94. より強く (2)
「まぁ、とりあえず今出たことから聞こうか」
莉花がそう切り出した。
今出たことといえば、それは目の前に鎮座する包みのことだろう。この程度であれば、大して隠し事をせずとも答えることはできる。悲しいかな、それだけで終わる未来は見えないが。
「あ、食べながらにしようか。時間がかかりそうだし」
「ん。確かに」
碧依の一言で、尋問が長時間に及ぶことが確定した。
「そのお弁当、アイリスさんのお母さんが作ったんだよね?」
「そうだけど……。それがどうかした?」
自分もやや緩慢な動きで弁当箱に手を伸ばそうとする中、純奈が控えめに尋ねているのが聞こえてきた。純奈も純奈で何かを考えているようだが、果たして何に思い至ったのか。
「ってことは、アイリスさんと湊先輩のお弁当の中身、一緒ってこと……?」
「あ」
思わず伸ばした手が止まった。アイリスは小さく口を開けたまま固まった。残り四人の視線が一気に集まった。
「……」
油を注し忘れた機械のような動きで、アイリスの首がゆっくりと回る。その視線の向かう先は、当然自身の弁当箱。
「……葵さん」
「何です」
「覚悟はいいですか?」
「何の?」
言葉通り、まさに決死の覚悟といった表情で弁当箱を見つめるアイリス。何故か自分までその覚悟を求められたが、その理由はよく分からない。
純奈の言葉が聞こえてきた瞬間は動きを止めてしまったが、よくよく考えてみれば、中身が同じだったところで気にすることは何もなかった。作った人が同じなのだから、それは当然のことである。
むしろ、そちらに話題が逸れてくれるのなら、これほど歓迎できることもない。
「開けます……!」
だが、アイリスの方はそう思っていないようで。慎重な手付きで蓋を持ち上げ、その中身を確認する。まだ比較対象はないというのに。
「いつものお弁当です」
衆人環視の中、見分を終えたアイリスが一言。いつものではない中身とは一体。
「葵さん。お願いします」
「だから、何でそんなに緊張してるんですか」
やたらと力の入った目で見つめられたところで、弁当箱の中身が変わる訳でもない。自分にできることは、ただその蓋を開けることだけだ。
「お母さんのことですから、どんな悪戯を仕込んでるか分かりません」
「……」
そう思っていたのに、はっきりと言いきったアイリスの言葉を否定することができなかった。レティシアならやりかねないということで、微かに緊張感が高まる。
「前から気になってたんだけど、アイリスのお母さんってどんな人なの?」
「悪戯が大好き」
「あぁ、遺伝か」
「え?」
負わなくてもいいダメージをアイリスが負っている隣で、そっと弁当箱の蓋を取り外す。その中から出てきたのは。
「普通だ」
「心配するだけ損でしたね」
期待していた莉花がそう呟く程度には、至って普通の中身だった。強いて言えば、アイリスのものと同じというところくらいか。
ともかく、恐れていたような悪戯は仕掛けられていなかった。
「ちょっと残念」
自身の弁当箱を開けながら、碧依も莉花と似たような感想を零す。作ったレティシアも、まさかここまで謎の期待を寄せられているとは、夢にも思っていないだろう。
「湊君の方がちょっと大きいくらいだね」
「何となくですけど、食べる量も把握されてるような気がします」
「何で?」
「何でもないです」
危うく墓穴を掘るところだった。悠と話していると、碧依や莉花を相手にする時と違ってどうにも気が緩んでしまうような印象がある。迂闊なことを口走るとしたら、可能性が一番高いのが悠相手の時だ。
そんな風に思われているとは露知らず、あからさまな誤魔化しでも悠はそれ以上尋ねてはこない。ただ小さく首を傾げるだけだった。
「さてと。それじゃあ、もっと色々聞いちゃおうかな?」
一難去ってまた一難。全員が昼食の準備を終えたことを確認した莉花が、改めてそう切り出した。どこからどう見ても顔がにやけている。
「湊くーん?」
「……何です」
「単刀直入に聞くけど、結構長いことアイリスさんの家にいたでしょ?」
「うぇ!?」
「どうしてアイリスさんの方が反応するんですか」
せっかく堪えたのに、これでは答えを白状しているのも同然である。
そんな驚きに彩られた表情を浮かべるアイリスは、危うく持った箸を落としそうになっていた。驚き過ぎにも程がある。
「あ、その反応で分かったわ」
「どうしてそう思ったんですか」
「ん? 碧依のおかげかな」
「私?」
いきなり話題に上げられた碧依が、頭の上に疑問符を浮かべる。かく言う自分も同じである。
確かに、碧依が髪の匂いから推測したことが事の発端だが、そこから長期間滞在していたことは読み取れないはずだ。そこには、莉花なりの着眼点があって然るべきだった。
「湊君の髪から、アイリスさんと同じ匂いがするって言ってたでしょ?……あ、ほんとに同じ匂いだ」
「どうしてこのタイミングで?」
言いながら気になったのか、わざわざ椅子から立ち上がって身を乗り出してきた。頭頂部辺りの匂いを嗅がれている気配がある。
そんなことをすれば、自然と莉花との距離も近くなる。思えば、意外と莉花を相手にここまでの距離になったことは少ないのかもしれない。使っている柔軟剤の香りなのか、何かの花のような香りが漂ってきた。
「そこまでです」
「あれ?」
下手に動くこともできずに固まっていると、救いの手は隣から差し伸べられた。どこか不機嫌そうな調子を裏に潜ませた、そんな声音のアイリスが莉花のことを押し戻す。
「アイリスさん?」
「私だって、嗅ごうと思って嗅いだことなんてないのに……」
「おかしな嫉妬をしてません?」
その様子が気になって声をかけてみるも、返ってきたのは不思議な言葉だった。嫉妬するにしても、何かが微妙にずれている。
「で? 何で莉花はそう思っちゃったの?」
「あぁ、えっとね……」
簡単に逸れかけた話を元の軌道に修正する碧依。間違いなく、莉花の扱いがこの中で一番上手かった。
「こんなにしっかり匂いがするくらいってなったら、多分一日とかじゃないなって」
「あ、それは確かに思いました。お風呂から上がった後とか、次の日の朝くらいならまだ分かりますけど、一回使っただけでずっと匂いがしてるのは変ですよね」
「そう! ってことは、しばらくずっとアイリスさんと同じシャンプーとかを使ってたのかなって思うのは、ある意味当然だよね?」
答え合わせを求めるように言われても、自分としては返事に困るだけだ。何をどう答えたところで、その後に莉花の餌食になる未来しか見えない。
「……」
そんな訳で、答えは沈黙。この場合の沈黙は肯定を意味するような気がしないでもないが、細かいことは気にしていられない。
「言う気はない、か」
「渡井先輩。それなら、もっと聞きやすい相手がいるじゃないですか」
「分かってる」
だというのに、矛先は二本に増えて別の方向を向く。
「え!? 私ですか!?」
言うまでもなく、それはアイリスで。
いずれ自身に矛先が向くとは分かっていたのだろうが、それがまさかこのタイミングになるとは思っていなかったらしい。驚きから嫉妬を経た感情は、今再び驚きへと戻ってしまっていた。
「早く白状した方が、楽にお昼を食べられるんじゃない?」
「紗季まで……! 白状しちゃったら、それこそゆっくりなんて食べられないでしょ……!」
「あの……、私も興味あったり……」
「純奈ぁ……!」
アイリスと紗季のやり取りを見ていた純奈が、おずおずと小さく手を上げる。控えめな仕草ではあったが、はっきりとした意思の表明だった。
「と言うか、そこまで言うのを渋るってことは、二日とか三日って長さじゃなさそうだよね」
「羽崎先輩までですか!?」
「ごめんね。普段は大人しくしてるつもりだけど、これは流石に僕も聞きたいかなって」
「そんなぁ……!」
中立的な立場であったはずの悠まで尋ねる側に参戦し、これで形成は二対五。圧倒的な劣勢の完成である。
「あ、葵さん……」
「……諦めないといけないかもしれないですね」
「何を……?」
「平和なお昼を」
「そんなぁ……」
揺れる瞳で見つめられたところで、この劣勢を覆すのは容易ではない。無理矢理無視してしまうこともできなくはないが、その場合は想像で勝手に話が進んでしまう可能性もある。
ならばいっそ、話せる部分は話してしまった方が、最終的な被害は少ないのかもしれなかった。
「……」
話した結果、全員に沈黙が広がった。ざわざわと喧噪に包まれる教室の中で、この一角だけが異様な静けさに支配されている。
「ど、同棲……?」
「ちがっ……!? そうじゃなくてっ……!」
周囲の喧噪に紛れてしまいそうな声量なのに、純奈が呟いた一言は全員の耳に明瞭に届いたはずだ。その証拠に、一瞬で顔を真っ赤に染め上げたアイリスが、分かりやすく狼狽える様子を見せていた。
誰も彼もが沈黙する中で、その慌てぶりは一層際立って見える。首を横に振った後、それだけでは飽き足らなかったのか、両手も否定のジェスチャーを繰り返す。どうやらよほど純奈の一言が効いたらしい。
そうやってアイリスを眺めている自分も、あえて意識しないようにしていた単語を口にされたせいで、若干頬が熱くなっているような感覚があった。
「いや……、私が率先して聞いておいて何だけど、思ったより長かった」
「冬休みはほとんどって。案外大胆だね、湊君」
「う……」
常識人たる悠にまでそう評されてしまっては、自分からは何も言えなくなってしまう。この時ばかりは、乾いたような笑みを浮かべる悠の顔をまともに見ることができなかった。
「何か面白いこととか起きなかったの? と言うか、何か起こさなかったの?」
「紗季の中で、私ってそんなことをするイメージなの……?」
「少なくとも、寝顔は見に行ってそう」
「……」
「行ったな?」
「……行きました」
一年生組は一年生組で、アイリスがその行動を見透かされていた。普段からクラスメイトにどう見られているのかが垣間見える一幕である。
「どうだった?」
「信じられないくらい可愛かった」
「どうしてそこは自信たっぷりに言うんですか」
「つい……」
世にも珍しい状況に突っ込みを入れられ続け、いっそ心配になる程に狼狽えていたはずなのに、そんなところだけははっきりとした口調で感想を述べるアイリスなのだった。やはり何かがずれている。
「それだけいたんだったら、反対に葵君がアイリスさんの寝顔を見に行ったりとかはしなかったの?」
「……」
「行ったね?」
「起こしに行ってほしいって言われて……」
「リアクションが似た者同士か」
思わず黙り込んでしまったことを言っているのだろうが、これ以上話の種となる情報を提供するのは危険でしかないので、反応が遅くなるのは許してほしい。
さもなければ、昼休みが終わっても尋問が続きそうな雰囲気すらある。
「で? 湊君的にはどうだったの?」
本人が言った通り、珍しく悠が積極的に尋ねてきた。普段はそんな素振りを見せないが、何だかんだ言って、そういった話に興味があるのかもしれない。
「信じられないくらい可愛かったです」
「ひぁ……!?」
「あ、思ったより素直だ」
尋ねてきた悠自身も、ここまではっきりとした答えが返ってくるとは思っていなかったに違いない。一度意外そうに目を丸くしてから、どこか面白そうに目を細めていた。
「悪戯とかはしなかったの?」
「するわけがないですって。アーロンさんとレティシアさんがいるんですよ?」
「いなかったらする、みたいなことを言うね?」
「す、するんですか……!?」
アイリスが何を想像したのかは知らないが、何故か両手で真っ赤になった頬を押さえていた。これまた何故か目も合わない。
「しませんって。後が怖いですから」
アイリス本人からの仕返しも、アーロンやレティシアからのからかいも。そのどちらも、避けられるのなら避けたいものの筆頭である。
「そっか。でも、そんな風に言えるってことは、意外と楽しんでたんだね」
「たの……しい……?」
「あ、そこは首を傾げるんだ……」
その言葉に、すっと首が傾く。
サンタ服やら巫女服を着せられることを「楽しい」と言えたらなら、素直に楽しい冬休みだったのかもしれない。だが、生憎それで楽しかったのはアイリス達だけ。多少の慣れが生まれてきたとはいえ、自分にとっては恥ずかしさの方が未だに大きい。
その他にも、色々な意味で緊張することの方が多かった冬休みではあった。楽しくなかったとは微塵も思わないが。
「どうしてそこで疑問に思うんですか。昨日の夜は『楽しかった』って言ってくれたのに」
「改めて考えると、二回もコスプレをさせられたところは楽しくなかったかなって」
「いつも通り似合ってたのに……」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
残念そうな雰囲気を隠そうともせず、少しだけ俯き加減で小さく零すアイリス。サンタ服や巫女服がいつも通り似合っていてほしいなど、一度も思ったことはない。
「そう言うってことは、それ以外は楽しかったんだ?」
言葉の裏を見抜いたとでも言わんばかりに、口元で弧を描いた莉花が問いかけてきた。この場の誰よりも楽しそうにしているのが丸分かりの表情である。
「渡井さんが何を期待してるのか知りませんけど、楽しくなかったとは言えないです」
昨日の夜は比較的すんなりと口にできたはずの言葉でも、相対する人物が違えばここまで口にしにくいものなのかと、知らなくてもよかった事実が頭の中を駆け巡る。
「あれ? 私には素直じゃない?」
これまでのやり取りを聞いていたのか、想像していたものと反応が違うことに、莉花が不思議そうな表情を浮かべていた。
「色々あってアイリスさんには素直になりましたけど、それ以外は大して変わってないですよ」
「え?」
「ほぅ……?」
碧依と莉花の言葉が重なる。どちらかと言えば、碧依は驚きの、莉花は興味の感情が込められていそうな雰囲気の一言だった。
「そのせいで、今朝の私は大変だったんですからね?」
「頑張ってくださいね」
「だから、何で他人事なんですか」
今朝と同じようなやり取りをアイリスと交わした後、もう一度莉花に向き直る。
「そんなわけで、渡井さんにはいつも通りです」
「へー……。何かあったんだ?」
「ありましたけど、これは簡単に話せるようなことじゃないので」
「……」
これまでと同じような興味でこちらに向かってくる莉花だったが、こればかりは誰に何と言われようとも話すことはできない。アイリスもそれが分かっているのか、莉花の視線を受けても口を閉ざしたままだった。
「あ、こっちも口が堅そう」
「……! ……!」
「そこまでしなくても」
莉花にそう評されたアイリスが、その意思を表明するように頭を横に振る。否定の言葉くらい口にすればいいのに、それすらもしない程の沈黙の徹底ぶり。この様子を見る限り、アイリスの口から情報が漏れることは心配しなくてもいいだろう。そもそも、最初から心配などしていないが。
「まぁ、だったら無理に聞き出しはしないけど……」
それを見て流石に引き下がるしかないと思ったのか、その言葉を最後に話題が戻ることはなかった。
では、代わりに話題はどこへ向いたのかと言うと。
「そっちは聞かない代わりに、素直になった湊君にとって、アイリスさんとの同棲生活はどうだったのかって方を教えてもらっちゃおうかなぁ……?」
「……っ」
「ふわぁ!?」
それはそれでまずい方向へと進みそうになっていた。
「そういえば、お昼休みの後は大丈夫でした?」
「……大丈夫だったと思いますか?」
「思いません」
「正解です」
始業式の日からいつも通り六限まで授業を受けた後の、その帰り道。吹き抜ける寒風から身を守るようにして乗り込んだ電車の中で、アイリスが答えの分かりきった質問をしてきた。
「アイリスさんがいなくなって、その分全部が僕に集中してきました」
「……楽しそうですね!」
「……」
「……嘘です。ごめんなさい」
今、自分の目はじっとりとしたものになっているのではないだろうか。個人的にはなかなかに珍しいような気もする。
「お風呂場でばったりはなかったのか、着替え中にばったりはなかったのか……」
「わぁ……」
「アイリスさんにも、その場にいてほしかったですね?」
「絶対に嫌です」
断固たる拒否だった。これもまた、なかなかに珍しいような気がする。
「でも、確かにそういうことはなかったですよね。危なかったってことすらありませんでしたもん」
「アイリスさんがどうだったのかは分からないですけど、僕は細心の注意を払ってました」
「あれ? そうだったんですか?」
言われて初めて気付いたらしく、アイリスの声の質が変わった。裏のありそうな雰囲気ではない辺り、本当に気が付いていなかったらしい。
「お世話になってるんですから、それくらいは当然です」
「そんなことを考えてたんですね」
「もしそんなことがあったら、その後どんな顔をして話せばいいんですか」
「それは……」
想像でもしてしまったのか、アイリスの言葉がそこで不自然に途切れた。視線は自身の膝を向いている。
「確かに、恥ずかしくて仕方ないですけど……」
「ですよね」
やや小さくなった声が、心に湧いたであろう感情をはっきりと表していた。相変わらず視線は膝の上。
「でも……」
「はい?」
そうかと思えば、今度は瞳を揺らしながら見上げてくる。大した身長差がないとはいえ、間違いなく上目遣いと呼ばれる仕草だった。
その仕草に揺さぶられた心を隠していつも通りの態度を装うのは、思った以上に苦労する。
「……やっぱり何でもない、です」
「そんな言い方をされたら気になるじゃないですか」
そんな自分の心情を知る由もないアイリスが、妙に気になるところで話を止めてしまった。やや恥ずかしそうな雰囲気を漂わせながら、視線は膝の上へと逆戻りである。
「いくら葵さんでも、これはまだ教えられません」
「前にもそんなことを聞いたような気がしますけど」
「じゃあ、今のもそれに追加ってことで」
「何なんですか」
厳重に鍵をかけた箱の中に言葉をしまい込み、絶対に蓋が開かれないように監視までするアイリスの姿が幻視できた。門番としてはやや心許ないような気がしてしまったのは、果たして自分が悪いのだろうか。
とにかく、今はその答えを教えてもらう時ではないらしい。では、一体いつになったら教えてもらえるのかという疑問が湧くが、結局それも教えてはもらえないのだった。
「あ、そうでした」
「どうかしました?」
電車を降り、今朝ぶりとなる駅舎の中を歩きながらアイリスに話しかける。もっと早くに話しておいてもよかったことだが、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
「僕はちょっと寄り道をしてから帰ります」
「寄り道、ですか?」
あとは扉を開ければ駅舎の外に出るというところで、二人揃って足を止める。人通りが多い駅なら迷惑行為でしかないが、普段と何も変わらず人気の少ないこの駅なら、多少は大目に見てもらえるだろう。現に、今も近くに人はいない。
そんな場所で、思い当たる節がなかったであろうアイリスが、こてんと首を傾ける。と言っても、自分の用事なのでアイリスに思い当たる節がないのは当たり前のことなのだが。
「買い物をしてから帰ろうかと」
「あ……」
特に隠すような用事でもないので、すぐさま答えを告げる。そこまで話してしまえば、流石にアイリスも気が付いたらしい。
「そっか。そうですよね」
納得を表すように、一度だけ頷いていた。
「葵さんの家の冷蔵庫、今ほとんど空ですもんね」
「そういうことです」
用事は単純明快。色々と食べるものを買わないといけないのだった。
「あれ? でも、葵さんがお買い物に行くのって、初めて見たような気がするんですけど……」
「普段は休みの日にまとめて買いに行ってますから」
「あ、それで」
「えぇ。学校帰りに寄ってもいいんですけど、その分帰りが遅くなりますからね」
何だかんだと帰りが遅くなってしまうこともある中で、さらにそこから寄り道をして買い物に行くのは避けたいという考えだった。それでも、これまでアイリスの前でその姿を見せていなかったのは、本当にただの偶然である。
「そんなわけで、今日はここまでです」
そう言いながら、一度駅舎の外に目を向ける。買い物をして帰るのであれば、自分がこれから向かう道はいつもの帰り道とは違う道。必然的に、アイリスの帰り道とは重ならないことになる。
だから、今日はここまで。そんな風に考えていたのに。
「えっと……。一緒に行く……、のは?」
「え」
返事は思ってもいなかった一言で。
ちらちらと外に目を向けながら、たまに正面から自分を見据えるアイリス。そうかと思えば、また外を見る。そんなことを繰り返しながらの提案は、はっきりとした言葉ではなく、どこか不安が滲んだようなもの。
「えっと……」
そんな様子に心を乱されながらも、動きが鈍りそうな頭をどうにか回転させる。
一緒に行くことそのものには、自分から拒むような理由はない。ただ、この寒さの中、いつもよりも遠回りの帰り道を歩かせてしまうのは申し訳ないと、そう考えてしまうのもまた事実。
そして何より。
(二人だけで買い物って……)
気になるのはそこだった。
これまで、アーロンやレティシアも含めて買い物に行ったことはある。二人だけと言うならば、自分の誕生日プレゼントを選びに行ったり、何なら昨日はマフラーや手袋を見に行きもした。今更気にする方がおかしいのかもしれない。
ただ、個人的には今回は訳が違った。
「葵さん?」
曖昧な一言を呟いてから間が空いてしまったことを不審に思ったのか、返事を催促するような呼びかけがあった。あるいは、やはり単に不安なだけなのか。
いずれにせよ、アイリスが返事を待っていることには変わりない。
「嫌……、だったりします……?」
「そうじゃないんです。そうじゃ……」
小さく零れたアイリスの一言に、慌てて否定の言葉を返す。間違っても嫌な訳ではないのだから、アイリスが顔を曇らせる必要はない。
そんな思いを込めての言葉だったが、その先がどうしても続かない。
「一緒に行くのが嫌ってわけじゃないってことですか?」
「そう、ですね」
「じゃあ、何をそんなに考えてるんです?」
「それは……」
そこまで白状してしまえば、当然意識はその先へ向く。アイリスの心の動きは至極全うなものだった。
「……何となく、ですけど」
「はい?」
「二人で行くのが恥ずかしくて……」
「……」
いつまでも隠している訳にもいかず、やっとの思いで口にしたのは、そんな理由。理解してもらえるかはアイリス次第だが、食料品という日常生活に一番近い買い物へ二人で向かうのは、どうしてもある関係を想起させるものがあったからだ。
「恥ずかしい?」
流石にそんな奥深くまでは思い至れなかったのか、聞き返してくるその声には、どこか不思議そうな響きが乗せられていた。
「同じくらいの歳の男女が一緒に買い物をしてたとして、アイリスさんはその二人をどんな関係だと思います?」
「え……。私達くらいのってこと、ですか?」
「そうですね。年代はあんまり気にしなくていいですけど」
もっと気軽に答えられる疑問ならまだしも、今の自分がその答えを直接口にすることはできない。ならば、あとはアイリスに気付いてもらうより他はない。
「えー……? 私達くらいなら、多分兄妹、とか?」
「ですよね」
少しだけ考えるような仕草の後に導き出された答えは、一般的には当然とも言えるような答えだった。何もおかしなところはない。
ただし、アイリスが言う「私達のような」ではなく、まさに自分達では。明らかに一般から外れてしまったこの組み合わせでは、その答えは正解とは言えなくなる。
「じゃあ、もう一つ聞きます」
「うん?」
「僕達って、兄妹に見えますか?」
「……」
「この髪の色と目の色で、それは無理があると思いません?」
たった一言で黙り込んでしまったアイリスに、さらに言葉を重ねていく。
「確かに、前は碧依さん達がよく『兄妹みたい』って言ってましたけど、真面目に考えたらどうです?」
「……見えないです」
ようやく出てきた答えは、まさに自分が考えていたものと同じもの。それを口にしながらその先を考えているのか、顔はやや俯き加減になっている。
「だったら、どう見られるかなんて、もうほとんど一択ですよね」
「……っ」
その言葉と同時に気付いてしまったのか、弾かれたようにアイリスの顔が上がる。そこにあったのは綺麗な赤。もちろん、マフラーの色でも、日に照らされた色でもない。純粋にアイリスが生み出した赤だった。
「……だから恥ずかしいって言ったんですよ」
「うぁぁ……」
最近たまに見かけるようになった、口元をマフラーに埋めるような仕草。羞恥に突き動かされていることは誰の目にも明らかだったが、そんな仕草すら可愛く思えてしまうのだから、いよいよ自分も末期なのかもしれない。
「あの……! えっと……!」
上手く出てこない言葉を探すように、隠れた口元が小さく動く。胸元で握り締められた右手が、その戸惑いを表しているかのようだった。
「そ、そういうつもりで言ったんじゃなくって……!」
「分かってます。分かってますけど……」
「ご、ごめんなさいぃ……!」
まるで悪戯を親に咎められた子供のように、固く目を閉じて微かに体を縮こまらせている。何も悪いことなどしていないはずなのに、何故かアイリスがいつもよりもずっと小さく見えた。
対する自分も、最早何を口にしていいのか分からず、ただ目を逸らすだけ。意識してしまった言葉のせいでやたらと速くなる鼓動の音が、まかり間違ってアイリスに聞こえてしまいやしないかと心配するので精いっぱいだった。
「……!」
「……!」
そして、たまに目が合っては、お互いに神速で逸らす。
人気のない駅舎の中、自分達がいるこの一角だけが、何か異様な雰囲気に包まれていくのだった。




