83. 晴れた霧 (2)
「ほんとに多いですね」
「こうまでして泊まり続ける意味って……」
アイリスの手も借りながら、持ってきた荷物を二階の部屋へと運び入れる。着替えの類は軽いものの、教科書関係は見た目に違わず重かった。
「そう言っていられるのも今のうちですよ」
「その言葉、あんまりいい意味では使われないですよね」
「絶対に楽しいですから」
自信に満ち溢れた表情で断言するアイリス。そうなる未来を微塵も疑っていない、とても純粋な一言だった。
「それに、ちゃんと大事に思ってる人もいるって、葵さんに知ってもらわないとです」
「……わざとやってるんですか?」
こういうことを何の躊躇いもなく言いきる辺りが、ひたすら心臓に悪い。
「何がです?」
だというのに、当の本人は不思議そうな目でこちらを見ていた。それはすなわち、発言が無意識ということを示している。なおのこと警戒を強めなくてはいけなくなったのは、もちろん言うまでもない。
「分からないなら、別にそれでいいです」
「んー……? まぁ、葵さんがいいなら……。とにかく、昔のことばっかりじゃなくて、今を見られるようにしてあげますから」
「……」
警戒したところで、それを防ぐことができる訳ではない。そもそも、ただ心の準備をしておくだけの話であって、それを突き破られてしまえば、あとは動揺することしかできないのだった。
「葵さん?」
「はぁ……」
「あれ? 何でため息を吐かれたんですか?」
そんな内心を隠すように、そして落ち着きを取り戻そうとするかのように、そっと息を吐く。心の揺れは大して変わっていないように思えたが、何もしないよりは幾分かましだった。
「アイリスさんは本当に変わらないですね」
言いながら、頬が小さく困ったような笑みを形作る。嬉しさと戸惑いが混ざったような、そんな気分だった。
「うん……? よく分かりませんけど、そう言いましたからね。私、葵さんには嘘吐きませんもん」
二つの感情の天秤を、一気に嬉しさに傾けようとする一言。そんな一言を受けて咄嗟にからかいに走ってしまったのは、きっと照れ隠しだったのだろう。
「……じゃあ、もう僕に可愛いだの何だのとは言えないですね」
「何を言ってるんですか? 葵さんが可愛いのは本当のことですよ?」
「……そうですか」
照れ隠しにすらならなかった。
「あ、そうだ。可愛いで思い出しました」
その思い出し方で思い出すことなど、絶対にろくなものではない。聞いた時点で負けになってしまうような言葉が予想できるのに、聞かないという手段を選べないのが恐ろしい。アイリスのことなので、どうせ放っておいても話し出すはずだ。
「葵さん、もしかして青色が苦手ですか?」
「は?」
だが、切り出された話題は全く想像していないものだった。
「ほら、ずっと前にそんなお話をしたじゃないですか。葵さんって、青色のものを持ってないですよねって」
「そんなことも……、ありましたっけ……?」
言われた会話がいつ繰り広げられたのか、さっぱり思い出せない。ここまで思い出せないとなると、どうもここ最近の話ではないような気がする。
「えーっと……。確か、葵さんの誕生日プレゼントを選んでた時だったと思うんですけど……」
「よくそこまで覚えてますね」
「何て言うか、あの時の葵さんの反応、ちょっとだけ違和感があったんですよね。だから覚えてました」
曖昧な記憶では、アイリスの言う違和感がある反応も思い出せない。だが、時期まではっきりと覚えているアイリスが言うのだから、自分はきっとそんな反応をしたのだろう。
「で、それがどうかしました?」
「いや……。昨日のお話を聞いて、ちょっと考えちゃったんです。だから青色のものを持ってなかったのかなって」
「……」
これに関しては、特に鋭いと感じるようなことはなかった。その出来事さえ覚えていれば、大半の人間は辿り着くことができる結論である。つまり、あれだけのことを言ってくれたアイリスなら気付いて当然のことだった。
「……まぁ、そうですね。嫌いではないですけど、積極的に選ぶことはないです」
今更誤魔化しても仕方がないので、素直に白状する。まさにアイリスの推測の通りだ。
「やっぱりですか」
「でも、どうしてそれを今思い出したんですか?」
納得したように頷くアイリスだが、その点について言えば、自分にも疑問はある。何故それをこのタイミングで思い出したか、だ。
もっと言えば、どうしてあの言葉で思い出したのか。それに尽きる。
「聞きたいですか?」
「結構です。もう満足しました」
「なんでですか!」
聞いた自分が間違っていた。そう思わせる程に、目の前の顔が綺麗な笑みを形作った。これは絶対に面倒なことを考えているアイリスである。
「せっかくなんですから聞いてくださいよっ!」
「そうやって聞いて、後悔しなかった試しがありません」
「今回は後悔させませんからっ!」
そんな言葉と共に手を包まれる。この場から逃すまいとするというより、ただ聞いてほしくて懇願するような、そんな包まれ方だった。
「……」
「……!」
「……どうしてですか」
だからだろうか。一度は断っておきながら、結局いつものように聞き返してしまったのは。
「えへへ……。それはですねぇ……!」
認めてもらえたことが嬉しいのか、その頬が緩みに緩む。一瞬、その表情を見られただけで聞き返した元は取れたと考えてしまって、慌てて気持ちを引き締める羽目になった。
そんな気持ちを気取られたかと思って心配するも、目の前のアイリスは何かに気付いた様子もなく、ただ続く言葉を口にするだけ。
「ちょっとずつでもいいので、これから青いものも取り入れていってくれたらなって」
「持ってるものに、ですか?」
「ですね。あとは服とか」
「服……」
どんな考えがあってその願いを口にしたのかまでは分からないが、言っていることは単純なもの。だが、それが叶うかどうかはまた別の話だ。
これまで避け続けてきたその色を、果たして自分は受け入れることができるのだろうか。最後はどうしてもそこに辿り着く。
他人が身に着ける分には何も気にはならないが、いざ自分がとなれば、間違いなく苦い思い出が蘇ることになる。そうなった時、それに耐えてまで身に着ける必要があるのか。
「あ……」
「どうかしました?」
そこまで考えた時、突然ある記憶が浮かび上がってきた。
「確か、アイリスさんは青が好きだって……」
「覚えててくれたんですかっ!?」
思い出したのは、そんな記憶。輪郭こそぼんやりとしているが、それでもその色だけははっきりとしている。
どちらかと言えば微笑むという表現が似合いそうだったアイリスの表情が、一気に明るく輝き出す。目の錯覚でも何でもなく、空いていた距離ははっきりと縮まっていた。
「え、えぇ……」
アイリスが身を乗り出した分、自分が仰け反って距離を保つ。ほとんど無意識の行動だった。
「やっぱり、身近な人が好きな色を選んで着てくれてるのって嬉しいですし、落ち着いてる葵さんには絶対に似合いますよ!」
「そう、ですかね……?」
「葵さんにぴったりのコスプレを選び続けてきた私を信じてください!」
「一気に信じられなくなりました」
戸惑っていたはずの気持ちが、あっという間に静まり返る。今の言葉で信じてもらえると思っているのなら、それは大間違いである。
「いきなり青メイン、なんて言いませんから。まずはワンポイントくらいからで……」
「聞いてませんね」
信じるとは一言も言っていないのに、アイリスの頭の中では勝手に話が進んでいた。
「どうしてそこまで」
「一緒に並んで歩いてたら、お揃いっぽくて見た目がよさそうじゃないですか?」
「聞いてるんですね」
であれば、尚更質が悪い。
「そういう小さなところから少しずつ前に進んでいく……ってことじゃだめですか?」
「……最後の一言がなければ、結構揺さぶられたと思うんですけどね」
「あぁ!? だったらそこは聞かなかったことに……!」
「もう遅いですし、そこまでしなくてもいいですよ」
色々と言ってきたが、どうせ臆病な自分が前に進むことを恐れているだけの話だ。ここまでお膳立てされて、断り続けることなどできるはずもない。
「どうせ最後は受け入れるつもりでしたから」
「あれ? そうなんですか?」
「せっかく背中を押してもらえたんですから、ちょっとは頑張ってみますよ。そうじゃないと、アイリスさんに顔向けできません」
「そんなことは気にしなくてもいいんですけど……。でも、葵さんが受け入れてくれるって言うなら、私から言うことはないです」
力になれたことが嬉しいのか、そう言って穏やかに笑うアイリスの姿は、この場の何よりも眩しいものだった。
「さて、葵さん」
「嫌です」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
荷物の整理をしてから少し休み、遅めの昼食を済ませた午後二時過ぎ。
勝手知ったると言う程ではない家でできることは特になく、さりとていきなり部屋に引っ込んで冬休みの課題を進めるのも何か違う。そんな考えの元、持て余した暇をニュース番組で潰していた時だった。
何か面倒なことを言い出しそうな言葉と共に、アイリスが隣に腰かけてきた。ぽふりと、小さな衝撃。
「逃がしませんよ」
「その一言で面倒事だって確定じゃないですか」
その言葉を言われて、無事に事が運んだ試しがない。不吉な出来事の前兆と言っても過言ではない。
「葵さんはそんなことを言ってますけど、もう約束したことなので無駄ですからね?」
「約束……?」
さらに不吉な言葉が重なる。一体何を約束しただろうかと記憶を探ってみるも、手掛かりが何もない状態では如何ともしがたい。
結局、思い当たる節は何も浮かんでこなかった。
「今日はクリスマスですよね?」
そんな自分を見かねたのか、やたらとにこにこしたままでヒントを口にするアイリス。普段であれば穏やかな気分で眺められるその笑みも、今に限っては怪しさしか感じられない。
「ですね」
だが、だからと言って何かできることがある訳でもない。できるのは、問われたことに返事をすることだけだった。
「クリスマスといえば、葵さんは何を思い浮かべます?」
「クリスマス、ですか……?」
そう問われて、一瞬考える。そこまで答えの選択肢が多くないその質問で、最初に思い浮かべるものといえば。
「プレゼント……、ですかね?」
「惜しいです」
「惜しい?」
今の質問と答えに、惜しいも何もないだろうと、そう思う。それとも、アイリスが考えていた答えに近かっただけなのか。いずれにせよ、その真意はアイリスのみが知る。
「そのプレゼントを持ってきてくれる人がいますよね?」
「親ですか?」
「……いきなり子供の夢を壊さないでくださいよ」
そう口にした途端、何故か恨むような目を向けられた。自分は何も間違ったことを言っていないはずなのに。
「今更この場でサンタなんて言って……も……?」
「葵さん?」
突然自分から言葉が出てこなくなったことに疑問を抱いたのか、恨みの色が不思議そうな色に変わる。
そんな視線を受けながら、隣にいるアイリスから逃げるように立ち上がる。
「どこに行こうとしてるんですか?」
逃がしてはもらえなかった。腰を浮かせた段階で腕ごと抱え込まれ、完全に身動きを封じられた形だ。まるで、自分の行動をあらかじめ予想していたかのような、とても素早い動きだった。
「早めに冬休みの宿題を進めようかと……」
「今日くらいはいいじゃないですか。クリスマスですよ」
「やっぱり、一日一日の積み重ねって大事だと思うんですよね」
「それはそうですけど、しっかり休むことも大事だと思うんです」
何を言っても解放してもらえない。しっかりと抱えられた腕は、アイリスの目的が果たされるまで自由を取り戻すことはないという予感がしてしまう。
「逃げようとしたってことは、きちんと思い出したってことですね」
「僕は何も知りません」
図星を突かれて、思わず否定の言葉を口にする。その言動が、約束を思い出したことを何よりも明確に物語っていた。
「葵さんはそんな簡単に約束を破る人じゃないですよね?」
「それは……」
「さ、そんなわけでサンタ服です」
「やっぱり……!」
その単語で確信する。やはり、思い出した記憶に間違いはなかった。「思い出してしまった」と表現した方が適切かもしれないが。
とにかく、アイリスが言っているのは、文化祭にて惨敗を喫したことで着ることになった二着の、その片割れのことだった。
「何? サンタ服って聞こえてきたけど?」
「言ったよ。葵さんがこれから着てくれるの」
「ま、まだちょっと心の準備が……」
「着替え始めちゃえば、きっと気分も落ち着きますから」
「それは『諦めた』って言うのでは?」
耳聡いレティシアが、「サンタ服」の言葉に反応してしまう。こうなってしまえば、どんどん逃げ場はなくなっていく。
「スカート?」
「スカート。短めの」
「流石私の娘だわ。分かってる」
「でしょ」
お互いに頷き合う、厄介極まりない親子。同情するように苦笑いを浮かべるアーロンだけが、今は唯一の味方だった。どうせこの後敵になるのだろうが。
「今日もたくさん写真を撮りましょうね!」
「……」
満面の笑みを浮かべるアイリスによって、メイド服の時と同じ出来事が繰り返される未来が確定した。
「そうと決まれば、早速お着替えです」
「あぁぁ……」
あんなに立ち上がることを許してくれなかったのに。未来が確定した今は、こんなにもすんなりとソファから体が離れていく。
もちろん、アイリスに腕を引かれて。
「それじゃあ、ちょっとだけ待っててねー」
「はーい。楽しみにしてるから、なるべく早くお願いねー?」
そのままリビングの扉へと向かっていく。自分の足取りは重いのに、アイリスのそれはとても軽やかなもの。対照的な心の内が、そんなところにもはっきりと表れている。
約束なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。それは自分でも分かっている。全てはあの時負けた自分が悪い。何か強烈な妨害があったような気もするが、それを言ったところで未来が変わる訳でもない。
けれども。
ほとんど引きずられるようにして歩く中、今となっては、あの時の自分を恨まざるを得ないのだった。
「短い……」
渡された全ての衣装を着て、最初に出た感想がそれだった。流石、アイリスが「短めのスカート」と言うだけのことはある。一体膝上何センチなのだろうか。心許なさが半端ではない。
色はもちろん赤と白。スカートの短さを除けば、サンタ服のコスプレと言われて誰もが想像するような、一般的なデザインの代物だった。
「……」
着替えるために戻ってきた二階の部屋にて、一人で立ち尽くす。着替える段階になってから初めて気付いたが、この部屋には鏡がなかった。これでは、自分が今どんな見た目になっているのか確認のしようがない。
確認したところで、その先に待っているのはきっと羞恥だけなのだろうが。
「はぁ……」
探してもどうにもならないのは分かりきっているので、結局は諦めるより他はない。そんなことよりも、今気にするべきことは別にある。
「……」
ちらりと時計に目を向ける。この部屋に入ってから、もうすぐ十分近くが経とうとしていた。
「未だに迎えはなし……」
誰に向けて言うでもなく、そっと呟く。
と言うのも、衣装を渡された時、着替えが終わっても部屋で待っていてほしいと言われたからだ。そして、着替えが済んだ頃に迎えに来るとも。
そんな言葉を残して去っていったアイリスは、果たして何を企んでいるのか。もしかすると、また自分が恥ずかしい目に遭うのではないか。そう考えてしまうと、気分はどこかそわそわとしてしまって落ち着かなかった。
「葵さーん?」
ノックの音と共に扉の向こうから呼びかけられたのは、まさにそんなタイミング。
「着替え終わりましたー?」
「終わりましたけど」
向こう側に聞こえるように、いつもより少しだけ大きな声を出す。部屋で反響した声は、どこか自分の声ではないような響きを持っていた。
「じゃあ、開けますよー?」
間延びしたような声がしたと同時に、廊下へ繋がる扉が開かれる。
思えば、こんな格好をすること自体はまだ抵抗しているが、着てしまった後にアイリスに見られるのは慣れてしまった自分がいる。一体、どこで選択を間違えてしまったのだろうか。
今更考えたところでどうにもならないことは分かっているが、瑠璃色と菜の花色が現れるまでの落ち着かない短い時間が、どうしてもそんな考えを頭の中に浮かべさせる。
「……え?」
だが、姿を現したアイリスを見た瞬間、あれこれと考えていたはずの全てが消えていった。代わりに、巨大な疑問符だけが浮かぶ。
「はー……、やっぱり似合いますね……。可愛い……!」
「……」
いつも通りの表情で、いつも通りの感想を述べるアイリスだったが、生憎自分の思考はそこに追いついていない。
ついでに言えば、視線は完全に釘付け状態だった。
「……で。私の方はどうですか?」
そう言いながら、小さく手を広げて一回転。ふわりと舞ったスカートが、重力に引かれて傘を閉じていく。
同じように舞った菜の花色の髪が、赤と白を背景にしていつも以上の輝きを放っていた。
「せっかくのクリスマスなので、サンタ服でお揃いにしようと思って。今日は私も着ちゃいました」
目の前まで歩み寄ってきて、秘めていたであろう裏話を口にするアイリス。
普段であれば、だったらアイリス一人でよかっただろう、自分を巻き込む意味は、などと言って抵抗していたことだろう。
だが、今日はそんな言葉が脳裏を過ることすらない。余裕がないと言った方が正解かもしれなかった。
「……」
「葵さん?」
最初に一言驚きを漏らしただけで、それ以降自分が何も言わなくなったことに気付いたのか、アイリスが少しだけ訝しがるような目で覗き込んできた。元々の身長差を更に大きくするような、そんな覗き方。
「……っ」
「あれ?」
その視線に耐えられず、思わず瑠璃色の瞳から目を逸らしてしまった。何故そうしてしまったのか、自分でも分からない。分からないが、とにかく何かが恥ずかしかった。
「どうして目を逸らすんですか?」
「い、いや……、別に……?」
我ながら、誤魔化すのが下手にも程がある。誤魔化す気があるのかと問い詰められてもおかしくない露骨さである。
それでも、そう言うより他なかった。頭の中も感情も、全てが掻き乱されてろくに言葉が浮かんでこない。それこそ、この場にふさわしい言葉など、いくらでもあるはずなのに。
「もしかして、まともに見られないくらい似合わなかったですか……?」
そうして自分が何も言えずにいたことを悪いように解釈してしまったのか、視界の端でアイリスの顔が曇っていく。今日という日にも、そしてその格好にも、どちらにも似合わないその表情に、心の中で一気に焦りが広がっていった。
「似合ってるに決まってるじゃないですかっ」
「わっ……! えっ……!?」
「あ……」
アイリスの驚いたような顔を見て、一瞬で我に返る。
何かを言わなければと焦ってしまった結果、当たり前のことを思いの外大きな声で叫ぶという姿を披露してしまった。言ったばかりなのに、早くも顔が熱くなっていく。
「い、今、なんて……?」
自分と同じように頬を赤らめたアイリスが、確かめるように聞き返してくる。いつもよりずっと大きな声だったのだから、聞こえなかった訳ではないだろう。ただその内容が、そしてその態度が信じられなかったのか。
いずれにせよ、口にしてしまったことは取り消せない。こうなってしまえば、できるのは前に進むことだけだった。
「に、似合ってるって、言ったんです」
自分もまた途切れ途切れになりながら、何とか言葉を繰り返す。先程のように勢いで言いきってしまうのならともかく、改めてゆっくりと話すとなると、何故か恥ずかしさが倍増してしまったような気がした。
「か、可愛い……、です……」
「ふあ……!?」
相変わらずまともに目も見られない中、いっそのことそこまで言いきってしまえと覚悟を決めて言葉を続ける。一体どんな感情なのか、アイリスの口からは、言葉になっていない謎の音が漏れ出す。
ちらりとその姿を盗み見た印象からすると、きっと自分が着ているものと同じサンタ服なのだろう。
それなのに、白くて丸い、ふわふわとした胸元の飾りも。腰の細さを示す黒いベルトも。膝上丈のスカートも。目にも鮮やかな赤と白のコントラストも。
全てが自分のものと同じとは思えない程に綺麗にまとまっている。
そして何より、それを着ているアイリス本人が、信じられないくらいに可愛く見えて仕方がなかった。
「あ、葵さんが可愛いって……!」
まるでその言葉を待ち侘びていたかのように、アイリスが相好を崩す。横目でしか見ていないのに、それでもその喜びようはひしひしと伝わってきた。
何はともあれ、サンタ服である。てっきり自分だけが着ることになると思っていたところに、この不意打ち。「心が揺れる」などという言葉だけでは、到底言い表すことができない程の衝撃だった。
「そ、そんなになっちゃうくらい、可愛くできてますか……?」
「ノ、ノーコメントで……」
お互いにどうにか言葉を絞り出しながら会話を続ける。今この時も、階下ではアーロンとレティシアが待っているはずだが、そこに意識を割けるだけの余裕はどこにもない。ただただ、すぐそばにいるアイリスに対処するだけで手いっぱいである。
「どうしても、ですか……?」
「う……」
「……」
「えっと……」
よほど答えが欲しいのか、アイリスはなかなか引き下がってくれない。それどころか、更に一歩距離を詰めてきた。もし真正面から捉えることができたなら、きっと流れる髪の一本一本まではっきりと見えたことだろう。
その髪が揺れた拍子に、いつもの甘い香りが漂ってきた。それがまた、一層鼓動を速くさせる。
「……」
「お、思わず見惚れるくらいには……」
「ふあぁぁ……!?」
圧に負けて口にした言葉で、アイリスの顔が真っ赤に茹っていく。両手を頬に当てて少しだけ俯いてしまう姿すら可愛く思えてしまうのだから、いよいよ自分の感情が分からない。
「みとっ……! 見惚れっ……!」
「繰り返されると恥ずかしいんですけど……」
「だって! あの葵さんが見惚れてくれるって……!」
顔を上げたアイリスと目が合ってしまう。どことなく潤んでいるようにも見える瞳は、きらきらと光を反射して輝いている。その輝きを見ていると、何の変哲もない照明ですら、アイリスの魅力を引き立たせる特別なものに思えてしまう。
「また一歩近付いちゃいましたっ!」
心の中でなけなしの落ち着きをかき集めていると、アイリスが嬉しそうに不思議な一言を口にした。雰囲気から察するに、物理的な距離を言っている訳ではないだろう。
だが、最早大半をアイリスの可愛さで占められてしまった頭では、それ以上のことを考えることなどできない。理解できたのは、自分の鼓動が間違いなく過去最高の速さを更新しているという、ただその事実だけだった。
「じゃん!」
「あら。あらまぁ……」
「二人共かい?」
「……一人でよかったんですよ、一人で……」
着替えた部屋で何だかんだと話していたが、最終的な目的地はリビングである。
という訳で、アイリスに連れられて強制的にご入場だった。
「えー? 葵さんだけ可愛い服を着るのはずるいですって」
「どうして僕なんですか。アイリスさんに決まってます」
不満そうに言うアイリスだったが、どう考えてもその答えは間違っている。アイリスと自分の二択で、一体誰が自分を選ぶというのか。
「まぁ、その格好で言っても説得力はないんですけどね」
「どういう意味ですか」
「葵さんが似合い過ぎて可愛過ぎて、思わずおかしくなっちゃいそうです」
「元からの間違いですよ」
「なんでですか!」
どうしても何も、一つ上の先輩を定期的にコスプレさせる高校生が、世間一般で言う常識の枠に収まっているはずがない。
「どっちも可愛いわよ」
「本当に男の子なのか疑いたくなるね」
リビングに姿を現すだけ現してアーロンとレティシアを放置していたところ、相変わらず嬉しくない評価が飛んできた。
その声に目を向ければ、そこにはスマートフォンを構えるレティシアの姿があった。
「自然に撮ろうとしてますね……」
「やっぱり、可愛いものは写真を撮っておかないと。そう思わない?」
「こんな格好をしてる相手に聞くことじゃないと思います」
「それもそうね。じゃあ、細かいことは気にしないで撮ることにするわ」
レティシアがそう言うのと同時に、シャッター音が一度鳴り響く。サンタ服の二人が画像データに残った瞬間だった。
「とりあえず、こっちに来たらどうだい? いつまでもそうしてるわけにもいかないだろう?」
「ほら、葵さん。お父さんも言ってますし」
「……行ったら、もう逃げられない気がします」
「何を言ってるんですか。とっくに逃げ遅れてますよ」
「……」
何も言い返せなかった。確かに、この格好をしてしまった時点で逃げ遅れている。レティシアの言葉ではないが、気にするだけ無駄だった。
「ということで、逃げ遅れちゃった先輩さんはこちらへどうぞ」
「あぁ……」
思わず情けない声が漏れる。問答無用で手を引かれ、着替えに向かう前に座っていたソファへと逆戻り。
「今日もたくさん写真を撮りましょうね?」
逃げ出す先がないことを知っているからか、引かれていた手はすぐに離された。その事実が、より一層羞恥を高めていく。
「もう、好きにしたらいいです……」
尋常ではない可愛さを振り撒くアイリスに密着して座られて、それだけを口にするので精いっぱいだった。




