しても仕方がないので、素直に肯定しておく。こんなところで時間を使って葵を待たせてしまうのは、流石に本意ではない。


「へぇ……、珍しい」

「あのアイリスさんが」


 相変わらず頭の片隅で葵のことを考えていると、太一も柚子も何か含みのある口調でぼそりと呟いた。二人が自分に対してどんなイメージを持っているのかを窺い知ることができる発言ではあったが、確かに自分でもそう思うのだから何も言えない。


「で、どうかしたかい?」

「えっと……」


 そんな中で、太一の先を促すような言葉を受け、意を決して口を開く。


「太一さんと柚子さんの都合がよかったらでいいんですけど……」

「何々?」

「あの……、チョコレートの作り方を、その……」

「あら!」


 恥ずかしさで目を合わせることもできないままに話す途中、何かに気付いたらしい柚子が嬉しそうに声を上げた。タイミングがあまりにも早過ぎる。


「な、何ですか……?」


 これでもかと言わんばかりに輝く柚子の瞳に押され、思わず言葉がそこで途切れてしまった。


「そっかそっか……」

「あぁ、なるほど。そういうことか」

「え?」


 そんな柚子に遅れること数秒。太一も理解が追いついたようで、柔らかな笑みと共に何度か小さく頷く。


「バレンタインで葵君にあげるチョコってことね?」

「っ!?」


 図星を突かれて、思いきり肩が跳ねる。


 確かに、この状況なら簡単に想像できることなのかもしれないが、それにしても改めて言葉にされると、何か形容しがたい感情が心に浮かんでくるのは何故だろうか。もうそんな段階は通り過ぎていると、自分でそう思っていたのに。


「確かに、葵君には聞かれたくないよね」

「と言うか、聞かれちゃいけないことね」


 納得したように柚子も頷く。こんなところで夫婦らしさを見せなくてもいい。


「いよいよなのね」

「い、いよいよ……?」


 そして、そのまま謎の感想を零す柚子。何も理解できずに鸚鵡返しをしてしまったが、それがよくなかったのかもしれない。若干揺れる視界の中で、柚子の口元が楽しそうに弧を描いていく。


 嫌な予感がした。


「だって、本命でしょ?」

「うわぁ!?」


 そして的中した。


 柚子が何でもないことのように口にした一言は、自分にとっては何でもないことではなかった。むしろ、一番大事な部分である。


 ちなみに、太一と柚子に気持ちがばれていることに関しては一つも驚いていない。周囲から散々分かりやすいと言われ続ける中、太一と柚子は気付いていないなどという幻想は抱けなかった。


 だからこそ、咎めるべきは別の場所。


「聞こえちゃうじゃないですかぁ!」

「大丈夫よ。一応小声にしてるし。私の声より、今のアイリスさんの声の方が聞こえてると思うけど」

「うっ!」


 何も反論できなかった。葵が二階のどこで着替えているのかは分からないが、もしかすると聞こえていたかもしれないと、そう疑ってしまうような声量だったからだ。後で確認しておいた方がいいのかもしれない。


「それは力を入れたいに決まってるよね」

「太一さんまでぇ……」

「あれ? ってことは、もし成功して結婚したら、私達のお店が二人の出会いの場になるってこと?」

「結婚式には呼んでね」

「プロポーズじゃないんですよぉ……!」


 お願いの返事もないまま、二人揃ってにこにこしながらからかってくる。絶対にそんなことはないのだが、頼る相手を盛大に間違えたのかもしれないと思ってしまう程度には強烈な言葉だった。


「そういうことなら、全力でお手伝いするしかないわね」

「チョコレートを専門で作ってるわけじゃないから、僕達も多少は手探りになるけど」

「お店のキッチンの方は基本的に私達しか入れないから、やるとなったら上のキッチンね。準備はしておくわ」

「とんとん拍子でお話が進んでるぅ……。ありがとうございますぅ……!」


 恥ずかしさで悶えている間に、驚くようなスピード感で色々と決まっていった。それこそ、頼んだ自分すら置き去りにされている。


「どんなのにするかとかは、また今度ゆっくり話しましょうか」

「形はやっぱりハートがいいとか、そんなのもあるだろうしね?」

「うぁぁ……!」


 本当に珍しく、太一までからかいの言葉が止まらない。穏やかな表情ではあるが、内心は案外そうでもないのかもしれない。


「いつかアイリスさんから話があるまでは黙っておこうって思ってたけど、こうなったらもう大丈夫よね」

「な、何がですか……」


 またもや嫌な予感がした。柚子がこんな思わせ振りなことを口にして、事態が無事に終息した試しがない。


「色々決める時、あれこれ聞かせてもらおうかと思って。いつからだったのかとか、どんなところがとか」

「えっ」

「覚悟しておいた方がいいよ。そういう話、柚子は大好きだから」

「えぇっ!?」


 案の定だった。ある意味教えを乞う対価と考えることもできなくはないが、それにしても相手が柚子というのが恐ろし過ぎる。


「ふふ……」

「ひぃ……!」


 怪しげな笑みを浮かべる柚子に、思わず腰が引ける。


 葵を呼びに二階へ行くのは、もうしばらく先のことになりそうだった。

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