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9. きっかけ

「それで? 真面目な話、どうしたの?」


 アイリスの抗議を受け流していると、ようやく碧依がまともな話を始めた。


「……この後バイトのシフトが入ってるので、葵さんと一緒に帰ろうと思って」


 碧依から受けた評価が尾を引いているのか、アイリスが返す声はいつもよりもやや低いものだった。あるいは、自分がこれからもからかうと言ったからなのかもしれないが。


「あ、バイトで思い出した」

「はい?」

「二人って、どこでバイトをしてるの?」

「……それを知ってどうするつもりですか?」


 話の流れからすれば何でもない疑問のはずだが、碧依の口からそれが出てきた途端、何故か頭の中で警鐘が鳴り始めた。無意識のうちに、警戒心がやや強くなる。


「え? 行けそうなところなら、見に行ってみようかなって」

「あ、私も行きたいかも」


 莉花のものも含めて、これまた何でもない答えのはずだが、未だに警鐘は鳴りやまない。背後のアイリスが警戒心に満ちた声音で話しかけてきたのは、そんなタイミングだった。


「葵さん。どうしてか分からないんですけど、教えちゃだめな気がします」

「奇遇ですね。僕も何故か教えない方がいい気がしてました」

「え? 何で?」

「どうしてでしょうね。教えたら、絶対に厄介なことになる気がして」

「同じく、です。絶対にからかわれます。今みたいに」


 自分の背中から顔を覗かせて威嚇するアイリスの姿は、誰がどう見ても猫だった。思わず、猫耳と尻尾を想像してしまう。もちろん、尻尾は逆立っていた。


「ふーん……。そっか……」

「な、何ですか?」


 そんなアイリスを、莉花が何かに気付いたような顔で見つめる。次にその口から飛び出す言葉は、一体何なのか。明らかに警戒しているアイリスに加えて、自分までもが訳もなく不安に駆られる。


「そんなに『葵さん』のこと、独り占めしたいんだ?」

「ふぇ!?」

「は?」


 そんな自分達二人に対して莉花が口にした言葉は、唐突と言えば唐突なものだった。ただ、個人的にはあまり流れに合っていないような気がする。


「あ、図星?」

「ち、違いますよ!?」

「その割には慌ててない?」

「いきなりそんなことを言われたら、誰でも慌てます!」


 だが、アイリスの方はそうでもなかったようで。奇妙な声を上げてからというもの、莉花に指摘された通り、分かりやすく慌てている。少し前までは背中に隠れるだけだったのが、今ではしっかりとブレザーを握られていた。


「ほんとに? そう言ってるけど、随分湊君に懐いてる気がするよ?」

「そ、れは……。そうかも、しれませんけど……」


 続けて莉花に指摘され、アイリスの声が若干トーンダウンする。アイリス本人としても、何か思うところがあったのだろうか。


 何にせよ、このままでは莉花に押しきられそうな予感しかしないので、この辺りで口を挟むことにする。


「親鳥と雛鳥みたいなものだと思いますけどね」

「そう! それです!」

「それでいいんだ?」


 思い付いた言葉を適当に並べただけだったが、アイリスにとっては渡りに船だったのか、即座に便乗してきた。それに合わせて、ブレザーに加わる力が少しだけ強くなる。どんな表情をしているのかまでは見えないものの、見えているはずの碧依は苦笑していた。


 ともあれ、莉花の興味の矛先はアルバイト先から再びアイリス個人に逸れてくれた。この場を抜け出すのなら、今しかない。


「盛り上がってるところ悪いですけど、そろそろ帰らないといけないので……」

「あ、引き留めてごめんね」

「いえ、一応余裕はあるので、気にしないでください」

「そっか、ありがと。じゃあ、また明日ね」

「えぇ、また明日」


 どんな流れからでも、断りを入れると比較的あっさりと引いてくれる。この辺りが、莉花の対人能力の高さを如実に表していた。この対人能力を、自分と悠を女装させようとしている時にも発揮してほしいものである。


「アイリスさんも。行きましょう」

「あ、はいっ。それじゃあ、失礼します」

「うん、じゃあね。湊君、アイリスさん」


 未だにブレザーを離さないアイリスにも声をかけてから、自分の鞄を手に取る。あれだけの扱いを受けても去り際には丁寧に挨拶をしているところが、とてもアイリスらしい。ただし、声には微かに安堵の色が含まれていた。


 そうして、二人並んで教室を出る。


 その直後。


「あ! バイト先はぐらかされた!」

「気付いてなかったんだ……」


 莉花の悔しがる声と碧依の突っ込みが聞こえてくるのだった。




 ところ変わって、Dolceria pescaの店内にて。今日も今日とて、接客担当はアイリスと自分だった。


「今日は散々な目に遭った気がします……」

「いきなりどうしました?」


 夕方のピークは既に過ぎ、少しだけ余裕がある時間帯。アイリスの気分が唐突に沈み始めた。忙しい時には忘れていた何かを、今になって思い出してしまったのだろうか。


「朝は碧依先輩、放課後は渡井先輩」

「あー……」


 その名前だけで、理由の大部分は察しがついた。確かに、今思い出してもあの二人の絡み方は強烈だった。自分は基本的に眺めていることが多かったが、当事者だったらと想像すると、アイリスの疲れ具合も頷ける。


「葵さんの教室、もう行きにくくて仕方ないです。行きますけど」

「来るんですね」

「私は挫けませんよ」

「張り合うところが間違ってますよ」


 わざわざそこまでして訪ねてくるところでもないと、個人的にはそう思ってしまう。もちろん、最終的にはアイリスが決めることであり、本人が来ると言うのなら、それを止めることまではしないが。


 この店での接客と同じで、何度か繰り返して、碧依と莉花の対応を覚えてしまうのがいいのかもしれない。


「あ、いらっしゃいませ!」


 そこまで考えたところで、入口の扉が開く。すぐに反応している辺り、アイリスも少しずつ慣れてきたのだろう。


 カフェスペースの利用で、あらかじめ頼むメニューも決まっていたらしく、案内していったアイリスがそのまま注文を受けている。その一連の動作からは既にぎこちなさが消えていて、淀みのないものとなっていた。


 そちらは任せて、自分はショーケースの中身の整理に取り掛かる。幾度も注文を受けて乱れてしまったケーキの列を、綺麗に並べ直していく。


 そうこうしているうちに注文を取り終えたアイリスが、キッチンに声をかけてからカウンターに戻ってきた。頼まれたケーキの確認だろうか。


「あ……」


 隣に並んでショーケースの中を覗き込んだアイリスの口から小さく声が漏れたことで、意識が強制的にそちらに向けられる。


「どうしました?」

「えっと……、その……」


 伏し目がちな視線が少しだけ虚空を彷徨った後、一瞬ショーケースの中の一点に注がれる。


 一体何を見たのか。その視線を追ってショーケースの中に目を遣れば、それだけで何が起こったのかを理解することができた。自分も過去に一度だけ、同じことをしてしまった記憶がある。


「……」


 アイリスが見つめたその先。そこには、何もなかった。


「注文、受けたんですけど……。その、もう売り切れで……」


 普段と打って変わって、小さくか細い声だった。これでもかという程に、アイリスの感情が伝わってくる。


「あの、すみません……。ど、どうしたら……、いい、ですか?」


 見上げてくる瞳には、今にも零れ落ちそうな程に涙が溜まっている。働き始めて以来の、初めてのミスらしいミス。微かに生まれていた余裕も、いつの間にか一気に消え去ってしまっていた。


 ならば、自分がするべきことは、まずアイリスを落ち着かせることである。


「大丈夫です。どうにかしますから、まずは落ち着きましょう? 慌てたままじゃ、きちんと対応できなくなりますよ」

「は、はい……」


 少しでもアイリスの不安を取り除けるよう、穏やかな声音を意識する。それが功を奏したのか、揺れていた瞳が、少しずつ冷静さを取り戻していくのが見て取れた。


「とりあえず、お客さんに事情を説明しに行きましょうか。別のものに注文を変えるかは、その時に確認します」

「わ、かりました……。あの、説明は……」

「その辺の対応は僕がします。まだしっかり落ち着いていないみたいですしね」


 そうは言っても、普段通りになるにはまだまだ時間がかかりそうである。この状態で対応を任せてもあまりいい結果にはならないだろうと判断して、自分が対応することに決めた。そもそも、こういった時のために、先輩である自分がいるのだ。


 そうと決まれば、説明は早いに越したことはない。アイリスを伴って、カフェスペースへと足を向ける。


「お客様」

「はい?」

「先程注文されたケーキですが、既に売り切れてしまっていまして」

「え? あ、そうなの?」

「はい。こちらの確認不足です。申し訳ありません」

「あの……、すみませんでした!」


 注文が届くのを待っていた客に対して軽く説明をして、それから二人揃って頭を下げる。見たところは穏やかそうな印象の女性だが、果たしてどんな反応が返ってくるか。内心少しだけ緊張しつつ、そのままの姿勢を維持する。


「いいです、いいです。そんなわざわざ頭なんか下げてもらわなくても。別のケーキならまだあるんですよね?」


 どうやら、注文の変更を受け入れてもらえそうだった。緊張していた心を落ち着かせながら、ゆっくり頭を上げる。


「はい。今あるケーキなら、どれに変更されても対応いたします」

「それなら全然。実は、もう一つ迷ってたのがあるんですけど……」

「どちらでしょうか?」

「このタルトって、まだあります?」


 メニューの一か所を指差しながら尋ねられたのは、季節限定のタルトの一つだった。これなら、先程ショーケースの中身を整理している時に残っているのを確認している。


「はい、ご用意できます」

「じゃあ、これに変更でお願いします。」

「かしこまりました。すぐにお持ちします」


 注文の変更を受けてカウンターまで戻れば、ちょうどもう一つの注文だったらしいコーヒーが出来上がったタイミングだった。


 柚子からそれを受け取り、タルトと一緒にテーブルまで運んでしまう。今のアイリスに頼むよりも、自分が運んだ方がいいと考えてのことだ。


「お待たせしました」

「わ、ほんとにすぐだね」

「いえ。もし何かありましたら、遠慮なくおっしゃってください」

「ありがとうございます。いただきます」


 再度頭を下げて、フォークを手に取った客に背を向けて歩き出す。ひとまずはこれで問題ないはずだ。接客しやすいタイプの相手で助かったと、そう思いながらカウンターの中まで戻る。


「あ……、すみませんでした。私のミスなのに……」

「僕なら大丈夫ですから。全く気にしないのはだめですけど、気にし過ぎるのもよくないですよ」

「でも……」


 気まずそうに待っていたアイリスが、未だに沈んだ声で謝ってくる。いくら気にしないように言われたところで、自身のミスの後始末をさせてしまったという気持ちはなかなか消えないのだろう。実際、働き始めの自分もそうだった。


「そんな顔は似合いませんって。ほら、笑ってください」


 そんなアイリスに自分ができることは何だろうかと考え、そう言いながら両手の人差し指で自分の両方の頬を持ち上げてみせる。普段ならこんな仕草はしないが、今はそんなことを言っている場合ではない。


「あはっ……。何ですか、それ」


 慣れないことをした甲斐があったのか、ようやくアイリスが笑ってくれた。弱々しい笑顔ではあったが、これまでの表情と比べれば、ずっと和らいだ表情である。


「ここで働き始めてからまだ一か月も経ってないですけど、もうアイリスさんが『看板娘』って呼ばれてるのは知ってました?」

「え?」


 もう先程の表情に逆戻りさせないようにと、これまでアイリスに隠していた事実を口にする。話の流れが急に変わってついてこられなかったのか、それともそう呼ばれているのが意外だったのか、とにかくアイリスは驚いたようだった。


「知らないみたいですね。それくらい、アイリスさんはお客さんから人気があるんですよ?」

「どうしてそれを今……?」

「そんな人が暗い顔をしてると、皆さん心配するんですよ。もちろん、どんな時でも明るく振る舞え、なんて言うつもりはないですけど」

「あ……」

「まぁ、そういうことで。この話はこれくらいにしましょう」


 言っていて少し恥ずかしくなってきたので、若干無理矢理ではあるが話を終わらせた。とりあえず、あまり気にし過ぎないようにということだけが伝わればそれでいい。


「……ありがとうございます、葵さん」


 やや間を空けてから呟かれた声は小さかったが、それでもはっきりと自分まで届いた。




「さて、じゃあもう少し後始末をしましょうか」

「もう少し、ですか?」

「もう少し、です」


 そう答えながら向かう先は、太一と柚子がいるキッチン。報告がてら、あることの確認も取ってしまうつもりだった。


「太一さん、柚子さん」


 許可なくキッチンに入るのは禁止されているので、扉を開けて、中にいた二人に声をかける。


「なに?」

「どうかしたかい?」

「ついさっきなんですけど、ケーキの注文でミスがありまして」

「あら。大丈夫だった?」


 カフェスペースにいる客に聞こえないよう、若干小声で事情を説明する。最近はこういった機会がなかったからなのか、柚子が手を止めて心配そうに尋ねてきた。太一は無言ではあったが、いつもより目を丸くしているような気がする。


「はい。注文を変更してもらえました」

「それならよかった。その話をするってことは、お詫びの確認かな?」

「そうです。一袋、大丈夫ですか?」

「そういうことなら。大丈夫だよ」

「ありがとうございます。じゃあ、会計の時にお渡ししますね」

「うん。頼んだよ」


 確認をしたかった内容については、太一からの了承を得ることができた。ここから先は、アイリスに任せることにする。


「ここからはアイリスさんの出番です」

「私、ですか?」

「です。ちょっとこっちに来てもらえますか?」


 キッチンの扉を閉め、アイリスを呼び寄せながらショーケースの裏側に移動してしゃがみ込む。


「あのお客さんに、お詫びの品としてクッキーの詰め合わせを一袋お渡ししようと思いまして。どの袋がいいか、アイリスさんに選んでほしいんです」

「そんな大事なもの、私が選んで大丈夫でしょうか……?」

「大丈夫というか、これはアイリスさんが選ばないといけないものですからね。会計の時に渡すのもお願いします」

「……分かりました、しっかり選びます」


 お詫びの品ということで自らが選ばなければならないと納得したのか、真剣な顔で並んだ袋を見つめるアイリス。気持ちまで伝わってきそうなその様子に、これならばきっと大丈夫だろうと確信して、その場を離れるのだった。




「これにします」


 アイリスが一つの袋を選んだのは、それからやや時間が空いてからだった。


「じゃあ、それはショーケースから取り出しておきましょうか」


 アイリスから袋を受け取って、レジの裏に隠しておく。ショーケースの中に置いたままにしておいて売れてしまえば、もう一度選び直しになるからだ。


「ちゃんと受け取ってもらえるでしょうか……?」

「大丈夫ですよ。何かあったらフォローしますから」


 いかに時間が経って落ち着いても、その不安までは拭いきれていないらしい。接客した時の印象からすると、きっと大事にはならないだろうという予感はあるが、今のアイリスにはそこまで考えるだけの余裕がないのだろう。


「はい……。あの、その時はよろしくお願いします」


 再び、瑠璃色の瞳が揺れ始めていた。




 件の客が会計のために席を立ったのは、それからしばらくしてのこと。視界の隅で、その動きを見たアイリスの肩が少し跳ねた。


「お会計、お願いします」

「はい、少々お待ちください。……紅茶とタルトのセットで九百円です」

「じゃ、これで」

「千円ですね。百円のお返しです」


 いつも通りの決まりきったやり取りを終え、アイリスに視線を送る。込められた意味に気付いたアイリスが、意を決した様子で一歩前に出た。


「あの! 注文のこと、申し訳ありませんでした! これ、お詫びの品としてお受け取りください!」


 いつか見た、緊張して言葉の勢いが強くなるアイリスが、また目の前に現れていた。ついでに、頭を下げる勢いも強い。


「あ、いや、わざわざそこまでしてもらわなくても。全然気にしてませんし」

「でも……」

「店からのお詫びの気持ちですから。できれば受け取って頂けませんか?」


 受け取ることを渋られるのは想定の範囲内だったので、あらかじめ考えておいた理由を伝える。相手も絶対に受け取りたくないという訳でもないはずなので、少し押せば受け取ってもらえるだろう。


「そういうことなら……」


 そう思った通り、やや苦笑いを浮かべながら、アイリスの手からその袋を受け取ってくれた。予想以上に押しが強くて、思わずといった形で出てしまった表情に見えた。


「貰っておきますね」

「ありがとうございます!」

「ありがとうございます」


 アイリスがもう一度勢いよく頭を下げる。自分もその動きに合わせて一度頭を下げ、それからゆっくりと持ち上げる。


「また来ます。次は今日食べられなかったの、お願いしますね?」

「はい、ご用意しておきます。重ねてではありますが、ありがとうございました」


 去り際に少しだけ冗談のように言い残して、女性客が店を出ていく。最後は柔らかな笑みだった。


 その姿を見送って、隣のアイリスと目を見合わせる。いつもとは少しだけ雰囲気が異なる瑠璃色の瞳は、後悔を滲ませながらもどこか安堵したような、複雑な見た目をしていた。


 こうして、アイリスにとって初めて一波乱あった接客が、どうにか無事に終わりを告げた。




 閉店作業を終え、自分も含めた四人全員がバックヤードに集合する。


「あの後は大丈夫だった?」


 太一が気にしているのは、やはり例の客のことだろう。柚子は言葉こそ発しないが、アイリスと自分に目を向けている。


「はい。特に大きなトラブルもなかったです」

「そっか。それを聞いて安心したよ」

「アイリスさんも。よかったわね」

「はい……。でも、流石に緊張しました……」


 アイリスがそう呟きながら、ふにゃりと力なく笑う。これまでよりもずっと疲れているのが伝わってくる笑みだった。初めての大きなミスだったのだから、こうなってしまうのも無理もない。


「ミスは誰にでもあるからね。気にし過ぎるんじゃなくて、次に同じミスをしないように気を付けてくれたら、それで大丈夫だから」


 太一もそれを感じ取ったのか、アイリスを優しく諭す。普段から穏やかな印象の太一だが、それに輪をかけて口調が穏やかである。


「そう、ですね。次からはちゃんと確認するようにします」

「うん、お願いするよ」


 雇い主からというのが効いたのか、ようやくアイリスから前向きな言葉が聞こえてきた。


「そうそう、それでいいの。それにね……」


 柚子も一言、慰めの言葉をかけている。それはいいが、その後に怪しげな一言を呟きながら自分に視線を向けてきた。何故かは分からないが、妙に嫌な予感がする。


「葵君はもっと大きなミスもしたもんね?」

「う……」

「あぁ。しかもあれ、初日だったっけ?」

「ぐ……」


 柚子の言葉で太一もその時のことを思い出したのか、二人して傷を抉ってきた。嫌な予感が的中である。


「葵さんがですか?」


 対して、意外そうな口調なのはアイリス。これまでは、既に一年間働いて色々と慣れた姿しか見せていないからなのか、自分に対してあまりそういうイメージを持っていなかったらしい。できれば、そのままのイメージを持っていてほしかった。もう叶わぬ願いだが。


「そ。ケーキをショーケースから取り出す時に、床に落としてだめにしちゃったの。それも、一日に二回」

「え?」

「あの時の葵君の慌てようは凄かったね」

「えぇ。今じゃ絶対に見られない姿ね」

「……」


 当時のことを言われてしまっては、自分としては何も言えなかった。できるのは、隣で見つめてくるアイリスから目を逸らすことだけ。


「どうしてこっちを見てくれないんですか?」

「いや、別に……」

「じゃあ、こっちを見てくださいよ」


 特に意味はないと言ってしまった手前、その言葉を受け流すことはできない。横目でちらりとアイリスの様子を窺ってみれば、興味が見え隠れした瞳が自分を見上げていた。何を聞きたがっているのかは、考えずとも勝手に理解できてしまう。


「……本当ですよ」

「へぇ……。慌てる葵さんなんて、全然想像できないです」

「今はもう慣れたってだけです」


 普段ならあの時のことを好き好んで話すことはしないが、今日は特別だ。それでアイリスの罪悪感が少しでも薄れるのなら、この役割も甘んじて受け入れることにした。


「涙目の葵君なんて、あの時以外に見たことがないよ」

「可愛かったわね」

「涙目だったんですか!?」

「その……、まぁ……」


 そうは言っても、簡単にあれこれを暴露するのは流石に恥ずかしい。ましてや、想像以上の反応を示しているアイリスがいるとなれば尚更だ。一体どこに、そんなに興味を掻き立てるものがあったというのか。


「見たいです! 今泣いてください!」

「嫌ですけど」

「お願いします!」

「無理ですって」


 掻き立てられ過ぎているのか、要求が役者に対するものにまでなっていた。泣けと言われてすぐに泣けるのなら、きっとこの世の誰も苦労していない。


「えー……、見てみたかったです」

「絶対に見せません」


 残念そうな顔で言われても、見せたくないものは見せたくないのだ。アイリスを慰めるためとはいえ、そこまで曝け出すつもりは流石になかった。


 そもそも役者でもないので、いきなり泣くことなどできはしないのだが。


「そんなわけで、ミスなんて誰でもするから、あんまり責任を感じ過ぎないでねってお話」

「あ……。はい、ありがとうございます」


 話を切り上げるのにちょうどいい流れだと判断したのか、柚子が最後にそう声をかける。その言葉でこの会話の意図を理解したらしく、アイリスの返事は感謝の言葉。いくらか沈んでいた声は、いつの間にかほとんどいつも通りと言える程まで回復していた。




「お疲れ様でした」

「お疲れ様です!」

「はーい、お疲れ様」


 Dolceria pescaのウェイター服から高校の制服へと着替えを済ませ、アイリスと共に店を出る。バックヤードにいたのは柚子だけで、太一は既に自宅のある二階へと戻っていた。


 この一年で歩き慣れた帰り道を歩く。最近足音が二つに増えたが、そのことにも慣れてきた頃合いだった。


 河川敷の桜はとうに満開を過ぎ、時折吹く風で桜色にさらにその花を散らせている。枝を彩る色は、浅緑色が圧倒的な優勢を誇っている。


「葵さんでもミスとかってするんですね」

「僕のことを何だと思ってるんですか。アイリスさんと一つしか違わない、ただの子供ですよ」

「ただの子供はそんな風に言わないと思いますけどね」


 並んで歩くアイリスの様子に、今のところ不自然な部分はない。そのことを確認して、自分もようやく胸を撫で下ろす。


「……今日はありがとうございました」

「どういたしまして。ああいうのも僕の役目ですから」

「それでも、です。あの時、焦って何にも考えられなくなっちゃったので……」

「その感覚には覚えがありますね」


 月明かりに照らされた桜の木を見ながら、少しだけ自虐的に呟く。何かを察したのか、アイリスもうっすら笑みを浮かべてくれた。


「あの時、ですか?」

「ご想像にお任せします」


 そこまで分かっているのなら、あえて自分から言うことはない。誰かに吹聴するようなことさえしなければ、落ち込んだ気分を晴らすためにいくらでも思い出してもらっても構わなかった。


「涙目の葵さん、いつか見せてくださいね」

「さっきも言いましたけど、絶対に嫌です」

「私が泣かせたら見られますよね……?」

「その発想は流石にどうかと……」

「あ! 違います! 引かないでください!」


 物騒な願いを物騒な方法で叶えようとしているアイリスから、そっと一歩分の距離を取る。そうして広がったアイリスと自分の間を、夜風がするりと吹き抜けていく。


 四月も下旬に差しかかり、夜であっても、吹く風はこれまでよりも少しだけ暖かい。雲の切れ間から差す仄かな月の光を受けながら、鮮やかな菜の花色がふわりとなびいていた。




 Dolceria pescaからアイリスや自分の家まで、そこまでの距離はない。河川敷から離れると、まずはアイリスの家が見えてくる。


「明日」

「はい?」


 そんな場所で自分が発した一言に、アイリスが反応する。後に続けるつもりの言葉がきちんと聞こえるよう、わざとそこで間を空けたのだった。


「朝、また同じ時間に来るのかは分からないですけど、もしそのつもりなら、いつも通りでお願いしますね」

「いつも通り?」

「その様子なら大丈夫だとは思ってます。でも、今日のことを引きずるのはなし、です」

「あ……」


 念を押すような言葉に、アイリスの口から小さく声が漏れる。薄暗くても輝きを失わない瑠璃色の瞳が、そのタイミングで微かに揺れた。


「分かりました。いつも通り、ですね」

「えぇ。少しでも引きずってたら、その時は覚悟しておいてください」

「な、何を……?」

「……」

「え? え!?」


 特に何も考えていなかったのだが、とりあえず無言で笑顔を浮かべていると、途端にアイリスが狼狽え始めた。表情はころころと、手はわたわたと。どちらも実に忙しそうである。


「その顔は何なんですか! 怖いんですけど!?」


 そして、数時間ぶりの涙目だった。


「とりあえず、僕の方が先に涙目を見られた、と」

「あ……!」

「こんな感じで、いつも以上にからかい倒そうかと」

「ひぁ……! ぜ、絶対にだめです!」

「だったら頑張ってくださいね」


 目の前でアイリスが何度も首を縦に振っているのを見る限り、しっかりと自分の意図が伝わっているようだった。これで、日を跨いでお互い気まずい思いをすることはないだろう。やはり、大事な後輩には元気でいてもらいたい。


 そんな気持ちを伝えるには幾分か問題のある方法だったような気がしないでもないが、それに関してはこの際無視することにした。




 見えている家まで辿り着くのは、会話をしていれば本当にあっという間だった。アイリスが小さな門を背にして口を開く。


「それじゃあ、お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

「……」

「……。……何ですか?」


 別れの挨拶を交わしたはずなのに、何故かアイリスはこちらをじっと見つめたまま動かない。そんな行動に釣られた訳ではないが、自分も何となく目を逸らせずに問いかける。


「いや、何て言うか、先に背中を向けるのもなって思って……」

「そんなことをわざわざ気にしなくても」

「だって、迂闊に葵さんに背中を向けたら、何をされるか分からないじゃないですか」


 変なところで律儀なのかと思いきや、随分と失礼なことを考えていた。あるいは、先程の自分の言葉が影響しているかのどちらかだ。何となく、本当に何となくだが、後者が正解に近いような気がした。


「僕が何をしたって言うんですか」

「色々大変な目に遭わされてますけど、覚えはありませんか?」

「ありませんね」

「……」


 無言の抗議だった。心なしか、いつもより目が細められている。睨んでいるつもりなのだろうが、残念ながら威圧感は全くと言っていい程なかった。自分も負けないように見つめ返して口を開く。


「この目が嘘を吐いてるように見えますか?」

「吐いてるように見えないくらい、綺麗に澄んでるのが腹立たしいです」

「じゃあ無実です」

「そんなわけがないじゃないですかっ!」


 むっとした表情で、今度は言葉を含めた抗議をしてくるアイリス。自分としては無実のつもりだったが、どうやらアイリスとの間には意見の相違があるようだった。大変な目に遭わせているのは自分の周りの人間であって、自分自身は少しからかう程度なのに、だ。


「百歩譲って……、譲りたくないですけど。葵さんが無罪だとして……、有罪ですけど」


 感情が迷子だった。譲る気は微塵も感じられないうえに、無罪判決を出す気も一切ないように見える。


「今日、碧依先輩とか渡井先輩から全然助けてくれなかったですよね?」

「その方が楽しいですから」

「そういうところですよ! もうっ!」


 興奮しているからなのかは分からないが、アイリスが何故か体を揺すっている。感情と一緒に、行動も迷子になっているらしい。


「不思議な動きをしてますよ。一回落ち着きましょう?」

「誰のせいだと……」

「アイリス? 何してるの?」


 アイリスからじっとりとした目で見つめられていると、そのタイミングでいきなり別の女性の声がした。目の前のアイリスのさらに向こうからだ。


「あ、お母さん。ただいま」

「お帰り。何で家の前で騒いでるの?」

「あー……。ごめんなさい、ちょっと色々あって……」


 アイリスが気まずそうに言い淀んだところで、件の女性の視線が自分を捉えた。


 最初の一瞬は怪しむように。


 次の瞬間には何かに気付いたように。


 最後は納得したように。


 アイリスと同じ瑠璃色の瞳が、アイリスと同じように心の内側をよく映していた。


「あら!」

「はい?」


 生まれてからの月日を相応に刻んだ顔に、随分と人当たりがよさそうな笑みを浮かべながら、アイリスが「お母さん」と呼んだ相手が近付いてくる。そのままアイリスの隣に並ぶと、母親の方がアイリスよりも少しだけ背が高いことに気付く。


「初めまして。アイリスの母のレティシアです。葵さん、で合ってるかしら?」

「あ、はい。初めまして、湊葵です。アイリスさんと同じアルバイト先で働いてます」


 初対面の相手からいきなり自分の名前が出てきたことで、若干困惑してしまう。一瞬どこかで会ったことがあるのかと疑ってしまったが、レティシアも「初めまして」と挨拶している辺り、初対面であることは間違いない。


「えっと……?」

「あ、ごめんなさい。初めましてなのに、どうして名前を知ってるのかってことでしょ?」

「そう、ですね。お会いしたことはないですよね?」

「えぇ。でもね……」


 自分の疑問を的確に把握したレティシアの目が、そこで隣のアイリスに向く。


「アイリスが『葵さん』のお話をよくするから、名前だけは知ってたの」

「あ! お母さん!」

「あ、そういうことですか」


 非常に分かりやすい説明で、すぐに合点がいった。会ったことはないが、名前だけはアイリスから聞いていたらしい。そのアイリスはといえば、慌てた様子でレティシアの言葉を遮ろうとしていた。


「私がいつもどんな風にお話ししてるか、言っちゃだめだからね!」

「どうして? 別に悪口を言ってるわけでもないんだから、いいじゃない?」

「恥ずかしいからに決まってるでしょ!」


 悪口は言われていないとのことで、ひとまずその辺りは安心する。だが、それならどうしてアイリスがここまで慌てているのか、俄然気になってきた。こんな態度を取る時点で、何かを隠しているのは明らかである。


「ふーん……。じゃあ、ウェイトレス服が似合いそうな、とっても可愛い人って言ってたのも秘密ってこと?」

「秘密にできてない!」

「アイリスさん……」

「あ、違うんです! ……いや! 違わないんですけど!」


 気になってしまったのが間違いだったのかもしれない。違っていてほしかった評価だった。


「ウェイトレス服が似合わないってことじゃなくて! 絶対似合いますけど!」

「別にそこを訂正してほしいわけじゃないんですよ」

「でも、アイリスがそう言うのも分かる気がするわ。確かに可愛い」

「お母さんは静かにしてて!」

「えー? 実は同じ高校の先輩で嬉しかったってお話とかもしちゃだめ?」

「もう手遅れ!」


 どこに行っても、アイリスの立ち位置は変わらないらしかった。今もいいようにレティシアにからかわれている。恥ずかしさからか、それとも単に興奮しているだけか、いつもの白い肌が少しだけ赤くなっていた。


「明日からどんな顔をして葵さんに会えばいいんですか……」

「今朝みたいに、楽しみにしてそうな感じで会えばいいんじゃない?」

「あー! あー!」

「聞こえてるので手遅れですよ」


 そんなアイリスを見ても、レティシアの攻撃が止まる気配はなかった。自分に聞こえないようにしたかったのか、アイリスが大きな声を上げるが、残念ながらレティシアの声はしっかりと自分まで届いていた。夜遅くということで、そこまで大きな声で誤魔化せなかったのも、聞こえてしまった一つの原因だったのだろう。


「楽しみだったんですね」

「うぁあ……。あぁ……」


 とうとう処理の限界を迎えたのか、顔を両手で覆って、奇妙な呻き声を上げるだけになってしまった。ちらりと覗く耳は真っ赤だ。


「こんな感じの娘だけど、学校とかバイト先ではどう? 上手くやれてます?」

「どこでも立ち位置は今みたいな感じですね。学年が違うので教室の様子までは分からないですけど、今日僕のクラスまで来た時には、上級生からも可愛がられてましたよ」

「あれは可愛がられてたって言ってもいいんですか……?」


 それでも思うところはあるのか、両手の隙間からくぐもった声がした。


「水瀬さんと渡井さんなりの愛情表現ですよ。……多分」

「もっと穏やかな愛情表現がいいです……」


 あの二人にそれを期待するのは諦めた方がいい。まだ知り合ってから一か月も経っていない自分でも、その願いが叶わないのは理解できてしまった。


「アルバイト先でも、もうお客さんから看板娘だって評判ですね。できることも増えてきて、かなり助かってます」

「……葵さんも看板娘だって言われてますけどね」


 知っている。


「そう。どうにかやっていけてそうで安心したわ。それに、学校でもバイト先でも、しっかりした先輩さんがいるみたいだしね?」

「そう、だといいんですけど」


 レティシアに見つめられて、少し言葉に詰まってしまう。まさかそんな風に思ってもらえているとは考えておらず、やや照れてしまった。


「これからも娘をよろしくね」

「こちらこそ、仲良くしてもらえると嬉しいです」

「私はもっと優しくしてくれたら嬉しいです」

「善処します。するだけですけど」

「なんでですかっ」

「楽しそうね」


 今日だけで三度目になるその感想が、レティシアから投げかけられた。三度目ともなれば、流石にそこまで恥ずかしさを感じずに受け取ることができたのだった。




「遅い時間に引き止めちゃってごめんなさいね」

「いえ。いつか機会があれば挨拶はしておこうと思ってましたから」

「随分丁寧なのね。本当にアイリスと一つしか変わらないの?」

「色々ありましたから」


 その途上でできあがった性格だ。昔は年相応だったような気がするが、今はもうあまり思い出すこともできない。


「そう。ま、安心して任せられるってことで」

「はい、任されました」

「お願いね。それじゃ、そろそろ……」

「えぇ、失礼します」


 そう言いながらアイリスとレティシアに軽く頭を下げ、背を向けて歩き始める。


「葵さんっ」

「はい?」


 少しだけ歩を進めたところで、背後からアイリスの声がした。振り向けば、笑みを浮かべたアイリスが、胸の前で小さく手を振っている。


「また明日、です」

「……また明日。おやすみなさい」


 定番の挨拶を返す自分の顔にも、いつの間にか笑みが移っていた。


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