84. 晴れた霧 (3)
「昨日はあれで、今日はこれで……。僕の感情をどうしたいんですか……」
「それくらいの方が、案外気分は楽になるんじゃないですか?」
「もう何となく大丈夫ですって……」
あれやこれやと写真を撮られた、その後のこと。クリスマスという日に、ここまで恥ずかしい思いをしている男子高校生はそういないだろうと言える程に、顔には熱が籠り続けていた。
「ほんとですか?」
「信用してください」
「んー……。葵さんは隠し事が上手って分かっちゃいましたからね……。その言葉も本当かどうか……」
無理もない話だが、昨日の一件が尾を引いていた。そんな引き方は想定していなかったが、引くこと自体は想定済みである。
だからこそ、伝えるべき言葉は最初から考えてあった。
「今更アイリスさん達に隠し事なんてしませんよ。昨日のも、話すのがそのタイミングになったってだけで、元々いつか話せるかもとは思ってましたから」
「そうなんですか?」
少し意外そうに目を丸くするアイリス。あんな隠し事があるとは思ってもいなかったであろうことを考えると、その反応も当然のものだが。
「どうしてまた……」
「分かりません。何となくですけど、話してもいいのかなと思って」
「よく分からないですけど、葵さんが思ったより私に懐いてくれてるってことだけは分かりました」
「何も分かってないですね」
よく分からないと言いつつ、何故か自信に溢れた一言だった。だが、「よく分からない」というのは嘘偽りのない言葉だったらしい。
「懐いてくれてなかったら、葵さんみたいな男の子はサンタ服なんて着てくれません。しかもスカートの」
「無理矢理そう仕向けておいて何を」
逃がしてくれなかったのは、他でもないアイリスだ。そこに懐いている、懐いていないは関係ない。
「懐いてるって言うなら、どっちかって言うと私達に、よね?」
「年齢的にもそうだね」
「そんな張り合い方はしなくていいと思います」
「私が一番だもん!」
「アイリスさんもです」
明るい口調で大人気ない張り合い方をしてきたアーロンとレティシアに煽られて、アイリスがますますヒートアップしていく。このまま放っておけば、間違いなく暴走を始める。悲しいことに、そんな予感だけは即座に察知することができた。
「こんなことをしても、葵さんは逃げませんもんね?」
そう言って、意味もなく両親に対抗したアイリスが腕を組んできた。先程写真を撮られていた時にも同じ格好をしたが、やはり距離がないというのは恐ろしい。
「これじゃあ、逃げてもついてくるじゃないですか」
「そんな格好も許してくれてるってことです」
ああ言えばこう言うアイリス。こんなことに関しては、自分のことを疑っている様子は微塵も感じられなかった。浮かんだ笑みが眩しくて仕方がない。
「それじゃあ、僕とも腕を組むかい?」
「だめ。葵さんとお父さんだと、見た目が凄いことになりそうだからだめ」
「二回もだめって言うか。冗談だったのに」
「だめ」
「分かったから。それ以上は勘弁」
誰が見ても冗談と分かる表情だったのに、アイリスには一切通じていなかった。心なしか、言葉が冷たくなっているような気すらする。少なくとも、仲が良い親に対する口調ではない。
「それで? 私達の自慢の娘がそうしてるわけだけど、葵君的にはどう?」
「どう……?」
「嬉しい?」
厄介なことを言い出したアーロンをアイリスが退けたばかりだというのに、今度はレティシアがより厄介なことを言い出した。話題が話題だけに、今回はアイリスの援護は期待できそうにない。
「……」
それどころか、レティシアの側に回りそうな雰囲気すらあった。どんな言葉を望んでいるのかは知らないが、その目にはうっすらと期待が滲んでいる。
「ちなみに、何も答えないっていうのは……?」
「私達に隠し事はしないのよね?」
「ぐ……」
少し前に言った言葉が、まさかこんなところで自分の首を絞めることになろうとは。一体誰がこんな事態を予想できただろうか。
「こんな日なんだから、娘の喜ぶ顔が見たいわねー。親にとって、それが何よりのプレゼントだと思うのよねー?」
「棒読み……!」
わざとらしく頬に手を当てたレティシアの、妙に演技がかったその言葉。自分を追い込むための言葉とは分かっているが、それでもそう言われてしまうと、何も反論できなくなってしまう。
「そんなわけで、どうぞ」
「……」
「……」
娘のものとほとんど変わらないレティシアの催促と、二人分の沈黙。
本当にこの雰囲気の中で口にするのか迷いはしたものの、六つの瞳から受ける圧には勝てなかった。
「……可愛いと、思います……」
「えへ……!」
「うん。照れながら言う葵君も可愛い」
「やっぱり本当に男の子なのか疑わしいね」
絞り出したような感想に返ってきた反応は、三人でそれぞれ違ったもの。
着替えたばかりの時にも言ったのに、それでもアイリスは嬉しそうに微笑みながら、腕に込める力を強くする。他方、レティシアは何故か納得したように頷き、そしてアーロンは怪しいものを見るような目で自分を見ていた。
「葵さんがそれを着て、しかも私のことを可愛いって言ってくれるなんて、やっぱりクリスマスプレゼントなんでしょうか……!」
感極まったようにそう零すアイリス。日付が日付だけに、考えはどうしてもその方向に偏っていくらしい。
「……それなら、用意したプレゼントはいりませんね」
言葉がクリスマスプレゼントと言うのなら、用意したものは日の目を見ることなく死蔵ということになる。自分としてはそれでも構いはしないが、もったいないと思う気持ちもどこかにはある。
あるいは、自分で使ってしまうか、だ。これまでの自分が使うようなものではないことは分かっているが、ただの置物になってしまうよりはましかもしれない。
「わぁ!? 冗談ですっ!?」
一瞬でそんなことを考えていると、これ以上慌てようがないという程に慌てふためいたアイリスから制止の声がかかった。
「私もちゃんと用意しましたから! 交換しましょう! 交換!」
「思ったんですけど、さっきもあんな感じのことを言いましたよね。ってことは、僕はいくつプレゼントをあげたんですか?」
「……言葉のプレゼントもいいとは思いますけど、やっぱりクリスマスプレゼントは物ですよね!」
清々しい程の誤魔化しだった。ここまでになると、最早何も言うこともできない。何かを誤魔化すのであれば、その時は堂々としていた方がいいという、何もありがたくない教訓を得ることになった一幕だった。
「はぁ……」
「あ、呆れられた……」
「まぁ、アイリスさんらしいと言えばアイリスさんらしいんですけど」
「変な納得のされ方……」
と言っても、それが嫌な雰囲気を醸し出している訳ではない。ここまで愛嬌があると、むしろ微笑ましいくらいだ。
そして何より、今の自分はアイリスに大きな恩がある。それを少しでも言葉で返すことができるのであれば、そうして返していくのはやぶさかではない。もちろん、他人が見ている場面でなければ、の話だが。
(他人……?)
そう考えて、微かな違和感を抱く。
その状況を避けたいということは、自分は他人に聞かれると恥ずかしいようなことを言うつもりだったということになる。あまりに自然に考えていたので、気付くのに一拍置く必要があった。
(えぇ……?)
自分らしくないとは思う。確かに、思いは言葉にしないと伝わらないとは思うが、まさかこんなことを能動的に考えるようになるとは思いもしなかった。
あるいは、アイリスと関わるようになってから、それだけ自分が変わってしまったという証なのかもしれない。
「葵さん?」
「え? あぁ、はい?」
そんなことを考えているうちに、思ったより長い時間黙り込んでいたらしい。そのことを不審に思ったであろうアイリスが声をかけてきたことで、ようやく意識が目の前のアイリスに戻ってきた。
「いや……、『はい?』じゃなくてですね?」
何も考えずに返事をしてしまったが、それが尚更アイリスに混乱を招いてしまったようだった。普段はあまり見せない、どこか困ったような目が自分に向けられている。
「何かありました? 何だか静かになっちゃいましたけど……」
見れば、アーロンとレティシアも不思議そうな目をしていた。不思議そうな、とは表現したが、それも無理もない話だろう。
これまで何事もなく話していた相手が、あるタイミングでいきなり黙り込んだ。
状況を言葉にすればそうなる。もし自分が同じ状況になれば、きっと同じ反応を示していたはずだ。
「あ、いえ。何でもないです」
だからこそ、本当に何でもないように振る舞う。大したことを考えていた訳ではないが、それでもアイリスに知られるというのは、どこか気恥ずかしいものがあった。
「隠し事はだめなんですよ?」
すっかり便利な道具のように扱われることになってしまった、その言葉。一瞬、迂闊に口にしたのは間違いだったかとも思ったが、あの時の偽らざる本心だったので、それも仕方ない。
「隠し事じゃなくて、ただの考え事です」
そうは言っても、今回ばかりは別である。都合がいい言葉で、のらりくらりと躱すことを選択する。
「ふーん……。つまり、まだ教えてくれないってことですか?」
「今後も教えるかは分かりませんけどね」
「じゃあ、教えてもらえるように頑張ります」
「何を?」
何かを決意するアイリスだったが、今の話の流れで何を頑張るのだろうか。皆目見当がつかない。
「まぁ、何だっていいじゃないですか。それより、今はプレゼントですよ!」
結局はっきりとはしなかったが、その一言で話題が本筋へと戻ってくる。随分と遠回りをしたように思うが、確かにその話が発端だった。
「話を逸らすのが好きね、あなた達」
「楽しいからね!」
「葵君もそういうのに乗っかるっていうのは、ちょっと意外だね」
「話したい人といつでも話せるわけじゃないってことは、身に沁みて分かってますから」
「……」
言わない方がよかったと気付くのは、いつだってその言葉を口にしてしまった後のことだ。今も、問いかけてきたアーロンが黙ってしまったのを見て気付いた。こんな日だというのに、本当に配慮が足りていない。
「そんな心配なんてしなくて大丈夫ですよ! 私はどこにも行きませんから!」
けれども、いつもと違うのは、そう言ってくれる人が隣にいること。おかしな空気になりかけたところで、一切陰りのない声が響く。
「……じゃあ、これからはそういうことはなしで」
その言葉に言いようのない安堵を覚えつつ、照れ隠しに一言呟く。
「だめです。楽しいですから」
「……だったら仕方ないです」
一瞬の間すらない、笑顔での否定。なのに、出てきたのはそんな言葉だけだった。
「で、どっちから渡しましょうか」
「別に僕はどっちからでも」
お互いに用意したプレゼントを持ち寄って、再びソファに腰を下ろす。この格好でそれらしくラッピングされた箱を持っていると、途端に雰囲気が出てきたような気がした。
「それじゃあ、まずは私からってことで」
そう宣言したアイリスが、やや平たい箱を差し出してきた。どこでもそのラッピングを使用しているのか、目にも鮮やかな赤と緑で彩られた箱である。
「色々ありましたけど、こうしてちゃんと渡せてよかったです」
その色々を起こした身としては心に刺さる言葉だったが、流石に今言うべき言葉ではないことには気付けた。先程の教訓が活きている。
「どうそっ」
「ありがとうございます」
まさしくサンタクロースからのプレゼント。それも、滅多に見られないような、恐ろしく可愛らしいサンタクロースからだった。
いっそ、サンタ帽もあったらよかったのかもしれないとまで考えつつ、壊れ物を扱うような手付きでそれを受け取る。手に持った感覚としては、随分と軽い物のように思えた。
「開けてみても?」
「そんなに早く中身が知りたいですか? 葵さんもせっかちさんですね!」
にこにこと。とても面倒なことを言い出すサンタクロースが目の前に降臨した。可愛らしいサンタクロースは一体どこへ消えてしまったのか。
「鬱陶しいので、家に帰ったら開けます」
「鬱陶しい!?」
あまりにそのギャップが大き過ぎて、口を衝いて出た言葉が辛辣なものになってしまった。こんなことで確認はしたくなかったが、どうやらいつもの自分が帰ってきつつあるらしい。
「あ、あの……! 今開けても大丈夫、ですから……!」
「そこまでになるんだったら、いっそ言わない方がよかったんじゃないですか?」
「そこまで強烈な言葉が返ってくるなんて、少しも考えてませんでした……」
目に見えて狼狽え始めたアイリス。どうも、自分がまだしおらしくしていると思って油断をしていたようである。そこに不意打ち気味の言葉が飛んできて、思ったよりもダメージを受けてしまったということだった。
「いつもの二人を見てるって感じがするわ」
「見てると落ち着くレベルだね」
「娘が慌ててるのを見て落ち着かないで?」
挙句の果てに、アーロンとレティシアにまでそう言われる始末。いつまで経っても、アイリスの立ち位置は変わらないということだった。
「……で、開けていいんですね?」
「あ、はい! むしろ開けてください!」
ほとんど懇願するような勢いで、アイリスがそう口にする。今度は余計なことを言うつもりはないらしい。
「……」
その言葉を受けて、丁寧にラッピングを剥がしていく。気にしない人もいるのだろうが、自分はどうしても気にしてしまう性分だ。
「家に帰るまで開けないんだったら、いつ開けられるか分かったものじゃないからね」
「しばらくは開けられないわね?」
「……っ」
危うく手元が狂いそうになる。アイリスに向いていたからかいの矛先が、いつの間にか自分を向いていた。これはよくない流れである。
「それとも……?」
追加で何かを言いかけたレティシアの目の前で、どうにかラッピングを剥がし終わる。これで話題は手元のこれに移るはずだ。
「ハンカチ、ですか?」
「です。普段から葵さんが持ち歩いてるのは見てましたから。せっかくなら普段から使ってもらえるものをって思って」
中から出てきた透明なケースに収められていたのは、白いハンカチ。隅にワンポイントで桜の刺繍が施されている。その名の通りの桜色で施されたそれは、ともすれば布地の白に紛れ込んでしまいそうで、咲く時間が短い桜の儚さをそのまま表しているかのようだった。
「……」
「あ、あれ……? だめ、でした……?」
よくできた逸品だと思って眺めていると、隣からそんな不安そうな声が聞こえてきた。何も言わずにいたのを、何か不満があると解釈されてしまったらしい。
「あ、いや。よくできてるなと思って見てただけです。大事に使わせてもらいますね」
「よかったです……。『いらないな』とかって思われてるんじゃないかと思って、ちょっとひやひやしました」
「思いませんよ、そんなこと。ちょっと女性用っぽいなとは思いましたけど」
安堵したように呟くアイリスに、躊躇うことなく否定の言葉を返す。普段の自分を見たうえで選んでくれたものなのだから、悪い感情など抱くはずがない。
「ハンカチにするって決めてから、色々と見て回ったんですよ。それこそ、男性用のものとか」
「そう言うってことは、これは女性用なんですね」
確定である。その話し振りで、これが男性用になることはない。
「からかってるわけじゃなくてですね? 葵さんに似合いそうなものを探してたら、それになりました」
「はぁ……?」
「何て言うか、男の人向けの小物って、どれも実用性重視って感じがするんですよね。そういうのも似合うとは思うんですけど、今回はデザインがいいのを選びたいなって」
思ったよりも真面目な理由だった。それこそ、聞いている自分が拍子抜けする程に。
「そういう理由があるなら気にしませんけど……」
「そう言ってもらえると助かります。選んでる間、すっごく楽しかったですから。また色々と選ばせてくださいね」
「まともなものなら」
「任せてください。しっかり可愛く仕上げてあげますから」
「……」
とてもまともなものには思えなかった。
「さて、それじゃあ、次は葵さんの番ですよ?」
自分へのプレゼントについては一通り終わったということで、期待に満ちた目でそう切り出すアイリス。そわそわとしたその様子を表すかのように、体が小さく揺れていた。
「じゃあ、どうぞ」
もったいぶるようなものでもないので、特に何も考えずにプレゼントを差し出す。やはり、ラッピングは赤と緑だ。
「ありがとうございますっ!」
受け取った瞬間、まだ中身が何なのかも分からないのに、一気に笑みが深くなる。そこまで期待されると、そのハードルを無事に越えられるのか不安になってしまうが、渡してしまった以上はもうどうすることもできない。
「開けてもいいですかっ?」
「せっかちですか」
「せっかちです!」
「からかってるんですよ」
少し前のアイリスと同じ言葉を繰り返してみるも、本人には全く通用しなかった。からかっているとわざわざ告げなければいけない気まずさは、なかなかこれに勝るものもないという程の気まずさである。
「……っ! ……っ!」
「分かりましたから。開けていいですよ」
「はいっ!」
袖を引かれながら要求されてしまえば、いつまでもそんな態度ではいられない。開封を認めれば、これまで以上にアイリスの顔が輝いた。
「嬉しそうな顔」
「ずっと楽しみにしてたみたいだからね。無理もないよ」
「知ってたんですか?」
どうもアーロンの言葉を聞く限り、二人もこのプレゼント交換のことを知っていたようだった。もしそうなのであれば、どこから伝わったのかなど考えるまでもないが。
「本人から聞いたよ。楽しみで仕方ないって」
案の定である。話したのがアイリスとだけなのだから、それ以外の経路はありえない。ただそれだけの話だ。
「期待に応えられるといいんですけど」
「大丈夫じゃないかな? 葵君から貰ったプレゼントなら、多分どんなものでも喜ぶだろうし」
「……だからこそ、ですよ。そういうのがなくても、ちゃんと喜んでもらえるものにしたいです」
「しっかり考えてるんだね」
その言葉がどこか照れくさくて、目を細めるアーロンから顔を背ける。その先では、ラッピングを丁寧に開き終えたアイリスがいよいよ中身を取り出そうとしていた。
「これは……、ハンドクリーム、ですか?」
アイリスの手に収まった二つのチューブ。それは、本人が口にした通り、ハンドクリームのチューブだった。
「こんな時期ですから。どうしてかは分かりませんけど、アイリスさんの手が乾燥気味になってきたのに気付いてしまったので。何故か」
本当に不思議なものである。気付けば、アイリスの手が最近乾燥しているという情報を得ていた。
「最近、よく手を繋ぐからですね」
「……どうしてかはよく分からないですけど」
「手、繋ぎますもんね」
「……」
原因ははっきりしていた。ただ自分が目を逸らしていただけである。
「そうですか……。心配してくれたんですか……!」
「……クリスマスプレゼントで調べたら出てきただけですよ」
「照れ隠しですね。私には分かります」
「ぐ……!」
自信に満ち溢れた表情で言いきるアイリス。まさしくその言葉通りだった。調べたのは確かだが、乾燥していることに気付いていたのも事実なら、心配していたのもまた事実。全てを見透かされて、小さな呻き声しか上げられなくなってしまった。
「ありがとうございます! 大事に飾らせてもらいますね!」
「いや、使ってくださいよ」
流石にそれは承服しかねる。ハンドクリームは使ってこそのもので、間違っても置物ではない。綺麗に飾られているだけでは、宝の持ち腐れもいいところである。
「まぁ、肌に合う、合わないはあると思うので、その辺は気を付けて使ってほしいです」
「葵さんがそこまで言うなら……。ちょっともったいないですけど、使わせてもらうことにします」
本気で残念そうに言う辺り、何も言わなければ本当に飾られていそうだった。
「でも、これはつまりあれですね」
「何も分かりませんでしたよ」
笑みの絶える瞬間がほとんど訪れないアイリスが、何かを言おうとしていた。だが、残念ながら、その言葉だけでは何も伝わってこない。やはり、思っていることを言葉にするのは大事なことである。
「葵さんは、乾燥してない私と手を繋ぎたいってことですね!」
「また随分と都合がいい解釈をしましたね」
「次に手を繋ぐ時にはすべすべになってますから。楽しみにしててくださいね?」
「……」
何も聞いていなかった。ただプレゼントを渡しただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。その答えはアイリスのみが知っているはずだが、大事そうにプレゼントを眺めている今尋ねたところで、まともな答えが返ってくるようには思えなかった。
「ブッシュドノエル、ですか?」
わざわざ温め直してくれたという夕食を早めに済ませた、そのしばらく後のこと。
今日は自らがメインとばかりにテーブルの中央に鎮座したチョコレート色のケーキを見て、最初に浮かんだ感想がそれだった。
見れば分かる感想でもある。木の切り株を模したそのケーキは、この時期以外ではあまり見かけないもの。「クリスマスの薪」という意味を持つ、まさに今日のためのケーキである。
「そうですけど、どうかしました?」
当たり前のことを呟いた自分に違和感を抱いたのか、アイリスがそう問いかけてくる。不思議そうに小さく首を傾げるその姿に、特に隠すようなことでもない考えは、淀むことなく口から滑り出た。
「初めて食べるなと思って」
「え。食べたことないんですか?」
過去を思い出しながら明かした事実に、嘘でも吐いているのではないかと疑うような、アイリスの声が返ってくる。
確かに、ブッシュドノエルはクリスマスケーキの定番ではあるが、大多数がこれを選ぶ訳でもない。この歳になっても食べたことがない人がいたとしても、別におかしくはないだろう。
そう思いはしたが、どうやらアイリスにとってはそうではないようで。
「だって、『ノエル』って『クリスマス』って意味ですよ? 今日食べないでどうするんですか」
「それはそうですけど、一人分なんてなかなか売ってないじゃないですか。どうしても手は伸びないですよ」
「それは一人暮らしを始めてからのお話ですよね? その前はどうだったんですか?」
やたらと食い下がってくるが、何かそんなに気になることでもあったのだろうか。気にしたところで答えが分かることはないのだが、どうしても気になってしまう。
ただ、今はアイリスの疑問を解消する方が先だ。
「小さい頃は確か苺のショートケーキで、中学生の頃は苺のショートケーキの苺なしでした」
「……うん?」
「何か?」
またしても自分の言葉に違和感を抱いたのか、アイリスの勢いが止まる。ちなみに、目の前の小さな議論など気にしていられないとでも言いたいのか、レティシアは切り株をさらに小さく輪切りにしていた。準備が早い。
「苺のショートケーキの、苺なし……?」
「それがどうかしました?」
「何ですか? その悲しさ極まるショートケーキ」
「他人が食べてたものを『悲しさ極まる』って」
言わんとすることは理解できるが、それはそれとして食べ物に使う表現ではないのは確かである。自分としても、好き好んで悲しさを極めていた訳ではないのに。
「上に乗ってる苺なんて、子供達の奪い合いになるに決まってるじゃないですか」
「あー……」
ほとんど答えのような言葉を聞いた途端、アイリスの目がどこか遠くを見るような眼差しに変わった。これだけで何かを察したらしい。
「奪われた、と」
「まぁ、正確に言うなら『奪われた子にあげた』ですけどね」
細かなニュアンスの違いはあっても、結果に違いはない。いずれにしても、待ち受けているのは悲しさ極まるショートケーキである。
「確かに、葵さんならそうしてそうです」
そう言いながら納得したように頷くアイリス。納得されてしまうのもどうかとは思うが、別段悪く言われている訳でもないので放っておくことにする。
「美味しいんですよ……? クリームにほんの少しだけ残った苺の匂いと酸味とか……」
「想像させないでくださいよ! こっちまで悲しくなるじゃないですか!」
「スポンジの中にある苺まで狙ってくる子供達の視線とか……」
「怖っ!」
けれども、アイリスの反応を見るのは楽しいので、悲しい想像はしてもらうことにした。予想した通り、とてもいい反応を見せてくれている。
「はいはい、じゃあ今日は何にも気にせず食べたらいいわ」
そんなタイミングで、切り株を切り分け終えたレティシアから皿を差し出される。この後崩してしまうのは分かっているが、それを惜しみたくなるような装飾が、乗っているケーキには施されていた。
「ありがとうございます」
「大丈夫? 食べきれそう?」
「多分大丈夫だと思います」
「そう。だったら遠慮なく食べてね」
優しげな口調で言うレティシアは、普段あれだけからかってくる人物と同じには思えない。普段からこうならいいのにと思ってしまった自分は、果たして間違っているのだろうか。
「はい。あなたの分はこっち」
「はーい。……なんかちっちゃくない?」
「何が? 自分の身長?」
「それもちっちゃいけど! 今はケーキのこと!」
「ついに認めるようになったのね」
「自分のことを正しく把握するのは、きちんとした大人になるための第一歩だよ」
「そういうことを言ってほしいんじゃないの!」
そう思ったのも束の間、いつものレティシアが戻ってきた。アーロンまで加わって、一気にテーブルが騒がしくなる。
アイリスの一言が気になって見てみれば、確かに明らかにサイズの小さい切り株がそこにあった。
「葵さんの方がおっきいよね?」
「それはそうでしょ。葵君は曲がりなりにも男の子なんだから。食べる量はあなたより多いでしょ?」
「そうだけどっ!」
「曲がりなりにも?」
何か聞き流してはいけない言葉が聞こえてきたような気がするが、どうにも割って入ることができる空気ではなかった。
「それにね?」
「なに」
「……」
不満そうな雰囲気を隠そうともしないアイリスに向けられていたレティシアの視線が、何故か一瞬こちらを向く。何か不穏な気配がした。
「ちょっとこっちおいで」
「なに」
だが、それを問う暇もないまま、レティシアがアイリスを連れて少し離れたところで密談を始めた。
何やら以前にも見たことがある光景である。
「何か企んでるね」
「企んでますね」
それを見送ったアーロンが、確信した様子で話しかけてくる。確信はしているが、止める気はないようだった。
「止めないのかな?」
「止められると思いますか?」
「思わない」
「僕も思えません」
「じゃあ、頑張ってね」
「……」
優しい口調で、何も優しくない一言を呟くアーロン。やはり、この人も向こうの味方である。
「さぁ、戻ってくるよ」
その言葉通り、大した時間もかけずに密談を終えた二人が帰ってきた。先程まで不満そうにしていたアイリスの顔が、何故かとても柔らかな表情に変わっているのがとても不気味だった。
「……決着はついたんですか?」
「はいっ! 私はこれで大丈夫です!」
晴れやかな表情なのに、それを見ている自分に浮かんでくるのは怯えの感情。
クリスマスであろうと、この家が魔窟であることに変わりはないらしかった。
「あー」
「……だからさっき、あんなにあっさり引き下がったんですね」
「あー……」
小さな口を開けたまま、間延びしたような声を出すだけになったアイリス。どう考えても、何かを待つ仕草にしか思えなかった。
何かも何も、状況的に一つしかないのだが。
「このために葵君のケーキを大きめに、アイリスのケーキを小さめに切り分けました」
「最初から想定通りってことか」
「えぇ。クリスマスですもの」
レティシアが何を言っているのか理解できない。クリスマスだから何だと言うのか。自分としてはもっと穏やかに過ごしたかった。スカートタイプのサンタクロースになってしまった時点で、その願いはあまり叶っていないけれども。
「さ、葵君。待ってる子がいるわよ?」
「……」
レティシアに促されて、もう一度アイリスの様子を窺う。
「あー……」
何も変わってはいなかった。精々、眼差しに込められる期待が増えた程度である。
「……どうせ抗っても意味はないんですよね?」
「そうね」
「……はぁ」
ため息の一つも吐きたくなる。この家にいると、妙に簡単に手の平の上で転がされてしまうような気がする。単純な話、年上には勝てないというだけなのか、それとも。
「……」
「あら、素直」
黙ってケーキを一口サイズに切り分け始めた自分を見て、レティシアが意外そうに零す。
「もっと抵抗してから諦めるかと思ってた」
「諦めること前提で話が進んでたんですね」
聞かない方が幸せだった評価を聞かされている気分だった。
「……はい」
フォークで刺した一口サイズのそれを、若干の躊躇いと共にアイリスの口元へと差し出す。
「んっ!」
自分とは違って全く躊躇いのないアイリスが、小さな口で幸せそうにケーキを頬張った。何故か見ている自分が恥ずかしい。
言葉にしてしまえば、状況はとても簡単なものだ。いかに食べる速さに差があるとはいえ、小さいケーキを食べていたアイリスの方が、食べ終わるのが早くて当然だ。
そこですかさず、「あと一口だけなら食べられそう」の一言。その辺りで全てを察した。察したが、そう言われてしまっては尋ねてみない訳にもいかず。
自分のケーキを差し出して一口食べるか尋ねてみたところ、アイリスが小さな口を開けて待機状態に入ったのだった。
「ありがとうございます! 美味しいです!」
「……よかったです」
そして、満面の笑みの今に至る。
「……自分で食べてたのより、ちょっとだけ甘い気がしました」
「チョコレートが多かったんでしょうね」
「葵さんがそう言うなら、そういうことにしておいてあげます」
むしろそれ以外に答えはない。精神的な話は気分が落ち着かなくなるので、極力考えないことにした。
「これで、朝ご飯の時の分は返してもらっちゃいましたね」
「貸し借り……?」
そのままの表情で言うアイリスだが、個人的にはそんな貸し借りは聞いたことがない。きっとこの家のローカルルールなのだろう。いちいち気にしていると身が持たない。
「あ、残りは私が食べさせてあげましょうか?」
「ごちそうさまでした」
「あぁ!?」
最後に残った一口分を食べきって、無理矢理その言葉をなかったことにする。せっかく貸し借りとやらがなくなったはずなのに、新たに生み出してしまうようなことは全力で避けねばならない。もうその一心だった。
「もぉー……」
「朝のがよっぽど恥ずかしかったんだろうね」
「ちょっと大きめの一口だったものね?」
「……」
ただし、その代償はこんな形。何か言うこともできず、ただそっと目を逸らすだけ。
「次はこうはいきませんからね?」
加えて、怪しげな宣戦布告を受けてしまうのだった。
「……」
同じ過ちは犯すまいと、今度は自分の方が先に入浴を済ませた、その後の時間。時計の針は、既に日付が変わったことを示していることだろう。
そんな夜も遅い時間なのに、一向に眠気が訪れることはなかった。目を閉じてベッドの上を転がってみるも、やはり意識が眠りに飲まれていく気配はない。
「……」
普段なら、こうしていれば比較的すぐに眠りに落ちるのが自分だ。寝付きが悪いと感じたことはない。それなのに、今日は目が冴えて仕方がない。
「……」
やはり、すぐ近くの部屋で葵が寝ているからだろうか。想い人がこんな時間でもすぐそこにいるという特殊過ぎる状況に、知らず知らずのうちに気が昂っているのかもしれなかった。
「はぁ……」
いつまで経っても歩み寄ってきてくれない眠気を待つのをやめ、そっと目を開ける。光がほとんど存在していない部屋は、あらゆるものの輪郭を薄れさせている。
「まだ、起きてるかなぁ……?」
誰に言う訳でもなく、一人そう呟く。起きているか分からない相手は、言うまでもなく葵。廊下を少しだけ歩けばそれが確認できてしまうような状況に、僅かに心拍数が上がってしまった。これでは到底眠れそうにない。
「……はぁ」
ベッドの上で静かに体を起こす。どうせ眠れないのなら、ずっと横になっていても仕方がない。
「……」
視線は無意識に葵が寝ているはずの方向へと向く。今なら、あの時よりもずっと穏やかな寝顔が見られるだろうか。
「……」
考えてしまったその瞬間、体は勝手に動き始めていた。我ながら迷いが一切ない。もちろん、自分が誘惑に弱いということではない。それだけ葵の寝顔の引力が強いのが悪いのだ。
「ちょ、ちょっとだけ……。ちょっとだけだから……」
誰かに咎められた訳でもないのに、口からは言い訳のような言葉が零れ出す。少しだけ眺めてすぐに帰ってくる。もし葵がまだ起きていたなら、その時は少しだけ話して帰ってくる。ただそれだけのこと。誰にも見られなければ、それは何も起こっていないのと同じ。
頭の中でぐるぐると不思議な理論を組み立てながら、そっと部屋の扉を開く。途端に、廊下に漂っていた冷気が足元から流れ込んできた。それはまるで、火照った考えを冷まして元に戻そうとしているようで。
「……」
それでも、廊下への一歩を踏み出す動きは止まらなかった。
「……っ」
間違っても足音など立てないように、細心の注意を払う。隣の部屋までたった数メートル。いつもなら何も気にしないようなその距離を、いつもの何倍もの時間をかけてゆっくり歩き、そして葵が使っている部屋の扉まで辿り着く。
目の前の扉に手を伸ばす。だが、ノックをしようとした手が、その寸前でぴたりと動きを止めた。
「……」
ここが最後の分岐点。このまま手を下ろして部屋に戻れば、今の自分の行動を思い返して悶えるだけで済む。対して、このまま突き進めば、きっとそこにあるであろう葵の寝顔に悶えることになる。
(いや、どっちも悶えるなら……)
考えた結果、どちらも等しく悶えるという結論になった。ならば得られるものがある方がいい。
止まっていた手が、再び動き出した。すぐ近くの部屋で寝ているアーロンとレティシアには聞こえないよう控えめに。それでいて、中にいる葵が起きていれば聞こえるように。こんこんと、その扉を二度ノックする。
「……」
返事はなかった。葵の性格からして、ノックの音が聞こえているのに返事をしないということはないはずなので、やはりもう眠ってしまったと考えていいだろう。
緊張でやや震える手で、静かに扉を開いていく。
「あ、葵さーん……?」
小声で呼びかける。扉の隙間から漏れてくる光がなかった時点で、葵が眠っているという確信を抱く。それでも声をかけてしまったのは、心に残った罪悪感からだったのだろうか。
「お、お邪魔しまーす……」
部屋の中にそっと体を滑り込ませて扉を閉じる。先程から、心拍数は跳ね上がっていく一方だった。
「……」
とうとう彼我を遮る壁がなくなってしまった今、見つかってしまえば言い逃れはできない。これまで以上に足音に気を付けながら、枕元へと歩み寄っていく。
窓の位置が自分の部屋とは違うからなのか、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいて、思った以上に歩きやすいのが僥倖だった。
「う、ぁ……!」
そうしてようやく視界に収めた葵の寝顔に、思わず声が漏れる。
(可愛いぃ……!)
月明かりを遮らないようにしてその近くに座りながら、じっとその寝顔を見つめる。
寝返りを打ったのか、窓に向けられた寝顔が月明かりに照らされてはっきりと見える。その顔は見たこともないくらいに穏やかで、アーロンやレティシアが言っていた通り、いつもよりもいくらか幼く感じられた。
男性にしては長い睫毛も、やや小ぶりな鼻も、緩やかに弧を描いた口元も。その全てが愛おしくてたまらない。
「……」
時が経つのも忘れて、その寝顔を見つめ続ける。少しだけだったはずの覗き見は、完全にやめ時を見失ってしまっていた。
釘付けになってしまった視線の先で、規則正しく上下する胸の動きに合わせて、耳にかかっていた髪が一房、ゆっくりと頬を流れ落ちていく。
(可愛い……。ずるい……)
あまりにも非日常な状況に混乱しているのか、葵に向けるには若干間違っているような気がしないでもない感情が浮かぶ。起きている時にこんなことを言っても、葵本人が困惑するだけだろう。
(でも、やっぱり好き……!)
こんな場面で、改めて自分の想いを再確認する。気付いてしまったあの日から、その想いは日に日に大きくなるばかり。こうしている今も、過去最高を更新中だった。
「葵さん……」
扉の近くからではなく、今度は目の前から。小声で呼びかけてみるも、相変わらず規則正しい寝息が乱れることはない。
「……」
湧き上がる想いに、頭の中が支配されていく。そこから先の行動は、ほとんど無意識に近いようなもの。あるいは、未だにそれらしい感情を見せてくれない葵に対しての、ささやかな抗議だったのかもしれない。
静かに。そっと。ゆっくりと。穏やかな寝顔に顔を近付けていく。
最後の分岐点は、扉の前などではなかった。まさに今が、本当に最後の分岐点。そう理解していたけれども、ここで引き返すつもりは最初からなかった。
「ん……」
仄かに白く照らされたその頬に、そっと口付ける。
微かに触れる程度に。それでも、この身に宿った熱がしっかりと伝わるように。
ふわりと漂う香りは、自分と同じシャンプーの香り。その事実が、より一層熱量を高めていく。
(大好きですよ、葵さん……)
今ならその想いも伝わってしまうのではないかと、そう錯覚してしまう程に体が温かい。暴れ出しそうなまでに積もり積もった感情が、危うく制御を失って飛び出しそうになる。
それほどまでに自分の頭をも揺さぶる、そんな口付けだった。
「……んぅ……?」
「っ!?」
十秒にも満たないような短い時間の出来事ではあったが、流石に頬に触れられるのは違和感があったらしい。これまで何の反応も見せなかった葵が、小さく声を漏らした。
もしや目が覚めてしまったのではないかと思い、慌てて顔を離す。
「……」
物音に気遣う余裕すらなかったが、どうやら目を覚ました訳ではないようだった。しばらく様子を見ていても、薄茶色の瞳が姿を現すことはない。
「も、戻ろ……!」
葵の声を聞いたことで少しだけ落ち着いた頭が、これ以上ここにいるのはよくないと判断する。このままここにいれば、昂った感情のままに何をしでかすか分からない。下手をすると、布団の中に潜り込んで一緒に寝るくらいのことはしてしまいそうだった。
(だめだって……! 考えちゃ……!)
その考えを追い出すように、静かに頭を振る。一度そんなことを考えてしまえば、その後は際限なく想像が溢れ始めてしまう。ここでそうなってしまうのは、絶対に避けなければならない事態だった。
「……」
来た時と同じように、足音を立てないようにして自分の部屋へと戻る。ただし、来た時とは違って、周囲に聞こえてしまいそうな程に心臓の音がうるさかった。
「うわぁ……!」
一切の迷いもなくベッドに直行する。潜り込んだその中で、抑えていた声をやっと絞り出す。
「……っ! ……っ!」
そして、そのままごろごろと転げ回る。顔を両手で覆い、目は固く閉じたまま。
(やっちゃった……! やっちゃったぁ……!?)
心の中で叫びながら、一人恥ずかしさに悶える。葵の部屋の前でどちらにしろ悶えることになると考えはしたが、まさかこんな形になるとは想像していなかった。
それもこれも、全て葵の寝顔が悪い。あそこまで可愛いとは思ってもいなかった。だから自分がおかしくなった。
声に出さずに責任転嫁をしていると、唇で触れた頬の感触を思い出す。
(柔らかかったぁ……)
手でも触れたことがなかったその頬は、この世の何よりも触り心地がいいのではないかと、そう思ってしまう程に柔らかかった。それこそ、また触れてみたいと考えてしまう程に。
(また……!?)
茹ってしまった頭が、再びそんなことを考え始める。それに合わせるかのように、あちらへごろごろ、こちらへごろごろ。
(あぁぁ……!)
すっかり覚醒してしまった意識が眠りに引き込まれるまでは、まだ随分と時間がかかりそうだった。




