87. 締めくくりも一緒に
とうとう今年最後の日となった、十二月三十一日、日曜日。
肩を揺すられる感覚に目を開けば、そこにはアイリスがいた。
「おはようございます、葵さん」
「……おはようございます」
何が楽しいのか、やたらと明るい笑みを浮かべている。まるで、悪戯に成功した子供のような笑みだ。
まるでも何も、起こす側と起こされる側が今までとは反対になっている時点で、ほとんど悪戯のようなものだが。
「今日は早かったんですね」
もしかすると自分の起きる時間が遅かったのかもしれないと思って時計を確認すれば、そこにあったのは午前七時前の表示。時間としては、いつもと何も変わっていなかった。
「大晦日ですから。せっかくですし、葵さんを起こすことから始めようかと」
「……何を言っているのか分かりませんけど」
笑みを浮かべたまま、アイリスが包み隠さずそう暴露する。どうやら目的を持って早起きをしたらしい。その目的が全く理解できなかったのは、寝起きで頭が回らないからなのだろうか。
「完全に寝起きの葵さんなんて、こうでもしないと見る機会がないですからね。ふにゃふにゃで可愛いです……!」
頬に手を当てて、そんな言葉を口にする。聞いている自分の方が恥ずかしい一言だった。
「……ふにゃふにゃ具合はアイリスさんの方が上でしたよ」
その結果がどうであれ、起こしに来てくれた相手の前でいつまでも横になっている訳にもいかない。微かに残る眠気を追い払うかのように体を起こしてから反撃する。
「それのせいでもあるんですからね?」
「は?」
「葵さんが私の寝起きを見たんだったら、私も葵さんの寝起きを見ないと」
「何を言ってるんですか?」
そんな「目には目を、歯には歯を」のようなことを言われても困るだけだ。そもそも、あれを害と捉えていたのかという話になる。
「……寝起きを見られるのは、まだちょっと恥ずかしかったんですからね」
「……」
少し拗ねたような口調で言うアイリスの姿が可愛く思えてしまった辺り、この数か月で随分と心を侵略されてしまったらしい。あるいは、やはりまだ頭が働いていないだけか。
「葵さん?」
「あ、いや、何でもないです」
「うん?」
急に黙り込んでしまったことを不審に思われたのか、アイリスの首が小さく傾く。その動きに合わせて、菜の花色の髪が流れるようにさらりと揺れた。
ここまでいつも通りに身なりを整えているということは、それだけ早い時間に起きたということだろう。そうまでして自分の寝起きを見に来ようというのは、ある意味執念のようなものすら感じられる。
「まぁ、早起きなのはいいことですからね……」
感じるが、結果として早起きになるのであれば、それはそれで構わない。いつまでも寝ているよりは、ある程度早起きの方がいいに決まっている。
「これからは毎日起こしに来ちゃいますよ?」
「それは、ちょっと……」
「なんでですか」
「目を開けていきなりアイリスさんの顔があるのは……、ちょっと……」
「なんでですか!」
「心臓に悪いと言うか……」
「なんでですかぁ!」
まさかの三連発だった。その様子を見るに、恐らく意味がきちんと伝わっていないのだろう。そうでもなければ、ここまで不満そうな顔を見せるはずがない。
「可愛くて心臓に悪いって意味ですよ」
「なんっ……!? えぇっ……!?」
普段であれば口にしたか分からない言葉だったが、寝起きの勢いに任せてそのままぶつけてみた。
結果、面白いように狼狽えるアイリスが完成した。
「いきなり何ですか!?」
「そうやって狼狽えてるところも可愛いんですから、ちょっと意味が分からないですよね……」
「ま、まだ寝惚けてませんか……!?」
狼狽えながら疑っているところ申し訳ないが、八割方覚醒している。自分は正気である。
「……ん?」
「まだ何か……!?」
そうして自分の覚醒具合を確認していると、何か小さな違和感があった。それは、寝惚けたままでは気付かなかったであろう事実で。
警戒を強めるアイリスを尻目に、そっとその違和感を口に出す。
「部屋が……、寒くない?」
「え?」
上半身が掛け布団から出たからこそ気付いた事実。エアコンのタイマーは設定していなかったはずなのに、何故か部屋が暖まっている。
気になってエアコンを見てみれば、既に稼働していることを示すランプが点灯していた。
「……」
正直、考えるまでもないような気がするものの、一応考える。寒さのあまり、無意識のうちに自分で電源を入れたということもないとは言いきれないが、そこまで現実的ではない。となれば、やはり導き出される結論は一つ。
「アイリスさん」
「な、何です?」
「どれくらい、この部屋にいました?」
「……」
逸らされた目が、何よりもはっきりと答えを示していた。
「アイリスさんがエアコンの電源を入れたんですよね?」
「……」
「で、ここまで部屋が暖まるくらいの時間はいた、と」
「……」
「その間、何をしてました?」
「……」
逸らされた目が戻ってくることはない。枕元にぺたりと座ったままのアイリスは、カーテンが閉まっていて何も見えないはずなのに、何故か窓の外へと目を向けている。
「分かりました。何かをしたのか、してないのかは言わなくていいですから、どれくらい前からいたのか教えてください」
「……十五分くらい前、です……」
「……」
部屋が暖まるのだから、それなりの時間はいたのだろうと思っていた。思ってはいたが、改めて具体的な数字が出てくると、それはそれで何とも言えない気分になる。
「そんなに……?」
「うぅ……。だってぇ……」
「だって?」
「可愛かったんですもん……」
両手で顔を隠して呟くアイリス。いつもよりずっと小さなその声には、これでもかという程に感情が込められていた。
「普通は立場が逆では?」
「ごめんなさいぃ……! ついぃ……!」
「……これからはもう少し早起きすることにします」
「そんなぁ……」
顔は隠しても、残念さは隠そうとしない。と言うより、隠そうとしたけれども、隠しきれずに漏れ出してしまったと表現する方が正解なのかもしれなかった。
「で、何をしてたんですか?」
「言わなくていいって言ってたのに!」
「それはその時だけです。今は違います」
「うぐっ……」
それだけの時間この部屋にいたのなら、自分が寝ている間に何かをされたことはほぼ確定である。何をされたのかを確認するのは、今後のためにも重要なことだ。
「言ってしまった方が楽になれますよ?」
「……」
「どうせ写真を撮ったりしたんですよね?」
「ばれてる……!」
予想が一つ的中した。と言っても、これは以前話していたような気もするので、考えるまでもないことではある。
だが、アイリスの方はそうでもないらしく。逸らしていた目が戻ってくる程度には驚きがあったようだった。
「でも、写真を撮るだけで十五分もかかりませんよね? 他には何を?」
「葵さんの寝顔なら、十五分でも三十分でも……」
「そういうことを聞いてるんじゃないんです」
「はひ……」
あっという間に逸れそうになった話を元の軌道に戻す。会話の主導権をアイリスに奪われてしまえば、絶対にまともな流れにはならない。
「……」
「……」
「……」
「……ほっぺたを、触ったりとか……」
とうとうアイリスが無言の圧力に屈した。
「とか?」
「髪の毛を触ったり、とか……」
「……」
「そ、そんな感じで……、起きてる時にはなかなかできないことを……」
「……」
言葉にすれば、寝ている相手への悪戯としては一般的なものだった。もっと変わったことをされたのかもしれないと思っていたが、意外と拍子抜けするような内容である。
「あ、葵さん……?」
「……まぁ、それくらいならいいんですけど」
「よ、よかったぁ……!」
「でも、今後も同じことをするのはだめです」
「あぅ……!」
安堵のため息を漏らすアイリスに、一応の釘を刺しておく。そうでもしておかないと、許可を得たと勘違いされかねない。
「何かが頬に触れてるって感じたのは、夢じゃなかったんですね」
「え!? 気付いてたんですか!?」
目が覚める直前の、現実と夢の境界がどこか曖昧な時間。そんなタイミングで、頬に何かの感覚があったのは確かだった。はっきりとしない意識で夢の出来事と決めつけていたそれは、どうやら現実に起こっていた出来事だったらしい。
「気付いてたというか、何かそれっぽいものを感じたってだけですけど」
「嘘……!?」
だと言うのに、その言葉を聞いたアイリスの焦り方が尋常ではなかった。それこそ、悪戯という言葉の陰に隠した秘密に気付かれてしまったかのような、そんな焦り方である。
あわあわと。何かを言いかけては口を閉じ。こちらの頬の辺りを見つめたかと思えば視線が泳ぎ出す。
どう見ても、何か特大の隠し事がそこにはあった。
「……まだ何か隠してますね?」
「かっ、隠してますっ!」
「あっさり認めましたね」
「隠してますけどっ! これは絶対に言えないですっ!」
「絶対に言えないようなことをしたんですね」
「しましたぁ!」
その内容までは教えてもらえなかったが、隠し事の存在自体はあっさりと白状した。単に、隠す余裕がなかっただけという可能性もあるが。
「認めるんですね」
「認めますからぁ……! これ以上は聞かないでくださいぃ……!」
「そこまで言うなら聞きませんけど。でも、そんなになるんだったら、どうしてやったんですか」
「出来心だったんです……!」
平常時にはあまり聞かない単語だった。それだけに、アイリスの慌てぶりがよく伝わってくる。
「……とりあえず、そろそろ着替えますから。先に下に行っててもらえますか」
「はいぃ……!」
こんな状態のアイリスと話していても仕方がない。目が覚めてから少し時間も経ったことで、眠気の類は綺麗に消え去っている。この辺りが、一旦会話を切り上げるには都合がいいタイミングだった。
どこかぎこちない足取りで、アイリスが部屋を出ていく。あれで無事に階段を下りられるのか心配ではあるが、そこは頑張ってもらうより他はない。
「……」
布団から完全に出る前に、少しだけ思考に沈む。
はっきり言って、アイリスの焦り方は異常だった。眠っている相手に多少の悪戯をした程度では、あそこまで狼狽えるとは考えにくい。それは本人も言っていた通りだ。
ならば、何をすればあそこまでになってしまうのか。そもそも、できること自体が少ないというのに。
「……」
少ないけれども、一つだけ頭に浮かぶものがあった。
(いや……、まさかそんな……)
あったが、即座に否定する。もしかすると、意識がはっきりしたと感じているのは勘違いで、実はまだ寝惚けているのかもしれない。
「着替え……」
浮かんでしまった光景を振り払うように、その言葉をわざわざ口にしながら布団を出る。
「……」
否定したはずなのに。なるべく考えないようにしていたのに。
それでも、着替えている最中に、何度か右の頬に触れてしまうのを抑えることができなかった。
大晦日の夜、そして年明け正月の準備をする人で賑わいを見せる店内。歩くのに苦労する程ではないが、あまり自由に歩き回ることもできないような、そんな混雑具合である。
その中にあって、やはり目の前の二人を見失うことはない。明らかに周囲と色合いが違い過ぎる。
「葵さんは何か入れたいものってあります? 海老以外で」
そして、それは隣のアイリスも同じ。むしろ、個人的にはアイリスの方が見失うことはないだろう。アーロンやレティシアよりも小さいにも関わらず、だ。
「それ以外ってなると、意外と難しいですね」
「ですよね。海老が入ってたら大体完成みたいなものですもんね」
お互いに頭を悩ませながら、アーロンとレティシアの背中を追ってカートを押していく。行き交う人が多いこともあって、思っていたよりも大変な作業だった。
「まぁ、シンプルなのが一番ってことで。もし何か思い付いたら、その時は言ってくださいね?」
「えぇ。分かりました」
年越しそばに何を乗せるか論争は、争う様相を見せることもなく終結した。実に平和な一幕である。
そうして会話が一段落したところで、ふと思い至る。いつかも考えたことがあるような気がするが、果たして自分は周囲からどう見られているのだろうか。
前を行くアーロンとレティシア。そして隣のアイリス。一緒に歩いてはいるものの、どう考えても見た目的に家族ではない。一緒に買い物に行かないかと誘われた時から薄々勘付いてはいたが、奇妙な一行になっているのは間違いなかった。
その証拠に、店内に足を踏み入れてから、既に何度か不思議な目で見られたような感覚があった。
「……」
「葵さん?」
そんな考えが頭の中をぐるぐると回っているのを見抜かれたのか、不思議そうな声音でアイリスが呼びかけてきた。
「どうかしました?」
「あ、いえ、別に大したことじゃないんですけど、僕は今、周りからどう見られてるんだろうと思って」
「どう……?」
思っていることをそのまま口に出したが、どうやらアイリスとしてはぴんと来ていない模様。
「どう見ても家族には見えないじゃないですか。この色で」
そう言いながら、自分の髪に触れる。アーロンやレティシア、そしてアイリスと血が繋がっていないことをはっきりと示す、そんな琥珀色。
「家族じゃないのに一緒にいて、でも娘っぽい子供と同じくらいの歳で。それならどう見られるかは、葵君なら何となく分かってるんじゃない?」
「そもそも、僕達はほとんど家族みたいなものだと思ってるけどね」
「……」
その問いに答えてくれたのは、アイリスではなくアーロンとレティシア。それなのに何も言葉が出てこなかったのは、ただ照れくさかっただけなのか、それとも別の感情があったからなのか。
どちらにせよ、少しだけ頬が色付いてしまったことには変わりなかった。
「あれ? 照れてます?」
「……照れてなんて」
「あ、照れてますね」
一度目は疑問。二度目は断定。その間に挟まっているのは自分のたった一言なのに、そこから何を感じ取ったのだろうか。アイリスの思考を辿ることはできないが、導き出された結論は大正解だった。
「……今度から、アイリスさんの苦手なものばっかりを弁当に詰めて持っていきます」
周囲を食品に囲まれているからこそ出てきた、仕返しの案。
「残念でした。葵さんが作ってくれたものなら、私は何でも美味しく食べられます」
だが、効果は一切なかった。普段であれば料理をする身として喜べた発言ではあったが、今はそうでもない。手応えのない反撃の言葉程空しいものもあまりない。
「今回はアイリスが一枚上手だったね」
「……僕の負けです」
「勝ちました!」
小さな手でピースサインを送ってくるアイリス。その笑みを見ていると、負けたことなど些細なことに思えてしまうのだから不思議なものだ。
「勝ったついでに聞いておきたいんですけど」
「はい」
「葵さんって、おせち料理は食べます?」
何やら穏やかではない入り方だったので一応警戒はしていたが、尋ねられたのは時節に沿った、至って穏やかな内容だった。
「今年は食べませんでしたね。それがどうかしました?」
「やっぱり、一人暮らしだとそうなんですね」
「ですね。小さい頃は食べていた覚えがありますけど、最近は……」
ちょうどおせち料理のコーナーに差しかかったところで、自然と視線がそちらを向く。並んでいるのはどれも定番の品ばかり。背景の装飾も相まって、まだ年は明けていないのに、一気に正月気分が押し寄せてくる。
「小さい頃の葵さんは何が好きでした?」
「黒豆です」
「渋……」
同じく並べられた品々を眺めていたはずのアイリスが、その言葉と共に自分を振り返ってきた。その顔には、うっすらと苦笑いが浮かんでいる。
「ほんとに子供だったんですか?」
「今も子供ですよ」
「子供ならもっとこう、あるじゃないですか。栗きんとんとか」
「あぁ。それも好きでしたよ」
「ほら、やっぱり」
それらしい答えを聞くことができて満足したのか、アイリスの視線は再び陳列された商品へと戻っていく。
「栗を上手く掴めなくて涙目のちっちゃい葵さん……!」
外で声に出してはいけない類の妄想が浮かんできたのか、戻っていったはずの視線が再びこちらを向いた。先程とは違い、今回は瞳が嫌な輝きを放っている。
「黒豆は食べられるのに?」
「……栗でほっぺたが膨らんでるちっちゃい葵さん……!」
「無理矢理変えないでください」
妄想を途中で変えられてしまっては、対応する自分としては手の出しようがない。
「お母さん。ちゃんと栗きんとんは入ってるよね?」
「入ってるけど、毎年あなたが食べきるでしょ」
「明日は葵さんにも食べてもらわないと!」
「そうねぇ……。追加で買っていきましょうか」
「レティシアさんもですか」
二人して何かを期待しているところ悪いが、もう幼い頃とは違う。箸を上手く使えないということもなければ、頬が膨らむこともない。残念ながら、望んだ未来は訪れないはずだ。
「期待されてるね?」
「叶いませんよ」
アーロンも笑いながら話しかけてくるが、その裏には見てみたいという感情が隠れているように思えた。
「えー……?」
「残念そうな顔をしてもだめです」
「むー」
「不満そうな顔をしろって意味でもないです」
ころころと変わる表情を眺めつつ、ゆっくりとレティシアの背中を追う。話していた通り、カゴの中には栗きんとんが追加されていた。
「買うのは買うんですね」
「そうでもしないと、この子が全部食べちゃうから」
「食べきります」
「自信満々に言うんじゃないの」
僅かに胸を張って言うアイリスの様子を見ていれば、その光景は容易に想像することができる。少し目を離した隙に、いつの間にかお重の一角に空き地ができていそうだ。
「伊達巻とかも好きそうですね」
「好きです。形がもこもこしてて可愛いですよね」
「そんな目でおせち料理を見たことがないです」
並んでいる商品の中に件の伊達巻を見つけたが、やはりアイリスの言う感覚は自分の中にはない、全く新しい視点だった。
「そうですか? おせち料理って、見た目が結構綺麗だと思うんですけど……」
「そういう風に思って見てなかったんだと思いますけどね。小さい頃の僕は」
「ちっちゃい葵さん……」
「話が戻ってますよ」
またもや何かを考え始めた姿を見て、いっそ小さい頃の写真をもっと見せた方が満足するのではないだろうかと、そんなことをぼんやりと考えるのだった。
「持ちます」
「あら。ありがとう」
二袋になった買い物袋を、アーロンと手分けして一袋ずつ運んでいく。一つ一つの商品はそこまで重たくはないが、まとまると結構な重量だった。
「こういうところは男の人ですよね」
「平均よりも大分力はない方ですけどね」
「それでも、私よりはあります」
「アイリスさんよりか弱くて堪りますか」
しっかりと厚手の服を着ている今、外からアイリスの腕の細さを見ることはできないが、夏場に見た腕はなかなかに細く、そして白かった。いくら自分であっても、そんなアイリスよりは力があって当然である。
「もし男の子の子供がいたら、こんな感じだったのかしらね」
「どうだろうね。これくらいの歳で一緒に買い物に来てくれる男の子って、結構珍しいような気もするけど」
「そうですか?」
冷たい風が吹く中、揃って車まで歩を進める。気温の低さに後押しされたのか、それとも店内の歩みが遅過ぎただけなのか、これまでよりも少しだけ早足のように感じられた。
「その点、葵君は普段からお買い物に行ってるだけあって、慣れてるものね」
「まぁ……」
「どう? そろそろうちの子にならない?」
「そんな誘われ方は初めてです」
きっと、世の中をくまなく探しても、滅多に出会うことのない誘い文句だろう。冗談で言っているのはその目を見れば分かるが、隣にアイリスがいる状況で言われるのは落ち着かない。
「ちょっといいなって思ってたのよね。息子が一緒にお買い物に来てくれて、重たいからって荷物を持ってくれるのって」
「歳にもよりますけど、そういう男の子は周りから結構変な目で見られますよ」
「そうなんですか? 私は家族を大事にする人なんだなって思いますけど」
「それはアイリスさんが優しいからですね」
「えー……?」
その考え方があまり納得できなかったのか、先程も見た不満げな表情を浮かべるアイリス。だが、恐らく世間的には自分が言った考えの方が優勢なのではないかと思う。
「私は家族を大事にする人の方がいいです」
「葵君みたいに?」
「うん……。……ってぇ!?」
「いきなり何ですか」
「ちっ、違いますからね!? いや! 違わないんですけど!?」
「まずは落ち着きましょうね」
レティシアの言葉で面白いように取り乱したアイリスが、慌てて両手を振りながら何かを否定する。正直な話、否定なのかは微妙なところだったが。
「……こんなに分かりやすいのにね」
「お母さんは静かにしててぇ!?」
「あ、葵君。こっちに乗せてくれるかな?」
「分かりました」
何やら賑やかなやり取りを続ける二人を横目に見ながら、アーロンがトランクに乗せた袋の隣に、自分が持っていたもう一袋を並べる。
「うん。ありがとう」
「いえ、これくらいは」
「いいねぇ……。やっぱりうちの子にならないかい?」
「アーロンさんまで……」
朗らかに笑って言うアーロンも、やはりどこか冗談のような、そうでもないような雰囲気を纏っている。
「冗談だよ。……今はね」
「言い方が怖いんですけど」
そう言って背を向けて運転席へと向かう様子は、ある意味ちょっとしたホラーである。
「もう一押しだと思うんだけど?」
「分かったから……! お願いだからそっとしておいて……!」
「まだやってたんですか」
レティシアに何を言われていたのかは知らないが、攻められ続けるアイリスの顔は真っ赤に染まっていた。
結局アイリスが言っていた通りのシンプルな年越しそばを揃って食べ、全員が順番に入浴も済ませた午後十時半。
今年も残すところあと僅かとなる中、毎年恒例となっている年末の歌番組をぼんやりと眺めながら、ソファに沈む。まだ眠気が訪れる気配はないが、どこか気が抜けて頭が回らなくなっている。
それは、今年ももうすぐ終わってしまうという物悲しさがそうさせているのだろうか。
「葵さん? もしかしてもう眠いんですか?」
そうして黙って画面を見つめているのをどう捉えたのか、どことなく心配そうな目付きでアイリスが覗き込んできた。
最早定位置となった、アイリスと自分の位置関係。少しでも隙間を空けた方が楽に座ることができるのに、相変わらずほとんど隙間はない。
「そういうわけじゃないんですけど」
そう返しながら、嗅ぎ慣れたはずの甘い香りがいつもより強いことに気付いてしまって、少しだけ鼓動が速くなる。
先程入浴を済ませたばかりのアイリスは、所謂湯上りという状態。いつか本人が言っていた湯上り姿のよさとやらを、存分に見せつけられている形だった。
「……」
温まって赤くなった頬や、微かに湿り気が残る菜の花色の髪。そして、もこもことした普段着。どれも以前アイリスに言われたものだが、その時は全て見たことがあると言って気にもしなかったそれ。
けれども、今はとてもそんな風には思えなかった。
「葵さん?」
「……何でもないです」
「え、気になるんですけど」
ただ、それを正直に言えるはずもない。言ってしまった日には、一体どんな目で見られることになるか。軽く想像しただけでも恐ろしい。
「んー……?」
テレビ画面もそっちのけで覗き込んでくる瑠璃色の瞳から、首ごと捻って逃げ出す。自分でもよく分からないが、何故かその瞳を正面から受け止めることができなかった。
「今年も色々あったなと思ってただけですよ」
そんなことを考えていたのも嘘ではないが、メインではなかった。それでも、この場を誤魔化すには十分な程のそれらしさはあると信じ、目を合わせないまま小さく呟く。
「そうですね……。私も色々ありました」
案の定意識を逸らしてくれたアイリスが、様々な出来事を思い出すように視線を宙に向ける。
「よくよく考えてみれば、今年の初めはまだ中学生だったんですよね、私」
「い……」
「何を言おうとしました?」
「早過ぎますって」
まだ一文字しか口にしていない。あらかじめそう言おうと考えていたとしか思えない、そんな素早さだった。
「葵さんが何を言おうとしてるかなんて、もう何となく分かります」
「『今は立派な高校生ですよね』って言おうとしたんですけど」
「絶対に嘘です。『今も中学生みたい』って言おうとしてました」
「……」
「ほら」
見事なまでに正解のど真ん中。ぐうの音も出ない。
「もぉー……。私、葵さんと一つしか違わないんですからね?」
「未だに信じられない瞬間もあったりしますよ」
「え? 年上に思えちゃうってことですか?」
「そういうところは小学生くらいに思えます」
「むぁー!」
奇怪な声と共に、明らかな不満を表す色を浮かべた瞳が、抗議の視線を送ってきた。
「なんなんですかぁ! 私だって高校生なのにぃ!」
「とまあ、からかうのはこれくらいにして」
「なんなんですかぁ! 葵さんから言い始めたのにぃ!」
「僕としては、四月が印象に残ってますね」
「あぅ……! それって……!」
忙しなかったアイリスの口が、途端に大人しくなる。届くのは、これまでの抗議の視線ではなく、何かを期待する視線。
「や、やっぱり……」
「そうですね。桜が綺麗で」
「……っ! ……っ!」
「冗談ですよ。痛いですって」
全力ではなくとも、人は脇腹を殴られると痛みを感じる。自分の身で体感したことではあったが、こんな日に体感することではなかった。絶対に。
「アイリスさんと初めて会ったからに決まってるじゃないですか」
「……最初から素直にそう言ってくれたらいいのに」
「改めて本人に言うのは照れくさいんですよ。分かってください」
今は真面目な表情を作ることができていると思うが、心の中は羞恥で染まっている。その感情を全て表に出せる程、自分の精神は強くはない。
「分かりますけどぉ……。『葵さんと初めて会ったから印象に残ってます』なんて、私も言うのは恥ずかしいですけどぉ……」
「あの頃はまだ大人しめでしたね」
「『今は大人しくない』って言ってるように聞こえますけど?」
「大人しいと思ってるんですか?」
「思ってないです」
即座に首が横に振られた。自己分析がよくできている。
「そういう変化で言ったら、最初の頃はまだ少しだけ距離がありましたよね」
「あり……、ましたか……?」
「私じゃなくて葵さんが、ですよ」
「あぁ……」
てっきり、アイリスのことだと勘違いしていた。そういう意味ならば、自分でも納得できる部分はある。
「アイリスさんは最初から距離が近かったので、どう接したらいいのかよく分からなくて」
「難しく考えなくてもいいのに、そうやって考えちゃうのが葵さんらしいですね」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
「褒めてはないです」
手心は一切なかった。心なしか視線も冷たい。
「でも、結局すぐ仲良くなれましたよね? 相性がよかったんですよ」
「考える暇もないくらいにアイリスさんが突撃してきましたから」
「猪突猛進もいい面があるってことです」
やたらとポジティブな一言だが、果たして本当にそうなのだろうか。大抵反撃を受けているのをどう考えるかで、その評価は大きく変わってくるような気もするが。
「もっと仲良くなれたような気がするのは、やっぱり夏休みですね」
「濃かったですからね。あんなに色々なイベントがあった夏休みなんて、この夏が初めてでしたよ」
「楽しかったですか?」
「……楽しかったです」
「だったらよかったです」
微塵もその答えを疑っていないような、そんな屈託のない笑みを浮かべながら聞かれてしまえば、もう素直に答える以外の選択肢は選べない。
それでも、やはり真っ直ぐ向き合いながら答えるのは気恥ずかしくて、僅かに視線を逸らしながら口にすることしかできなかった。
「……アイリスさんが怖がってるところも見られましたし」
「忘れてたのに!」
「あの鳩尾の痛みは忘れられません」
「それはすみませんでした!」
とはいえ、そう簡単にやられるのも気に食わない。そんな訳で、あの夏の思い出の中でも強烈に印象に残った出来事で反撃する。
印象に残ったと言うより、鳩尾に記憶されていると言った方が正しいのかもしれないけれども。
「まあでも、あの時の怖がってるアイリスさんは何となく可愛かったので、実はそこまで気にしてないんですけど」
「はぅっ!?」
まるで何かに撃ち抜かれたように胸を押さえて俯くアイリス。若干耳が赤いのは気のせいだろうか。
「いきなりそういうことを言うのは卑怯ですよ……!」
「何回か言った覚えがありますけど、伝えたいことは口にしないと伝わらないですから」
「少しは手加減してくださいよぉ……!」
「で、その後は体育祭ですか」
「聞いてな……、体育祭……!?」
「え?」
そうしておろおろと慌てていたアイリスだったが、その一言を口にした途端に俯いていた顔を跳ね上げ、驚きに染まった表情でこちらを見上げてきた。
だが、勢いがあったのは最初だけ。すぐに黙り込んでしまい、今はぼんやりとした視線が向けられるのみ。
「アイリスさん?」
「あ……。な、何でもない、ですよ?」
「それは無理ですって」
そんな様子を見せておいて、その言葉は通らない。誰がどう見ても、何かあった人間の反応だった。
「いくら葵さんでも、これだけは絶対に言えません……!」
「そこまで隠されると、余計に気になるのが人間だと思いません?」
「葵さんは優しい人なので、これ以上は聞いてこないと思いますっ!」
「そう来ましたか」
随分と独特な釘の刺し方ではあったが、そう言われてしまえば確かに尋ねづらくはなる。恐らく無意識に放った言葉なのだろうが、的確に急所を突く言葉だった。
「とにかく、体育祭はだめです! 二学期はもっと他にもあったはずなんですから、そっちにしましょう! そっちに!」
「どうして順番に振り返る流れになってるのか分かりませんけど、それならハロウィンとかですか?」
「ハロウィンもだめですぅ!」
「何なんですか」
ここにきて突然わがままだった。
「だったら文化祭ですね」
「あの時の……、恨みを……!」
「やめておきましょうか」
自分もわがままだった。
「そうなると、二学期はほとんど何もお話しできないないですね」
「アイリスさんがだめだって言ってるからですよ? 気付いてます?」
「知りません。それに、どうせ一番大事なのは冬休みじゃないですか」
「……どうしてですか」
わざわざ尋ねなくても答えは分かりきっているが、それでも一応尋ねてみる。アイリスのことなので、サンタ服が一番大事などと言い出す可能性もない訳ではない。
「そんなの、葵さんが大泣きしてくれたからに決まってます」
「ぐ……!」
そんな淡い期待は叶うこともなく。案の定の答えが返ってきて、思わず言葉に詰まってしまった。改めてそう言われると、恥ずかしいにも程がある。
「葵さんは覚えてます?」
「……何を」
「私、ずっと前に言ってたんですよね。私が泣かせたら、涙目の葵さんが見られるって」
「はぁ……?」
「まさかあんな形になっちゃうとは思ってませんでしたけど、涙目の葵さんを見るって目標は達成できました」
茶化す様子もなく、それでいて真面目過ぎる様子もない。ただ自然体でそう口にするアイリス。はっきり言ってしまえばその言葉に覚えはなかったが、本人が言うのならそんな一幕もあったのだろう。
意外な形だったとアイリスは言うが、それは当時の自分にとっても同じなはずだ。あの話をして、その結果アイリスの腕の中で大泣きするなど、微塵も予想していなかった。
「大事なお話もしてくれましたし、それだけ心を開いてくれてるってことですよね」
ある意味出会ってから一番大変だったかもしれない出来事なのに、そう話すアイリスの顔は穏やかなもので。
あの時までは、昔のことを思い出すと心がざわついたものだが、その顔を見ている今はそうでもない。代わりに、心の別の部分が騒めき出すような感覚があった。
「まぁ、これだけ一緒にいれば……」
「一緒にいただけじゃないですもんね? 仲良くなりましたもんね?」
「……」
元々大して離れていなかったのに、さらに身を寄せるようにしての主張だった。圧が強い。
「そんなわけで、来年はもっと仲良くしてくださいね?」
「頑張ります」
まるでその圧に負けたかのような一言だったが、これに関しては紛れもない本心である。自分から強く踏み込むことに慣れていない人間にとっては、今はこの答えが精いっぱいだった。
「えへ……!」
考えていることが伝わったのかは分からない。けれども、アイリスは嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。今はただ、それだけで十分。
「……」
アイリスに対する気持ちが随分と変わってきたことを自覚しつつ、同時に嫌な変化ではないとも感じる。それこそアイリスが言ったことを真似る訳ではないが、今年の初めには考えられなかった変化だ。
「……ちょっと二人にすると、すぐこれなんだから」
「うぇ!?」
「葵君もっていうのが意外だったけどね」
「え……?」
そうして何とも言えない空気を漂わせていると、唐突に背後から二人分の声が聞こえてきた。言うまでもなく、アーロンとレティシアである。
「何? 私達が少し部屋に戻ってる時間でも我慢できないわけ?」
「我慢って何!?」
「何がどうなってそんな話になったんだい?」
「ど、どの辺りから聞いてました……?」
「クリスマスの話から」
「あぁぁ……!」
「あぁぁ……!」
アイリスと二人揃って頭を抱える。恐らく、心に浮かんだ感情は一致しているはずだ。その感情とは、もちろん羞恥である。
「今年が終わるってことで、ちょっと感傷的になっちゃったのかしらね?」
「やめてぇ! 分析しないでぇ!」
「葵君も。随分優しそうな顔をしてたよ」
「……っ!」
アイリスはレティシアに。自分はアーロンに。それぞれ別の切り口で追い込まれる。当然、お互いをフォローする余裕などありはしなかった。
「最後の最後まで変わらない二人ね」
「いや、むしろ色々変わったんじゃないかな?」
「うぅ……!」
「……」
楽しそうに微笑む二人を前に、自分達はただ悶えるだけ。アイリスと自分の二人という意味では変わったのか変わっていないのか分からないが、アーロンとレティシアを含めた四人であれば、立場は何も変わっていなかった。
年が明けるまであと少し。残された時間は、とりあえず二人の追い打ちを躱すために消費されることになりそうだった。




