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90. 二つの色

「葵さんって、運動はそんなに得意じゃないって言ってましたよね?」

「ですね。体力もそんなにないですよ」


 転ぶこともなく無事に初詣を終え、これまた何事もなく帰宅してから少しして。こんな日から忙しく動き回る用事もないので、とりあえず四人揃ってリビングでテレビを見ていた時のこと。


 毎年元日に行われる駅伝の中継が流れていた影響なのか、アイリスがそんなことを尋ねてきた。


「イメージ通りですね。やっぱり葵さんはそうじゃないと」

「喧嘩を売ってますか?」


 答えに満足したのか、やたらと大きく頷きながら言うアイリス。どう聞いても好戦的な一言だった。


「だって、葵さんの見た目で体力がありますって言われても、多分誰も信じてくれないですよ?」

「鏡って知ってますか?」


 それを言えば、アイリスもほとんど同じようなものだろう。確かに快活そうな見た目ではあるが、莉花や紗季とは違って体力があるようには見えない。恐らく、その小柄な体躯が原因なのだろうが。


「効きませんよ。私も体力がないのは自覚してますもん」

「低いレベルで煽り合って何がしたいんですか」


 傍から見れば、これほど滑稽なやり取りもそうそうない。


「別に何ってことはないですけど、そんなことを言ってたなって思って」

「理由もなく煽られた……?」

「これからも、葵さんはそのままでいてくださいね」


 その笑みと言葉だけを切り取れば、随分と様になる一幕だったのだろう。だが、そこに状況を加えると意味は一変する。こんなにも素直に受け取ることができない言葉を投げかけられるとは、微塵も思っていなかった。


「……少しは運動しましょうか」

「だめですよ。可愛い服から見える体が筋肉でいっぱいなんて、そんなの葵さんじゃないです」

「僕のことを何だと」

「世界一可愛い男の子です」

「……」


 アイリスが自分のことをどう思っているのか、今更ながらに垣間見える一幕だった。




 相も変わらずアイリス達と他愛のない話をし、さらにこんな日に進めなくてもと言われながら冬休みの宿題を進めているうちに、少しだけ外が暗くなってきた。時計を見れば、針は午後四時頃を指している。


「どれくらい進みました?」

「九割くらいですね。あと一日もあれば終わりますよ」

「やっぱり進むスピードが違いますね」


 何だかんだ言いつつ隣で同じように宿題を進めていたアイリスが、あまり芳しくないらしい自身の状況に顔をしかめながらそう口にする。


「アイリスさんは今どれくらいですか?」

「大体七割くらい……、ですかね」

「十分進んでるじゃないですか」


 やや沈んだような表情だったので身構えていたが、思ったよりも進んではいるようだった。この分なら、恐らく期限ぎりぎりになることもなく終えられるだろう。


「まぁ、今回は葵さんがいますからね」

「何か関係あります?」

「葵さんがやってると、流石に私もやらないとなって思って」

「別に気にしなくてもいいと思いますよ。自分のペースで進めるのが一番ですし」

「じゃあ、葵さんが勉強してる隣で私が遊んでたら、どう思います? ……葵さんで」

「見捨てます」

「分かりました。絶対にやりません」


 当たり前の話だった。


「とにかく、宿題が進むのは悪いことじゃないので、葵さんこそ気にしないでください」

「そう言うなら気にしませんけど、だったら何がそんなに気になってるんですか?」


 今の話を聞く限り、そこまで問題に思えるようなことはなかった。ならば、アイリスは一体何が引っかかっているのだろうか。


「気になってるってより、いいなって」

「はい?」

「だって、そんなにすらすら解けたら楽しそうじゃないですか。葵さんがこれまで頑張ってきたからだってことは分かってても、それでも羨ましいです」

「はぁ……?」


 アイリスが明かしてくれた心の内は、これまで頭に浮かんだこともないものだった。独特な視点、とでも言うべきか。


「そんなものですか?」

「そうです。一日入れ替わることができるんだったら、その時は是非入れ替わってみたいです」

「何をするつもりで?」


 怪しさしかない発言だが、果たしてその真意は。


「葵さんの心を丸裸に……!」

「宿題は?」


 ゆるゆるになった頬を押さえながら口にしたのは、これまでの話の流れを完全に無視した一言だった。では、この時間は何だったのだろうか。


「それもやりますけど、葵さんが何を考えてるのかって方が知りたいですし……!」

「……」


 瞳に危ない色が混ざり始めているような気がして、思わず少し引いてしまった。心情的にも、物理的にも。


「どうして少し離れたんですか?」

「何となく身の危険を感じて……」

「こんなに人畜無害な女の子なのに」

「本当に人畜無害なら、僕に巫女服を着せようとはしないと思うんですよね」

「それとこれとはお話が別ってことで」


 清々しい笑みだった。正しい状況で浮かべたものなら、大抵の人間は毒気を抜かれてしまいそうな程に。だが悲しいことに、今の状況は何も正しくない。


「……それをやると、僕もアイリスさんの考えてることが分かるってことですけど」

「よし。やめておきましょう」


 実に迅速な撤退だった。これまでの勢いはどこへ行ってしまったのか。


「仕方ありません。何とか頑張って終わらせることにします」

「それがいいと思いますよ。もし分からないところがあったら、その時は手伝いますから」

「ありがとうございます!」


 そう言って笑うアイリスには、もう怪しさの影は見当たらない。どこからどう見ても、いつも通りの可愛過ぎる姿だった。




「私、葵さんからのお年玉が欲しいです」

「……」

「葵さんからの、お年玉が、欲しいです」

「聞こえなかったわけじゃないんです」


 日はとうの昔に沈み、外を真っ黒な闇が包み込んだ午後七時半。テーブルの上にずらりと並べられた料理を四人で囲む中、何の脈絡もなくアイリスがそう切り出した。


「お年玉?」

「お年玉」

「……」

「……」

「あ、伊達巻食べます?」

「食べますっ」


 何を言っているのか理解できなかったので、とりあえず好きだと言っていた伊達巻をアイリスの取り皿に取り分ける。これで話題が逸れてくれるのなら御の字だ。


「美味しいですか?」

「美味しいですっ!」

「それならよかったです」


 小さな口で満足そうに頬張っているのを見る限り、ひとまず謎の話題は気にしなくてもよさそうだった。このまま忘れてくれるのが一番理想的である。


「私達の娘が単純過ぎる」

「素直……、とはちょっと違うか」


 その様子を見ていたアーロンとレティシアの評価は、自らの娘に向けるものとしてはやや辛辣なもの。ただし、そう言いたくなる気持ちは痛い程よく分かる。自分でそう仕向けておいて何だが、やや心配になってしまった。


「で、お年玉のお話ですけど」

「海老、食べます?」

「いいんですかっ?」


 ちょうど身を取り出した海老を、これまたアイリスの取り皿に移す。人気はあるものの、その扱いの面倒さも随一のメニューはまだ三尾残っている。自分が食べる分は特に気にしなくても問題ない。


「私達の娘が餌付けされてる」

「もうほとんど親だね」


 二人の評価は相変わらずだった。


「こんなにしてもらっちゃっていいんですか?」

「お正月ですから」

「ってことは、やっぱりお年玉ですよ」

「……」


 結局逸れていなかった。これではただ食事の世話をしただけである。


「残念だったわね、葵君」

「こういう時のアイリスはしつこいよ?」

「しつこいって何?」


 一度だけアーロンに抗議の視線を向けたアイリスだったが、その視線はすぐさま自分に帰ってくる。どうあっても逃がすつもりはないらしかった。


「ま、それはいつか問い詰めるとして。葵さん」

「あ、栗きんとん……」

「あとで食べます」

「はい……」


 流石に三度目は通用しない。それはある程度予想していたことに加え、そもそも同じ手口を繰り返し過ぎた。話が逸れてくれなかったのは、そんな行いの罰なのだろうか。


 何にせよ、もうその単語に向き合うより他はない。


「……何のつもりですか」

「どうしてそんなに警戒を?」

「絶対にろくでもないことを言い出します」

「あんまり嬉しくない信頼のされ方です……」


 そう言ってやや落ち込むような様子を見せるアイリスだったが、これに関しては自業自得としか言いようがない。恨むのならば、去年のアイリスを恨んでほしい。


「で? 何ですか、お年玉って」

「いや、あのですね……? 別にお金をくださいって言ってるわけじゃないんですよ……?」

「それは何となく分かってます。もっとよく分からないことを言い出すんじゃないかってことも」

「あれ? さっきの優しさはどこに……?」


 不思議そうに辺りを見回しているが、そんなところに優しさは漂ってなどいない。漂っているのは、不穏な空気だけだ。


「続きは?」

「あ、はい……。葵さんからのお年玉は、『甘やかしてもらえる』とかがいいなって思ってたんですけど……」

「けど?」

「今すぐ優しさが欲しくなってきたかもしれません」

「お年玉なんて言い出さなかったら、あのまま優しくできたかもしれなかったんですけどね」

「あれぇ?」


 小さく首を傾げるアイリス。本当に傾げたいのは、案の定よく分からないことを言われた自分である。


「普段から甘やかされてるみたいなものだと思うの」

「そうだね。気付いてなかったかい?」

「気付いてたけど、特別甘やかしてほしい」

「わがままね……」


 レティシアの困ったような笑いが、アイリスを除いた三人の感情を代表しているかのようだった。


「だ、だめですか……?」

「……」


 劣勢なのを悟ったのか、不安そうに揺れる瞳が隣から見つめてくる。これまで何度も見た、それでいて未だにほとんど勝てないその瞳に心が揺れる。もうその時点で甘やかしているとも取れるが、こればかりはどうしようもない。この先ずっと勝てないと、半ば諦めの境地に達している。


「……甘やかすとかはちょっとあれですけど」

「……」

「休み明けに、何かアイリスさんの好きなものを一品弁当に入れて持っていく、とか」

「またやってくれるんですかっ!?」

「え、えぇ……。それくらいなら……」


 圧に押されて若干仰け反ってしまった。それだけ、アイリスの勢いが復活したということでもある。


「じゃあ、それでお願いします!」

「わ、分かりました……」


 そして、そのまま約束となる。紆余曲折あったような気もするが、どうにか現実的なところに落とし込めたのは喜ぶべきことなのだろうか。


「葵君も、あの目には弱いままだね」

「……」


 喜べないことの方が大きいのかもしれなかった。




「そろそろ本格的にまずいと思うんです」

「何がですか?」


 穏やかな天気だった昨日とは違い、時折雪がちらつく様子が見える一月二日、火曜日。もう何度目になるのか分からない撮影会が開催される中、ふと思ったことを口に出す。


 対するアイリスは、いつも通りスマートフォンを構えて撮影係に徹している。いつも通りであってほしくはなかった。


「この服を着る時もそうでしたけど、段々恥ずかしさが薄れてきてるような気がします」


 そう言いながら、そっと自分の姿を見下ろす。そこにあるのは、昨日も見た赤と白の衣装。防御力はサンタ服の時よりも高いが、だからと言って積極的に着るかと問われると、否と返事をするしかない、そんな衣装。


 約束した通りの巫女服だった。


「慣れてきちゃったってことですか?」


 レンズ越しではなく、画面から目を離して直接こちらを見るアイリス。その頬が上気しているように見えるのは、果たして目の錯覚なのだろうか。


「そうですね」

「そんな……!?」

「どうしてショックを受けてるんですか」

「だって……!」


 心の中で慣れたくなかったと落胆していると、何故かアイリスがわなわなと手を震わせていた。ショックを受けたいのは自分の方なのに。


「恥ずかしがってる葵さんが可愛いのに、それがなくなっちゃうなんて……」

「慣れて正解だったのかもしれませんね」


 一瞬で考えを改めた。これでアイリスがコスプレの提案を控えてくれるのなら、これまで恥を忍んで着てきた甲斐があったというものだ。


(いや……、それは違うのでは?)


 何かずれた考え方をしてしまったような気がして、一人反省する。前提からして、ことあるごとにコスプレさせられている方がおかしいということは忘れてはならない。


「あ、でも、慣れてきたってことは……」

「……その先はあんまり聞きたくないです」


 何かに気付いた様子で少しだけ目を見開くアイリス。その話の入り方ということは、まず間違いなく自分にとってマイナス方向の本題が待っているはずだ。


「これからは色々受け入れてもらえるってことでは……!?」

「やっぱり……」


 案の定である。見開いた目を輝かせながら、今度は興奮で震える手で口元を押さえている。


「お墨付きを貰ったってことですもんね……! 流石に毎月は新鮮さがないので、少しだけ間は空けるつもりですけどっ!」

「出してませんよ」

「ナース……、警察……」

「聞いてませんね」


 早くも頭の中にコスプレの候補が浮かび始めているのか、アイリスの口からは欲望が零れ落ちていた。これでは口を押さえている意味がない。


「恥ずかしがってはくれなくても、その分表情のバリエーションが増えるってことになりますもんね。それもいいかもしれないです」

「無表情で固定しておきますね」

「全力で笑ってくれたら、私はもうそれだけで満足です」

「やっぱり聞いてないですね」


 会話が成立しているようでしていない。ほとんどアイリスの独り言のようなものだ。


「お部屋の中なのが惜しいです……。外で竹ぼうきを持ってお掃除してるところで雪が降ってきて、白い息を吐きながら空を見上げてる姿とかが理想なのに……!」

「具体的過ぎますし、笑うだけじゃ満足してないじゃないですか」


 理想的な光景とやらが鮮明に描かれ過ぎている。まるで、何かのモデルでもあるかのような解像度だった。


「人間の欲望に際限なんてないんですよ!」

「完全に悪役の台詞ですけど、それでいいんですか?」

「葵さんの写真フォルダが埋まっていくなら、私は悪役でも構いません!」

「何ですかそのフォルダ」


 中身が分かりやすいにも程があるフォルダ名である。ちなみに、特に見たくはない。何が悲しくて、望んでいない自分のコスプレ姿を見なければならないのか。


「たまに見返して、一人でにこにこしてます」

「……」

「あ、待ってください。離れるのはだめです」


 果たして、今の自分はどんな顔をしていたのだろう。そんなよく分からない表情を浮かべながら無意識にアイリスから距離を取ってしまったが、その分以上に詰められた。結局近付いている。


「やっぱり、白と赤って組み合わせが一番ですよね。我ながらいい仕事をしました」


 そのまま着ている巫女服をしげしげと眺められる。どこかくすぐったいような、そんな視線が全身を駆け巡る。


「丈が短いものもありましたけど、神職ってそういうものじゃないと思いませんか?」

「……僕にどんな答えを期待してるんですか」

「あ、それとも、葵さんは短めの方が着慣れてたりします?」

「これでよかったです」


 思わず心にもない言葉が口を衝いて出た。何もよくないのに。


 そして、アイリスの言葉で思い出す。確かに、これまで着てきた衣装の大半は、足元の風通しが抜群だった。それを考えると、今着ている巫女服はかなり大人しい部類に入るのかもしれない。


 性別は別として。


「と言うか、着慣れるって何ですか。慣れたくないんですって」

「でも慣れてきたんですよね?」

「……きましたけど」


 当たり前のことを話すかのような口調である。小さく首が傾げられているが、その答えを疑ってはいないのだろう。残念なことに、アイリスのその考え通り、先程自分が言った言葉は否定できない。


「そもそも、立場が逆なんですよ」

「逆?」

「普通はアイリスさんがこういうのを着る立場じゃないんですか」

「え……。見たい、ですか……?」


 まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったらしく、アイリスが心の底から意外そうな表情で固まりかけていた。元々上気していた頬は、さらにその赤みを増している。その言葉の意味を頭で理解するよりも先に、心の方が何かしらの反応を示したのかもしれない。


 そんな状況で辛うじて返ってきた疑問に答えるならば。


「見たいに決まってるじゃないですか。絶対に可愛いんですから」


 心の声に従った、そんな言葉。だからこそ、伝えた相手には効果覿面だった。


「え……!?」


 一瞬で顔を沸騰させ、他に誰かが見ている訳でもないのに辺りに視線を彷徨わせる。何故か胸元で手を握り締め、たまに目が合ってはすぐに逸らされる。


 おろおろ。あたふた。わたわた。


 そんな効果音が聞こえてきそうな慌て具合である。


「なんで……!?」

「何でって。別に深い理由はないですよ。でも、色々似合うんだろうなって」

「あぅ……!」


 そして、最後は俯いて黙り込む。その寸前、小さく漏らした呻き声は、他に誰もいないからこそ聞こえた声だった。


「相変わらず不意打ちに弱いですね」

「分かっててやったんですか……」

「そう思ってるのは本当ですよ」

「うぅ……! 葵さんが意地悪してくる……!」

「褒めてるんですって」

「もっと褒め方ってものがあると思うんです……」


 抗議の意味を込めているのか、弱々しく巫女服の胸元を掴んでくる。微かに引っ張られる程度の、見ていなければ気付けないような力だった。


「葵さんは簡単に可愛いとか言い過ぎなんですよ……」

「鍛えられてますから」


 頻繁に言っていた時の相手は、アイリスよりもずっと年下だったが。


「そうやって言われる身にもなってください……」

「……割と普段からアイリスさんに言われてる気がします」


 そうやって言われる身である。


「うぅー……!」


 その言葉には反論できなかったのか、今度は唸り声を上げて見上げてくるだけ。本人的には威嚇か何かのつもりなのかもしれないが、如何せん可愛らしさが勝って迫力がない。


「……そういうところですよね」

「何がですかぁ……!」

「ただいまー……って。何してるの?」

「あれ? また初詣に来たのかな?」


 そうして改めて目の前にいるアイリスの恐ろしさを認識したところで、買い物に出かけていたアーロンとレティシアが帰ってきた。


「……」

「……」


 レティシアとしっかり目が合った。見つめる先で、その口元が弧を描いていく。まるで、これ以上ないくらいに面白いものを見つけてしまったとでも言うように。


「いや……、違うんですよ……」

「まだ何にも言ってないわよ?」

「う……」


 対応を焦るあまり、言わなくていい一言を口にしてしまったような気がする。これでは、何かあったと白状しているようなものだ。実際には何もなかったが。


「何々? 何でうちの娘は恥ずかしそうに葵君の胸元を掴んでるの?」

「……っ!」


 これまで二人と一切目を合わせようとしなかったアイリスの肩が跳ねる。それを見たレティシアの口元は、さらに大きく弧を描く。


「あらあら……?」

「……」


 楽しそうに見つめてくる、アイリスと同じ瑠璃色の瞳。その視線から逃げることが叶わないのは、火を見るよりも明らかだった。




 そんなことがあった翌日。一月三日、水曜日。


 レティシアがいないところで何かがあると、仔細に渡って聞き出されてしまうことが分かったので、今日はアイリスと二人して買い物に同行することとなった。そんな訳で、今日はアーロンがお留守番である。


「やっぱりいいわ」

「いきなり何?」


 大晦日の時と同じく、今日も自分がカートを押す役目。レティシアと並ぶようにして歩いていると、突然そのレティシアが嬉しそうな声を上げた。それに反応したアイリスはといえば、何か怪しいものを見るような目をレティシアに向けている。


「こうやってカートを押してくれるだけでも嬉しい」

「はぁ……?」


 何やら随分と素朴な喜びを伝えられたが、自分はどう反応するのが正解なのだろうか。よく分からないまま、頭の上に疑問符を浮かべた曖昧な言葉を返す。


「そんなにですか?」

「私だってたまに押してるでしょ?」

「違うの。葵君くらいの男の子が押してくれるのがいいの」

「何なの?」


 いよいよアイリスの怪しげな視線が深まっていく。これまでにほとんど見たことがないような視線だった。


「ほら、葵君くらいの歳の男の子って、あんまりこういうお買い物に付き合ってくれないでしょ?」

「かもしれないけど」

「でもね? 親としては、こういう何気ないところでも一緒にお出かけできるのは嬉しいものなの」

「そういうものかなぁ……?」

「それに、親は異性の子供を特に可愛がるイメージがない?」

「だから葵さんなの?」

「そ」


 陳列された商品もそっちのけで語るレティシアは、実に楽しそうな表情を浮かべている。見ているだけで、心の底からそう思っていることがはっきりと伝わってくるような表情だ。


「何でもないお話も聞いてくれて、お料理のお話もできて、お買い物のお手伝いもしてくれて。そして何より可愛い」

「何より……?」


 何となく恥ずかしくて黙って聞いていたが、流石にその一言は受け流せなかった。一番重要な部分がそこでいいのだろうか。


「私の理想にぴったり」

「らしいですよ、葵さん」

「何て答えたらいいんですか」


 やたらと具体的な理想を語られても、自分としてはそれに対する答えは持ち合わせていない。悪く言われている訳ではないことは、喜んでもいいのかもしれないが。


「でも、確かにお買い物には慣れてそうですよね」

「まぁ、一人暮らしですから。必ず通る道ですし」

「あと可愛いです」

「その一言は必要でした?」


 取って付けたような一言だったが、何故か真剣な顔をしていた。解せない。


「一番大事ですよ?」

「……そうですか」


 親子だった。


「そんなわけで、これからもよろしくね?」

「……機会があれば」


 一体どんな条件が揃えば後輩の親と買い物に行くことになるのかは知らないが、すげなく断ることもできない。


 結局、口から出たのは肯定らしき曖昧な言葉だけだった。




「葵さん」

「はい?」

「ミルクチョコとホワイトチョコだったら、どっちが好きですか?」


 一通り必要なものをカゴに詰め終えた後、ふらりと立ち寄ったその棚。並んでいるのは、大小様々、色とりどりのチョコレートだった。定番の商品からあまり見たことがない商品まで、その身を寄せ合うようにして陳列されている。


 そんな中でアイリスの口から聞こえてきた質問は、この場所だからこそのもの。


「あ、ビターチョコとかでもいいですけど」

「好きなチョコレートですか……」

「はい。どんなものでもいいので、何か好みってあります?」


 改めてそう問われると難しい質問だった。


 どんな種類のチョコレートでも美味しく食べられる分、際立った好みが見つからない。あるとすれば、「強いて言うと」といったレベルの好みだけ。


「あんまりこれって好みはないですけど、買うことが多いのはホワイトチョコだと思います」

「ホワイトチョコですか……」


 答えを待つようにしてこちらを見ていたアイリスが、そう呟きながら棚に視線を移す。あちこちを見回している辺り、今自分が口にしたホワイトチョコレートを探しているらしい。


「アイリスさんはどっちが好みなんですか?」

「私ですか?」


 棚に向いていた視線が再び戻ってくる。ぱちくりと瞬きが繰り返されるその瞳は、自らが聞き返されることを想定していなかったという色を宿していた。


「私はミルクチョコですね。でも、ホワイトチョコもビターチョコも好きですよ」

「へぇ。苦いのはだめって言ってたと思いますけど、チョコレートは大丈夫なんですね」


 その答えを聞きながら、コーヒーを拒んでいたいつかの記憶が蘇る。あれから少しは克服できたということだろうか。


「だめですよ? でも、チョコなら苦いだけじゃないので」

「甘さがあればいいと」

「そういうことです」


 小さく頷くアイリス。残念ながら、苦いものの克服は大分先になりそうだった。


「この子はねぇ……、昔から甘いものが好きで。食べ過ぎたら虫歯になるとか、太っちゃうとか、そうやって我慢させるのが大変だったんだから」

「い、今はちゃんと考えて食べてるもん……」


 予想外の方向からいきなり昔話の暴露という弾で撃ち抜かれ、ややしどろもどろになりながら弁明するアイリス。レティシアに向かってのものだったのに、ちらちらと自分にも視線が向けられるのは、やはり昔話が恥ずかしかったからなのか。


「葵君からも何か言ってあげて? 葵君が言う方が、よっぽどよく聞き入れそうな気がするわ」

「そうですか?」

「効果があり過ぎるくらいかもね?」

「はぁ……?」


 その言葉の意味はいまいち分からないが、思ったことを口にするだけなら大したことではない。


「昔のことはよく分かりませんけど、ちゃんと考えてるならいいんじゃないですか?」

「葵君。ちょっと違う」

「え?」


 そう考えていたのに、言ったそばからレティシアに突っ込みを入れられた。どうやら、求められていたものとは違ったらしい。


「微妙に甘やかしてるわね」

「甘いものだけに?」

「あなたは静かにしてなさい」

「はい……」


 余計な茶々を入れたアイリスが黙らされた。口は災いの元である。


「甘やかしてました?」

「自覚がないのね。葵君、案外そういうところが……」


 自分ではよく分からない感覚だったのだが、何故かレティシアから苦笑いを向けられてしまう。と言うより、どこか困ったような表情にも見えたが。


「いい? 葵君」

「はい」

「前にも言ったような気がするけど、この子は甘やかされるのが得意なの」

「ですね。何となくそう思ってます」

「えへ」

「でしょ? だからこそ、葵君の方がしっかりしないといけないの」

「……うん?」


 妙に深刻そうな顔で言うレティシアだったが、何か理論に飛躍があったような気がした。アイリスが甘やかされる話から、どうして自分が気を付ける話になったのだろうか。


「そうじゃないと、多分ずるずると甘やかし、甘やかされになっちゃうわよ」

「葵さんに甘やかされるのは好きですっ」

「ほら」

「……」


 どう考えてもその主張をしていい場面ではなかったのに、アイリスの主張がとても激しかった。何なら、若干身を乗り出している。


 その瞳の輝きを見ていると、自分が気を付けないと本当にレティシアの言った未来が訪れそうな気がしてくるのだから恐ろしい。それほどまでにはっきりとした意思表示だった。


「これからは気を付けます」

「どうしてお母さんじゃなくて私に言うんですか?」

「アイリスさんをだめ人間にしてしまわないようにと思って」

「だめって何ですか、だめって」


 身を乗り出す勢いだったのが、少しだけ落ち着きを取り戻していた。「だめ人間」という言葉が思いの外効いたらしい。


「もう既に葵君に頼ってばっかりだものね?」

「う……」

「お勉強とか、お料理とか」

「うっ……!」

「バイト先でも?」

「うぅっ……!」

「まずは一人でも頑張れるようにならなくちゃね?」

「はいぃ……!」


 勢いが完全に萎み、むしろその体を小さくして呻き声を上げるアイリス。


 甘いチョコレートがたくさん並ぶ棚の前でするにしては、随分と苦みが強い話なのだった。

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