96. 意識の外
灰色の空からしんしんと雪が降り続く、一月十六日、火曜日。
正月に積もった雪が少しずつ融け始めていたところに、そうはさせまいと補充するかのようなタイミングで寒波がやって来た。今日はまだ風がないだけ幾分かましだが、明日からの登下校のことはあまり考えたくなかった。
ついでに雪掻きのことも。
「……」
そんな中で何をしているのかといえば、黙って本を読んでいるということになる。
今いる場所は、校舎の端に位置する図書室。そのカウンターの中。言うまでもなく、委員としての仕事をしている真っ最中だった。
図書室という場所柄、元々聞こえてくる物音は少ない。利用している生徒も、あまり大きな声で話をする場所ではないときちんと理解しているようで、たまに聞こえるのは椅子を引く音や、目当ての本を探して歩き回る音だけ。
外からの音もない訳ではないが、積もった雪に音まで吸い込まれてしまったのか、今日は滅多に聞こえてこない。
つまり、いつも静かな図書室が、いつもよりもずっと静かな図書室に変貌を遂げているということだった。
「……」
そもそも、物音を立てる存在となるはずの生徒数が極端に少ない。普段から利用者が多いとは言えないが、今日はその比ではなかった。
こんな天気ということもあって、大半の生徒は既に下校してしまったのだろう。ちらりと顔を上げて確認したところ、今いるのは二人だけ。その二人も、机から離れて書棚の間を彷徨っている。
図書室を閉めるまではあと三十分。今更誰かが新しく訪問してくるとは、とてもではないが思えなかった。
「葵さん、葵さん」
そうして再び手元に視線を落とそうとした瞬間、隣から小さな声が聞こえてきた。見れば、いつもよりもやや近くに椅子を移動させて、自分が読んでいる本を覗き込むような格好となったアイリスがいた。
今年度が終わるまで一緒に当番の班を組んでいるのだから、アイリスが隣にいるのは当然のことだ。予想外だったのは、思ったよりもその距離が近かったこと。場所に合わせて小さくした声が届くように近付いてきたのだろうが、油断しているところにその距離はよくない。
「な、何です?」
微かに速くなった鼓動を気取られないように平静を装いつつ、同じく小さな声で返事をする。
自分でも驚くくらいに小さい声だった。それこそ、こんなに近くにいるアイリスにすら聞こえていないのではないかと、そう思ってしまうくらいには。いきなり小さな声を出そうとして、そのボリュームの調整に失敗したのだった。
「どんな本を読んでるんですか?」
それでも、静寂に包まれた図書室の中だったからこそ、その声はアイリスに届く。身を乗り出したアイリスとの近さに困惑する自分を尻目に、気になっていたであろうことを尋ねてくる。
その視線が本に向いているのを確認して、少しだけ体を離す。傍から見ればやや不自然な格好にも見えなくはないのだろうが、それを指摘する者などここにはいない。最初からそれが分かっていたからこその仕草だった。
「相変わらずミステリーですよ。考えるのが好きなので」
「はー……。こんなところでも難しく考えるのが好きなんて……」
呆れているのか何なのか分からない口調でアイリスが呟く。
「せっかくの娯楽なんですから、もうちょっと気楽に楽しんだらいいと思うんですけど」
「楽しみ方は人それぞれです」
「まぁ、それもそうですか……」
納得したような、そうでもないような。曖昧な雰囲気の言葉が聞こえてくる。
「で、いきなりどうしました?」
「あ、いや、ちょっと暇だなって思って。葵さんの邪魔をするのもどうかとは思ったんですけど……」
申し訳なさそうに言うアイリスだが、それは流石に気にし過ぎである。周囲に人がいるところで読んでいるのだから、こういったことがあるのは想定の範囲内だ。
「邪魔なんて思ってませんから、好きに話しかけてくれていいですよ。そもそも、これまでもそうしてたじゃないですか。どうして今更」
「んー……? 何となく、です。あと、葵さんがしばらく全く動いてなかったので、今いいところだったのかなって」
「そんなところまで見てたんですか?」
意外な発言に、潜めていたはずの声がやや大きくなる。「しばらく」と口にする辺り、ある程度長い時間は見つめられていたらしい。
「って言っても、ぼーっと眺めてただけですけど」
「それはそれで恥ずかしいものがあります」
「真剣な横顔もいいですよね……」
「そういうのは一人でこっそり呟いてください」
微笑みながら言われたところで、ただただ恥ずかしい気持ちが湧き上がってくるだけだ。近過ぎる距離も相まって、さらに鼓動は速くなる。
「……それにしても」
これまた気取られないようにとその変化を隠そうとする中、アイリスが一度視線を図書室全体に向ける。何を見ているのか気になって同じ方向を見てみるも、そこには相変わらず閑散とした空間が広がっているだけ。
強いて言うならば、書棚の間を彷徨っていた二人のうち、一人が席に戻ってきているくらいだった。
「人、少ないですね……」
「まぁ、こんな天気ですからね。皆早く帰りたいんだと思いますよ」
今度は二人して窓の外へと目を向ける。はっきりと目で捉えることができるくらいには大きな雪の結晶が、白い軌跡を残してひらりひらりと地面へ落ちていく。もっと近くでよく見てみないことには断言できないが、あの手の雪は積もるタイプの雪だ。帰り道がどうなっているかなど、あまり考えたくはなかった。
「……電車、大丈夫だと思います?」
その光景を見て思い出したかのように、不安そうにアイリスが呟く。具体的な言葉はなかったが、恐らくは「無事に動いているのか」ということだろう。この降り方を見てしまえば、そう思ってしまうのも無理はない。
「一応は雪国の電車ですから、よっぽどのことがない限りは大丈夫だと思いますけど……」
「けど?」
「僕も去年の冬しか経験してないので、はっきりとしたことは何とも」
「ですよね……」
消えない不安を抱えたまま、外の景色から目を逸らす。
一年先輩をしているとはいえ、電車通学になってからは一度しか冬を経験していない。確かに去年は一度も電車が止まることはなかったが、それだけで大丈夫と断言するには、根拠として心許ないものがあった。
「止まっちゃってたらどうしましょう?」
「どうするも何も……」
そこで言葉が止まる。言われてみれば、電車が止まってしまった場合、どうすることもできなくなってしまうと気付いたからだ。
アイリスと自分の家がある町までは、とてもではないが歩いていける距離ではない。ましてや、電車が止まってしまう程の大雪ともなれば、路面の状況など考えるまでもなく雪塗れ。できれば、そんな道は歩きたくない。
しかし、高校生の移動手段など、電車か自転車か徒歩くらいのもの。自転車で来ていない時点でそれは除外するとして、電車も徒歩もだめとなれば、いよいよ立派な帰宅難民である。
「……どうしましょう?」
「帰れない、ですよね?」
八方塞がりとはまさにこのことだ。思いの外自分の足が電車に依存してしまっていることに気が付いて、それ以上先のことを考えることができなかった。
「帰るのが無理なら……」
そこまで口にしたアイリスが、一度言葉を区切る。何か言いにくそうなことを言おうとしている、そんな雰囲気があった。
「駅前のビジネスホテル、とか……」
「いや、それは……!」
やや間が空いてから紡がれたのは、まさかの選択肢。思考を止めてしまった自分が何かを言えた立場ではないが、その選択肢は流石に厳しいものがある。
「でも、帰れなかったら仕方ない、じゃないですか……!」
「だからって……!」
「二人でお金を出し合えば、一部屋くらいなら……」
「一回落ち着きましょう? お願いですから」
懇願するようにアイリスの話を遮る。黙って聞いているには、色々と問題しかない発言である。
金銭的な話もそうだが、「一部屋くらい」というところが一番まずい。
確かに、アイリスの家で、すぐ近くで寝泊まりしたことはある。言ってしまえば、同じ屋根の下という状況だ。ただし、それでも流石に部屋は隔てられていた。
それが、今の話では同じ部屋。隣の部屋という状況でも常に緊張感があったというのに、これが同じ部屋になってしまえば、とてもではないが平常心は保てない。
それだけは絶対に避けなければならない事態だった。
「わ、私だって恥ずかしいですけど……」
「恥ずかしいとか恥ずかしくないとか、そんな問題じゃないんです」
どこかずれたことを言うアイリス。言い出した本人ではあるが、だからと言って落ち着いて会話ができるということではないようだった。
「一晩やり過ごして、明日の朝、お父さんかお母さんに迎えに来てもらえ……」
「あ……」
またもや唐突に言葉が途切れた。それはきっと、あることに気が付いたからで。全く同じタイミングで、自分も同じことに気が付いた。
どうして最初に浮かばなかったのかが不思議なくらいの選択肢である。気付いてしまったアイリスが、気まずそうに目を逸らす。
「……最初から迎えに来てもらえば……、いいと思いません……?」
「……」
何も言うことができずに、ただ沈黙する。言い訳をするならば、迎えに来てくれるような存在が自分にはいないから、その発想が浮かばなかったと言い張ることはできる。
ただ、それを差し引いても、アーロンやレティシアとはある程度親しくしているのだから、助けを求めるという選択肢は浮かんで然るべきだった。
「それか、どうせお金を出すなら、タクシーで帰るとか……」
「……」
さらに別の選択肢も提案される。相変わらず、どうして抜け落ちていたのか分からないような選択肢に、何の言葉も出てこない。
「……」
「……」
お互いに恥ずかしさと気まずさを混ぜ合わせたような感情を抱きながら、明後日の方向に目を逸らし続ける。
「と、泊まらなくても大丈夫そう、ですね……。あはは……」
「……ですね」
ちらりと、一瞬だけアイリスの様子を窺う。落ち着かないのか、軽く頬を掻きながら乾いた笑みを浮かべている。その顔はやや俯き加減。
(……)
一瞬だけのつもりだったのに、何故かその仕草から目を離せなくなる。それは、やはりあの感情に引かれているからなのだろうか。
思えば、誰かに迎えに来てもらうという選択肢が浮かばなかったのも、そのせいだったのかもしれない。
単純な話、ただ一緒にいたかったから。だから、一番長く一緒にいられる選択肢しか頭に浮かばなかった。そう考えれば、ある意味自分の思考は理解できた。
(だからって同じ部屋は……)
それにしても大胆過ぎるだろうとは思う。もし実現してしまった場合、間違いなく一睡もできずに朝を迎えていたことだろう。あの朝に見たアイリスが、下手をすれば手を伸ばせば届くところにいる。そんな状況で穏やかに眠ることなど、今の自分にできるはずがない。
「あ、葵さん……?」
「……っ」
そんなことを考えているうちに、微かにアイリスの顔が俯き加減から戻ってきていた。俯いていたからこそ見つめていることに気付かれなかったのに、顔を上げられてしまえば誤魔化せない。
慌てて目を逸らすも、少しだけ瑠璃色が見えた時点で目は合ってしまっている。
「な、何でもないです」
「な、何なんですかぁ……! 気になりますよ……!」
「何でもないんですって……!」
何故か追い縋ってくるアイリスを、無理矢理どうにか振りきる。今考えていたことをアイリス本人に話してしまうなど、とてもではないができなかった。
今度は首を捻って顔ごとアイリスの視線から逃れる。それくらい大げさな仕草でないと、いつまでも追い縋られそうだったから。
「こんな思いをするのが私だけって、そんなの不公平じゃないですか……」
「……」
その言葉が何を指しているのかは分からないけれども、少なくとも大変な思いをしているのは自分も同じ。伝わっているかどうかは別として、それで勘弁してほしかった。
相変わらずアイリスから逃れるように目を背けたまま、図書室の中を見渡す。いつの間にか、もう一人の生徒も机に戻っていた。
「うわぁ……」
「うわぁ……」
異口同音。全く同じ言葉が、アイリスと自分の口から漏れる。
図書室の開放時間も過ぎ、ようやく帰宅の途に就こうかという、そのタイミング。生徒用の玄関を出ようとして、その言葉が漏れた。
「これ……、帰れます……?」
「頑張るしかないと言うか……」
「頑張ってどうにかなる雪ですか?」
三階にあった図書室からはもちろん、そこから玄関に辿り着くまでに、じっくりと窓の外を眺めることはなかった。つまり、どれだけ雪が積もっているのかを、今この場で初めて正確に知ったことになる。
目の前のガラス越しに広がるのは、一面真っ白となった世界。白銀だの銀世界だのと言って風情に浸ることのできる段階は、もうとうに過ぎ去っていた。今はただただ白い。
先月にもある程度雪が降ったことはあったが、あの時の比ではない。冗談抜きで電車が止まってしまいそうな積雪量だった。少なくとも、アイリスの足は止まっている。
「えーっと……。お父さんかお母さんはっと……」
「そうしたいのは分かりますけど」
結果どうなるかといえば、こうなる。スマートフォンを取り出して、アーロンかレティシアに連絡を取ろうとしていた。
「今くらいの時間だと、お二人はまだ仕事中なんじゃないですか?」
「そう、なんですよね……。分かってました……」
時刻は午後五時前である。二人がどんな仕事をしているのか聞いてみたことはないが、一般的にはまだ勤務中と言える時間帯だろう。迎えに来てもらうどころか、そもそも連絡が取れるかというところから怪しい。
「嫌ですよぉ……。こんな雪の中帰りたくないですよぉ……」
「覚悟を決めてください」
小さな駄々をこねるアイリスを横目に見ながら、意を決して玄関の扉を開く。
途端に、校内のものとは比べ物にならないくらいに冷えきった空気が肌を撫でる。
「寒いぃ!」
アイリスが自身の体を抱き締めるように両手を回す。コート、マフラー、手袋の三点セットで防寒していようが、寒いものは寒いらしかった。そんなことを考えている自分も、同じく寒くて仕方がない。
「朝より寒くなってませんか!?」
「そうやって考えてると、もっと寒く感じるかもしれませんよ」
「あったかいです!」
「いや、そこまでしろとは言いませんけど……」
精神論でどうにかなる問題でもない。やはり対策は物理的なものに限る。
「まぁ、こうしていても仕方ないですから。行きますよ」
「はーい……」
いつまでも玄関にいたところで、何かが解決する訳でもない。むしろ、地面に積もる雪の量が増えていくだけの話だ。ならば早いところ駅に向かった方が、恐らくいくらかましだろう。
外に一歩踏み出すのと同時に、全く以て気が進んでいなそうなアイリスも歩き出す。
「わぁい……、ふかふかだぁ……」
ゆっくりと玄関前の階段を下りた辺りで、一つも嬉しさを感じないアイリスの呟きが聞こえてきた。声にいつもの元気さがない。
「つるつるしてなくてよかったじゃないですか」
「滑って転ぶって言いたいんですか?」
「はい」
「すぐそうやって私のことを……」
嬉しさも元気さも感じられない代わりに、隠す気のない不満は感じ取れた。
「傘を差さないといけなくてよかったですね?」
「どういう意味です?」
「もし晴れで片手が空いてたら、葵さんを巻き込んでわざと転んであげるところでした」
「やり方が強引なんですよ」
どうにかこうにか隣に並んだアイリスが、じっとりとした目でこちらを見上げながらそう口にする。人は、そのやり方を「道連れ」と言う。
「初詣の時はできなかったので、今ここで……!」
「転ばないのが一番だとは思わないんですか?」
「葵さんなら受け止めてくれますよね?」
「認めたら僕が押し倒されそうなので、それはちょっと……」
「なんでですか!」
理由は分からないが、何故かアイリス相手だとそのイメージしか湧かなかった。普段から押しが強いからだろうか。
「私にどんなイメージを持ってるんですか。もう……!」
少しだけ頬を膨らませて抗議するアイリスと共に、慎重に雪道を歩いていく。
多くの生徒が帰った後だからなのか、積もった雪が一部削れて道のようになっていた。結局はそこにまた雪が積もっているので歩きやすい訳ではないが、誰も通っていないところを歩くよりはずっと楽だ。
お互いの傘が干渉しないよう、二人揃って反対方向へ微かに傾ける。こんなことができるのも、風が吹いていないからだ。もしこれで風まで吹いていたなら、一切なりふり構っていられなかったことだろう。
「こんなペースじゃ、駅まで相当時間がかかりそうですね」
こんな悪路を歩いているので当然と言えば当然だが、歩く速さはいつもの半分もない。単純に考えても、駅まではいつもの倍以上の時間がかかることになる。
「なんでこんなに駅から遠いんですか……」
「それは生徒全員が思ってますよ」
特に、夏と冬は。
そして、全員と表現するからには自分も同じ。学校に対しての不満などほとんどないが、これだけは明確な不満と呼んでもよさそうだった。
「これだけ積もってるとなると、仮に迎えに来てもらうにしても大変そうですね」
「ですね。車道も凄いことになってますもん」
その言葉に釣られて、車道へと目を向ける。
歩道とは違って融雪装置が設置されているはずなのに、この大雪では大した効果は発揮されていない。車が通って押し固められた雪を溶かすには、残念ながら威力が足りていない。
と言うより、そもそも動いているように見えない。水が噴き出す出口が凍ってしまったのだろうか。結果、溶かされることのない雪が圧雪され続け、一面氷が張ったような車道が完成していた。
「……いつか免許を取ったとしても、こんな道は運転したくないです」
「分かります。絶対に嫌です」
「やっぱり、こんな日は家に引きこもってるのが一番ですよ」
「引きこもって炬燵で寝ちゃってる葵さんが見たいです」
「いきなりどうしました? 炬燵は持ってませんけど」
あまりにも寒いせいで、無意識に暖房を思い浮かべてしまったのだろうか。それにしても願望が具体的過ぎるような気もしたが。
「風邪を引かないくらいの長さのお昼寝をしてほしいんですよね」
「配慮の仕方が特殊過ぎません?」
「あ、横向きで寝て、両手は顔の近くに置いておいてくださいね? 軽く握っておいてもらえると、私的にはポイントが高いです」
「ポイント?」
いよいよ何を言っているのか理解できなくなってきた。ポイントが高かったとして、一体何が起こるというのだろうか。
「シャッターを切る手が止まらなくなりますね……!」
「……」
撮影会が開催されそうだった。
「楽しみにしてますね!」
「なるべく炬燵は買わないようにします」
「えー?」
若干の不満を滲ませるアイリスだったが、今の妄想を聞いて「じゃあ買います」とはならない。そんなことくらいは簡単に予想できるはずなのに、何故その表情を浮かべられるのか。相変わらずアイリスのこの辺りの思考は読めそうになかった。
「疲れましたぁ……」
「思ったより大変でしたね……」
やっとの思いで辿り着いた、最寄りとは呼びたくない距離の最寄り駅。予想した通り、いつもの倍以上の時間をかけた、長い道程だった。
「何て言うか、体も疲れたんですけど……。はぁ……」
そこでため息を吐くアイリス。その先の言葉は口にしなかったが、言わんとすることは分かるような気がした。
あれだけの雪道を歩いてきたのだから、当然肉体的な疲れはある。だがそれ以上に、転ばないように、滑らないようにと注意を払っていたこともあって、いつの間にか精神的な疲れまで蓄積していたらしい。
結果、駅に近付いた頃にはお互いに口数が極端に減るという事態を招いた。
「でも、これでとりあえず向こうの駅までは楽ですもんね」
ようやく傘を差すこともなく、足元に気を付ける必要もない場所に辿り着いたのが嬉しいのか、沈みかけていたアイリスの口調がやや明るくなる。それに引っ張られるかのように、表情まで柔らかなものになっていた。
「……アイリスさん」
だが、自分の心はまだ晴れない。何故なら、まだ確認しないといけないことがあったからだ。
「え? え? 何ですか?」
そんな自分の様子に気が付いたのか、柔らかかったアイリスの表情に微かな不安が混ざり始める。
「僕はまだ怖くて見てないんですよ」
「な、何を……?」
「電車の運行状況を」
「……」
いよいよアイリスが黙り込む。図書室で話していたことが現実になるかならないかの瀬戸際ということを理解したのか、やや瞳が揺れ始めた。
「よくよく見たら、いつもより駅にいる人が多いと思いませんか?」
「……っ!」
「どうしてでしょうね?」
「いやですぅ……!」
考えるのを放棄するように、首を小さく横に振るアイリス。そんなことをしても、今の状況は何も変わらない。
「ちなみに、なるべく見ないようにしてるんですけど、僕の視界の端には見慣れない赤文字が表示された掲示板があります」
「うわあぁぁ……!」
いつもなら数本先までの発車時刻を表示している電光掲示板。意図的に視界の端に置いたそれは、何やらたった数文字の何かを表示しているように見える。
その事実が何を示しているのか気付けないアイリスではない。最悪の事態が目の前に迫っていることを薄々理解して、恐れ戦くような悲鳴を上げていた。
「『全線運休』だと思うんですけど、ちょっとアイリスさんも見てくれませんか?」
「やですよぉ……! ここまで来たのに……!」
たった数十秒前までは明るかった表情が、今では涙が零れそうなものに変わっている。その気持ちは痛い程にはっきりと伝わってきた。
「……」
それでも恐る恐る掲示板を確認するアイリス。放っておいても絶望に叩き落とされるのなら、いっそ最後は自らの手で、ということなのだろうか。
「『運休』って書いてあります……」
「ですよね。知ってました」
希望はどこにもなかった。
「……」
「……」
お互いに顔を見合わせる。
「……今の時間なら、お母さんの方が連絡は取りやすいと思います」
「一緒に乗せてください。お願いします」
即座に頭を下げるのだった。
「わざわざありがとうございます」
「こんな天気なんだから、別に気にしなくてもいいわよ」
連絡が取れたレティシアに助けを求め、駅で待つこと数十分。午後六時半を前にして、ようやく帰宅の目途が立った。
アイリスと二人で後部座席に滑り込み、久方ぶりとなる安堵の息を漏らしたのがつい先程のこと。駅前を抜ける車列に飲みこまれながら、レティシアに感謝を伝える。
「思えば、もっと早く電車がどうなってるか調べたらよかったですね」
「完全に頭から抜け落ちてました。すみません……」
「あ、いや! 葵さんを責めてるわけじゃなくて……! 私だって忘れてましたし!」
慌てふためくアイリスの声が車内に響く。
言われてみれば、何故思い至らなかったのか不思議なくらいに当たり前の選択肢だったのに、そこに気付くことは一切なかった。校舎を出る前に電車が運休していることを知っていれば、長い時間をかけて寒い道程を歩くこともなかったはずだ。
そう思うと、肝心なところで必要なことが抜け落ちてしまった自分が嫌いになりそうだった。
「葵君、意外とそういうところが抜けてたりするのよね」
「同じことを考えてました」
「大丈夫ですよ! 私なんて、葵さんよりもっと抜けてますし!」
「あなたはもうちょっとしっかりしなさい」
「はい……」
自分のことを庇ってくれた結果、そのアイリスの方がよりダメージを受けていた。こんなことを思える立場ではないのは分かっているが、不憫でしかない。
「それにしても、今日は……、違うわね。今日もアイリスと一緒だったから何とかなったみたいだけど、葵君一人だったらどうするつもりだったの?」
正面を見据えたまま、心配する雰囲気を隠すこともなくレティシアが問いかけてくる。その話題は、ある意味図書室でアイリスと話していたことの派生のようなもので。
「どうしようもないですね。その辺りに泊まるか、タクシーで行けるところまで行って、その後は歩くかだと思います」
「……つくづくその子が一緒にいたがる子でよかったと思うわ」
「何それ。どういう意味?」
「そのままの意味」
アイリスとレティシアが会話を続ける中、そっと意識を窓の外に向ける。
レティシアの言う通り、去年までの自分であれば、今頃は一体どうしていたのだろうか。ぽつぽつと点在するホテルで一晩明かすことを決めているだろうか。それとも、どうせ次の日の準備をしないといけないのだからと、無理矢理帰宅することを選んでいるだろうか。
どんな選択をしているとしても、どこにいるとしても、結局は一人であることに変わりないが。
「アイリスさんと一緒で本当によかったです」
「うぇ!?」
思わず考えたことが口から漏れる。一緒にいたからこそ、こうしてどうにか帰宅することができるのだ。だからこそ、浮かぶ感情はそれしかない。
「い、いきなりどうしました!?」
「アイリスさんこそどうしました?」
そんな思いを込めた言葉だったが、何故か隣でアイリスが面白いくらいに狼狽えていた。
「どうもこうもないですって! いきなり何を言ってくれてるんですか!」
「……そういうところも『抜けてる』って言っていいのかしらね?」
「はい?」
駅前のビルの明かりに照らされて、妙に赤くなった頬が目に映る。ぐるぐると渦巻きを描いていそうな瞳は、落ち着きなくあちこちを彷徨っている。
どうしてこうなったのかは理解が追いつかないが、とりあえずアイリスを落ち着かせるのに時間がかかりそうなことだけは確かだった。




