86. 何でもない日々
十二月二十八日、木曜日。その昼下がりのこと。年末らしく特番ばかりを放送するようになったテレビを、アイリスと二人並んで見ている時のことだった。
「葵さん、葵さん」
「何です?」
「もし海外旅行に行くなら、葵さんはどの国に行ってみたいですか?」
「海外?」
ちょうどそんな内容の番組を見ていたからだろうか。袖を引っ張りながらのアイリスの問いは、これまで想像したことがなかったもの。
尋ねてきた本人としては純粋な興味からだったのか、そんな色が瞳に浮かんでいた。
「はい。と言うか、海外って行ったことあります?」
「いや……、記憶にはないです」
「ってことは、旅行は国内派だったってことですか?」
「特にその辺りの好みはないと思いますけど……」
正確に言うのなら、考えたことがないということになるだろう。ただ、それでは答えとしては何も面白くない。
「行ってみたい国、ですか……」
「……」
答えを待つようなアイリスの視線を受けながら、少しの間だけ考える。
絶対にここに行きたいという国は思い浮かばなかったが、ぼんやりと思い浮かんだ国ならあった。
「スイス、ですかね」
「スイスですか?」
少しだけ意外そうに繰り返すアイリス。名前としてはメジャーな部類に位置する国ではあるが、旅行先としては必ずしもメジャーとは言えないであろう選択に、どうやら意表を突かれたらしい。
「マイナーってわけじゃないけど、なかなか珍しいところを挙げてきたね?」
「もっと有名な国が出てくるかと思ってたわ」
黙って自分達の話を聞いていた様子のアーロンとレティシアも、そんな感想らしい。そこまでの反応を示されるとは思っていなかったので、自分としてもやや意外である。
「そんなに意外でした?」
「いいところだとは思うけど、最初に浮かんでくるとは思わなかったね」
「何か理由ってあるんですか?」
未だに袖を離さないアイリスが、再び問いかけてくる。
「そんなに大した理由じゃないんですけど……。前に写真か何かで見た景色が綺麗だったので、機会があったら直接見てみたいって思ってたんです」
「あぁ……。確かに景色がいいイメージはありますよね。山とか」
「そんな感じの写真でしたね」
「なるほどなるほど……。スイス……」
「何か?」
「いえ? 何でも?」
アイリスが首を小さく横に振る。言葉だけ聞けば何かを誤魔化したようにも聞こえるが、今回は口調からしてそういう訳でもないようだった。
「そう言うアイリスさんは、どこか行きたい国はないんですか?」
「私ですか?」
「えぇ。僕に聞いてきたんですから、アイリスさんにも答えてもらわないと」
「その理屈はよく分かりませんけど……」
恐らく悪いことにはならないであろう考えよりも、今はアイリスが行きたい国である。自分が尋ねられたので、流れとしては気になって当然の疑問だった。
「行きたい国……。国……?」
「そこまで難しく考えなくても」
そんな軽い気持ちで尋ねてみただけだったのだが、アイリスは思いの外頭を悩ませる様子を見せていた。こうなってくると、何気なく尋ねたこと自体が申し訳なくなってくる。
「んー……。改めて聞かれると、意外と答えに困りますね……」
「国に限らなくても、どこか行ってみたい名所とか」
このまま待っていてもしばらく答えは出てこないだろうということで、思考を軽く手助けする。そのおかげなのかは分からないが、アイリスがとある場所を口にしたのは、そのすぐ後のことだった。
「あ! それなら、ギリシャに行きたいです!」
「ギリシャ?」
観光名所という言葉で何かを思い付いたのか、これまでとは違う、随分はっきりとした口調での答えだった。
「はい。まあ、ギリシャに行きたいってより、サントリーニ島ってところに行きたいんですけど」
「サントリーニ島」
聞いたことがない島の名前に、思わずそのまま繰り返してしまう。
「世界一綺麗な夕日が見られるらしいですよ?」
「へぇ……、夕日」
「ですです。テレビで見た景色がすっごく綺麗で、できたら直接見てみたいなって思ってたんです」
その対象は違っても、理由としては自分と大して変わらないようなものだった。きらきらと目を輝かせて話すアイリスは、とても楽しそうな空気を身に纏っている。
「葵さんも見てみたくなりました?」
「そう言われると、ちょっと興味は湧いてきましたね」
「いつか行けたらいいですね。……せっかくなので一緒に」
「ですね。その時は晴れるように祈っておかないと」
せっかく見に行ったのに、ずっと天気が悪くて夕日が見られないなどということになってしまえば、それこそ悔やんでも悔やみきれない。加えて言えば、がっくりと肩を落として落胆するであろうアイリスを慰めるのが大変そうだ。
「えへ……」
「いきなりどうしました」
「いーえ? 何でも?」
「絶対に何か考えてますよね?」
「秘密です」
唐突にはにかんだアイリスに怪しさを感じるも、その答えは教えてもらえそうになかった。はにかみを悪戯っぽい笑みに変え、人差し指は口の前。
「……まぁ、別にいいです。それより、海外旅行ってなったら、どうしても気になるところがあるんですよね」
「気になるところ、ですか?」
そんな答えが返ってきそうにない問いを投げかけるより、もっと現実的な問いである。初めて海外に行くとなれば、誰もが思い浮かべるであろう不安が自分にもあった。
「言葉をどうするかってことですよ。その国の言葉は話せないですし、せめて英語が少しでも話せたらいいんですけど……」
結局のところはそこに行き着く。知らない土地で、言葉すらもよく分からない。不安になるなと言う方がどうかしている。人は知らないことを恐れる生き物なのだ。
「葵さん、葵さん」
「はい?」
将来本当に海外に行く機会があったとして、そんな不安に苛まれながら色々と見て回るのも気が滅入るだろう。今からでも、少しずつ英語の練習をしておいた方がいいのかもしれない。
そう考えていると、先程ぶりに袖を引かれる感覚があった。相手は言うまでもなくアイリスで。
「隣に座ってるのを誰だと心得ますか?」
「……ご老公?」
「誰がお年寄りですか」
自信満々に言うアイリスだったが、その聞き方では答えは一つしかない。若干不満そうな表情に変えられても、困るのは自分の方だ。
「そうじゃなくって。ここに英語が話せる人がいるじゃないですか」
「……アイリスさんって、英語を話せましたっけ?」
「話せますよぉ!? 前からそう言ってるじゃないですかぁ!」
「いや……、日本語のイメージしかなくて……」
出会ってから今まで、ずっと会話は日本語だった。よくそんな言葉を知っているという感想を抱いたことも、一度や二度ではない。見た目がそうだろうと言われると否定はできないが、とにかくアイリスが英語を話しているイメージがないのだった。
「話せるのは本当だよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。どっちも話せた方がいいと思って、昔から両方教えてたの」
「へぇ……」
「ほら! 私、嘘吐かない!」
「たまに片言みたいになってますけど」
「……日本語は僕達も専門外だから」
「これからは、葵君が手取り足取り教えてあげてね?」
「言葉なのに?」
せっかくアーロンとレティシアが援護してくれたのに、いきなり言葉遣いが怪しくなるアイリスなのだった。しかも日本語の方が。
「とにかく! 私と一緒なら、言葉の心配はしなくても大丈夫ですよ!」
「それでも、一応は勉強しておきますね」
「全部任せてくれてもいいんですよ?」
「完全にアイリスさんに任せるのは怖くて……。言葉が分からないのをいいことに、どこかおかしな場所に連れていかれそうで……」
「なんでですか!」
袖が力強く引かれる。その強さから推測するに、比較的ご立腹のようである。
「おかしな場所って何ですか!」
「分かりませんけど……。何となく、旅行の主導権をアイリスさんに握らせるのは不安と言うか……」
言葉の不安がなくなった代わりに、何かもっと大きな不安が生まれてしまいそうな状況だった。
「そこは任せてくださいよ。絶対に大丈夫ですから」
「本当ですか?」
「葵さんと一緒に行くんですよ? 私だって楽しみたいですもん」
「そこまで言うなら、まぁ……」
「はい! 言質を取りましたよ!」
嬉しそうに物騒なことを口にするアイリス。やはり、「任せる」と言ってしまうのは早まった判断だったのかもしれない。
「随分楽しそうに話してるけど、一緒に旅行するってところは否定すらしなかったね」
「その時は私達も一緒に行っていいのかしら? それとも、二人だけで行くの?」
「ふ、二人だけ……!?」
「アイリスさんを止めてくれる人がほしいので、是非一緒にお願いします」
隣から衝撃を受けたと言わんばかりの声が聞こえてきたが、自分としてはそんなことは考えていない。仮にそうなったとして、それは一体どういう状況だろうか。
「僕達がちゃんと止めると思うかい?」
「親ですよね?」
「親だからこそ、娘の気持ちを尊重したいってこともあるじゃない?」
「行き先の安全を尊重してください」
ただ、そう言いながら、この二人は基本的にアイリスの味方であることを思い出していた。最近もあったが、三対一ではとにかく分が悪い。
「それでも、やっぱり旅行することは否定しないんだ?」
「考えるのは自由ですから。僕だって、たまに考えはしますからね」
「え。ちょっと意外です」
その言葉に反応したのは、衝撃を受けていたはずのアイリス。見れば、口にした感想通りの表情を浮かべていた。
「葵さんでもそういうことを考えるんですね」
「国内ばっかりですけど。今みたいな番組を見てると、つい」
アイリスの意識を向けるように、しばらく誰も見ていなかった画面を指差す。少し時間が経つうちに、紹介されている場所は国内に切り替わっていた。
「案外旅行が好きだったりします?」
「まぁ、多分好きです。言葉さえ通じるなら、知らない場所に行けるのが楽しいってこともあるんだと思います」
「そうですか……。国内ってことは、温泉とかも?」
「いいですね。いつか色々行ってみたいです」
アイリスの言葉に影響されたのか、頭の中に様々な温泉地が浮かぶ。全て制覇するのは流石に難しいだろうが、それでも行けるところには行ってみたいものだ。
「確かに、葵君ならホテルってより旅館の方が似合いそうね」
「分かるな。広縁でお茶を片手に読書でもしてそうなイメージだね」
「もちろん、浴衣を着てますよね?」
「用意されてたら着ますけど、どうしてそんなに目が輝いてるんですか?」
そういった場で浴衣を着るのは構わないが、アイリスの目がどうにも気になって仕方がない。また厄介なことを言い出さなければいいのだが。
「絶対に写真を撮らないと……! 雰囲気が最高……!」
「アイリスさんは部屋に上げない方向で」
「そんなぁ!?」
若干の身の危険を感じた。写真を撮られるだけならもう特に気にはしないが、アイリスに限ってそれだけで済むはずがない。何をさせられるか想像できないのがもどかしいが、絶対に何かを要求してくるはずだ。その辺りには全幅の信頼を置いている。
「せっかくの風景なのに……」
「残念でしたね」
落胆する様子を隠そうともしないアイリス。どれほど本気で言っていたのかがよく分かる仕草だった。分かりたくはなかったけれども。
「そもそも、何日も滞在するなら本を持っていくかもしれないですけど、一泊二日程度なら持っていかないですよ」
「あれ?」
「旅館の中を歩き回るのも楽しそうですし」
言っている最中、遠い過去の記憶が蘇ってくる。
あれは、まだ自分が幼い頃だったか。両親と一緒にどこかの旅館に宿泊した時、館内で迷子になって半泣きになったことがあった。今ならそんなことはないだろうが、当時の自分にとって、広い館内はほとんど迷路のようなものだったに違いない。
「ひっそりとした小さいゲームセンターとか、よく分からないところにある休憩スペースとかって、何かいいと思いませんか!?」
「お、おぉ……? いきなりどうしました?」
落胆していた様子から一転、アイリスが身を乗り出す程に前のめりになっていた。思わず、自分がその分仰け反ってしまう程度には。
この短い時間で過去の出来事を思い出している間に、一体何があったのだろうか。それとも、単に何かがアイリスの琴線に触れただけなのか。
「アイリスは昔からそういうよく分からないところが好きでね」
「旅館に泊まった時なんて、毎回必ず探しに行くものね」
そうして戸惑っている様子が伝わったのか、アーロンとレティシアから補足説明が入った。どうやら不思議な好みがあるらしい。
「何となく雰囲気が好きなの」
「そう言う割には、夜は絶対に行かないのよね」
「……そういうところって、大体ちょっと薄暗いし」
そして、それを上回る程に怖がりだった。
「まあでも、そういうこだわりがあるのは分かります」
「そう言うってことは、葵さんも何かあるんですか?」
「こだわりって言うほど大したことじゃないです。深夜とか早朝に、ゆっくり温泉に入るのが好きってくらいで」
「深夜とか早朝?」
思っていたものと毛色の違う答えだったのか、目の前でアイリスの首が小さく傾く。
「誰もいない大浴場とか露天風呂って、何故か好きなんですよね。露天風呂で空が白み始めるのを見るのも」
「あー……。ちょっと分かるかもしれないです。独り占めできるのがいいんですよね」
「そういうことです」
うっすらとした賛同をアイリスから得られたところで、アーロンとレティシアに向き直る。
「そんなわけで、よく分からない好みがあるのは僕も同じですよ」
「老成してると言うか何と言うか」
「葵君くらいの歳で『空が白み始めるのが好き』って言う子なんて、多分そうそういないわね」
そこにあったのは、ほとんど苦笑いと言ってもいい二つの顔だった。
「ってことは、仮に葵さんと一緒に温泉に行ったら……」
「ん?」
そんな二人の表情の変化を眺めていると、またしても隣から何かに気付いたような声が聞こえてきた。今度は何を言い出すつもりだろうか。
「そういう時間に温泉に入れば、露天風呂の壁越しにお話ができる……?」
「迷惑になるかもしれないので、なるべくやめておきましょうね」
「えー……?」
残念そうな声を漏らすアイリスだが、こればかりは仕方がない。公共の場で大声を出すのは控えた方がいいに決まっている。
「お話の中だったらよくあるのに……」
「現実はしがらみが多いんですよ」
「……やっぱり高校生の言葉じゃないな」
その顔を見ていなくても苦笑いのままであることが分かる、そんなアーロンの言葉。だが、今回は誰も反応することなく、その言葉はそのまま宙に消えていくのだった。
いよいよ新年が目前に迫ってきた十二月三十日、土曜日。もうすぐ夕方と言えるような時間帯に差しかかった今、リビングには時折アイリスの小さな唸り声が響いていた。
冬至は過ぎたとはいえ、まだまだ昼の時間が長くなったようには感じられない。既に点灯しているリビングの照明が、アイリスの目の前にある教科書に影を落としている。
「うー……」
「さっきからどうしました?」
「日本史ぃ……」
「あぁ」
様子が気になって尋ねてみれば、返ってきた答えはたったの一言。それでも、その一言で何に悩んでいるのかは伝わってきた。
「流石に覚える量が多くなってきましたぁ……」
「まぁ、増える一方ですからね」
「パンクしますぅ……!」
まるで目でも回っているかのような、どこか間延びした声。それだけ苦しい状況にあるということなのだろう。
「何か……、何か助けを……」
「言ったって、最終的には覚えるしかないんですけどね」
「そんなぁ……!」
助けを求めて伸ばした手をあっさりと払われて、そのまま気分ごと沈んでいくアイリス。こうなってしまえば最後、冬休みの宿題は遅々として進まないだろう。
一旦自分の手を止め、そんなアイリスの手元を覗き込む。本人が言っていた通り日本史で、時系列的には中世の初め頃。なかなか馴染が薄い、苦手な人にとってはとことん苦手な範囲だった。
「どこがどう分からないんですか?」
「どこがどう分からないか分からないです……」
「重症ですね」
「助かりますか……?」
「多分。アイリスさんはやればできる人ですから」
「……っ」
ぴくりと。小さな反応があった。やはり褒められるのは効くらしい。
「アイリスさんに合うかどうかは分かりませんけど、勉強の仕方の一つとして聞いてください」
「は、はい」
「いいですか? 政治だったり文化だったりって、時代ごとに特徴があるじゃないですか」
「ありますね。全部同じだったらいいのに」
「それを、この時代の政治はこうで、文化はこうで。次の時代はあれで、なんて覚え方をしてると、個人的には大変だと思うんですよ」
「はい。だから全部同じならいいのに」
「……聞く気がないなら、もうここでやめますよ」
「わぁ!? ごめんなさい!」
慌てて謝るのなら、最初から何も言わなければいいのに。そうは思いつつも、言いたくなってしまう気持ちも分からなくはないが。
とはいえ、昔の人物に文句を言っていても、成績は何も変わらない。
「……だからですね、分野を一つに絞ったらいいんです」
「一つに?」
「えぇ。例えば、文化だけを時代ごとに比較する。あの時代はこんな文化で、代表的な美術品はこんな特徴があったけど、この時代の文化はこうで、美術品にはこんな違いがある、なんて感じですかね」
「ほうほう……」
「要は、政治なら政治だけの、文化なら文化だけの年表を自分で作るイメージです」
「年表を作る、ですか……。できますかね……?」
「慣れないうちは大変だと思います。でも、少ししたら割と簡単に作ることができますよ」
不安そうに言うアイリスだが、こればかりは慣れである。ポテンシャルが高いアイリスなら、きっと問題はないと信じている。
「一回作ってしまえば、後の時代も追加しやすいですしね。一気に色々な分野を覚えようとすると大変ですけど、絞ってしまえば意外と追いかけやすかったりします」
「んー……。ちょっと頑張ってみようかなぁ……?」
「まぁ、時間がかかるので、冬休みの宿題には間に合いませんけどね」
「あれぇ!?」
あれだけ説かれた後に梯子を外されたのが相当衝撃だったのか、今日一番の大きな声が出ていた。その声たるや、黙って聞いていたはずのアーロンとレティシアもこちらを振り返ってしまう程である。
「間に合わないって!」
「間に合いませんね。普段の試験の時に役に立つってだけで」
「今の……、助けはぁ……?」
「……」
そんな即効性のある方法など存在しないのだが、ほとんど涙目のようになってしまったアイリスを見ていると、そう言って突き放すことなどできる気がしなかった。
揺れる瞳が、自分を捉えて離さない。
「……答えは教えませんけど、解説するくらいなら」
「ほんとですか!?」
天から垂れてきた糸を見つけたかのように、アイリスの顔に喜びが広がっていく。カンダタと違うのは、その糸に掴まるのが一人しかいないことだ。
「ちょっと待っててくださいねっ」
そう言って、広げていた教科書やら宿題やらを一旦まとめ、わざわざ隣の椅子に移動してきた。途端に甘い香りが強くなる。
「えっと……、この辺りなんですけど……」
再度一式を広げたアイリスが、早速分からなかったと思われる部分を指差す。内容を確認してみたが、どうにか記憶から引き出せそうな範囲でやや安堵する。あれだけのことを言っておいて、結局自分も思い出せないのでは示しがつかない。
「そこはですね……」
引き出した記憶を使って解説を始める。素直に相槌を打ちながら聞いてくれるアイリスは、ある意味とても解説しやすい相手である。
「ほとんど専属の家庭教師みたいになってるね」
「楽しく教わることができるなら、それはそれでいいんじゃない? 葵君も嫌がってはいないみたいだし」
その様子を見ていたらしいアーロンとレティシアの感想は、いつかどこかで聞いたことのあるようなものだった。
「はい、お願いします」
「はーい」
洗い終わった皿をアイリスに手渡す。そしてアイリスはその皿を拭く。二人で分業制にした、皿洗いの一幕だった。
「はい」
「はーい」
「……」
にこにことその様子を眺めるレティシアの視界の中、泡塗れになっている皿を水で洗い流していく。
「……何をしてるの、お母さん」
「ん? そうやって二人でキッチンに立ってるのが可愛くて、つい」
「何を言ってるの?」
視線に耐えきれなくなったアイリスがその真意を尋ねていたが、返ってきたのは本心かどうか怪しい言葉。本当にそう思っていてもレティシアならおかしくはないが、心の深いところでは、何かもっと別のことを考えていそうである。
「最近は料理も始めて、今は可愛い男の子と一緒にキッチンに立って。立派に成長したわねぇ……」
「感慨深そうに言うこと?」
「まずは『可愛い男の子』ってところに突っ込んでくださいね」
「本当のことには突っ込めないので」
「……」
洗い終わった皿をまた一枚アイリスに手渡しつつ、無言の抗議を送る。
「普段使わない色の食器があるのって、ちょっと新鮮ですよね」
受け取ってもらえたのは皿だけだった。
「何かあった時のために、ちょっとだけ多めに買っておいてよかったわ。まさかこんな風に役立つとは思ってなかったけど」
「僕だって、ここで皿洗いをしてるなんて思ってませんでしたよ」
「あら。じゃあ任せてくれてもいいのよ?」
「譲りません」
楽しげに提案してくるレティシアだったが、ここは譲れない。
そもそもの話、皿洗いを半ば強引に引き受けたのは自分だ。ただ世話をされるだけなのがどうにも落ち着かなくて、何とか役割を引き受けたのがつい先程のこと。
それならばと、何故かアイリスも参戦することになり、こうして分業制の皿洗いが完成したのだった。
「そんなに一緒にお皿を洗いたいの?」
「ひょわ!?」
少し大きめの皿を拭いていたアイリスが、そんな母親の一言で手を滑らせそうになっていた。これまでは危なげない手付きだったが、やはり不意打ちには弱いらしい。
「下手なことを言うと、何枚か割れますよ。アイリスさんのところで」
「……そうね。気を付けるわ」
「割りませんもん!」
力強く宣言しているが、まさに今割りそうになっていた時点で、悲しい程に説得力がない。
「お母さんも! そういうことを言うのは禁止!」
「そういうことをしてる時だけね」
「それ以外もっ」
勝算が見当たらない勝負だった。アイリスがそう言ってレティシアを止められた場面など、残念ながらこれまでに見たことがない。
「残念。娘に禁止されちゃった」
「やめる気なんてないんじゃないですか?」
「ばれた?」
「本当にやめる気があるなら、そんなに楽しそうな表情はしてないでしょうから」
「あら」
「お母さん……」
残念などと言って引き下がったように見えたレティシアだが、その表情は何も変わっていない。これでは、やめる気がないのは誰の目にも明らかだった。
「でも、あれよ? 可愛いとかそういうことは関係なしに、誰かがこうして手伝ってくれるのは嬉しいものよ?」
「その割には、なかなか首を縦に振ってくれませんでしたね」
「それはほら。今の葵君はお客さんみたいなものだから」
「そういう特別扱いみたいなのは苦手です。お世話になってるんですから、何か返させてください」
「律儀ね」
そう言って目を細めて自分を見るレティシアは、一体何を考えているのだろうか。その心の内は、アイリス以上に読めそうになかった。
「それじゃあ、明日からもお願いしようかしら」
「はい。任せてください」
「あ、じゃあ、明日は私が洗って、葵さんが拭くってことで」
手渡す皿を黙々と拭いていたアイリスから、このタイミングでそんな提案が投げかけられる。特に何もなければ頷いていたのだろうが、今回は素直に頷くことはできなかった。
「いや、洗うのは僕で」
「なんでですか。割りそうだからですか?」
まさか断られるとは思ってもいなかったのだろう。その理由を邪推したようで、アイリスの口調が少しだけ不機嫌そうなものに変わる。
「そういうことじゃなくてですね。単純に、洗い物は手が乾燥するので。そういうところは僕がやります」
「……っ」
視界の端でアイリスの動きが一瞬止まったように見えたが、果たしてそれは目の錯覚だったのか。
何にせよ、手渡した皿を受け取ってもらえるのなら何も問題はないが。
「……やっぱり、すぐそういうことを言うんですから……」
「今のは効いたわね?」
「お母さんは静かにしてるって約束だよ」
「そうだったわね。じゃあ、静かに二人を眺めさせてもらうわ」
「それもちょっと……」
二人がそんなやり取りをしたきり、会話がぱったりと途切れる。辺りに響くのは、たまに皿同士がぶつかる高い音だけ。
そうして不思議な空気がしばらく続いた後、風呂掃除をしていたアーロンがリビングへと戻ってきた。
「……え、どういう状況だい?」
経緯を知らない者が見れば当然抱くであろう疑問を、アーロンもまた、小さく零すのだった。




