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88. 初夢よりも眩しく (1)

「明けましておめでとうございまーす!」

「はい。おめでとう」

「おめでとう。新年早々元気ね」

「おめでとうございます」


 テレビに映るカウントダウンを食い入るように見つめていたアイリスが、年が明けた瞬間に両手を高々と掲げて宣言した。新たな年の幕開けである。


「さっきも言いましたけど、今年もよろしくお願いしますねっ!」

「えぇ。こちらこそ」


 お互いに頭を下げ合う。隣に並んで座っているので、二人してただただ正面に頭を下げたようにしか見えないはずだ。


「いやはや……。まさか娘の先輩と一緒に年越しするなんて、一年前には考えてもいなかったよ」

「それは僕だって同じですよ。まさか後輩の家に連れ込まれるなんて、一年前には考えてもいませんでした」

「私のおかげですね!」

「……今回はおかげでもいいかもしれないです」


 普段であれば訂正していたかもしれない一言だったが、今に限って言えばそうでもない。朗らかに笑うアイリスの言う通り、連れ込まれたからこそ、ここまで賑やかに新年を迎えられたとも考えることができる。


 もし自宅に一人でいたなら、無言で年を越し、しばらくしないうちに眠りに就いていたことだろう。


「……」


 去年はそんな年越しでも何とも思わなかったのに、今は少しだけ寂しいと感じてしまうのは、誰に影響されたからなのか。


 もちろん、その答えは考えるまでもない。


「いきなり静かになっちゃいましたけど、どうかしました?」

「いや……。改めて、去年とは違う年越しだと思って」

「そんなにですか?」

「そんなに、です」


 そもそも、ここまで人数が違えば、同じ年越しになるはずがない。ましてや、その人数は一人と四人。その差は歴然としていた。


「去年はどんな感じだったんですか?」

「別に何もありませんでしたよ。今みたいにカウントダウンを見て、年を越して少ししたら寝ました」

「あー……。何となく葵さんっぽいです」

「そうですか?」


 納得したように頷くアイリスだが、その行動のどこに自分らしさがあったのだろうか。一人暮らしの人間なら大体こうなるような気がするが、果たして。


「一人ではしゃいだりしないタイプですもんね、葵さん」

「一人暮らしではしゃげるような人なんて……、……何でもないです」

「どうして目を逸らしたんですか?」

「何でもないですよ?」

「こっちを見てくださいよ」


 何かを疑うような声音のアイリスに袖を引かれる。「疑うような」とは表現したが、ほとんど確信していそうな雰囲気があった。


「アイリスさんなら、一人でもはしゃげそうですよね」

「目を見ながらだったら、何でも言っていいってわけじゃないですよ?」

「はしゃげないんですか?」

「……はしゃげるとは思いますけど」

「ほら」


 何となくの想像が的中した。今度はアイリスが目を逸らす番である。


「そ、そんなことより!」

「うん?」


 そんな気まずさを誤魔化すかのような、やや大きめの声。それでも、耳に届く声は澄んでいる。


「去年みたいに静かな年越しと、今年みたいに賑やかな年越し。どっちがよかったですか?」

「わざわざ聞きますか?」

「伝えたいことは言葉にしないと伝わらないらしいですよ?」

「言いますね」


 答える必要すらない質問ではあったが、自分が言った言葉を突き付けられたとなれば、それはもう答える以外の選択はできない。


 アイリスもそれが分かっているのか、目を逸らして気まずそうにしていた様子から一転、悪戯が成功して喜んでいるような表情を浮かべていた。


「今年の方が楽しいに決まってるじゃないですか」

「ですよねっ! よかったです!」


 そして満面の笑み。新年を迎えてからまだ数分も経っていないのに、一体何種類の笑顔を見ただろうか。表情がころころと変わるところは、年が明けても一緒だった。


「あぁ、そうだ。葵君」

「はい?」


 そのタイミングで、何かを思い出したようにアーロンが声をかけてくる。


「初詣のこと。うちは大体元日の午前中に行くことにしてるけど、葵君はそれでも大丈夫かい?」

「自然に巻き込まれてますね。いいんですか?」

「いいも何も、一人で留守番を頼むわけがないよ」

「変なところで遠慮しなくていいの」

「と言うか、一人で残るつもりだったんです?」


 今年初の三対一。ここまで自分のことを考えてくれているのが嬉しいやら恥ずかしいやらで、いきなり感情が掻き乱されるような感覚があった。


「一緒に行くのは決まってますから」

「そういうことなら。僕は大丈夫です」


 当たり前とでも言わんばかりの口調で断言したアイリスに押された訳ではないが、素直にそう返しておく。


 実のところ、初詣に行くこと自体が久しぶりなので、少しだけ楽しみにしている自分がいるのは否定できなかった。


「まだ変なところで遠慮をしますよね、葵さん」

「慣れてないんですよ、こういうのは」

「ってことは、初々しい葵さんは今が見頃を迎えてるってことですか?」

「見頃は五月とか六月です」

「誰も葵の花の話はしてません」

「すぐに花の話だって分かったんですね」

「調べましたもん」


 そう言って自慢げに胸を張るアイリス。何でもないような会話だったのに、自分の名前の由来となった花のことを調べられていると分かると、途端に謎の恥ずかしさがこみ上げてきた。まるで、心の中を覗かれているような、そんな不思議な気分である。


「ほんと、見れば見る程可愛い葵さんにぴったりのお花でした」

「褒められてる気がしないです」

「褒めてますって」

「どこが……?」


 言っていることが何も理解できなかった。恐らく、アイリスの感覚は世間一般とは大きくかけ離れているのだろう。そうに違いない。


「今年は咲いてるところに行けたらいいですね。去年は知るのが遅過ぎましたから」

「また随分と先の話を」

「どうせすぐですよ」


 確信しているかのように、アイリスが呟く。自身の言葉を疑う様子など、どこにも見られなかった。


「葵さんと葵の花の写真、たくさん撮らせてくださいね?」

「機会があれば、ですけど」

「約束ですっ!」


 嬉しそうに笑うアイリスの姿を見ていると、たった今話した未来が必ず訪れることになるような、そんな不思議な予感がするのだった。




「……」


 昨夜、と言っても日付を考えると今日ではあったが、とにかく年が明けてからもしばらく四人で過ごし、午前二時になろうかというタイミングで解散となった、その後のこと。


 使わせてもらっている部屋で眠りに就いてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。閉じた瞼を光が微かに通り抜けてくる辺り、既に夜明けを迎えて久しいのかもしれない。


「……」


 そう分かっていても、いつもよりもずっと重たい瞼は上がってくれない。遅くまで起きていた分、頭はまだまだ睡眠を欲しているのだろう。布団の中に体を横たえたまま、再び意識を手放そうとする。


「んん……」


 少しだけ身を捩ったタイミングで、小さく声が漏れる。何も考えていない、まさに無意識に出た声だった。だが、そんなことはお構いなしに意識は闇に落ちていく。


「やっぱり可愛いなぁ……」


 はずだった。


「……?」


 聞こえるはずがない、自分以外の声。この場面だけ切り取ってしまえば立派なホラーだったが、そう言い張るには声が綺麗過ぎる。


 いきなり発生した不可解な現象に、二度寝の誘惑に負けかけていた意識が急浮上していく。


「もうちょっとくらい……、近くで見ても……」


 またも響いた声と共に、馴染みのある甘い香りが漂ってくる。気付いてしまえば、何故見過ごすことができていたのか不思議に思える程の主張の強さだった。


「……」

「ひょわぁ!?」


 言葉の通りに近付いてきた何かに光を遮られたのと同時に、無言で瞼を開ける。


 ほとんど寝ている状態の頭で予想した通りの人物の顔が、思ったよりも近くにあった。


「……おはようございます」

「おっ!? おはようございます!?」


 勢いよく体を引き起こし、大げさという言葉がぴったり当てはまる程に慌てふためいた、そんなアイリスがそこにいた。


「い、いつから起きてたんですか……!?」

「……やっぱり可愛いとか何とか言ってた辺り、です……」


 寝起き特有の若干低い声で答えを告げる。


 一人暮らしをしていると、寝起きでいきなり声を出すことなどまずないと言ってしまってもいい。ある意味、自分でもほとんど聞いたことがないような声である。それこそ、この家に連れ込まれてから聞いたのが久しぶりだった程だ。


「あ、危なかったぁ……!」


 そんなことをぼんやりと考えていると、目の前でよく分からない安堵と共にため息を吐かれた。何をされるか分からないという点でいえば、危なかったのは自分の方だが。


「起きてたなら言ってくださいよ……」

「今起きたんですよ」


 言いながら体を起こす。いつかとは違って、部屋の空気はそれほど暖かくない。寝顔を眺められていた時間は、そこまで長くはないのだろう。


「もうちょっとで……!」

「で?」

「何でもないですっ!」


 どう見ても何でもない様子ではなかったが、下手に突くと蛇が出てきそうなので放っておくことにする。寝起きに何か衝撃的なことを叩き込まれても、まともに対処できるとはとても思えなかった。


「はぁ……」

「い、今のはどんな感情で……?」


 肺に溜まった空気を吐き出すように、ため息を一つ。特に何かを考えていた訳ではなかったが、タイミングが悪かったのか、アイリスを不安にさせてしまったらしい。揺れる瞳が自分を見つめている。


「単に息を吐き出しただけで、何も考えてませんでした」

「あ、そうなんですか……? てっきりまた呆れられたのかと……」

「呆れてほしかったんですか?」

「お断りで……!」


 頭が下がる程に、願いは切実だった。


「それで? また起こしに来たってことでいいんですか?」

「あ、いや……。寝顔を見に来ただけで……」

「……もしかして、僕より早い日は毎日見に来てたりしませんか?」

「そ、そんなことありませんよ?」

「……」

「信じてない目をしてる……!」


 驚きと共にそんな言葉を口にしていたが、本当に信じてもらえると思っていたのだろうか。ようやく回転を始めた程度の頭ですら、真っ先に思い浮かべたのは疑念である。


「ほんとですよ。葵さんに嘘なんて吐きませんもん」

「そう言ってくれるのは嬉しいですけど、それとこれとは話が別です」

「あれぇ?」


 アイリスの首が思いきり傾いた。どうやら、その一言で押しきろうと考えていた様子である。


「でも、今年に入ってからはこれが初めてなんですよ?」

「それはそうでしょうよ。誰が騙されますか」

「あれぇ?」


 今度は反対側に傾いた。まさかとは思うが、寝起きだから騙されてくれるとでも思っていやしないだろうか。


「でもでも、やっぱり元旦は葵さんの寝顔を見たかったというか……」

「他人の寝顔を初日の出みたいに……」

「私はほわっとした気分になったので、ほとんど初日の出みたいなものですね!」

「反省」

「はい」


 またもや頭が下げられた。その素直さから察するに、どこか後ろめたい気持ちはあったようだ。


 冷静に考えると、他人が眠っている部屋に忍び込んで寝顔を鑑賞しているのに、そこに後ろめたさを全く感じていないというのは相当歪んでいる。素直に反省してくれたことを喜ぶべきなのかもしれなかった。


「そのままリビングに。僕も少ししたら行きますから」

「はい……」


 垣間見せた素直さをそのままに、枕元から立ち上がったアイリスが部屋を出ていった。


「……」


 いきなり賑やかな様相で幕を開けた新年の朝。その元凶が立ち去った部屋は、これまでの出来事が嘘のように静まり返っている。


「準備、しますか……」


 そう呟いて立ち上がる。


 一人になった部屋の空気は、先程よりも何故か冷たくなったような、そんな気がした。




 アイリスによる寝起き襲撃事件が終息し、四人揃って朝食を済ませた後のこと。年が変わってすぐに話していた通り、初詣に向けて家を出る。


 肌を刺す程に冷えきった冬の空気から逃れるように、既に何度か乗せてもらった車の後部座席に身を滑り込ませた。


「車に乗ってから聞くことじゃないと思うんですけど、どこの神社に?」

「あ、そういえば言ってなかったね」


 そう前置きしてから神社の名前を口にするアーロン。外したマフラーを、助手席に座ったレティシアに手渡しながらの回答だった。


「ありがとう。……で、どこか分かるかい?」

「いえ……。そもそも、こっちで初詣に行ったことがないので、どこも知りませんでした」

「あ、そっか。そうですよね……」


 自分の言葉に何を感じたのか、アイリスの顔が少しだけ曇る。「変なところで遠慮している」とは、自分に対するレティシアの評だったが、その表現を借りるなら、「アイリスは気を遣わなくていいところで気を遣う」だ。


「何余計なことを考えてるんですか」

「あう」


 そんな考えをアイリスの頭の中から追い出すように、軽く手刀を落とす。さらさらとした肌触りの髪が印象的だった。


「だってぇ……」

「全部とは言いませんけど、ほとんどは吹っ切れたんですから。アイリスさんがそこまで気にする必要はありません」

「ほんとですか?」

「本当です。まあでも、気にかけてくれるのは嬉しいです」


 背中を丸め、両手で手刀の落ちた頭を覆うアイリス。小柄な体は助手席に隠れてしまって、車の正面からはその姿が随分と見辛くなっていることだろう。


 そう話しているうちに、軽い振動と共に車が発進する。


「そもそも、お正月からそんな話はなしです」

「そこまで言うなら……」


 渋々といった様子で納得してくれたが、心のどこかではぐるぐると考え続けていそうな気配がある。どこまでも優しい悩みだ。


「分かりました。じゃあこうしましょう」

「何です?」


 気にかけてくれるのが嬉しいとはいえ、それでずっと悩まれるのは申し訳ない。それ以前に、今のような陰のある表情はアイリスには似合わない。


 そんな訳で。


「これ以上アイリスさんがあのことを気にする様子を見せたら、着せようとしている巫女服は着ません」

「吹っ切れてよかったですね! 葵さん!」

「我が娘ながら、心配になるくらい単純ね」

「見ようによっては素直ってことだし、その方が葵君にも響くんじゃないかな?」


 アイリスが見事なまでに雰囲気を一変させた。それこそ、これまでのやや沈んだ雰囲気は何だったのか問いたくなる程に。ただ、やはりそんな雰囲気の方がよく似合っていると思ってしまうのだから、自分も単純なものである。


 その中で聞こえたアーロンとレティシアの評価は、ひとまず何も聞かなかったことにしておいた。




「山の方なんですね」

「そうだね。もう少し高いところにあるよ」


 出発してから二十分程が経った。周囲の景色に民家が多かったのは最初の十分くらいのもので、そこから先は徐々にまばらになってきている。


 そして、それに反比例するように増えてきたのが雪の量。平地では数センチ程度だった積雪も、今や膝下程度は積もっていそうだった。


「もっと増えますよ?」


 隣から聞こえてきたのはそんな言葉。相手は言うまでもなくアイリス。


「よく分かりましたね。雪のことを考えてるって」


 当たり前のように話しかけてきたが、自分は何も言っていない。確かに「山」という言葉は口にしたが、そこから最初に雪を連想するのは若干の無理がある。


「何となくそうかなって。視線がちょっとだけ下を向いてましたし」

「それだけでよく……」

「葵さんのことですからね!」


 そう言って笑うアイリスの様子に、先程の陰は見受けられなかった。端的に言えば、可愛い。


「目がどこに向いてるか分かっちゃうくらい、じっと葵君の顔を見つめてたわけね?」

「あ……」


 だが、陰がなかった代わりに、レティシアの言葉で焦りが浮かんできた。


「ち、違いますよ……? ずっと見てたとか、そんな……」

「穴とかは空いてたりしませんか?」

「そうねぇ……。ほっぺたの辺りに少し空いてるかも?」

「お母さん!」


 ルームミラー越しに目が合ったレティシアとの、一瞬の連携。あっという間に追い詰められたアイリスが、必死の抵抗を見せる。


「余計なことは言わなくていいから!」

「あら。随分必死ね? 何かあったの?」

「なんにもないっ、けどっ!」


 言葉に詰まりつつも、何とかからかいを捌いていくアイリス。果たして、その勢いはどこまで続くだろうか。


「葵君のほっぺたに穴が空いちゃったら困ることでもあるみたいね?」

「誰だって困るでしょ、それ」

「葵君が、ね。あなたが困ることはあるのかしら……?」

「……っ!?」


 アイリスが微かに顔を強張らせる。そこまで露骨な反応ではなかったが、何かを考えたのは明らかだった。


 ちらりと、その目がこちらを向く。


「何ですか?」

「な、何でもないですよ!?」

「うん?」


 今度は露骨な反応。その頬がはっきりと赤く色付いていく。背景の窓の外に見える雪と相まって、実に綺麗な紅白模様だった。


「何を想像したのかしらね」

「うぁ……!」


 レティシアの一言がとどめ。今年最初の紅白の合戦は、紅に軍配が上がったのだった。




「本当に多いですね」


 車から降りて、最初に出た感想がそれだった。


 駐車場に到着した時から分かってはいたが、道中で見た量よりもさらに多くの雪が積もっている。高さにして、自分の腿の高さ程度はあった。


「今年は少ない方だね」

「これで?」

「これで」


 最近はあまり目にすることがなくなった積雪量のように思えたが、アーロン曰くそこまででもないらしい。ならば、例年は一体どれほどの雪が積もっているのだろうか。


「……」

「埋まりそうとか考えてません?」

「考えてました」

「否定してくださいよっ」


 ふと目に入ったアイリスを基準にして考えていたことが、あっさりと見抜かれてしまった。


 そんな怒れるアイリスが羽織っているのは、通学の時に着ているものとは違った白いコート。ともすれば雪に紛れ込んでしまいそうなその白は、瑠璃色や菜の花色と鮮烈なコントラストを生み出している。


「そこまでじゃないですもん」

「まぁ、埋まっても見つけやすいですけどね」

「埋まる前提で進めないでください」


 これだけはっきりとした色だ。例え埋もれていたとしても、絶対に見逃すことはない。


「ほら、二人共」

「あ、はい」

「埋まりませんからね?」


 車から降りてすぐのところで話し込んでいると、先に歩き出していたレティシアが振り返って呼びかけてきた。見れば、いつの間にかアーロンもその隣に並んでいる。


「行きましょうか」

「……行きますけど、どうしてそこまで認めようとしないんですか」


 共に立ち止まったままのアイリスを促して歩き出すが、その顔には不満が色濃く浮かんでいた。どうやら、自分の答えはお気に召さなかったらしい。


「どうしてかは分かりませんけど、アイリスさんは雪塗れになってはしゃいでるイメージがあるので」

「その時は葵さんも雪塗れにしてあげますね」

「お断りします」

「なんでですか!」


 不満の色がより一層濃くなる。これから神社の境内に入っていくことを考えると、どこにも相応しさを感じられない表情だった。


「まったくもう……。はい」

「え?」

「いや、『え?』じゃなくて」


 そんな表情は変えないまま、何故かアイリスが右手をこちらに差し出してきた。要求していることは何となく分かるが、それにしても唐突過ぎる。脈絡のなさが抜群である。


「自分からは恥ずかしいんじゃなかったんですか?」

「だから差し出すだけです。葵さんから繋いでください」

「……本音は?」

「繋いでくれないと、私が転びますよ?」

「斬新な脅し文句ですね」


 確かに、ここまで雪が積もる程に気温が低いのだから、地面がそこかしこで凍り付いていてもおかしくない。今歩いている駐車場はまだ除雪されているが、先には階段が見えるうえ、真っ白な雪が残ったままになっている。


 加えて、アイリスは雪道で転ぶことに関して前科持ち。階段で転ぶ可能性を考えると、保険はかけておいた方がよさそうだった。


「分かりましたよ」

「あ……。えへ……!」


 あんなに不満そうだったのに、その手を取っただけで顔がふわりと緩む。この表情なら、これから会いに行く神様もきっと願いを聞き届けてくれることだろう。


「ちょっと冷たくなってますね」

「これだけ寒いんですもん。せっかくですし、葵さんがあっためてくれてもいいんですよ?」

「任せてください。火が出そうになるほど擦ってあげます」

「加減を覚えてくださいよ」


 両手で挟み込んで擦ろうとしたところで、左手がアイリスに持っていかれた。残念ながら、火起こしは受け入れられないとのことらしい。


「と言うか、葵さんだってちょっと冷たいじゃないですか」

「寒いですから」


 手袋を持ってきた方がよかったと、車を降りた時からそう後悔している。まさかここまで冷えるとは思ってもいなかった。


 それを言えば、どこに行くか分かっていたはずのアイリスが、それでも手袋をしていないことが不自然ということになってしまうが。


「はいっ。あったまりました?」


 そんなことを考えていると、楽しそうな言葉と共に左手に感触が増える。アイリスの右手だけに触れていたはずの手が、いつの間にか両手で包み込まれていた。


「……もうちょっとあったかい手がよかったです」

「わぁ……、わがまま……」


 そこまでしてくれたのは素直にありがたいけれども、如何せんどちらの手も絶妙に冷たい。それとも、風を切ることがなくなったと考えるならばプラスの出来事なのか。


 どちらにせよ、温まったのはどちらかと言うと気持ちの方だった。


「そんなことを言っちゃう葵さんには、片手しか貸してあげません」


 そう思っていたのに、触れていたはずのアイリスの左手が離れていってしまった。これでは風を切る手に逆戻りである。


「素直が一番なんですよ?」


 してやったりとでも言いたげな笑みを浮かべ、少しだけ前かがみで覗き込んでくるアイリス。そう言われてしまっては仕方がないということで、小さく反撃に出る。


「でも、僕はアイリスさんと対等がいいですから。繋ぐのは片手ずつってことで」

「え……」

「それとも、対等って言うなら、こうした方がいいですか?」

「あ……!」


 先程アイリスがしてくれたように、今度は自分が両手でその右手を包み込む。共に風を切っていた手の甲は、思っていたより冷たくなっていた。


「……結構冷えてますけど、本当に大丈夫ですか?」

「だだっ、大丈夫っ、ですっ!」


 呂律の方が大丈夫ではないかもしれなかった。


「葵さんの手があったかいので!」

「さっき冷たいって言ってたじゃないですか」


 記憶も大丈夫ではないかもしれなかった。


「えへ……、えへへ……! どうしましょう……! 葵さんがとっても優しいです……!」

「まるで普段は優しくないみたいな言い方ですね」

「こんなの融けちゃいますよぉ……!」

「もう融けてますよ」


 一足も二足も早い雪解けを迎えたアイリスの手を温めながら、参道を歩いていく。


 駐車場でも比較的人は多かったが、境内が近付くにつれてさらに人の姿が増しているような、そんな気がした。




「あとでおみくじを引きましょうね、葵さん」


 階段を無事に上り、その先の境内にできた行列に並んでいる最中のこと。


 片手ずつとなっても手は繋いだまま。少しだけ温まったような気がする手を通して体温を分け合いながら、アーロンとレティシアの後ろで言葉を交わす。


「おみくじも久々ですね」

「初詣自体そうなんですから、それも当然ですよね」

「そういうことです」


 一年で一番長いであろう行列の先をちらりと眺めてから、視線を再びアイリスに戻す。今から運勢が気になって仕方がないと言わんばかりに、その体がそわそわと揺れているような雰囲気があった。


「大丈夫です。葵さんなら小吉くらいは引けます」

「喜んでいいんですか?」


 運勢の順番には諸説あると聞いたことはあるが、何にせよ小吉の時点で両手を上げて喜ぶことはできそうにない。励ましてくれるのなら、言葉の中でくらいは大吉を引かせてほしかった。


「何を引いたって喜んでいいですよ? 私が全部大吉にしてあげますから」

「……よくそういうことを恥ずかしがらずに言えますよね」

「……私も、言ってから今のは恥ずかしかったなって思いました」

「でしょうね」


 そういう心構えで接してくれるということなのだろうが、どうにも表現がむず痒い。本人もそれが分かっているのか、うっすらと頬が赤くなっている。視線も逸れたままだった。


「と、とにかく! 初詣に来たんだったら、おみくじを引くのとお守りを買うのは絶対です!」

「お守り……。どのお守りにしましょうか……」


 アイリスの言葉に、いくつかのお守りが頭の中で浮かんでは消える。


 高校生ということを考えれば、最有力の候補は学業のお守りだろう。次点で健康祈願か。


「よくよく考えたら、別に一つじゃなくてもいいですもんね」

「葵さんは何を?」

「学業と健康祈願ですかね」

「堅実……」


 至って普通の選択だと思っていたが、アイリス的にはそうでもないらしい。そうなると、アイリスの選択が俄然気になってくる。


「そう言うアイリスさんは何を?」

「内緒ですっ」

「えぇ……」


 自分は答えたのだからアイリスも答えるべき、などとは思わない。思わないが、肩透かしを食らった印象は否めなかった。


 それでも、弾むような口調でそう言うアイリスからは、どんな答えも聞き出せそうにない。


「買うところを覗くのもだめですからね?」

「そこまでですか」

「お願いが叶ったら、その時は教えてあげてもいいですよ?」

「叶えるのはアイリスさんですけどね」

「……葵さんだって関係ありますもん」

「は?」


 少しだけ俯き加減で呟かれた小さな一言。境内に流れる雅楽の音に紛れて聞こえなくなってしまいそうな程のそれは、隣にいたからこそ聞き取ることができたもので。


「どうして……?」


 聞き取れはしたものの、その中身が理解できるかは話が別である。いきなりか細くなった声から察するに、これもまた、答えは返ってこないのだろうと思いながら尋ねてみる。


「それも内緒、です」


 案の定、顔を上げてはにかむアイリスが口にした返事は、まさに予想した通りのもの。繋いだ手に込められた微かな力が、アイリスの微妙な感情の変化を表しているかのようだった。

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