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93. より強く (1)

「おはようございますっ!」


 人気のない駅舎に澄んだ声が響く。一晩明けはしたものの、時間にすれば数時間ぶりとなる声だった。


「おはようございます」


 いつも通り背後から声をかけてきたアイリスが隣に並ぶ。自分もいつも通りそれを待ってから挨拶を返す。三学期が始まって最初の朝であろうと、その流れは変わらない。


「……」

「え? な、何ですか?」


 そのまま無言で見つめること数秒。いつもの流れにないその仕草に、アイリスが若干の困惑を見せていた。


「いえ。何でもないです」

「えー……? そんな風に言われたら気になっちゃいます」


 困惑しながらも、その興味は隠すことができないらしい。戸惑いの中に微かな好奇心を混ぜたような光が、その目には宿っている。


「本当に何でもないですって。いつも通り可愛いって思っただけです」

「とうっ!?」


 呻き声のレパートリーに新種が追加されていた。新年最初のアップデートである。


「え!? いきなり何ですか!? 熱でもありますか!?」

「熱がありそうなのはアイリスさんの方ですよ」

「そうでしょうけど!」


 今度はほとんど驚き一色で満たされた表情の中で、頬だけが照れの感情を示していた。


「だから言ったじゃないですか。別に何でもないって」

「何でもなくないですけど!?」


 全く納得がいっていない様子で声を上げるアイリス。あわあわと慌てる姿が、まるで小動物のようだった。


 自分の感情を認めてから相対してみると、これまでよく何でもないかのように接していたものだと驚かされる。これからも同じようにしてみろと言われても、絶対に不可能と言いきる自信があった。


「何なんですか……。昨日お部屋に入ってから何かあったんですか……?」

「ありましたね。何があったのかまでは言えませんけど」

「えぇ……?」


 伝えたいことは言葉にしなければ伝わらないと思ってはいるが、これは流石に今言うことではない。もっとタイミングというものがあるはずだ。


「その代わり、思ったことを割と素直に口にすることにしました」

「その結果が今の私ですよ?」

「まぁ、頑張ってくださいね」

「なんで他人事なんですか。葵さんのせいですからね?」


 少しだけ呆れたように、アイリスがそう口にする。それでも会話を切り上げようとしない辺りは、自分としてもありがたいところだった。


「アイリスさんが慣れるしかないので」

「葵さんが抑えるって選択はないんですか」

「伝えたいことは言葉にしないと伝わらないので」

「それって、そんなに都合がいい言葉でした?」

「アイリスさんも都合がいい言葉みたいに使ってましたよね」

「ぐ……! そんなこともありました……!」


 痛いところを突かれた気まずさを誤魔化すように、アイリスが首元のマフラーを引き上げる。そこにあったのは、これまでのクリームイエローではなく、目にも鮮やかな赤。


 言うまでもなく、昨日一緒に買いに行ったマフラーである。


「やっぱり似合いますね」

「な、何がですか……? 葵さんに言い負かされるのがですか?」

「どんな被害妄想……」


 と言うより、アイリス的にはそれが似合ってしまっていいのだろうか。自分からすれば、これ以上ない程に不名誉なイメージがあるのだが。


「マフラーに決まってるじゃないですか」

「あ、あぁ……、そうですよね。……分かってましたからね?」

「大丈夫です。分かってますよ」

「その目は絶対に信じてないですっ!」


 一瞬たりとも間が空かない否定だった。そして、その予想は見事正解である。


「何なんですか……、もう……。こんな朝から……」

「大変ですね」

「葵さんのせいですよっ」


 駅員以外に人の姿が見当たらない駅舎の中に、今日一番の声が響いた瞬間だった。




 そんなことがあろうとも、電車はいつも通りの時間にやって来て、いつも通りの時間に発車する。


「あ、そうだ。葵さん」

「何です?」


 これまでと同じ席に腰を下ろして窓の外を眺めていると、何かを思い出したかのような口調でアイリスが切り出した。


 左隣を見てみれば、アイリスの手には何かの包みがあった。


「これ、お母さんからです」

「レティシアさんから?」

「はい。お弁当だそうです」

「え……」


 思いがけない一言だった。それこそ、不意に固まってしまう程度には。


「お昼、ですか?」

「そうですね。それ以外にお弁当なんて食べます?」


 やがて口から出てきたのは、あまりにも当たり前のこと。答えたアイリスも、一体何を言っているのか分からないとでも言いたそうな口振りだった。


「作る手間は変わらないからって言ってました」

「いや、申し訳ないですって。そこまでしてもらわなくても……」


 恐らく昨日言ったことを気にして用意してくれたのだろうが、流石にこれは受け取りにくいものがある。


「無理矢理最後まで引き止めたから、そのお詫びとも言ってました」

「う……」


 だと言うのに、この上なく断りにくい理由が聞こえてきた。「お詫び」という言葉には、受け取る側に有無を言わせない強い意思が含まれている。


 今回のこともそう。きっと、レティシアは自分が遠慮することを見越して、アイリスにその言葉を伝えたのだろう。相変わらず、他人の行動を見抜く力が抜群だった。


「このまま持って帰ったら、多分お母さんは悲しむんだろうなって」

「ぐ……!」


 そこにアイリスからの追い打ち。最早断ることはできそうになかった。


「受け取ってもらえます?」

「……今回だけですからね」

「流石にこんなことはあんまりないと思いますよ」

「『あんまり』なところが引っかかりますけど」

「お母さんは何をしでかすか分かりませんから」

「それは何となく分かります」

「どうして私の目を見て言うんですか?」

「どうしてでしょうね」


 アイリスから包みを受け取りながら、精いっぱいの反撃を試みる。その意味は間違いなく伝わっているはずだ。


「何か持ってるなとは思ってましたけど、まさかこんなことになるなんて……」

「空いたお弁当箱は、直接返しに来てくれてもいいとも言ってましたよ?」

「また引き止めようとしてません?」

「ですね。多分」


 確かにまた遊びに行くとは言ったが、これは何かが違う気がする。何となく見えた未来図はアイリスと共有できているようで、返ってきたのは頷きと肯定の言葉だった。


「一回泊まっちゃったんだから、ハードルは下がってるはずって」

「……」


 アイリスを通して知るレティシアの行動が、どこか一歩踏み込んだものになっているような、そんな気がした。




 そうしていくつかの駅を挟んで停車したのは、毎朝碧依が乗ってくる駅。


「おはよー、二人共。あと、明けましておめでとうございます」

「おはようございます。今年もよろしくお願いしますね」

「おはようございます。今年は大人しくしてくださいね」

「無理だね! 今年もアイリスさんには遠慮なくいくよ!」

「なんでですか」


 冬休み明けだろうと何も変わらない碧依が、相変わらずの様子でアイリスと謎の攻防を繰り広げていた。


「あと葵君にも!」

「つまり、アイリスさんと僕の共通の敵ですか」

「いいんですか? 落ち着いた口調で容赦のないことを言う葵さんが、こっちの味方なんですよ?」

「その矛先、たまにアイリスさんにも向いてるよね」

「……知りませんもん」

「目が合わないよ?」

「……」


 早速アイリスが負けそうになっていた。いつまで経っても、この辺りの相性の悪さは改善されない。一瞬の攻撃力という意味では、アイリスに軍配が上がるのだが。


「……あれ?」


 少しだけ身を乗り出してアイリスの方を覗き込んでいた碧依が、そこで何かに気付いたように小さく声を漏らす。見れば、その目は自分の方を向いている。


「どうかしました?」

「いや……。気のせい、かな……?」

「はい?」


 その様子が気になって尋ねてみるも、返ってくるのは曖昧な言葉だけ。どうやら、自身の考えにあまり自信がないらしい。


「んー……? 葵君、ちょっとだけ女の子っぽくなった?」

「どんな質問ですか」

「葵さんは最初から女の子っぽいですよ?」

「自分でも何となく分かってますけど。他人に言われるのは複雑です」


 そう考えたくはないが、ある意味今更な質問だった。どうして改めてそんなことを聞いてきたのだろうか。どうにも碧依の真意が読めない。


「まぁ……、それもそっか」

「納得するんですね」

「うん。何となくってくらいだったから」

「よく分かりませんけど、この話が続かないのなら言うことはないです」


 これまで一度だって歓迎したことのないその話題は、出来るならば避けたい話題である。切り出した本人が終わらせてくれるのなら、それ以上のものを望むことなどない。


「ま、それより聞きたいこともあるしね」

「聞きたいこと」

「うん。冬休みに何をしてたか、とか」

「……」

「……」

「え。二人揃って何その目」


 アイリスがどんな目で碧依を見ているのかは見えないが、少なくとも自分は驚いたように目を丸くしているはずだ。碧依の口振りからすると、アイリスも同じような目なのだろう。


「いや、思ったより普通のことを聞いてきたなと思って」

「何と言うか、碧依先輩らしくないです」

「ねぇ、それどういう意味? ねぇ?」


 そんな言葉と共に、碧依が身を乗り出してくる。顔は笑っているが、そこに込められた感情は負の方向に傾いていそうだった。


「碧依さんらしくないなって」

「思ったより普通のことだったなって」

「反対になっただけだよ!」

「え?」

「え?」

「何でそんなところで息ぴったりなの?」


 何故かアイリスに体を引かれながら、表情と感情がちぐはぐな碧依に答えを返す。それはアイリスも同じだったが、どういう訳か碧依としては不満が募るものだったらしい。


「何? 私が普通のことを聞いちゃいけない決まりでもあるの?」

「僕達が決めたわけじゃないですけど、碧依さん達が勝手にそうしてると言うか……」

「自業自得ですね!」

「わぁ……。いい笑顔だぁ……」


 対する碧依は悲しい笑み。対極に位置する二つの感情に挟まれた自分は、一体どんな表情を浮かべるべきなのだろうか。


「一応答えておくと、夏休みと大して変わってませんよ」

「変わってませんね」

「ってことは、また一緒に遊んでたんだ?」

「そういうことです」

「楽しかったですよ?」

「そんなのはアイリスさんを見てたら聞かなくても分かるよ」


 碧依の言葉が気になってアイリスに目を向けると、そこには満面の笑みがあった。これは確かに聞かなくても分かる。先程の碧依とは反対に、正の感情が溢れ出していた。


「えへ」

「まぁ、こうなるくらいってことです」

「アイリスさんは割といっつもそんな感じのような気もするけどね」


 それに関しては全面的に同意する。ありがたいことに、自分と何かをするときは、基本的に楽しそうにしてくれるのがアイリスなのだった。


 例外はホラー関係だけである。


「それじゃあ、あんまり変わったことはなかったってことか……」

「……そういうことになりますね」

「残念」

「碧依さんが何を期待してたのかは知りませんけど、そんなことはそうそう起こらないってことです」


 意図的に特大の秘密を隠しているが、そのことに碧依が気付いた様子はない。一瞬だけおかしな間を空けてしまった時はまずいかとも思ったが、案外どうにかなるものだ。


 そして、その秘密を隠しているのはアイリスも同じ。隠し事が致命的に下手なアイリスに話の矛先が向かうと危ないのだろうが、今は自分に向いているので何とかなっている。碧依に見えない角度でコートの裾を掴んでいるのは、恐らく無意識の行動なのだろう。


「そっかそっか。ってことは、もう少し先なのかな?」

「……っ!」

「何がです?」

「何でもなーい」


 裾を掴んだ手がぴくりと動く。果たして、そこにはどんな感情が込められていたのか。当然、それを知ることはできず、意味深なことを呟いた碧依から答えが返ってくることもなかった。




「そういえば、二人共マフラーと手袋が新しくなってるね」

「ですね。昨日買い換えました」

「もちろん……?」

「一緒に買いに行きました!」

「だよね」


 この時期にしてはやや暖かい日差しが降り注ぐ中、微かに雪が積もった通学路を歩いていく。おおよそ半月ぶりとなる、三人での登校風景だった。


「葵さんが選んでくれたんですよ」

「って言っても、アイリスさんが欲しそうにしてたのを推しただけですけどね」

「でも、ちゃんと似合うって言ってくれたじゃないですか」

「んー……。いつも通りの二人だ」

「どこで納得してるんですか」


 電車の中で話していた時から気付いてはいたであろうところに碧依が触れてきたのは、そんなタイミングだった。


「ってことは、葵君のはアイリスさんが選んだのかな?」

「ですね。やっぱり最後に選んだのは葵さんですけど」

「僕一人じゃ絶対に見て回らないくらいには、色々と選んでもらいました」

「へぇ……。着せ替え人形ってことだ?」

「アイリスさんと同じことを言うんですね」


 奇妙な歌仕立てになっていない分、今の方が受け取る印象は随分と柔らかかったが。


「昨日、そこで買ったんですよ」


 そう言って、アイリスが背後を指差す。


「あれ? 昨日なら私と莉花もあそこにいたけど……」


 その指の先を辿った碧依の視線が、再びアイリスへと戻ってくる。向かっていく時には影も形もなかった疑問が、帰ってきた時には浮かんでいた。


「はい。知ってますよ」

「え……。見られてた……?」

「しっかりと」

「気付いてたのなら声かけてよ」


 気付いていたことを当たり前のように暴露するアイリスと、これまた至極当然の感想を抱く碧依。自分が当事者でなければ、碧依の側に味方したかもしれない対立である。


 今回は当事者なので、アイリスの側だが。


「やですよ。何を言われるか分からないんですもん」

「嫌って……。嫌って言われた……。可愛く嫌って言われた……」


 たった一言なのにやたらと切れ味が鋭いアイリスの言葉で、碧依が一刀両断にされていた。その太刀筋に迷いはない。


「夏休みの時は碧依先輩だけでも色々大変だったのに、そこに渡井先輩が加わるなんて考えたくもないです」

「拒絶が激しい……! 助けて、葵君……!」

「僕も声をかけなかった人です」

「そうだよ……。葵君も一緒にいたんだった……」

「『見つからない方がいいと思う』って言ってました」

「傷口に塩を塗り込んで楽しい……?」

「楽しくはないですけど、これで碧依先輩が懲りてくれるなら」


 真顔で口にするアイリスは、どこか奇妙な迫力があった。これまで散々からかわれてきた分が、今ここで漏れ出しているのかもしれない。


「少しは私の気持ちが分かりました?」

「どうして今年初めましてでこんなに怒られてるの……?」

「日頃の行いのせいでしょうね。悔い改めてください」

「葵君も優しくない……」


 碧依の表情がどんどん暗くなっていく。その様は、一応は晴れと言ってもいい空模様と全くの正反対だった。




「始業式の日なんて、午前終わりでいいと思わない?」

「まぁ、それは確かに……」


 そうは言いつつも、莉花の両手はしかと弁当箱を持っている。どんな感情であろうとも、空くものは空くといった様子だった。


 対する悠も、いつも通りの包みを机の上に広げていた。


 時刻は午後一時前。始業式の日だからと言って特別な時間割になることもない、いつもと同じ昼休みの時間。変わることのない四人で集まっての昼食の時間である。


「で? 今日は早速来るの?」

「本人はそう言ってましたよ。初日くらい、自分の教室でもいいと思うんですけどね」


 莉花がアイリスのことを尋ねてくる。要は新学期初日だが、いきなり二年生の教室に来るのか、ということだろう。


 その答えはあらかじめ聞いていた。と言うより、聞こうともしていなかったが、アイリスからそう言われた、が正しい。


「初日だから、じゃない?」

「かもしれないですけど。そういうのを気にしてそうですし」


 悠が小さく零した一言も一理ある。何にせよ、その胸の内はアイリスにしか分からず、そして来ることには変わりない。ここでとやかく話していても、特に未来が変わることはないはずだ。


「失礼しまーす」


 そう話している最中、聞き慣れた声が耳に届いた。ある意味タイミングが完璧である。


「噂をすれば影が差す、だね」

「ですね」


 悠と揃って扉に目を向ければ、そこには一年生三人の姿。いちいち考えるまでもなく、アイリス、紗季、純奈の三人だった。


「あー……。久々に見た気がする……」


 若干恍惚としたような莉花の目に宿るのは、一体どんな思いなのか。できればまともな感情であってほしいが、果たして期待してもいいのだろうか。相変わらず分からない。


「いらっしゃい。今年もよろしくね」

「あ、はい。よろしくお願いします」

「お願いします」


 既にアイリスにはその言葉を伝えていたが、そのアイリスも含めた三人全員に頭を下げる碧依。対する紗季と純奈も、小さく頭を下げていた。


「……何で渡井先輩はそんな顔をしてるんですか?」

「やっぱり一日一回は見ておかないと。元気の出方が違うよね」

「サプリメントか何かですか?」


 そう言いながら、アイリスが莉花から距離を取り始めている。年が変わっても、いつもと何も変わらない光景だった。


「……」


 そんな中で、最初に挨拶の言葉を口にしたきり黙ってしまった碧依が、とある場所に目を向けていた。


 具体的に言えば、アイリスの手元である。


「碧依さん?」

「え? 何?」

「それはこっちの台詞ですよ。どうかしました?」


 それが気になって、思わず声をかけてしまった。それがどんな事態を招くのか、深く考えることもせずに。


「いや……」

「碧依?」

「どうかしました?」


 問いかけられても歯切れの悪い碧依の様子に、莉花と紗季が気遣うような視線を送る。それでもなお、碧依の様子は変わらないままだった。


「……ねぇ、葵君」

「はい?」


 やや間が空いての返事は、尋ねてしまってもいいのかを迷っているような声音。そんな様子を見せられると、何も悪いことをしていないはずなのにそわそわしてしまうのは何故だろうか。


 ともかく、何を言われるのか想像できない以上、ただ続きの言葉を待つしかない。


「昨日さ、アイリスさんの家に泊まったり……、した?」

「……は?」

「何で……!?」


 そうして呟かれた一言は、アイリスと自分の動きを止めてしまうのに十分な威力を有していた。思わず口を開けたまま固まってしまう。


「え? 何々? 何それ?」


 ついでに言えば、反応したのはアイリスと自分だけではない。この場には、ある意味一番聞かれてはならないと言える人物がいる。


「泊まった!?」


 これ以上はないと断言できる程に瞳を輝かせた莉花が、目の前で身を乗り出していた。これは間違いなく面倒なことになる。


 そもそも、碧依はどうしてこのタイミングで疑問を抱いたのか。朝の電車の中でも上手くはぐらかすことができていたのに、今更一体何が繋がったのだろう。


「……あ」

「あ、葵さん……?」


 動きが鈍ってしまった頭でそこまで考えて、一つの可能性に思い至る。


 目を向けるべきは、縋るような目で見つめてくるアイリスの手元。そこにある包み。


「……あぁ」

「あ、多分葵君は気付いたね」

「迂闊でした……」

「え!? 何ですか!?」


 自分の視線を辿ったであろう碧依が話しかけてくる中、未だに混乱の渦に飲みこまれたアイリスは浮上してこない。ただただ目をぐるぐると回し、おろおろと狼狽えるだけ。


「弁当箱の包みが色違いなんですよ」

「……あぁ!?」


 ようやく理解したアイリスから驚愕の声が上がる。丸く見開かれた目が、自身の持つ包みへと向けられていた。


 そこにあったのは、自分の目の前にあるものと色は違うものの、模様は同じ包み。示し合わせでもしない限りは被ることなどそうそうない、何かの事実を雄弁と物語る包みだった。


「お母さん……!」

「いや、まぁ……、ここでレティシアさんを責めるのは違うような気もしますけど……」

「でもぉ!」


 用意してもらった手前、少なくとも自分は文句を言える立場ではない。あるいは、ある程度の悪戯心を込めてこうしたのだとしても、やはりそれをとやかく言うことはできない。その場にあった包みがこれだけだったと言われてしまえば、それ以上の反論は難しい。


 それも織り込み済みでの仕業なのかもしれないが、とにかくそういうことだった。


「絶対に悪戯としてやってますよ!」

「かもしれませんけど。レティシアさんにどうこう言うよりも、今はしないといけないことが別にあります」

「私はお母さんを問い詰めることしか頭にありませんけど!?」

「目の前の人を見てもですか?」


 そう言って、件の目の前の人物に目を向ける。


「……!」


 相変わらず、瞳の輝きは衰えていなかった。


「あ……」


 アイリスが小さく零した声には、どんな思いが乗せられているのだろうか。それはアイリス本人以外が知る由もないが、少なくとも楽しそうな感情ではないことだけは確かだった。




「い、いや……! でも……!」


 ここからの挽回はほぼ不可能だと分かっているはずなのに、それでもアイリスが必死の抵抗を試みようとしていた。やっと椅子に腰を下ろしたアイリスとの距離がやや近いのは、それだけ無意識に味方を求めているということなのだろう。


 アイリスや自分と同じく固まってしまっていた悠や紗季、純奈が復活を果たす中、アイリスの抵抗の言葉が続く。


「単に私のお母さんがお弁当を用意したってだけの可能性も、まだあるじゃないですか……」

「言ってる本人が自信なさそうだけど?」

「うぅ……!」


 か弱い抵抗は、あっという間に莉花に打ち砕かれていた。やはり無理がある。


「と言うか、もっと前から『あれ?』って思ってたからね?」

「うそ……!?」


 そこで碧依から明かされる追加の事実。聞くところによると、疑念が膨れ上がったのはこの時間だそうだが、生まれたのはさらに前とのこと。


「今朝電車の中で会って、それからちょっとした辺りかな……?」

「そんなところで?」

「うん。葵君、自分で違和感とかないの?」

「違和感?」

「あ、ないんだ」


 その口振りから察するに、原因はどうやら自分にあるらしい。とはいえ、そこまで言われても思い当たる節は一切ない。


 確かに、碧依が何かに気付いたような素振りを見せたことは覚えているが、あの時はまだほとんど何も話していなかった。そこから気付けることなど、大したことではないはずである。


「葵さんが何かしちゃったんですか……?」

「いや、覚えはないですけど……」


 アイリスが目を向けてくるも、何も言えることはない。碧依が言う違和感とやらの正体も、まだ何も分かっていない。


「お弁当だけなら、とうとうアイリスさんが全部用意しちゃったのかなーとか考えたんだろうけどね?」


 もったいぶるように、碧依がそこで一度言葉を区切る。何が楽しいのか、全員の視線の先でにこにこと笑みを浮かべていた。


 そうしてから碧依が口にした事実は。


「葵君の髪から、アイリスさんと同じ匂いがしたらね?」

「あ……」

「……っ」


 思わず声が漏れてしまう程度には、綺麗に頭から抜け落ちていた事実だった。


「何を使ってるのかはまでは分からないよ? でも、確実に女性用のシャンプーだろうしね。葵君がわざわざそれに変えるのは、ちょっと考えにくいかなって」

「……」


 今度は何の言葉も出なかった。まさに碧依の言う通りだったからだ。


「認めてくれる?」


 疑問形ではあったが、ほとんど確信しているような雰囲気があった。これだけアイリスと二人で反応してしまったのだから、その反応も納得できる。


 したい、したくないは別として。


「……昨日じゃない、ですけど。泊まりは……」


 こうなってしまっては、いくら否定しても意味はない。誰に何を言ったところで、それを信じてくれる人などいないだろう。


「やっぱり。文化祭の時のお話がとうとう本当になっちゃったんだね」

「あー……。そういえばそんな話もしてたね」


 律儀にも覚えていたらしい碧依の言葉に、聞いていただけだった悠が記憶を掘り起こされたような感想を零していた。体が少しだけ前後に揺れているのは、その頭が小さく縦に振られているからか。


「そんなことを話してたんですか?」

「うん。文化祭が終わった後にね」

「へぇ……。約束してたんだ、アイリスさん」

「う……」


 その場におらず、これが正真正銘初めて聞く機会だった紗季と純奈が、意外そうな顔で悠に問いかける。その隣で、アイリスが恥ずかしそうにその身を縮こまらせていた。


「ん? 泊まったのは昨日じゃないんですか?」

「ですね」

「あれ? じゃあ、どうして湊先輩のお弁当を、アイリスのお母さんが準備してるんですか?」


 そうして情報を仕入れていた紗季が、あまり気付いてほしくなかったところに気付いてしまう。


「あ、ほんとだ。今日の朝は自分の家にいたんだよね? 何で?」


 ここで悠までまさかの参戦である。言われて初めて気付いた様子で疑問を口にしながら、じっと覗き込んでくる。


「それは……。まぁ、色々ありまして……」

「あ、久々に聞いた。葵君が何かを誤魔化してる時の口癖だよね、それ」

「余計なことは言わなくていいです」


 迂闊にその言葉を口走った自分も自分だが、耳聡く拾った碧依も碧依だ。わざわざこんな場で言わなくてもいい。言った結果がどうなるかなど、火を見るよりも明らかである。


「隠してることがあるんだ? へぇー……?」

「……」

「な、何ですか……?」

「ほぉー……?」


 先程から力を溜めるように静かにしていた莉花が、碧依の言葉でとうとう動き出してしまった。


 アイリスと自分を交互に眺めるその様子に、頭の中で警鐘が鳴り響く。


「何から聞こうかなぁ……?」


 瞳の輝きはそのままに、はっきりとした笑みを浮かべる莉花が不穏なことを口にする。


「……」

「……」


 そっと隣のアイリスと目を合わせる。


 その目は、怯えと微かな諦めが混在したような、複雑な色を宿していた。

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