91. 心機一転
「きっせかーえ人形っ、きっせかーえ人形っ!」
「……」
隣を歩くアイリスが、何やら奇妙な歌を口ずさんでいた。
「葵さんを着せ替え人形にするのは久しぶりですね!」
「前にもあるってところがおかしいと思いません?」
「思いませんね」
「……そうですか」
一点の曇りもない笑み。ここまでのものを見せられてしまえば、一周回って反論する気も起きなくなる。
そんなアイリスと共に向かうのは、普段学校へと向かう時に電車を降りる駅のすぐ近く。最近再開発が進み、新たなランドマークとなった商業ビルの一つだった。
冬休みも最終日となった一月八日、月曜日。成人の日で祝日となった今日は、この季節にしては珍しく雲一つない晴れ模様。露草色の空は見ていて気持ちがいいが、その分放射冷却のせいで空気は冷えきっている。きっと、こんな天気を凍晴と言うのだろう。
「葵さん、ちょっと頬が赤いですね。着せ替え人形がそんなに恥ずかしいですか?」
「寒いからですよ」
そのビルは駅を出てすぐにあるといえども、外を歩くことには変わりない。刺すように冷たい真冬の空気は、一切の容赦もなく肌を冷やしていく。
そんな色の変化を指摘してきたアイリスも、頬を赤くして白い息を吐き出していた。
「確かに寒いですよね。早く駅と繋がればいいのに……」
言いながら、未だ建設が続く連絡通路に目を向けるアイリス。完成すれば駅から出ることなくビルへと向かうことができる通路も、建設途中ではどうしようもない。今は寒さを我慢して外を歩くより他なかった。
「まあでも、これだけ寒いと選び甲斐がありそうですね!」
「本当に前向きですね」
「葵さんも見習ってくれてもいいんですよ?」
「程々にしておきます」
「……何でしょうか。ちょっと悪意があったような気がします」
「気のせいですよ」
疑うような目を向けてくるアイリスだが、そこに込めた感情など大したものではない。言ったところで信じてもらえるかは微妙なところだが。マフラーの内側に埋められた口元は見えないけれども、恐らく小さく尖っていることだろう。
「あんまりそういうことを言ってると、葵さんにぴったりの可愛いマフラーを選んじゃうかもしれませんよ?」
「僕が買わなければ済む話なので」
「ってことは、試着はしてくれるんですか?」
「試すだけならお金はかかりませんから。流石に色合いがおかしいものは巻きませんけど」
「あれ。意外と前向きです」
まさか肯定に近いような答えが返ってくるとは思っていなかったのか、元々ぱっちりとした目をさらに少しだけ見開くような仕草を見せる。いつもよりも大きなラピスラズリが、そこにはあった。
「前向きと言うか、僕が一人で選んだら、多分面白みのないものになりますから」
確信を持ってそう答える。「多分」と口にはしたが、自分一人では冒険をすることすら考えないはずだ。
「そんなわけで、アイリスさんの意見は貴重ってことです」
「何と言うか、思ったより頼りにされてます?」
「してますよ。僕はこの手の話題が苦手ですから」
「葵さんが私を頼りに……!」
何故か感極まったように口にするアイリス。凍晴の空にも負けない深い青を溶かし込んだ瑠璃色が、きらきらと輝きながらこちらを見上げていた。
吸い込まれそうなその色は確かに綺麗だったが、とりあえず前を向いてほしい。これだけ冷えているのだから、地面がどこか凍っていてもおかしくはない。こちらを見ていたせいで転ばれるのは、流石に罪悪感がある。
「ほら、前を向いてないと転びますよ」
「大丈夫ですよ。もう着いちゃいましたもん」
「そういうことを言ってると、よく分からない段差で躓くんですよね」
しかも、アイリスに関して言えば過去の実績がある。結局あの時は事なきを得たが、今度同じことがあればどうなるかは分からない。それで怪我でもされようものなら、しばらくの間は後悔しそうだった。
「……前にも同じことがあったような気がするので、ちゃんと気を付けることにします」
「はい」
どうやら、アイリスも同じ出来事を思い出していたらしい。少し遅れてやって来た素直さに身を任せるように、その視線は離れていった。
「あったかい……!」
そんな話をしながら、ビルの入口を通り抜ける。二枚の自動ドアを抜けた先は、暖かな空気と賑やかな喧噪に包まれていた。どちらも外とは雲泥の差である。
特に、その暖かさはアイリスが思わず顔を綻ばせるほどのものだった。
「いやぁ……、生き返りましたぁ……!」
「ちょっとだけ背も伸びたような気がしますよ?」
「ほんとですか!?」
「外では背中が丸まってたって意味ですからね?」
「……」
何を期待したのか、勝手に盛り上がって勝手に沈んでいた。今の自分の言葉が分かりにくかったのは認めるが、そんな短時間で背が伸びる訳がないことくらい、すぐに理解できるはずである。
「……いいですもん。ちっちゃくても……」
「紛らわしいことを言ったのは謝りますから。拗ねないでくださいって」
「拗ねてなんかないですもん……」
どこからどう見ても拗ねているアイリスなのだった。こちらを全く見てくれないのがその証拠だ。恐らく、口元は先程よりも尖っている。
「拗ねてますって」
「拗ねてませんもん。絶対に葵さんに可愛いマフラーを巻いてもらうって思ってるだけです」
「僕が悪かったです。だから許してください」
頼みの綱にそう言われると、どうしても立場的に何も言えなくなる。今日をまともな一日にするには、アイリスの協力が不可欠だった。
「……私のマフラーを選ぶ時に手伝ってくれるなら」
「手伝います」
「じゃあ、もう気にしないことにします」
そう言って、小さく笑みを零す。その表情からは何の毒気も感じられない辺り、意外と本当に拗ねてはいなかったのかもしれない。だとすれば、手の平の上で上手く転がされたことになる。
「手伝ってくれるの、私も楽しみにしてますからね?」
暖かな店内の空気のおかげでよく見えるようになった、アイリスの口元。そこには、はっきりとした弧が描かれていた。
「買いに来るの、思ったより遅くなっちゃいましたね」
「ですね。お互いになかなか都合が合いませんでしたし、仕方ないと言えば仕方ないですけど」
「でも、おかげでお正月のセールで少し安くなってますし、運がよかったんですよ」
一件目の店でマフラーを眺めながら会話を交わす。
アイリスの言う通り、マフラーと手袋を買いに行こうと話していたのはもう去年の話だ。お互いの都合が合わなかったとはいえ、まさか年が明けてからになるとは微塵も考えていなかった。それだけ時間が経つのが早いということなのかもしれないが。
「おみくじで大吉を引いてくれた葵さんがいてくれたからですね」
「アイリスさんが大吉にしてくれたんですよ?」
「また臆面もなくそういうことを……」
微かに恨みのようなものを込めた視線が届く。そうは言っても「恨みのようなもの」なので、実際には負の感情など感じ取れなかった。
「自分で言ったことじゃないですか」
「そうですけど……」
どこか釈然としない様子で呟いたアイリスが、再び陳列されたマフラーへと向き直る。
「アイリスさんがそんなことを言ってたって碧依さん達に話したら、一体何て言われるんでしょうね」
「絶対にからかわれるので、それだけは許してください」
「冗談ですよ」
言うつもりなど全くなかったのに、許しを請う声があまりにも本気過ぎてむしろ自分の方が戸惑ってしまった。今年も天敵認定はそのままである。
「そもそも、引いたおみくじを大吉にするって意味じゃないんですって。どんな運勢だったとしても、私と一緒なら楽しいですよって意味なんですから」
「アイリスさんも、臆面もなくそういうことを言いますよね」
たった今、自分に恨み言のようなものを呟いた口とは思えない。
「自分で言うのは大丈夫ですもん。葵さんが言うのがだめなだけで」
「まあまあ理不尽なことを……」
「あ、葵さん、これ巻いてみてください」
「聞いてくださいって」
何か気になる商品を見つけたのか、これまでの会話が彼方へと放り投げられた。その結果残ったのは、アイリスが最後に口にした衝撃的な一言だけ。最早軽い言論統制である。
「これにするつもりはないです。でも、ちょっと参考までに」
「参考……?」
もやもやとしたものを抱えながら、アイリスから商品を受け取る。黒地に赤と青のラインが描かれた、シンプルなデザインのマフラーだった。
「僕はこういうのを選びがちですけど、これにはしないんですね」
手元に視線を落としながら問う。あまり主張が激し過ぎないところがよかったのだが、これにするつもりはないとあらかじめ宣言されてしまっては、そこまで強く押すことはできない。
「だって葵さん、今巻いてるのが黒じゃないですか。流石に同じ色は……」
「まぁ、確かに」
アイリスの視線が向かうのは、自分の首元。今日に限らず、冬の時期はほぼ毎日使っている黒いマフラーが、そこには巻かれている。長い間使い続けていることもあって、やや解れが見え隠れしているものだ。
「そんなわけで、今日は明るめなものがいいかなって思ってます。でも、最後に選ぶのは葵さんですよ?」
「程々に明るめでお願いします」
「それはちょっと約束できないです」
「何でですか」
首を横に振りながらの否定。自分で言っておいて何だが、「程々」という言葉に収まらない明るさのマフラーとは、一体どんなものなのだろうか。ほとんど見当もつかないが、目に優しくない色をしているのは間違いない。
「あ、今巻いてるのは預かります」
「ありがとうございます。……話題は逸らせてませんからね?」
「……何のことですか?」
巻いていたマフラーを外してアイリスに手渡す傍ら、目論見がばれていることだけは指摘しておく。
対するアイリスは、あからさまに明後日の方向を向いている。話題をうやむやにしようとしていたのが、はっきりと見て取れた。
「……」
「……」
お互いに無言になる中、綺麗に畳まれていたマフラーを試しに巻いていく。その形を崩してしまうのが何となく惜しいような気もしたが、こればかりは致し方ない。
「巻きましたよ」
「ふむ……」
そうして、大した時間もかからずに巻き終わる。やっと戻ってきたアイリスの眼差しは、これまでの悪戯っぽいものではなく、真面目な雰囲気が漂う真剣なものだった。
「まぁ、無難……、ですよね」
「『面白みがない』って、はっきり言ったらどうです?」
「面白くないです」
自分の言葉を受けてなのか、それとも最初からそう思っていたのかは分からないが、下された評価はあまり芳しくないもの。少しだけ気になって、近くにあった姿見を確認してみると、先程までと大して変わらない自分の姿が映っていた。
「さっきと同じですね」
「参考に、ですから。黒以外にしようって決まっただけでも前進です」
そう言うのであれば、これ以上このマフラーを巻いていても意味はない。なるべく綺麗に畳めるように外していく。
「あ、これはしばらく預かっておきますね?」
「いいんですか? 僕が持っていればいいと思うんですけど」
「どうせ他のも試すんですから。それに、お店の中なら寒くないですよね?」
そう言って、アイリスが持っていたマフラーを胸元に抱え込む。そこまでは思っていないだろうが、絶対に渡さないという意思の表れのようにも思えた。
「そういうことならお願いします」
「任されました!」
「……悪戯するのは禁止ですからね?」
「どんな悪戯ができるって言うんですか」
困ったように笑うアイリスだったが、確かにその通りである。抱えているだけのマフラーに対してできることなど、どう考えても大したことではない。
「そんなことより! 次はこれを試してみてください!」
前もって色々と考えていたのか、次の商品が手渡される。奇妙な歌の通り、しばらくは着せ替え人形になりそうな雰囲気が漂っているのだった。
ガーネットのような暗めの赤に、黒いライン。
「ちょっと暗すぎますかね……」
「何となくですけど、この手の濃い色はあんまり似合わないって自覚があります」
「似合ってないとは思わないですよ? でも、葵さんの雰囲気とはちょっと違う気がします」
「はぁ……?」
水色で、何の模様も入っていないシンプルなもの。
「前にお話ししてた通り、早速青を……」
「結構派手に明るいのが来ましたね?」
「一回振りきってみようかと」
「で、どうです?」
「……」
「その苦笑いだけで十分です」
シャモア色に、黒や白、くすんだ赤のチェック模様。
「ありがちなデザインですけど、ってことは人気なんですよ」
「こういうのなら、僕も気軽に巻けます」
「気軽に巻けないマフラーって何ですか?」
「さっきの水色とか」
「あー……」
グレー地に、黒と白のライン。
「色味が乏しい……?」
「僕は割と好きですよ、こういうの」
「色々な服を着てカラフルなのが葵さんなのに……」
「着せてるのはアイリスさんですからね?」
最初に入った店以外にも、二件目、三件目と回りながら色々試していく。自分一人で買いに来ていた場合、絶対にここまでの量を試すことはなかったはずだ。
「結構回るんですね」
「そうですか?」
何も疑問に思っていなかったのか、自分の言葉でアイリスの目が何度か瞬きを繰り返す。その様子から察するに、こういった買い物の時は普段からこうなのだろう。やはり自分とは違う。
「僕だけだったら、最初に入ったところで決めてしまうと思います」
「えー……? こんなにたくさんお店があるのに?」
若干の不満は隠されることもなく、その口調にはっきりと表れている。
「色々と見て回った方が楽しくないですか?」
「一人だったらそう思わなかったってだけですよ」
「じゃあ、今はどうです?」
「意外と楽しいですね、こういうのも」
「ほら。やっぱり葵さんは女の子寄り……」
「最初のお店で見たのに決めましょうか」
「わぁ!? 冗談です!?」
せっかく思ったことを素直に伝えたのに、アイリスの返しはあまりにもいつも通り。これでは、素直になった自分が微かに恥ずかしいだけだ。
「あ、でも、流石にそろそろ決めた方がいいかもしれないですね。これ以上他のお店を回っても、多分似たようなのが多いと思いますし……」
「そういうものですか?」
「そういうものです」
頷きながらの鸚鵡返しに、これまで試してきたあれこれを思い出す。二桁にも上る候補の中で、最後まで頭の中に残ったものは。
「それなら、何となくこれかなってものはあります」
「葵さんが気に入ったのなら、それにしましょうか」
そう言って、アイリスが背を向けて歩き出す。どこで見たどのマフラーなのかも伝えていないのに、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。
「こっちですよ」
「……」
たったの一言で、その足が止まる。
何も知らないはずのアイリスが歩き出した方向。それは、これから向かおうとする方向とは真逆の方向だった。
「……し、知ってましたし……?」
「じゃあ、アイリスさんはそっちから向かってください。僕はこっちから向かうので」
「一緒に来てるんですからぁ……! 一緒に行きましょうよぉ……!」
先走ったことを認めようとしないアイリスを見捨てたその瞬間、半分泣いたような表情で縋り付かれてしまった。こんな場所には似つかわしくない顔である。
「どうしてそんな意地悪をするんですか……」
「アイリスさんが勝手に歩き始めただけですよ」
「いいですもん……。そんな意地悪をするんだったら、このマフラーは私が持っていっちゃいます」
拗ねたように言いながら、先程からずっと抱えていたマフラーをさらに力強く抱え込むアイリス。人ではないが、これではほとんど人質のようなものだった。
「葵さんは寒がりながら帰ったらいいんです」
「どうせこれから新しいのを買いますし、そっちを巻いて帰りますね」
「ぐっ……!」
だが、今日の目的を考えればその人質は意味がない。これまで巻いていたものが奪われたところで、結局この後新しいものが手に入る予定だ。それを巻いて帰れば問題ない。
「残念でしたね」
「むぅー……」
「ほら、こっちですよ」
ふくれっ面のアイリスを連れて、今度こそ本来の方向へと歩き出す。少しだけ早足で追いついてきてこちらを見上げるその表情もまた、この場には似つかわしくないような、不満たっぷりのものだった。
「葵さんの髪の色とちょっと似てますね」
「そうですか?」
「はい。綺麗な色だと思います」
シャモア色のマフラーが入った袋を手に店を出た直後、アイリスがそんなことを言い出した。一瞬マフラーのことを「綺麗」と評したのかとも思ったが、明らかにその視線は髪に向いている。
そのことに気付いた途端、不思議なくらいに恥ずかしさがこみ上げてきた。
「アイリスさんにそう言われるのはちょっと……」
「何か不満でも?」
「そうじゃなくて。僕からすれば、そんなことを言ってるアイリスさんの髪の方が綺麗だと思います」
「うぇっ……!?」
謎の言葉と共に肩を跳ね上げるアイリス。不意打ちのような形になってしまったのは否めないが、それでもこれほど反応するとは思っていなかった。
「僕はよくある色ですけど、アイリスさんの色は滅多に見ませんからね。印象にも残ります」
「そ、そんな風に思ってたんですか……?」
「何を驚いてるのか知りませんけど、ずっと前にも言ったような気がしますよ?」
最早いつ言ったのかも覚えていないが、何かそんなことを話したような記憶だけがあった。うっすらと霞む記憶の中で、闇夜に煌く菜の花色が浮かぶ。
「確かに言われたような覚えはありますけど、お世辞かと思ってました……」
「お世辞はあんまり言いませんよ」
「わ、分かりましたからっ……! これ以上はだめですっ!」
赤くなった頬を隠すように、首元のマフラーを引き上げる。片手が塞がった状態では、本人が思っているより隠しきれていないが。
「あ」
「ま、まだ何か?」
そんな様子を見ていて気付く。思わず漏らした声にアイリスが警戒を強めるが、間違いなく恐れているようなことは起こらない。
「ずっと持っててくれてありがとうございます。次はアイリスさんの番ですし、僕が預かりますよ」
塞がったアイリスの片手にあるのは、今日自分が巻いてきたマフラー。色々と試す時に預かってもらっていたのが、そのままになっていた。
もう自分が試着することがない以上、預かってもらう必要はどこにもない。ましてや、これからはアイリスが選ぶ番である。自分のマフラーを首元に戻すのに加えて、アイリスの分も預かっておくべきだろう。
「あ、そう……、ですね」
言われてようやく気付いたのか、抱え込んでいた黒いマフラーが差し出される。
「片手で巻けます? 巻いてあげましょうか?」
一度紙袋を見てからの問い。きっと純粋な厚意から出た提案だったのだろうが、その光景は絶対に心臓に悪い。
「大丈夫です。何とでもなります」
「そうですか? じゃあ……」
断るのを何となく惜しく感じつつも、心の安寧を優先してマフラーを受け取る。
片手が塞がっていると言っても、持っているのは軽い紙袋。どうにか手に持ったまま、少しだけ歪な形になりながらも首元に巻いていく。
「よし。じゃあ、アイリスさんのも預かります」
「あ、その前に」
「え?」
並んで歩いていた状態から、アイリスが一歩前に出る。そのまま振り向いて立ち止まったのを見てしまえば、自分も足を止めざるを得ない。
「ちょっとだけ失礼しますね?」
「あっ……」
向かい合うような形になったまま、そっとその手が伸びてくる。小さく笑みを浮かべながら、視線も同じく首元に。もぞもぞとマフラーが動く感覚があるのは、アイリスがそこに触れているから。
「はいっ! 綺麗になりました!」
「あ、ありがとう、ございます……」
歪んだマフラーを直してくれていた。言葉にすれば、たったそれだけのことである。
だが、全く予想していなかったこと。思ったよりもその距離が近かったこと。そして、アイリスが楽しそうにしていたこと。
そんなこんなが合わさって、「それだけ」という言葉では済ませることができないくらいに鼓動が速くなっていた。
「葵さん?」
「は、はい……?」
「どうかしました? ほっぺたが赤いですよ?」
自身がそれだけのことをしたと気付いていないのか、アイリスはやたらと不思議そうな顔をしながら首を傾げている。色々なところで鋭さを見せる反面、たまにこういったところで抜けたような一面を見せてくるアイリスなのだった。
「お店の中があったかいからじゃないですか?」
「確かに、私もマフラーはいらないかなって思うくらいにはあったかいですけど」
「けど?」
「今の葵さん、嘘を吐いてるような気がします」
「……」
そして、見せなくてもいい場面で鋭さを見せる。気付くなら気付く、気付かないなら気付かないで統一してほしい。
「こういう時の私の勘は鋭いですよ? 葵さん限定で」
「迷惑……」
何か嘘を吐く時の仕草でも見抜かれているのではないかと錯覚してしまうような、そんな自信に満ちた一言だった。はっきり言って、少し怖い。
「で? 何を隠したんですか?」
「も、黙秘で……」
「そう言うってことは、隠し事自体はあるんですね」
「それも黙秘で……」
「ふーん……」
じっとりとした目で見つめてくる。ラピスラズリの大きさは、いつもの半分程度になってしまっていた。
「もう隠し事はしないって言ってたのに……」
「それとこれとは話が別というか……」
自分でもしどろもどろになっているのは自覚できたが、だからと言って今の心情を白状してしまうことなどできる訳もなく。ただただアイリスから目を逸らすことしかできなかった。
「ほ、ほら。次はアイリスさんの番なんですから。早く行きましょう」
「露骨に誤魔化しますね。こんなに下手でした?」
これ以上は耐えられそうにないので、無理矢理振りきって歩みを再開する。このまま話していたところで、自分の旗色がよくなることは絶対にない。
「ついでに言うと、こっちですよ?」
「……」
ぴたりと。再開したはずの歩みが止まる。背後から聞こえてきた言葉は、まさに先程自分が言った言葉。そっくりそのまま返されたそれは、微かに悪戯っぽい色を含んでいる。
「そういうところが可愛いんですよ、葵さん」
「……」
振り向くだけの動きがこんなに恥ずかしいのは、人生で初めてのことだった。
「実は、さっき葵さんのマフラーを探してる時に、自分のも見てたんですよね」
「で、気に入ったのがあったと」
「はいっ」
若干残っている恥ずかしさを押し殺しながら、アイリスの言う店へと向かう。告げられた店名は、記憶が正しければ、二件目として回った店だった。
「無地のものを買おうと思ってるんですよ」
「そうなんですか?」
「今巻いてるのが模様入りなので、無地もいいかなって」
その一言に、そっとアイリスの首元へと目を向ける。
去年の年末にも見た覚えのあるクリームイエローのマフラーは、確かにアイリスの言う通り細かく模様が入っている。その反動と言うのは大げさかもしれないが、とにかく今回買うのは無地に決めているらしかった。
「葵さんには色を見てもらおうかなって思ってます」
「色」
「色です」
今回自分に求められるのは、どうやらそこらしい。単純な役割にも聞こえるが、相手がアイリスともなれば話は違ってくる。
暗い色や明るい水色で何かが違うと言われた自分とは違い、大抵のものが似合ってしまいそうなのがアイリスだ。果たして、自分が参考になるようなことを言えるのだろうか。今から少しだけ不安だった。
「そうは言っても、葵さんはあんまりこういうのが得意じゃないって言ってましたもんね」
「言いましたね」
「そんなわけで、候補をいくつかに絞っておきました」
「……優しさが身に沁みます」
「もっと褒めてくれてもいいんですよ?」
そんな不安を汲み取ってくれたかのように、既に万全の態勢を整えていたアイリスが胸を張る。この手のことに関しては、頭が上がる気がしなかった。
「えっ!?」
そう思っていると、何か見てはいけないものを見てしまったような様子でアイリスが立ち止まった。あまりに急な出来事に、つい二歩程前に出てしまう。
「え? どうかしました?」
これまでの様子とは明らかに違う様子で立ち止まったことが気になって、これまでの流れも関係なく問いかける。
だが、アイリスは振り返った自分を見てはいなかった。
「こ、こっちです……!」
「え?」
何やら自分の背後を見ていたアイリスが、突然手を掴んで道を逸れる。向かおうとしていた店からは離れてしまう方向だった。
「……! ……!」
「何なんですか」
近くにあった店の商品棚に隠れながら首を横に振る姿は、どこからどう見ても普通ではない。これまでの様子が様子だけに、その違和感は際立っている。
「碧依先輩と渡井先輩がいました……!」
「……」
流れる音楽に掻き消されそうな程に小さな声で告げられた事実は、こんな場面では直面したくなかった事実。
「……本当に?」
「ほんとです……! 向こうは気付いてないと思いますけど……」
揺れる瑠璃色に嘘の気配はない。そもそもの話、こんなタイミングでこんな嘘を吐く必要はどこにもない。それを考えると、すぐ近くに碧依と莉花がいるのは本当のことなのだろう。
「……」
今日という日の未来が一気に不透明になった、そんな瞬間だった。




