95. より強く (3)
そうは言いつつも、結局ついていった。
「……」
「……」
葵がどことなく気まずそうにしながら、入口に積まれたカゴを手に取る。
駅からここまで辿り着く間、いつもの自分達とは思えない程にお互い口数が少なかった。それは、辿り着いた今でも変わりはしないけれども。
「……」
一歩だけ前を歩く葵の背中を追いかけて、自分も店の入口を通り抜ける。その途端、人の声や音楽が混ざり合った騒めきが鼓膜を揺らす。
それはまるで、葵との間に横たわる不思議な空気を掻き消してしまうかのようで。
「このお店、あんまり来たことがないんですよね」
だからこそ、久しぶりにまともな声で話しかけることができた。
「そうなんですか? アイリスさんの家からも近いですけど……」
「ちょっと離れたところに、もう少し大きいお店があるじゃないですか。普段は大体そこですね」
「あぁ……」
そんな感覚は葵も同じなのか、返ってきた言葉の雰囲気はいつもの葵のように思える。その視線は話題に上がった店がある方を向き、納得したような声をぽつりと漏らしていた。
「じゃあ、冬休みに行ったのは普段と違うお店だったんですね」
「たまには違うお店に行きたくなるって、お母さんが言ってました」
「その気持ちはちょっと分かります」
夕方の混み合う時間帯。人の流れを邪魔しないように気を付けながら、葵と共に歩いていく。周囲にいる人にぶつからないようにと心の中で言い訳をして、一歩分だけその距離を縮める。
この場所では当たり前のことだが、会話は続けながらも、葵の視線は基本的に陳列棚に向いている。今も、距離が近くなったことには一切気が付いていない。
「あんまり行かないお店って、何が並んでるのか気になったりするんですよね」
「そういうものですか?」
「まぁ、この辺りは普段から買い物に行かないと掴みにくい感覚なんでしょうけど」
そう言って、葵が口元にうっすらと笑みを浮かべる。買い物そのものを楽しんでいるかのようなその姿は、はっきり言って制服姿にはあまり似合っていなかった。妙に所帯じみているとも言う。
「……」
「アイリスさん?」
急に黙ってしまった自分を心配でもしてくれたのか、薄茶色の瞳がこちらを向く。そこにあったのは、思った通りの心配と、そして疑問が混ぜられたような瞳。
「あ、いや、何でもないです」
「うん?」
そんな感情を抱かせてしまったことを申し訳なく思いつつ、それでも何を考えたのかは口にしない。と言うより、できる訳がなかった。
葵の視線がまた棚に戻ったのをいいことに、じっとその横顔を見つめる。
(もっとこっちを見てほしいなんて……!)
見つめる中で心に浮かぶのは、場違いな嫉妬とも呼べる感情。いつもはもっと自分のことを見ながら話をしてくれるのに、今に限っては葵の意識は商品に向いている。
しかも、自分ですらあまり見たことがないような、とても穏やかな表情を浮かべてすらいた。
(いいなぁ……)
まさか、自分が物に嫉妬する日が来るとは思わなかった。それもこれも、全て葵が悪い。
「……葵さん」
「何です?」
そんなことを考えていたからなのか、自分でも全く意識しないうちに名前を呼んでいた。当然、名前を呼ばれた葵はこちらを向く。
「え?」
「え?」
意識していなかったのだから、自分だって何の準備もできてない。それどころか、このタイミングで葵に見つめられることすら予想していなかった。
だからこその疑問符で。
「いや、何でアイリスさんが不思議そうにしてるんですか」
そして、当然の反応で。
「あぅ……!」
どこにもそのきっかけはなかったはずなのに、駅で話した内容が不意に頭に浮かんでしまって、まともに顔を見られなくなる。自分から一歩踏み込んだその距離が、今になって自分の首を絞める。
「その反応もおかしいですって」
声だけで葵が呆れ気味なのが分かってしまった。それでも、口調にはどこか楽しげなものが混ざっている。こんな場所だからこその、滅多に聞けないような一言だった。
「な、何でもないです……!」
「その見た目で?」
「ど、どんな……?」
鏡がある訳でもない店内で、自分がどんな顔をしているかなど分かるはずもない。ましてや、今は混乱の真っ只中。いつも以上に自分のことが把握できなくなっている。
「ミニトマトみたいになってます」
鏡代わりになるはずの葵の言葉は、場所にはよく合っていても、その意味はなかなかに汲み取りにくいもの。
「真っ赤ってことですかぁ……!」
「いえ、緑色のです」
「どんな顔ですかぁ……!」
より一層意味が分からなくなった。その色の顔をした人間は、今すぐ病院に行くべきだろう。
あるいは、病気を疑われるくらいに自分の状態がひどいか、だ。
「冗談ですって。赤くて小さいのって、やっぱり可愛いですよねって」
「ひゃぁぁ……!」
「……流石にそこまで赤いと心配になりますけど」
「全部葵さんのせいですぅ……!」
気分が高揚しているのか、妙に威力が高い葵の言葉が心に突き刺さる。先程から何も防げていない心は、ただただ葵に翻弄されるだけ。
千々に乱れた感情が回復するのは、まだしばらく先になりそうだった。
「いい加減落ち着きました?」
「葵さんのせいなのに……」
「それはさっきも聞きました」
頃合いを見計らって葵がそう切り出したのは、店の中程まで見て回った後のこと。野菜や果物が並んだ辺りは、もうとうの昔に通り過ぎていた。
「葵さんだけ普通なのはずるいです」
「何がですか」
言っている意味が分からないという気持ちを隠す気もないようだった。
「駅でお話ししてたこと、意識しちゃってるのが私だけみたいじゃないですか」
「あれは……、まぁ……」
流石にその出来事を何でもないように流すことはできないのか、空いた片手で頬を掻きながら目を逸らす葵。歯切れも悪くなった様子を見るに、自分が思っていたより葵も意識していたのかもしれない。
だが、店に入ってからそんな素振りを見せてくれなかったのもまた事実。
意識して一歩距離を近付けてみても反応してくれなかった寂しさもあって、言葉はどんどん踏み込んだものに変わっていく。
「葵さんがどう思ってるのかは分からないですけど、私は『新婚さんみたい』っていうのが、ずっと頭から離れないんですからね?」
「……え?」
「え?」
あの時考えたことを、とうとう口にしてしまった。駅からの道中までずっと意識してしまうのもどうかとは思うが、これで葵がまた少しでも意識してくれるのなら、それは自分にとっても喜ばしいことになるはずだった。
自分の言葉を聞いた葵の表情を見るまでは。
「あ……、その……」
「え? ……え?」
これまで見たことがないくらいに気まずそうな表情を浮かべながら、その視線があちこちを泳ぐ。まかり間違っても、何か欲しい商品を探している様子ではなかった。
そんな葵の姿に、一気に焦りが膨れ上がる。どう考えても自分が望んだ通りの展開にはならないことが確定してしまった、そんな焦り。
そうこうしているうちに、視線を明後日の方向に落ち着けた葵が口を開く。
「そこまでは考えてなかったと言うか……。せいぜい付き合ってる、くらいで……」
「……」
「結婚までは……、はい……」
葵が口にした訳でもないのに、その横顔はうっすらと赤く染まっていく。ある意味、意識はしてくれたようだった。
「あ……」
「え?」
ただ、こんな事態に、自分の心が耐えられるはずがなかった。
「あぁぁあぁ……!」
小さく一言零したのを皮切りに、上手く言葉にならない感情が口から漏れ出していく。こんな場所でもなければ、頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたいくらいだった。
焦りが恥ずかしさに塗り潰されていく。まともに葵の顔を見ることができる訳もなく、ただただ両手で顔を覆って隠れたつもりになる。
「違うんですぅぅ……!」
そんな否定を口にしたところで、どう考えても完全に後の祭り。聞き間違えることができない程にはっきりと「新婚さん」と言ってしまった、その事実が消えることはない。
「うぁぁぁ……!」
謎の言葉が漏れるのを止められない。そうしていないと、また何か余計なことを考え、そして口走ってしまいそうな気がしたからだろうか。
千々に乱れるどころの騒ぎではない心は、最早制御できなくなる寸前まで達していた。
「いや、まぁ……、確かにそれっぽいのは分かります、けど……」
両手で顔を覆ったうえ、固く目を閉じてしまっている自分には、葵がどんな表情を浮かべてその言葉を口にしているのかは分からない。
「制服姿なのに夫婦って……」
「分かってますよぉ……! 分かってましたけど……!」
見えないままの葵が言いたいことくらい、自分でも最初から気付いていた。どう見ても高校生か、あるいは中学生にしか見えない自分達が、周囲からそんな目で見られる訳がない。
それでもそんな風に見られることを想像してしまったのは、積もり積もった想いのせいだったのか。
「想像しちゃったものは仕方ないじゃないですか……」
「……久しぶりにアイリスさんの妄想を目の当たりにした気がします」
「うぅ……」
そう話す葵も照れていることには変わりないのか、いつもならからかってくるはずの場面なのに歯切れが悪い。
全く考えもしていない形ではあったが、意識してもらうことに成功したという事実だけは、素直に喜ぶべきことなのかもしれなかった。
そんなことがあっても、ここは多くの人が行き交う店の中。一か所に留まることもできず、今度は気持ち距離を離して葵の隣を歩く。
あれからいくらも時間が経っていない状態で、その間に流れる雰囲気がいつも通りに戻ることもなく。お互いに何を話していいのか迷い続ける時間が続いていた。
尤も、自分は話題を探す以前の状態だったが。鼓動は未だに落ち着いていない。
「……アイリスさんがあんなことを言うから、聞きたいことがあったのに聞きづらくなったじゃないですか」
となれば、当然沈黙を破るのは葵しかいない。
「はひっ!? き、聞きたいっ、ことっ、ですか!?」
「……」
突然話しかけられて、思わず声が裏返る。一度だけ、一瞬だけ目が合ったものの、恥ずかしさを堪えることができずに明後日の方向を向いてしまう。再び沈黙してしまった葵は、一体何を考えているのだろうか。
気になりはするものの、その答えを尋ねることなど到底できはしない。
「やっぱり今度にしましょうか」
諦めたように葵が言う。どうやら、今の自分はまともに会話ができる状態ではないと判断されたらしい。
その推察は全く反論できない程に正確なものだったが、だからと言ってこのまま沈黙が続くのも、それはそれで耐えられない。それなら、どんな話題でも会話がある方がずっと気が楽だった。
「い、いえっ! 何かお話ししてる方がいいです! 助けてください!」
今度は裏返らないように気を付けながら、それでも必死さは隠せないままに縋りつく。自分ではもうどうにもできない以上、この場で頼れるのは葵しかいなかった。
「そんな助けを求められたのは初めてですよ」
「こんな助けを求めたのも初めてです!」
「もしかして、少しは余裕があるんじゃないですか?」
葵の訝しげな視線が突き刺さる。全く以て余裕などないが、咄嗟に口にした言葉がまずかったのか。
「全然大丈夫じゃないですけど!? 心臓が大変なことになってますけど!? 触ってみま……!?」
「……確かに余裕はないみたいですね」
「ちがっ……!?」
また墓穴を掘った。恥ずかしそうに目を逸らす葵の姿を見て、はっきりとそう確信する。
「そういう意味じゃなくて……!」
「分かってますって。混乱してるせいで、まともに何も考えられなかったんですよね。そうだと言ってください」
「そうです!」
先程の「新婚」発言に匹敵する程の衝撃が今の言葉にはあったらしく、珍しく葵の言葉に強い懇願の色が現れていた。
ひたすらに自分で自分を混乱の渦に落とし続ける中、藁をも掴む思いでその言葉に便乗する。胸元で握り締めていた右手は、今はその場所を隠そうとする目隠しの役割を果たしていた。
「はぁ……」
安心したように、葵が小さく息を吐き出す。と言うよりも、どちらかと言えば落ち着きを取り戻そうとするかのような動きだった。
(葵さんも緊張してる……!)
久しぶりに見たような気がする、葵のそんな仕草。いくら普段から落ち着き払っているといえども、どんなに可愛い見た目をしているといえども、葵が男の子であることには変わりない。
ある意味当然と言える反応を見せてくれたことは、もしかすると自分にとっては朗報だったのかもしれない。
だからと言って、この路線だけで攻め続けるのは、自分にとっても厳しいものがあるが。
「で、何の話でしたっけ?」
「あ、葵さんが私に何か聞きたいことがあるって……」
「あぁ。そういえばそんな話でしたね」
取り戻そうとした落ち着きが未だに一部行方不明なのか、自身で話そうとしていたことを忘れていた。葵のこんな姿は、なかなか見られるものではない。
「こんな流れで聞くのも不自然ですけど」
「は、はい」
「少し前に、アイリスさんの好きなものを作るって話をしてましたよね?」
「え……?」
言われてから少しだけ考え、やや間を空けてから思い出す。
あれは確か、自分が「お年玉が欲しい」と言った時のことだったか。確かに葵がそんな約束をしてくれた記憶がある。あんなに喜んだはずなのに、この一瞬は何故か記憶から抜け落ちていた。もちろん、理由は考えるまでもない。
「確かにありましたけど、それが……?」
「今のうちにリクエストを確認しておこうかと思って」
「あぁ……」
思っていたよりもずっと真面目な話だった。つい先程まで頭の中を危うい思考で染めていた自分が、途端に恥ずかしくなる。
(あ、いや……。恥ずかしいのはずっと……)
そこまで考えて、誰にも聞こえない突っ込みを自らに入れる。この店に入ってからというもの、恥ずかしくない瞬間などなかったと言っても過言ではない。何なら、駅の時点で既に恥ずかしかった。
「アイリスさん? そんなに悩みます?」
ぐるぐると同じところを回り続ける思考。そんな中、一向に返ってこない答えを求めて、葵が不思議そうな目を向けてきた。
その口振りからして、きっと自分が何の料理をリクエストするか悩んでいると勘違いしたのだろう。きっとも何も、このタイミングで黙り込んだのなら、十中八九その考えで正しいのだが。
ただし、今回は残りの一割から二割の方。残念ながら、自分は料理のことは一切考えていなかった。
「あ、いえ。お料理で悩んでたんじゃなくて……」
「何なんですか」
うっすらと呆れを含んだ声が届く。当然のことだった。
「ちゃ、ちゃんと考えますからっ」
「だったらいいんですけど。作ることができるようなものにしてくださいよ?」
「分かってますよぉ……」
一連の流れの影響なのか、どことなく葵との間に精神的な距離ができてしまったような気がした。これは早急に引き戻さなければならない。
そうした後に今の自分がどうなるか分からなくても、だ。離れられるよりはずっといい。
「……」
リクエストに関して真面目に考えるのが、その第一歩。ここでおかしなことを言ってしまえば、恐らく葵の呆れはうっすらを超える。そんな葵を見てみたいという欲に駆られもしたが、自分に向けられるのは何か違う。
(って言っても、色々あり過ぎて……)
この約束が決まった時にも薄々感じていたことだが、どうにもこうにも一つに決めきれない。これまでにお裾分けしてくれた料理は、自身で料理好きと豪語するだけあって、どれも美味しかった。
もちろん、想い人の手料理だからという補正がかかっている可能性はある。だが、それを差し引いたとしても、間違いなく美味しいと断言できる自信があった。
だからこそ、様々な選択肢が浮かんでは消えていく。
「唐揚げも美味しかったし、ハンバーグも美味しかったし……」
今いる場所が精肉コーナーだからなのか、そんな料理が頭の中を占める。どれをリクエストしても間違いはないのだろうが、何かが心に引っかかって踏み出せない。
自分でも何を気にしているのか分からないまま、その答えを探るように辺りを見回す。
「すぐに思い付かないんだったら、また別の日でもいいですよ」
いきなりきょろきょろとし始めた自分を心配してくれたのか、葵からそんな提案が投げかけられた。その提案は、どうせなら納得いくまで考えてほしいという優しさから来たものなのだろう。
これまでの流れで多少は心を乱しているはずなのに、根っこの部分はどこまでいっても葵だった。
「えっと……」
そんな小さな気遣いを嬉しく思いつつも、彷徨う視線は止まらない。
「あ……」
そうして葵の背後に向けた視線があるものを捉えた瞬間、形の定まらなかった答えが輪郭を固めていく。
葵の手間になり過ぎず、それでいて自分の好きなもの。さらに言えば、とある事情から思い出の料理とも言える、あの料理。
「何か思い付きました?」
ようやく探し物を見つけたかのように視線を止めた自分の様子を見て、何かに思い至ったことを悟ったらしい。あんなことを言いながらも、結局答えが見つかるまで待っていてくれた葵が尋ねてきた。
その問いに対する返事は、たった一言だけ。
「玉子焼きが食べたい、です」
「玉子焼きですか?」
葵にとっては意外な答えだったのか、反応は了承でも拒否でもない、ただの鸚鵡返しだった。
「はい。葵さんの玉子焼き、私の大好物ですから」
「まぁ、それは何となく分かってましたけど」
「え?」
「お弁当に入れてると、たまに視線を感じることがありましたから」
「えぇ……!?」
思ってもいない一言だった。まさか自分がそんなことをしていたなど、自覚すらしていなかった。そうなれば、当然葵に気付かれているなどと考えることもない。
「も、もしかして、たまにくれてたのって……」
「そういうことです」
「うわぁ……! ごめんなさいぃ……!」
「別に気にしなくていいですって」
真実を知ってしまった今できるのは、謝ることと、卑しいと思われていないように祈ることだけ。葵の言葉はそんな自分を慰めるためのものだったのだろうが、その口調からすると、本当に気にしていないようにも思えてしまう。
どちらにしても、この先葵の弁当箱の中に玉子焼きがあったら、嫌でも意識してしまうのは確定した瞬間だった。
「まぁ、とにかく玉子焼きですね。分かりました」
「うぅ……。お願いします……」
快く受け入れてくれた葵には感謝しかないが、それはそれとして、この店に入ってから平常心でいられた時間はあっただろうか。原因のほとんどは自分にあるとしても、これだけ心臓が大変なことになるとは、駅を出た時点では想像できなかった。
「じゃあ卵を……」
店内の配置を覚えているらしい葵が即座に振り向く。これまで何度も通っていることが窺える仕草。
その葵の後ろをそっとついていく。色々なことが起こってしまった結果、立ち位置は隣から一歩後ろに下がってしまっていた。
そして、次に二年生の教室に行くと約束した一月十一日、木曜日。その昼休み。
「来ました!」
昨日はまだ諸々を引きずって本調子ではなかったが、二日も経てばある程度回復はする。と言うより、葵の前でいつまでも沈んだ様子でいたくなかったというのが本音だった。
「お、元気な子が来た」
昨日、一昨日の様子を知らない莉花が、いつも通りの自分を見てそう漏らす。周囲からそう見えているのなら、やはり回復したと言っても差し支えないだろう。
恥ずかしさを忘れたとは言わないが。ただ飲みこんで自分のものにしただけの話だ。
(結婚……)
まだそんなことを考えるには早過ぎると、流石に自分でも思う。それでも、夏休みに両親が意識するように仕向けてきた言葉を、まさかこのタイミングになって本当に意識することになるとは、一体誰が想像できただろうか。
そこに至るための段階にすら進めていないことを考えると、実現したとて相当先の先になるに違いないが。
「アイリスさん?」
そんなことを考えていたからなのか、黙ったままじっと葵の姿を見つめていることに気が付いた。教室に入ってきてからずっと立ったままでいれば、何かあったのかと心配されるのは仕方がない。
惜しむらくは、声をかけてきたのが碧依だったこと。もちろんそれが悪いことだとは言わないが、理想を言えば葵から声をかけてほしかった。
「あ、いや、何でもないです」
「そう? だったらいいけど」
深く踏み入ってくるつもりは最初からなかったのか、あっさりと碧依が引き下がる。その視線が自らの弁当箱に向いたのを見て、自分も葵の傍へと歩み寄る。
近くの椅子を借りて、いつもの場所に。最早どんなところでも、葵の隣が自分の定位置となっていた。
「作ってきましたよ」
「ありがとうございます。楽しみにしてました」
席に着くなり、葵がそう切り出した。約束をしていたからこそ、たったそれだけの言葉でもお互いに理解できる。「つうと言えばかあ」という言葉が、一瞬だけ頭の中に浮かんだ。
「作ってきた?」
ただし、周囲からすれば何のことか分からなくて当然である。現に、意味を理解できなかった悠が不思議そうに首を傾げている。
「前にそんなお話をしてたんです」
「アイリスさんがいきなり『お年玉が欲しい』って言うので。だったら、何か好きなものをお弁当に入れようかって話になって」
「へぇ……。同棲してる時にそんなことを話してたんだ」
「うっ!?」
隙とも言えないような、本当に微かな綻びを突いてきたのは莉花。何が楽しいのか、妙ににこにことした表情で見つめてくる。
「色々と探れば、まだまだ面白い話が出てきそうだね?」
そして、莉花に便乗したのが碧依。相変わらずの天敵二人組に狙いを定められ、少しだけ緊張感が増す。この二人にかかれば、何でもないような出来事も話の種になってしまう。迂闊なことは何も言えない、そんな緊張感だった。
「な、何にも言いませんからね?」
「そう言うってことは、やっぱりまだ何か面白いことがあったんだ」
「ないですけどっ!?」
「分かりやすいなぁ……」
だと言うのに、何も話さないうちから莉花に何かを見抜かれる。少しでも反応を見せてしまったのがよくなかったのかもしれない。
「ああいう渡井さんを相手にする時は、じっと黙ってるのが正解ですよ」
どうやら葵も同じ意見のようである。よくよく考えれば、このやり取りの間、葵は沈黙を守っていた。やはり「沈黙は金、雄弁は銀」である。説得力がある言葉ではっきりと語ることは大事だが、黙っているべき時を知っているのはもっと大事ということだった。
「気を付けます」
「何で本人の目の前でそんなやり取りしてるの? 泣くぞ」
「その時は私が慰めてあげるね」
「碧依はどっちの味方なわけ?」
「楽しそうな方」
葵の言葉を意識に刻み込んでいる間に、何故か碧依と莉花が決裂しそうになっていた。分断されてくれた方が自分としては対処しやすいので、それはそれで一向に構わない。
「じゃあ仕方ない。それは私も一緒」
「でしょ? ってことで、今は莉花の味方」
「あれ?」
分断されていなかった。むしろ結託していた。
「で、湊君は何を作ってきたの?」
そんな中、いつも通りに中立を貫く悠が葵に話しかけていた。危うく二人分の矛先が自分に向きそうになっていたところでの、この軌道修正。これ以上ないくらいに完璧なタイミングである。恐らく悠本人にはそんなつもりはなかったのだろうが、色々な意味で助かったのは間違いない。
「玉子焼きです。リクエストがあったので」
「あ、シンプルなところにしたんだ?」
「です。色々考えたんですけどね」
この機を逃す手はない。即座にその会話に乗って、碧依と莉花をシャットアウトする。悠は気付いていないかもしれないが、これで形成は三対二。仮にとはいえ、一応は自分の側が多数派だった。
「相変わらず綺麗に巻くよね。やっぱり慣れ?」
「ですね。最初の方はひどかったです」
話しながら弁当箱の蓋を開けた葵を見て、悠がそう感想を呟く。釣られてその中を見れば、言葉通りに形の整った玉子焼きがいくつか並んでいた。
「多くない?」
自分と同じ場所に目を向けていた莉花が、その数を見て疑問を漏らす。言われてみれば、普段より玉子焼きの占める面積が広くなっているような気がした。
「自分で食べる分もありますから」
「ふーん。そっか」
何でもなかった理由に興味を失ったのか、それ以上言葉を続けることもなく莉花が引き下がる。いかに莉花といえども、その程度の理由で相手をからかうことはできないらしい。
「ってことで、どうぞ。お年玉です」
「はいっ。ありがとうございますっ」
その言葉と同時に差し出された弁当箱を前にして、感謝を伝えるのと同時に頭を下げる。確かに約束だったとはいえ、自分が言い出して葵が飲みこんでくれたからこそ実現したお年玉だ。いくら感謝しても足りないくらいだった。
「あ……」
「莉花?」
早速その玉子焼きに箸を伸ばそうとした瞬間、何かを思い付いてしまったかのように莉花が動きを止めた。これまでの流れから考えると、絶対にまともなことなど口にしないはずだ。頭の中で冷静な自分がそう判断する。
「お年『玉』だけに、『玉』子焼きって?」
「……」
一瞬にして沈黙が場を支配した。葵や自分、悠はまだしも、先程莉花の味方と言っていた碧依すら口を閉ざしている。
「あ、あれ……?」
そんな空気の変化は嫌でも莉花に伝わったのか、はっきりと弧を描いていた口元が目に見えて震え始める。
「だ、だめ、でした……?」
意を決したように、わざわざ自ら感想を求めてきた。そんなことをすれば、自身がどうなるか分からないはずもないのに。
「だめ……、ですね」
「だめだと思う」
「だめでした」
葵、悠、自分。三人揃って不合格判定である。惜しいところすらない、完全無欠の不合格だった。
「あ、碧依ぃ……!」
「だめだね! 今のはないと思う!」
「うわぁ!?」
最後の希望を託して目を向けた碧依からは、誰よりもはっきりとした否定が向けられていた。ここまでになると、いっそ不憫にすら思えてくる。
「あ、そろそろいただきますね」
「どうぞ」
「渡井さんのことを全く気にしてない……」
悠が困ったような笑みを浮かべる中、気持ちを切り替えて再び玉子焼きに箸を伸ばす。
「……美味しいですっ!」
「よかったです」
一口サイズのそれを頬張って、最初に感じるのはいつもの甘み。何度かお裾分けしてもらううちに覚えてしまった、馴染みのある味だった。
「甘過ぎないのがいいんですよね。自分で作っても、なかなか加減が難しくて……」
「そこも慣れですよ」
「もっと精進します」
同時に、経験の差からくる実力の違いを改めて実感してしまって、少しだけ気持ちが沈む。こんなことでは企んでいたあることに影響が出てしまうとは思いつつも、考えるのは止められない。
「あ、あの……。それでですね……?」
「はい?」
それならば、行動を起こして無理矢理止めてしまうのが一番である。そう意識した訳ではないが、いずれそうするつもりだったのだから、細かいことは気にしなくてもいいはずだ。
「わ、私も久々に作ってきたんですけど……」
そう呟いて、自分の弁当箱を開ける。何度も練習を重ねたとはいえ、まだまだ葵のものと比べると歪さが目立つ黄色が姿を現した。
「貰うだけじゃなくて、私からもって思っちゃいまして」
「そんなことは気にしなくてもよかったんですよ?」
「しちゃったんです」
何やら葵らしい言葉が聞こえたような気がしたが、ここまで来て撤退する訳にもいかない。あとはもう、全力で前に進むだけだった。
「そんなわけで、私のも食べてくれますか……?」
微かに不安が滲んでいるはずの目を、それでもしっかりと葵に向ける。ここで目を逸らしてしまうのは悪手だと、本能がそう叫んでいた。
「もちろんです。アイリスさんがそう言ってくれるなら、僕には断る理由なんてありません」
その思いが通じたのかは分からないが、提案は快く受け入れてもらえた。まずは一安心。
「それじゃあ……、どうぞ」
これまで何度か差し出してきた玉子焼き。だと言うのに、未だに食べてもらう時の緊張感は拭い去れない。果たして、もっと気楽に食べてもらえる日は訪れるのだろうか。
「じゃあ、いただきます」
律儀に両手を合わせてから、葵の箸が伸びてくる。そうして一切れ摘まれた玉子焼きが、平均よりはやや小さそうな口へと消えていった。
「やっぱり僕のよりは少し甘めなんですね。美味しいです」
「よかったぁ……」
少しだけ時間が空いてから呟かれた感想は、これまでと同じく肯定的なもの。お世辞はほとんど言わないと口にする葵のことなので、きっと本当に美味しいと思ってくれているはずだ。そこまで考えて、やっと安堵の息を漏らす。
「ずっと練習してたんですから、そこまで心配しなくても」
「そうは言いますけど、やっぱり誰かに食べてもらうのは特別なんですよ」
いくら自分では上達したと思っていたところで、それは主観的な話である。客観的に見て、本当に上達しているのかは分からない。葵のようにきちんとした腕があれば心配などしないのかもしれないが、今の自分はまだその域には達していなかった。
「そういうものですかね?」
「そういうものです」
案の定、あまり理解していなそうな葵が、不思議さを隠そうともせずに口にする。この辺りは、どうしても意見がすれ違う場所だった。解決するには、自分がもっと腕を上げるしかない。
「そんなに……、そんなにだめだったの……?」
「これに懲りたら、もう寒いことは言わないようにしようねー?」
決意を新たにしながらふと近くを見てみれば、そこには宣言した通りに莉花を慰める碧依の姿があった。




