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92. 葵

「……」

「……」


 引き続き、隠れて様子を窺う。


 一応そっと顔を出して確認してみたが、そこにいたのは間違いなく碧依と莉花だった。やはりアイリスの言った通りである。


「どうします? 二人をやり過ごしてお店に行きます?」


 この後どうするのかをアイリスに問う。その答えによっては、今後の動き方が随分と変わってくるはずだ。


「それも考えましたけど、いつ近くにあの二人が来るか分からなくて怖いです」


 ここからであれば絶対に声は届かないはずなのに、返ってきた答えは相変わらず小さな声。囁き声と言っても差し支えないその声は、いつもの元気な声を聞き慣れた耳に新鮮な響きを届けてくる。


「って言っても、あの二人がそんなにすぐ帰るか分かりませんよ?」


 そう言いながら腕時計を見てみれば、針は午前十一時半を示していた。午後の時間がまだまだたっぷりあることを考えると、二人がこれから長居する可能性も排除できない。


「いや……。二人共もう袋を持ってるので、そんなに長い時間はいないと思います。多分、お昼を食べてどこか別の場所に行くんじゃないかと」

「……」


 真剣な眼差しで二人を眺めながら、そう口にするアイリス。その内容があまりに本気の観察結果過ぎて、聞いている自分が少し怖くなった。


「……え? 何ですか?」


 そんな気持ちが伝わったのか、一度視線をこちらに戻して尋ねてくる。またもや妙に鋭い一面を見せたかと思いきや、こちらの心情には気付かない。本当に鋭いと評してもいいのか分からなくなりそうだった。


「……アイリスさんが少し怖くて」

「なんっ……!」


 危うく大きな声を出しそうになったアイリスが、慌ててその口を両手で塞ぐ。その声でも向こうには届かないと思うが、念には念を入れた形だ。


 よくよく考えてみれば、向こうには届かないというのも自分の予想でしかない。アイリスの声がよく通ることは実際に体験したことがあるうえ、碧依と莉花が恐ろしい程の地獄耳という可能性もないではない。


「……危なかったです」

「僕も迂闊でした」


 ということで、何とか声を抑えてくれたアイリスに感謝する。こんな変わった感謝はこれきりにしたい。


「葵さんが変なことを言うからですよ。何ですか、怖いって」


 観察対象から目を離したまま、不服そうに口を尖らせる。納得していない雰囲気を隠そうともしていなかった。


「あの二人をそこまで観察して、そこから更に予想まで立てるって。こんな状況だからかもしれませんけど、浮気調査みたいで……」

「そんなことを言っちゃうってことは、葵さんも探られたくないことがあるんですか?」

「さっきのことならともかく、今更そんなことなんてありませんよ。全部曝け出しました」

「あ……」


 何のことを指しているのか瞬時に理解したらしく、アイリスがこれまた小さく声を漏らす。納得していない雰囲気はどこへ消えてしまったのか、今は口元が緩みそうになっていた。


「そうですよね……。そうなんですよね……!」

「何が嬉しいのか分かりませんけど、二人がどこかに行きそうですよ」

「そうでした……!」


 そうこうしている間に、碧依と莉花が移動を始めていた。見つからないように気を付けながらその背中を追う。


「どっちかって言うと、僕達の方が不審者だと思いません?」

「安心して見て回るためなら、多少の恥は受け入れます」

「潔さを見せつける場面じゃないと思うんです」


 どうにもアイリスとの間に意見の相違がある。これに関しては、碧依と莉花に対する警戒心の強さが違うからだろう。より被害を受けているアイリスの方が、圧倒的に警戒心が強い。


「と言うか、そもそもの話をしてもいいですか?」

「何ですか?」

「見つかって悪いことって、何かあります?」


 これに関しては、少し前から疑問に思っていたことだった。


 あの時アイリスに腕を引かれたからこうして隠れて二人を窺っている訳だが、個人的には見つかったところで何も気になるようなことはない。


 そう思って問いかけてみたが、その答えは半目と共に返ってきた。


「夏休みのこと、覚えてませんか?」

「夏休み……」

「葵さんの誕生日プレゼントを探しに行った時、碧依先輩に見つかりましたよね」

「あぁ……、ありましたね、そんなこと」


 言われて思い出したが、アイリスと出かけた先で碧依と遭遇するのは、これが二回目だった。世間は狭いということである。


「それが?」

「あの時、最終的に葵さんはどうなりましたかにゃ?」

「……」


 ほんの一瞬だけ、語尾を噛んだのかと思ってしまった。真面目な表情を浮かべるアイリスは、きっと噛んでしまって恥ずかしいのを誤魔化しているのだとも。


 だが、次の瞬間には頭の中に蘇る記憶があった。


「……レパートリーに、猫耳が増えました……」


 属性の大渋滞を引き起こすこととなったその猫耳は、元を辿れば碧依に辿り着く。アイリスのあの語尾も、きっとこれを思い出させたかったのだろう。


「私も色々からかわれました。……まだ見つかってもいいって思いますかにゃ?」

「……見つかるのは避けたいと思いますにゃ」


 警戒心の強さが一致した瞬間だった。


「しかも、今日は渡井先輩までいますからね? 見つかった日には、もう目も当てられません」

「渡井さんのことをどう思ってるのか、本当に分かりやすいですよね」


 恐らく、誰よりも莉花に対する警戒度合いが高い。


「何回でも言います。天敵ですから」

「……」


 一貫してぶれることのないアイリスなのだった。




「あっちはレストランがたくさんある方ですね」

「本当にお昼に行った……」


 あれから不審者そのものの動きで碧依と莉花を追い続け、辿り着いたのはレストラン街とでも言うべき場所。正確にはその入口だった。


「だから言ったじゃないですか」

「そうですけど……」


 アイリスの予想が正確過ぎて、若干恐怖度が増した。流石に出てくるまで待っていることはないはずだが、これでこの後二人がビルから出ていったなら、いよいよアイリスの将来候補に探偵が加わることになる。


「さ、今なら安心して選べます。戻りましょうか」

「あぁ、そういえば、マフラーを見に来たんでしたね」

「忘れてたんですか?」


 何を言っているんだとでも言わんばかりの目付きだったが、突然降って湧いた隠密行動に、本来の目的が意識の彼方に飛んでいってしまっていた。それだけ、見つかってはならないという意識が頭の中を埋め尽くしていた証拠でもある。


「忘れてはいませんにゃ」

「可愛いから許しますっ」

「それでいいんですか」


 自分で言っておいて何だが、本当にそれでいいのだろうか。随分と簡単に陥落し過ぎではないだろうか。


「葵さんの可愛いは全てに勝るんですよ」

「アイリスさんには勝てませんけどね」

「にゃあ!?」

「あれ、どこかに猫が……?」

「私ですよぉ……!」


 しばらくは見つかる可能性がなくなったからなのか、アイリスが元の調子を取り戻していた。ただし、これを元の調子と言ってもいいのかは甚だ疑問ではある。


「もう見つからないからって、そんなにほいほい喜んじゃうようなことを言わないでくださいよ……!」

「あ、喜んでたんですね、それ」

「可愛いって言われて喜ばないわけがないじゃないですかっ」

「僕は喜びませんよ」

「喜んでくださいっ」

「何なんですか」


 元の調子だった。これは間違いない。


「もうっ、いいから行きますよ! 手袋だって見ないといけないんですから!」

「あ、手袋の方は本当に忘れてました」

「もぉー!」


 今回は猫ではなかったので許されなかった。




「白、ベージュ、赤。どれがいいですか?」

「三択ですか」

「です」


 遠回りに遠回りを重ねて、やっとのことで辿り着いた目的の店。そこに陳列されていたマフラーを手に取ったアイリスが、早速選択をぶつけてきた。


「実際に巻いてもらってもいいですか? その方が比べやすいですし」

「任せてくださいっ」


 意気揚々と今巻いているマフラーを外していくアイリス。預かっておくと話したのが随分と前のことのように感じるが、実際のところはそこまででもないのだろう。それだけ、あの謎の時間が長く感じただけだ。


「預かります」

「ありがとうございます」


 今度こそ、アイリスからマフラーを受け取る。これまた遠回りをしたような気がした。


「じゃあ……、白からにしましょうか」


 そう言って、白いマフラーを自身の首元に巻きつけていく。今自分が持っているものよりも長いのか、もこもこ具合が少しだけ増していた。


「どうです?」

「似合います……、けど……」

「けど?」

「あ、いや。とりあえず三つ全部見てから言います」

「はぁ……?」


 その姿を見て、一つ思うことはあった。あったが、全て試してみてからでないと、確信を持って話すことはできない。


 流石にそんな考えまでは伝わっていないのか、僅かに不思議そうな表情を浮かべたアイリスがそのマフラーを解いていく。


 次に試したのはベージュのマフラー。相変わらず何を試しても似合ってしまう辺り、感想を伝える側としては大変ではあるのだが、そう思う一方で最初に抱いた疑念は大きくなっている。


「じゃあ、最後は赤ですね」


 自身のマフラーも合わせて三度目となるその仕草。静電気のせいで微かに舞った菜の花色が、少しだけ時間をかけて元に戻っていった。


「葵さんが何を気にしてるのかは分かりませんけど、難しく考え過ぎちゃうのはだめですからね? 思ったことをそのまま教えてください」

「別に言葉を飾るようなことはしませんよ。そんなことに意味はありませんし」

「だったらいいんです」


 そう言って、最後のマフラーを巻いていく。アイリスが身に着ける色としては見ることが少なかった赤だが、だからと言って似合わない訳ではない。


 むしろ、その姿を見て、疑念はほとんど確信に変わった。


「赤ってあんまり持ってないんですけど、どう見えます?」

「個人的な感覚ですけど、三つの中なら、僕は赤が一番好きです」

「そ、そうですか……?」

「金髪と赤って、案外合うんですね」

「えへへ……」


 まだ売り物なのに、そのマフラーを引き上げて口元を隠すアイリス。隠したところで、嬉しそうに細められた目を見ていれば、口元がどうなっているのかは予想がつくが。


「そ、それで? 葵さんは何を気にしてたんですか?」

「あぁ。それはですね……」


 自分の曖昧な言葉のせいで気になっていたであろうことを尋ねられ、隠しきれない嬉しさを身に纏うアイリスに一言告げる。


「アイリスさんが買いたいもの、最初から決まってましたよね?」

「え……?」


 告げた途端に、嬉しさが困惑に変わる。ただし、何を言われているのか分からなくて困惑しているのではなく、気付かれているとは思っていなかったからこその困惑のように見えた。


 何にせよ、その反応で予想が正しかったことは理解できた。


「な、何で?」

「何でも何も、明らかに一つに目が向いてましたから」

「そんなにでした……?」

「そんなにでした」


 露骨過ぎて、本当にそれが欲しいのか疑ってしまう程度には分かりやすかった。フェイントをかける意味がどこにもないにも関わらず、だ。


「赤、欲しかったんですよね?」

「……はい」

「やっぱり」


 心の動きまで読まれていたことが恥ずかしかったのか、マフラーにも負けないくらいに頬を赤く染めたアイリスが、こくりと小さく頷いた。これで買うものは確定である。


「じゃ、じゃあ、それが分かってて……」

「赤いのが一番好きだっていうのは本音です。似たようなことを前にも言いましたけど、似合う、似合わないにお世辞は言いません」

「あぅ……」


 これ以上赤くなることはないと思える程だった頬が、さらに一段とその濃さを増す。もちろんそんなことはしないが、触れたならはっきりとした熱を感じることすらできそうだった。


「決まりですね」

「分かってもらえて嬉しいはずなのに、ちょっとびっくりするぐらい恥ずかしいです、これ……」

「澄ました顔で隠し事をするアイリスさんなんて想像できないので、今くらいの反応がちょうどいいと思いますよ」

「素直に喜べませんよ……!」


 恥ずかしさのあまり、その瞳にはうっすらと涙すら浮かび始めていた。ここまでになると、からかったつもりもないのに謎の罪悪感が襲い掛かってくる。


 同時に、よく分からない感情も。


「……それはとりあえず置いておいて、早いところ買ってしまいましょうか。あんまりゆっくりしてると、もしかしたら二人に見つかるかもしれませんしね」

「……せっかく忘れてたのに」

「忘れた頃に襲い掛かってきますよ」

「それは確かに否定できないです」


 その感情を誤魔化すように、話題を元の軌道に戻す。碧依と莉花の存在を都合よく使った形だが、本人達に知られなければ何もしていないのと同じである。


 ふと頭の中に浮かんだ軌道修正だったが、戻し方のインパクトが思ったよりも強かったのか、アイリスの瞳に浮かんでいた涙も、いつの間にか引っ込んでしまっていた。


「この後、まだ手袋も探しますし」

「そっちはあんまり時間がかからない気もしますけどね」


 会計に向かうということで一致した意見に動かされ、持っていた白とベージュのマフラーを棚に戻す。


「……」

「葵さん?」

「あ、いや、何でもないです」

「うん?」


 その刹那。微かに手が止まってしまったことを疑問に思ったらしいアイリスが問いかけてきたが、その答えは適当にはぐらかしておいた。


「袋はなしにしてもらって、葵さんが持ってる袋に入れようかと思うんですけど、それでもいいですか?」

「えぇ、大丈夫ですよ」


 そんなことを相談しつつ、会計へと向かうアイリスの背中を追う。


「……」


 その背中を見ながら、改めてはぐらかした感想を意識する。


 どれも似合い過ぎていて甲乙つけがたかったという感想は、何故か面と向かって伝えるのが恥ずかしくて仕方がなかった。




「明日から三学期ですか……」

「三学期は短いですからね。あっという間に終わりますよ」

「これから始まるってお話をしてるのに」


 あれから碧依と莉花に見つかることもなく、無事に手袋も買い終えて帰宅の途に就く。外は相変わらず凍えるような寒さだが、電車の中は暖房が効いていて快適そのものだった。


「去年がそうでしたから」

「それは、まぁ……。私も年が明けて、気が付いたら卒業してましたけど」


 当時のことを思い出そうとしているのか、アイリスが窓の外に視線を向ける。そこに広がるのは一面の雪景色。春から夏は緑の海、秋には黄金色の海が広がっていたその場所は、今や白銀一色に染め上げられていた。


「そっかぁ……。去年の今頃って、受験勉強で忙しかった時期なんですね」

「二年もしたら、また同じ冬がやって来ますよ」

「今からしっかり勉強しておきます……」


 一年前の冬がよっぽど大変だったのか、車窓を眺めていた目が少しだけ遠くなったような気がした。


「そんなでした?」

「えっと……。レベル的には大丈夫だった、と思うんですけど、初めての受験だったので……」

「あぁ」

「色々と不安で仕方なくて……」


 アイリスが話すその感覚は、確かに自分にも覚えがあった。いくら大丈夫と自分に言い聞かせても、どこからそんなに湧いてくるのか不思議に思える程の不安が心の中を埋め尽くす、あの感覚。


 自分の場合は無視を決め込んだが、どうやらアイリスはそんなことができなかったらしい。


「葵さんも緊張しました?」

「するのはしましたよ」

「あれ。思ってた答えと違いました」


 自分のどんな姿を想像していたのかは分からないが、とにかく予想とは違うというその言葉と共に、窓の外に向けられていた視線がこちらを向いた。


「緊張なんてしなかったのかと」

「僕だって、高校受験が初めての受験だったんですから。色々と思うことはありました」

「へぇ……」


 その小さな一言に込められた感情は、果たしてどんなものだったのだろうか。知ることはできないが、その目を見る限りでは、悪いものには思えなかった。


「まあでも、次にそれを考えるのは来年なので」


 今考えても仕方がない。言外にそんな意味を込めて呟く。


「ですね。……それにしても、もうすぐ私も先輩になっちゃうんですね」


 どちらかと言えば苦しい方面の話はこれで終わりとでも言うように、アイリスが話題を変える。どことなくしみじみとした口調は変わっていなかったが。


「僕の中の勝手なイメージですけど、アイリスさんは後輩って感じが強いですね」

「また身長のことを言ってます?」

「違いますって」


 話の雲行きが怪しくなってきたと勘違いしたのか、アイリスの目が段々と細められていく。心なしか、詰問するように距離を詰めてきているような気もした。


「じゃあ、何だって言うんですか。私は最近、ちっちゃくてよかったとまで思うようになりましたからね?」

「それはそれで詳しく聞きたいです」

「教えてあげません」

「だったら何で言ったんですか」


 気になるようなことを告げておいて、その答えは教えない。新手の罰のようなものを生み出していた。


「機会があったら、その時は教えてあげます。それより、今は葵さんの方ですよ」

「そういう機会って、大抵来ないものだと思いますけど……」


 単に受け流されただけのような気もするが、今話すつもりがないのならこれ以上尋ねてもどうしようもない。大人しくアイリスの誘導に乗ることにする。


「何となく、アイリスさんは先輩に可愛がられてるイメージが強いので。それくらいの理由です」


 言葉にすれば、別段大したことのない理由である。単に、世話を焼くよりも焼かれる側の方が想像しやすいという程度の話だ。それ以上の理由などない。


「葵さんも可愛がってくれますしね?」

「ですね」

「……素直に認められると、何だか言った私の方が恥ずかしいです」

「してやったり、です」


 まだまだ午後の早い時間である。当然夕日など差していないのに、アイリスの頬は夕焼けのように色付いていく。


「……葵さんはそう言いますけど、私だって中学では先輩だったんですからね?」

「でも、どうしたって僕より一歳下なので、そのイメージが抜けないんですよ」

「もっと大人びたところを見せてほしいってことですか?」

「そういう風に背伸びをしたところで、周りからは微笑ましく見られるだけだと思います」


 普段から後輩らしいイメージが強いアイリスがそんなことをすると、それこそ周囲の目はそれで満たされることだろう。結局、ありのままが一番落ち着くということだ。


「むぅ……。そんなに言うんだったら、四月からはちゃんとした先輩姿を見せますもん」

「今のままでもいいと思うんですけどね。一応、楽しみにしておきます」


 不満そうに謎の決意を見せるアイリス。その瞳には、決意を表す微かに青い火が宿っているようにも見えた。




 その日の夜のこと。今日が冬休み最終日ということは、もう当たり前のように寝起きしていたアイリスの家を出るということと同義である。


 最初に予想した通り、結局最終日まで滞在することになってしまった。その中で、緊張感はありつつも、ほんの微かにだが居心地のよさを感じてしまったことは否めない。


 とは言っても、自分の家ではないのだから、あらゆる場面で細心の注意を払っていたことには変わりない。間違ってもお風呂上がりにばったり遭遇してしまう、などということがないように気を付けていたのが、その最たる例だ。


 その他にも色々と気を付けていたことはあるが、こうして何も起こることなく最終日を迎えられたのは、やはりある程度運がよかったということもあるのだろう。


「よし」


 そんなことを考えつつ、持ってきた荷物をまとめ終える。


 最終日だというのに、夕食も入浴もアイリスの家で済ませ、あとは自宅に帰って明日の準備をして寝るだけとなった。


「……」


 忘れ物がないかの確認も終え、畳んで部屋の隅に置いておいた布団に目を向ける。その布団に何か思い入れがある訳ではないが、何故か視線が吸い寄せられたのだった。


「結局寝顔を眺めに来ましたし……」


 今はリビングにいるであろうアイリスの行動を思い出す。以前から話していた行動ではあったが、本当に実行に移すとは正直考えていなかった。しかも、恐らく複数回眺めに来ている。


「まぁ、寝顔を眺めるのが楽しいのは何となく分かりましたけど……」


 その本人を起こしに行った時に、その感情は僅かながら理解してしまった。確かに、あれは癖になるかもしれない。


「……」


 この家ではまだまだ様々な出来事があったが、今思い返していては帰る時間が遅くなるだけだ。自分を送り届けるための準備をしてくれているアーロン達を待たせる訳にもいかない。


 荷物を持って部屋を出る。最早見慣れてしまった二階の廊下も、これからしばらくは見ることもないのだろう。そう思うと少しだけ残念な気持ちが生まれてくるが、小さく頭を振って心の中から追い出した。


「お待たせしました」


 玄関に荷物を置いてから、リビングにいた三人に声をかける。来た時と同じく、アーロンが車を出してくれることになっていた。


「ん。思ったより早かったね」


 そう言って、アーロンがソファから立ち上がる。


「明るいうちに少しまとめておきましたから」


 何でもないような調子で飛んできた問いに、同じく何でもないような調子で答えを返す。部屋を出る時に感傷的な気分になってしまったことを悟られてしまえば、またもや引きずり込もうとしてくるはずだ。しかも、家族総出で。


 いくら微かに居心地のよさを感じたとはいえ、いつまでもお世話になることはできない。ある程度の線引きは必要だ。


「そっか。その荷物はもう玄関に?」

「はい。置いてあります」

「分かった。それじゃあ、あんまり遅くなってもいけないし……」


 車の鍵を手にしたアーロンが、上着を羽織りながらソファを回り込んでくる。その横から声がかかったのは、そんなタイミングだった。


「あ、私も行く!」

「アイリスさんもですか?」


 同じようにソファから立ち上がったのは、あとはもう寝るだけというところまで準備を整えたアイリス。最初からついてくるつもりだったのか、わざわざ上着まで用意していた。


「せっかくお風呂に入ったのに、また体が冷えますよ?」

「ちゃんとあったかくしますから」


 止まるつもりがないであろうアイリスが、あっという間に目の前まで歩み寄ってくる。


「お見送りくらいさせてください」

「わざわざ家から出なくてもいいのに」

「私がそうしたいんです」


 そのままこちらを見上げてふわりと微笑む。そう言われてしまえば、これ以上自分から何かを言うことはできなかった。


「あ、でも、まだ泊まっていくって言うなら、私もお見送りをしなくてよくなりますね?」

「アーロンさん、行きましょうか」

「……聞かなかったことにするんだね」

「冗談ですよ」

「目があんまり冗談に見えませんでした」

「あれ?」


 可愛く首を傾げるアイリスだったが、言っていることはあまり可愛くなかった。


「またいつでも遊びに来てね?」

「コスプレのため以外なら喜んで」


 リビングの扉前でそんな話をしている中、キッチンで何かをしていたレティシアが小さな包みを持って近付いてきた。


「はい、これ」

「何ですか?」


 その包みを受け取りながら問う。少しだけ重みがあるが、中身は一体。


「家の冷蔵庫、大半のものは片付けちゃったのよね? 今日の残りだけど、明日の朝にでも食べて」

「悪いですよ、そんな。ここまでお世話になるのは……」

「そうは言っても、食べるものがないとどうしようもないでしょ? 遠慮しないで」

「そういうことなら……」


 口調こそ優しいものだったが、込められた思いは有無を言わさないもの。どうあっても引き下がってくれない気配が、ひしひしと伝わってきた。


「ありがとうございます」

「あと、明日のお昼はどうするの?」

「登校の途中で何か買おうかと思います」

「そう。分かったわ」


 何かに納得したように頷くレティシア。形はどうあれ、自分のことを気にかけてくれているのはやはり嬉しさがあった。


「もう遅い時間なのに、引き止めちゃってごめんなさいね」

「いえ。お世話になりました」


 申し訳なさそうに言うレティシアに向かって頭を下げる。この冬休みの間、生活という面では一番お世話になったのがレティシアだ。いくら感謝してもしきれない。


「いいのよ。私も楽しかったから」

「そう言ってもらえると助かります」


 笑みを浮かべるレティシアに釣られて、自然と頬が緩む。


「さっきも言ったけど、また来てね」

「はい。また」


 もう一度だけ軽く頭を下げて、リビングを後にする。扉が閉まりきる寸前に見えたレティシアの表情には、僅かに寂しさが宿っているような気がした。




「ありがとうございます。助かりました」

「気にしなくていいよ」


 多少の雪が積もっていようと、アイリスの家から自分の家まで移動するのに時間はかからない。ましてや、車を使っているのだから、その短さは一級品である。


 あっという間に辿り着いた玄関に、アーロンの手も借りて荷物を運び入れる。


「じゃあ、僕は先に車に戻ってるから。あんまり長居しちゃだめだよ?」

「はーい」


 レティシアとは違い、比較的あっさりした様子でアーロンがアイリスへと声をかける。てっきりそのまま車に戻るのかと思っていると、視線がそのまま自分の方へとスライドしてきた。


「レティも言ってたけど、またいつでも来るといいよ。歓迎するから」

「ありがとうございます。またいつか」

「うん。待ってるからね」


 またしても小さく頭を下げている間に、結局あっさりとした様子でアーロンが立ち去っていった。


 これで、残ったのはアイリスだけ。閉じた扉を背にして、真正面から向き合う。


「……」

「……」

「……何ですか、この間」

「……何なんでしょうね?」


 お互いに何を言えばいいのかを見失って、ただただ無言の時間が過ぎかけていた。寒い冬の夜にすることではない。


「いや、どうせ明日の朝にはまた会えるんですけど、何となく寂しくなっちゃって……」


 恥ずかしそうに頬を掻きながら、いつもよりも控えめな声でアイリスがそう零す。逸らされた目が、その心情を分かりやすく物語っていた。


「何をしんみりしてるんですか。別に今生の別れってわけでもないんですから」

「そうなんですけどね。でも、しばらく一日中葵さんと一緒にいたので……。それも終わりなんだなって」

「まぁ、その気持ちも分からなくはないですけど」


 特別から普通に戻る瞬間。その時に抱く感情は人それぞれだ。アイリスのようにしんみりしてしまうのも、否定することはできなかった。


「何だかんだ言って、最後の日までいてくれましたもんね」

「引き止め続けたのは誰ですか」

「私達です」


 悪びれる様子も一切なく、そして隠す様子も一切なく言いきるアイリス。そこに、引き止め続けたことへの後悔は見られない。


「……楽しかったですか?」


 それでも、その一言を呟く瞬間には、不安そうな表情が顔を覗かせる。これまでの自分の様子を見ていれば、そんな表情など浮かばないはずなのに。奇妙なところで心配性なアイリスなのだった。


「……楽しかったですよ」

「そうですか……! よかったです……!」


 だからこそ、そう告げた時の安堵の表情が際立つ。ふわりと微笑むその様子は、季節外れの花が咲いたような、そんな錯覚を覚えてしまう程だった。


「また、遊びに来てくれますよね?」

「えぇ。おかしなコスプレがなければ」

「それなら大丈夫ですっ。ちゃんとしたコスプレなので!」

「そういうことを言ってるんじゃないんですよ」


 そんな笑みのまま、何故か不穏なことを口走った。表情と言葉に乖離があり過ぎる。


「あ、そうだ。今日買ったマフラーと手袋、明日着けてきてくれますか?」

「そのつもりです。せっかく買ったんですから」

「じゃあ、私も明日着けていきますね。新しいもの同士でお揃いです」


 これまでも何度も聞いた「お揃い」という言葉。ただ、今回は何故かむず痒いような感覚があった。もうとっくに慣れたはずだと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。


「……」

「……」


 そして、再び沈黙が訪れる。最初の沈黙と違うのは、何を話せばいいのか分からない沈黙ではなく、きっとお互いに色々と思うことがあっての沈黙だったこと。


 冷たい風が、アイリスとの間を吹き抜けていく。


「……さ、そろそろ戻った方がいいですよ。風邪を引かれても困りますから」

「……ですね。もしそうなったら、その時は葵さんに看病してもらうことにします」

「弱ってるのにかこつけて、あれこれ甘えられそうな気がするのは僕だけですか?」

「気のせいじゃないと思いますよ?」

「じゃあ、尚更早く戻ってもらわないと」

「なんでですか」


 心外だとでも言うように、アイリスが苦笑いを浮かべる。本気で言っているとも、冗談で言っているともつかないような、そんな顔だった。


「ま、そうなった時のことはその時考えるってことで。本当にそろそろ戻りますね」

「えぇ。わざわざありがとうございました」


 もう何度目かになるその言葉を口にして、もう何度目かになる頭を下げる仕草を繰り返す。


「気にしないでください。私がそうしたかっただけですから」

「それでも、ですよ」

「もう……。そんなに気にしなくてもいいのに……」


 苦笑いが戻ってきた。今回は、ほんの少しの呆れも添えられているような気がした。


「ほら。葵さんも早くお部屋に入ってください。ちゃんと入るのを見てから帰りますから」

「分かりましたって。そんなに近付かなくても大丈夫ですから」


 圧をかけているつもりなのか、一歩踏み込んで近寄ってくるアイリス。間を吹き抜ける風がどこか狭そうである。


 その圧に負けた訳ではないが、言われた通りに扉を開き、玄関に体を滑り込ませる。


「ちゃんとあったかくして寝てくださいね」

「僕の母親か何かですか?」

「お腹を出して寝ちゃだめですからね?」

「母親でも言いませんでしたよ、そんなこと」


 最後に扉が閉まるまでの間も惜しむように、軽口を交わし合う。このままでは、いつまでもここで話し続けていそうだった。


「……冗談ですよ。それじゃあ、おやすみなさい」

「……おやすみなさい。また明日」

「はい。また明日、です」


 それでも、会話の終わりは訪れる。最後に一日の終わりを告げる挨拶を交わし、扉を閉めていく。


 月が煌々と照る中、瑠璃色と菜の花色を煌かせたアイリスが、扉が閉まりきるまで小さく手を振っていた。




「……」


 玄関に置いていた荷物を部屋の中に運び入れて一息つく。一月八日にもなって今年初めて見る、慣れ親しんだ自分の部屋だった。


 だというのに、これまでと違って、どこか空虚な部屋に感じてしまうのはどうしてだろうか。


「……片付けないと」


 わざと声に出して呟いたのは、無理矢理行動を起こすため。もう夜も遅い時間なうえ、明日からは三学期が始まる。早いところ片付けを終えてしまった方がいいに決まっていた。


「……」


 鞄に詰めていた着替えや教科書を取り出して、元あった場所へと戻していく。もうすぐ住んで二年になる部屋だ。諸々の配置は考えるまでもなく思い出せる。


 だからこそ、頭は別のことを考える。


「う……」


 浮かんできたのは、ほんの数分前に見たアイリスの姿。月明かりに照らされたその姿は、どこか神秘的な雰囲気さえ放っていた。それこそ、思わず扉を閉める手を止めたくなる程に。


 その時に止めなかった代わりという訳ではないが、片付けを進める手が今更止まる。もっと言えば、息が漏れるような呻き声すら零してしまった。


「あんなの……!」


 誰だって抵抗できるはずがない。あれで何も思わないのは、いるのかどうかも分からないような仙人だけだろう。


 気持ちを静めるように、固く目を閉じる。教科書を片付けるためにしゃがみ込んでいたその姿勢のまま、見えない視界を床へと向けた。


「……!」


 最初から気付いていた。その見た目が尋常ではないくらい可愛らしいことに。それ目当ての客が増えるのも当然だった。


 共に過ごす中で、何度だって感じていた。その明るさが、自分一人では見ることができなかったはずの景色を見せてくれたことを。


 少しずつ思い知らされた。自分のことをどれだけ慕ってくれているのかを。ことあるごとに理由を探してコスプレさせようとするのはまた何か違うような気もするが、それでも喜んでくれるのはどこか嬉しかった。


 そして何より、受け止めてくれた。あんなに面倒な昔話をしたにも関わらず、自分の方が困惑してしまう程にいつも通り接してくれた。それが何よりも嬉しかった。


「うぁ……!」


 いつからこうだったのか、最早はっきりとしたことは思い出せない。それでも、決定的な出来事は、間違いなくあの日の出来事。


 なるべく考えないように、見ないようにしていた感情を、いよいよ無視できなくなってしまったあの日。


「……」


 これまでと同じように黙ってやり過ごそうにも、いつまでも頭に浮かび続ける姿がそれを許してくれない。


「気付いてましたよ……! 気付いてましたけど……!」


 一人でいるからこそ、誰もその思考を止めてくれない。苦し紛れに独り言を呟いてみても、状況は何も変わらない。


「こんなになんて……!」


 自分のことなのに、何も分かっていなかった。まさか、これほどまでの想いを抱えているとは。


 この冬休みの間、隠し通すのが本当に大変だった。何をしていても可愛く見えてしまって、鼓動が落ち着く暇もなかった。それこそ、寝起きで遭遇した時に咄嗟に平常心を装えたのは、奇跡と言っても過言ではない。


 そうなってしまった今だからこそ、この部屋に空虚さを感じてしまう理由も分かっている。しばらくずっと一緒にいた相手がいないのだから、そう感じるのは当然だった。何も不思議なところはない。ましてや、それがこんな風に思ってしまう相手なら尚更だ。


「……」


 閉じていた目をそっと開ける。


 屈んでいた足元の紙袋の中には、今日買ったマフラーと手袋が入っていた。


「……」


 明日、これを身に着けていったなら、その時は一体どんな反応を見せてくれるだろうか。今日の様子から考えるに、恐らく喜んでくれるのだろう。自分としても、そうなってくれること以上に嬉しいことはない。


 そんな未来を考えると、何故か少しだけ心が落ち着きを取り戻したような気がした。


「……それもこれも全部、僕が……」


 改めて考える。


 いつからか、色々な仕草を可愛いと思うようになってしまったのも。


 自分でも気付かないうちにその姿を目で追ってしまうのも。


 喜ぶ姿が見たいと願ってしまうのも。


 一緒にいたいと思うのも。


 その全ては。


「……アイリスさんが好きだから」


 誰にも向けることはないと思っていた、その感情。それなのに、いつの間にか一人だけに向けられていた、その感情。


 目を逸らすことなく直視してみれば、それは意外と心地よい感情で。


「あぁ……、もう!」


 何も面白いことなどないのに、思わず口元が緩んでしまう。


「どうしてくれるんですか……!」


 ここにはいない想い人に、明らかに筋違いの言葉をぶつける。それでも、その言葉とは裏腹に、明日が来るのが待ち遠しくて仕方がなかった。

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