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82. 晴れた霧 (1)

「……?」


 見慣れない部屋だった。


 目が覚めて最初に映った天井も、辺りを見回して確認した間取りも、そこにある家具も。全てが初めて見る代物だった。


 一瞬まだ夢の中にいるのかとも考えたが、顔に触れる冷たい空気は、これが現実であることを如実に表している。


「……」


 ついでに言えば、普段はベッドで寝ているはずなのに、今は布団で寝ている時点で自分の部屋ではない。そして、その布団も見覚えがない。


 最後に、部屋にどこか嗅ぎ慣れない空気が満ちているという事実が、寝起きの頭で抱いた違和感を強烈なものへと昇華させていた。


「あ……」


 そうして動きの鈍い頭で少しの間考えていると、とある記憶に辿り着く。途端に、冷たくなっていた頬に熱が宿っていく。温かいという段階で止まることなどなく、際限なく温度が上がっていくのではないかと、そう錯覚してしまう程の熱である。


「う……、わ……」


 思わず声が漏れる。もうこれ以上漏れないようにしたかったのか、それとも単に恥ずかしかったのか。自分でも分からないうちに、両手で顔を覆っていた。


 布団の中から出した手が触れた部屋の空気は、やはり冷たかった。


「……っ。……っ!」


 誰に見られている訳でもないのに、顔を隠しながら一人悶える。見られていないからこそなのかもしれないが。


 とにかく、他人には絶対に見せられないような、そんな姿だった。


「なんて……! ことを……!」


 これ以上声が漏れないようにと顔を覆ったのに、自分の思いとは関係なく口は開く。思い出した記憶は、それだけ強烈な一幕だった。


「どんな顔をして部屋を出たらいいんですか……!」


 思い出したのは、アイリスにしがみ付いて号泣した昨晩の出来事。そして、それを思い出してしまったことで、今いる場所もはっきりと理解してしまった。


 ここは、間違いなくアイリスの家。その一室。


 そういえば、本人が泊まっていってもらうと話していたうえに、自宅に帰った記憶も一切ない。泣いていたあの時から今に至るまでの記憶は、そこだけ綺麗に白に染まっていた。きっと、泣き疲れてそのまま眠ってしまったのだろう。


「あぁぁ……!」


 この部屋を出てしまえば、いつになるかは分からないが確実にアイリスに遭遇する。アイリスの家なのだから、それは当然のことだ。何なら、出なくても様子を見に来る可能性すらある。


 八方塞がり、のように思えた。


「……」


 ぴたりと動きを止め、そろそろと辺りを見回す。目を開けたばかりの時には見落としていたのかもしれないが、この部屋にも時計はあるはずだ。


 今の時間次第では、案外どうにかなるのかもしれない。まだ誰も起きていないような時間なら、そっと逃げ出すことも視野に入ってくる。心情的にそれができるのかは置いておくとしてだ。


 そうしてやっと机の上に見つけた時計は。


「無理……!」


 無情にも、午前九時を指し示していた。


「これは……、無理……」


 そもそも、冬至が過ぎたばかりの今の時期に、時計がこれほどはっきり見えるまでに部屋が明るくなっている時点で気付くべきだった。


 アイリスがどうかは分からないが、この時間ではほぼ間違いなくアーロンとレティシアは起きているだろう。どう足掻いても、そっと逃げ出すことはできない。


「はぁ……」


 と言っても、逃げ出す気など、最初からないに等しいが。あまりの恥ずかしさに、つい現実逃避をしてしまっただけだ。あれだけの迷惑をかけておいて、何も言わずに逃げることなどできるはずがない。


「……」


 吐き出しきれない羞恥を、それでもどうにか息に乗せて虚空へ溶かしていく。


 しばらくそうしていると、多少は気持ちが楽になったような気がした。あるいは、ただ落ち着きを取り戻してきただけなのかもしれないけれども。


 何にせよ、いつまでもこの部屋でこうしている訳にもいかなかった。


(起きて……?)


 誰が起きていても気まずいことには変わりないが、やはり一番顔を合わせにくいのはアイリスだ。あれだけのことをしたのに、いつも通りの態度で接することなど到底できない。


 どちらの方が気楽なのかは分からないが、何となく、待ち受けられるよりは待ち受ける方がよさそうな感覚だけはあった。


 そんなことをつらつらと考えながら布団を出て、扉をゆっくりと開く。わざわざそうする必要などどこにもないが、仮にアイリスがまだ寝ていたとして、自分が立てる物音で起こしてしまうのは避けたかった。


「……」


 廊下に出ても、そこが見慣れない景色であることには変わりない。


 よくよく考えてみれば、この家の二階に上がるのはこれが初めてのこと。普段はアイリスが自室に近付けさせまいと警戒していたので、踏み入る機会がなかった。


 それがまさかこんな形で実現してしまうなど、昨日までの自分に言っても納得してもらえないだろう。


「……」


 なるべく静かに廊下を歩いていく。階段に辿り着くまでに数枚の扉を目にしたが、そのどれかがアイリスの部屋に繋がっていると思うと、落ち着いたはずの気持ちが再び騒めき出すような気がした。


 それにしても広い家だ。やはり住居に対する感覚が日本人とは根本的に違うのか、三人で暮らすには十分過ぎる程の部屋がある。外から見た時の印象と何ら変わらない広さだ。


 自分の知っている家との違いをまざまざと見せつけられながら、そっと階段を下りる。そこまで来て、やっと見慣れた景色が目の前に広がった。


(後輩の女の子の家を見慣れてるってのも、それはそれでどうかとは思いますけど……)


 余計なことでしかない考えを浮かべながら、まずは洗面所へ向かう。流石に寝起きの顔そのままで人前に出ることはできない。ましてや、昨日の自分のことを考えると尚更である。


 使っても問題のないタオルの位置を把握していることに疑問を抱きつつも、どうにか身なりを整えていく。途中、鏡に映った目は、案の定どちらも赤みが残ったままだった。


 あまり鮮明に覚えてはいないが、あんな状態でも一通りの洗面用具を持ってきている辺り、昨夜は本当にアイリスにお世話をされっぱなしだったらしい。こんなところまでよく気が回るものだ。


「……」


 いつもよりも少しだけ時間をかけて身だしなみを整えた後、もう必要もないというのに、何故か足音を立てないようにしてリビングへと向かう。


 やがて、目の前に見慣れた扉が立ち塞がる。磨りガラスの向こう側は明るくて、既に誰かが起きていることがはっきりと伝わってきた。


「はぁ……」


 一度だけ、そっと息を吐き出す。逃げ出したくなる気持ちを抑え込み、ゆっくりとドアノブを捻る。


 思っていたよりも、ずっと軽かった。


「……お、おはよう……、ございます……」


 不自然な程に言葉に詰まりながら、それでも何とかその一言を絞り出す。挨拶一つにここまで苦労したのは、それこそ人生で初だった。


 言いきってから、探す必要もない程あっさりと視界に飛び込んできた菜の花色に、一瞬たじろいでしまう。休みの日は遅くまで寝ていることもあると話していたが、どうやら今日はそうではないらしい。


「あ……」


 小さく声を漏らしながら振り返ったアイリスが見せたのは。


「おはようございますっ、葵さん!」


 いつもの朝と何も変わらない、ひたすらに屈託のない笑みだった。




「ちゃんと寝られました?」

「え、えぇ……、多分……」


 アイリスに促されて、昨夜と同じソファに腰かける。隣にアイリスが座っているのも、別のソファにアーロンとレティシアが座っているのも、見た目は何も変わらなかった。


「多分、ですか?」


 歯切れが悪い自分の言葉に疑問を抱いたのだろう。頭の上に疑問符を浮かべながら、アイリスが小さく首を傾げている。


「お布団が合わなかったとか?」

「枕が変わると寝られないタイプかな?」


 アイリスと同じくあまり様子が変わらないアーロンとレティシアは、そんなことの心配までしてくれていた。本当に、どこまでも親切な一家である。


「いえ、その……、寝心地とかそういうこと以前の状態だったので……」

「まぁ、それもそうか」


 納得したように呟くアーロン。その隣では、仕方ないといった様子でレティシアが頷いている。


「……そのことで、皆さんにはご迷惑を……」


 まるで誰も触れないようにしているかのような空気だったが、だからと言ってそのまま流してしまうのは自分が許せない。ならば、話の流れ的に切り出しづらくなる前に、早めに言っておくことに越したことはない。


「迷惑だなんて思ったかい?」

「いえ? 全く?」


 それなのに、アーロンとレティシアは何も気にしていないような口振りで。


「そんなことより、驚きの方が大きかったわね」

「そういうことだよ。葵君は何も気にしなくていい」


 あまつさえ、そんなことまで言い出した。


「でも……!」

「葵さん」


 あまりにも自分に都合がいい展開に、思わず反論の声を上げかける。だが、その瞬間、穏やかな声が自分を制する。


 名前を呼んで自分の言葉を遮ったのは、他でもないアイリスだった。


「お父さんとお母さんはこういう人ですから。何か言っても、あんまり意味がないと思いますよ」

「よく分かってるじゃないか」

「だって娘だもん」

「それにしたって……」


 平然とそう言ってのけるアイリス。アーロンもまた、その言葉を否定することはなかった。


「いいですか、葵さん」


 またしてもアイリスが自分の言葉を遮って話し出す。どうやら、自分の調子はまだ戻っていないらしい。


「今、ここには全部で四人います。で、私とお父さんとお母さんは気にしてません。気にしてるのは葵さんだけです」

「そう、みたいですけど……」


 アーロンとレティシアに視線を向けるも、やはり否定はない。


「つまり、三対一です。多数決で気にしない方に決定です」

「数の暴力……」


 こんな場面で、まさかの多数決理論だった。


「葵さんがいつまでも気にしてほしいって言うなら別ですけど、そんなことは言わないですよね?」


 言い方が、それは認めないと言っているようなものである。何を言ってもこの空気を覆すことはできないと理解するには、それだけで十分だった。


「……ありがとうございます」


 なればこそ、口にするべきはその言葉。本当なら、このどこまでも優しい三人に最初に言わなければならなかった言葉。理解してしまったからこそ、何も気負うことなく口にすることができた。


「はい。あんなに大声で泣く葵さんを見せてくれて、私の方こそありがとうございます、です」

「どうしてすぐそういうことを……」

「この方が、葵さんと私らしいですよね?」


 満面の笑みでそう言ってのけるアイリス。確かにそうなのかもしれないが、代償として自分の頬が熱くなっているのはどう考えているのだろうか。


 気持ちに余裕があればしっかりと問い詰めたかったが、残念ながら今の自分にそんな余裕はない。


「……かもしれないですけど」

「ほら」


 なので、口にできたのは肯定だけ。満足のいく返事が貰えたアイリスの笑みは、全く崩れることがなかった。


「じゃあ、話もまとまったみたいだし、葵君の朝ご飯の準備でもしましょうか」

「いや、流石にそれは」

「三対一よ?」

「……」

「気にしない、気にしない。大した手間じゃないから」


 そう言うが早いか、レティシアが立ち上がってキッチンへと向かっていく。アイリスの少しだけ強引なところは、恐らく母親譲りなのだろう。遥か未来のアイリスを見ているかのようだった。


「うち、お休みの日の朝はパンですけど、葵さんは大丈夫ですか?」


 共にレティシアを見送ったアイリスから、今更のような確認が入る。準備してもらっておいて、そこに文句を言える程厚顔無恥なつもりはない。


「どんなものでも食べられる人です」

「それならよかったです。これから先、葵さんが何回泊まっていってもいいってことですもんね」

「そういうことになる……、んですか……?」


 安心したように言うアイリスだが、その結論は流石に色々と飛躍し過ぎではないだろうか。この家に泊まったのは、今回が特別だっただけのはずだ。


「なるんですよ。多分今日も夜は遅くなりますし、そのままお休みなさいコースですね」

「二日分の着替えは持ってきてないですけど」

「取りに帰ったらいいじゃないですか。歩いてすぐですよ?」

「……どうしてそこでもう一回戻ってくるんですか」


 それはもう帰宅である。そこからアイリスの家に逆戻りする意味が分からない。


「その方が楽しいですし。……あと、葵さんを一人にするのは、まだちょっと心配ですし」

「う……」


 それを言われてしまうと、自分からは何も言えなくなる。あれだけの醜態を晒した後にいくら強がったところで、それを信じてもらえるとはとても思えなかった。


「葵君」

「……はい?」

「三対一、だ」

「……」


 いつの間にか、その言葉が何にでも使える便利な言葉になってしまっていた。使用用途は、主に自分を言いくるめるためである。


「そこまでするんだったら、いっそ冬休みの間はしばらく泊まっていくー?」

「いやいやいや……!」


 少し離れたキッチンから、そんなとんでもない提案が飛んできた。発信源は言うまでもなくレティシア。それなのに、咄嗟の言葉は何故かアイリスに向かって出た。


「何で私を見て言うんですか」

「な、何となく……」


 じっとりとした半目で見上げてくるアイリス。何も悪いことなどしていないはずなのに、視線を受け止めることができずに目を逸らしてしまった。


「でも、確かにそれもちょっといいかもしれないですね」

「どこが……!」


 どう考えても何かを企んでいるその姿に、軽く恐怖を覚える。今こうして並んでいるだけで落ち着かないのに、これがあと何日も続くというのは、とてもではないが冷静でいられる自信がない。


「でも、どうせ冬休みの間は出勤停止を言い渡されましたし。ずっと家にいるんだったら、それはここでもよくないですか?」

「は?」


 そうして焦っていると、何か聞き捨てならない情報が聞こえた気がした。


「今、何て……?」

「さっき、柚子さんから連絡がありました。いっそのこと、二人共冬休みの間はゆっくり休んでもらって、また休み明けから来てもらうことにしたって」

「え……」

「まだ完全に決まったわけじゃないみたいですけど、あとは葵さんの返事だけらしいですよ?」

「……」


 無言でスマートフォンを操作する。大した時間もかからず、アイリスが言っていることが本当のことであると確認を終えた。


「……ほとんど決まってるみたいなものじゃないですか、これ」

「ですね」


 要約すれば、どうせなら店の年始休み自体を少し長くして、太一と柚子の二人もゆっくりしたいとの連絡だった。こんなもの、断れる訳がない。


「さぁ、葵さんの冬休みのおっきな予定が消えちゃいました」

「……」

「どんどん逃げ道はなくなっていきますよ?」


 アイリスの言う通りだった。大して予定を入れていなかった冬休みが、今度は灰色ではなく白色に染まっていく。


「葵さん」

「……何です」

「大掃除って、大晦日にはしちゃいけないって知ってました?」

「知ってますけど」


 そんなタイミングで、アイリスが突然全く関係ない話を切り出した。関係ないはずなのに、頭の中では何故か警鐘が鳴り響く。


「ってことは、もう大掃除も終わってるんじゃないですか?」

「終わって、ない、です……」

「嘘ですね」

「ぐ……」


 苦し紛れの嘘など、アイリスには通用しなかった。薄々狙いが分かったからこその嘘だったのに、これでは何の意味もない。


「僕からも一ついいかな?」

「お父さん?」


 それでもどうにかならないかと反論の糸口を探っていると、援護の声は予想もしていないところから上がった。ただし、自分の援護ではなくアイリスの援護である。


「葵君がいるとアイリスが健康的に早起きになるから、そんな意味でもいてくれると嬉しい」

「お父さん!?」


 援護かどうかは微妙なところだった。


「今日もきちんと起きてきたし、休みの間もこういう生活の方がいいに決まってるからね」

「うっ……!」


 むしろ、受けているダメージはアイリスの方が大きいようだった。


「僕達も休みに入って、その辺の心配もないし。まぁ、元々そんなに心配してないけど」


 畳みかけるようにアーロンの言葉が続く。逃げ道がなくなっていく音がする。


「お、お父さんもこう言ってますし……」

「……その状態でよく誘ってきますね」


 背後から撃たれたのに、それでも前を向き続ける精神は素晴らしいものだ。見習いたくはないが。


「さ、三対一、です」

「流石にこれは一側の意見が強いと思うんですけど」


 いかに三人が了承しようとも、自分にその気がなければ実現はしない。そういった意味では、今回は自分に分がある。


「……そんなに嫌、ですか?」

「う……」


 そう思っていたのに、アイリスの不安そうに揺れる瞳を見て、自分の心も揺れる。これまでもほとんど勝てた覚えのないそれをここで繰り出してくるのは、はっきり言って卑怯ですらある。


 ましてや、昨日は散々迷惑をかけた負い目がある。本人は気にしなくていいと言ってくれてはいるが、それでもすぐに自分の気持ちが晴れる訳でもなく。


 要するに。


「……何もしないって、約束してくれるなら……」


 陥落してしまう以外に選択肢はなかった。そう口にした途端、アイリスの顔が一気に輝きを増す。


「そんなことなんて心配しなくても大丈夫ですよ!」


 しないと断言してくれない辺りが最高に怖かったが、もう後には引き返せない。振り返ったところで、そこに道はない。


「じゃあ……、お世話に、なります」

「はいっ!」


 頭を下げた、その上から聞こえてきた嬉しそうな声。顔は見えなかったが、きっと花が咲いたような笑みを浮かべているのだろう。


 そう考えて頭を上げる。そこには、予想した通りのアイリスがいた。




 結局のところ、自分も寂しかったのだと思う。あんなことがあって、色々なことを思い出して。


 だからこそ、あの申し出を断りきれなかった。


「はい、どうぞ!」

「……」


 そうは言っても、これは何か違うのではないだろうか。


 目の前にはアイリス。ここはアイリスの家なのだから、それは当然である。そこに疑問は抱かない。


 その顔が妙に明るく、そして楽しそうなのも、特におかしくはない。これは推測でしかないが、アーロンやレティシアも含めて、極力いつも通りにしてくれているような雰囲気があった。そんな心遣いがありがたい。


 なので、おかしいのは恐らく目の前に差し出されているトーストで。


「いや……」

「何ですか? 私のトーストが食べられないって言うんですか?」

「焼いたのは私」

「……私が差し出してるトーストが食べられないって言うんですか?」

「言い直すんだね」


 何もしないならと条件を付けたその矢先に、アーロンとレティシアの目の前でアイリスにトーストを食べさせられそうになっていた。


「何もしないって言ったのに……」

「私が言ったのは、『心配しなくていい』ですもん」

「屁理屈……」


 まさに危惧していた通りの結果になった。その理屈でいけば、アイリスは何でもできることになる。もしかすると、色々と判断するのを早まったのかもしれない。


「今の葵さんは、きっと一人でご飯を食べるのも苦労するはずです。私がちゃんと見ててあげないと」

「じゃあ見ててくださいよ。一人で食べますから」

「そういうのはいいです」

「……」


 頑なだった。譲る気が一切ない。


「あれこれ言わずに、あったかいうちに食べましょう」

「んぐっ……」


 痺れを切らしたのか、問答無用でトーストを口の中に捻じ込まれた。それでも手付きは優しかった辺り、気遣いは相変わらずだった。


「……」

「どうです?」

「……。いやまぁ、美味しいに決まってますけど……」


 口の中のトーストを飲みこむ前からアイリスが尋ねてきた。自らが焼いた訳でもないのに、何故そんなに感想を求めているのかが分からない。


「じゃあ、この先の葵さんの朝ご飯もこれで大丈夫ですね」

「そんなことを心配してたんですか?」


 先程何でも食べられると言ったばかりなのに、随分と信用がなかった。もしかすると、これがあんなに大きな隠し事をしていた弊害なのだろうか。


「我慢して食べるご飯は美味しくないですからね。葵さんのことですから、口に合わなくても我慢しちゃいますよね?」

「……しないと思いますよ」

「今の葵さん、『全力で嘘を吐いてます』って顔をしてます」


 しっかり心の中を見透かされていた。これでは勝ち目などあるはずもない。


 そうして自分の心を見抜いたことを勝ち誇るかのように、アイリスの顔に笑みが広がっていく。


「そうやってすぐに我慢しちゃうんですから。もうしなくてもいいって言ったのに」

「うぁ……!」


 唐突に昨夜の出来事で殴られて、思いきり情けない声が出た。顔は間違いなく赤くなっていることだろう。


 けれども、そんな所業に及んだアイリスは何でもないような様子で。言った側と言われた側で、ここまで感じ方に差があるのかと痛感する。


「そんなわけで、私に食べさせてもらいたいっていうのも我慢しなくていいですからね」

「思ってないです……!」


 曲解に曲解を重ねたその言葉は、捻じ曲がり過ぎて原型が分からなくなっている。


 それでも一つだけ分かることがあるとするならば。それは、トーストを片手ににこにこと迫ってくるアイリスからは、絶対に逃れられないということだけだった。




「……ごちそうさまでした」

「はい。じゃあ、お皿は貰っていくわね」

「あ、洗い物くらいは……」

「だめ。少なくとも、今の葵君はお客さんだから」

「でも」

「あと、アイリスから逃げようとしてるのが分かっちゃったから、もっとだめ」

「あぁ……!」


 そう言って、無情にもレティシアが空いた皿を運んでいく。手っ取り早くアイリスの攻撃から逃れる道が閉ざされた瞬間だった。


「逃げようとしてたんですか?」

「してませんよ」

「結局一緒の家にいるのに?」

「……『できません』の間違いでした」


 そもそも、逃げ場などなかった。とても綺麗な目で見つめてくるアイリスが、妙に眩しい。


「で、ちゃんと最後まで美味しかったですか?」

「途中から味がしませんでした……」

「なんでですか」

「どうしてでしょうね? 個人的には、アーロンさんとレティシアさんが見てる前で、最後までアイリスさんに食べさせられたからだと思うんですけど」

「個人的にはそうじゃないと思います」

「いや、そうですよ」


 迷う必要のない問いである。試験で例えるなら、最初の大問の、そのまた一問目。出題者側も、ほとんど全員が正解してくると想定しているような問い。答えなど一つしかない。


「そんなに言うなら、次は反対にして私が確かめたらいいんですよ」

「アイリスさんと僕が見てる前で、レティシアさんがアーロンさんに食べさせるんですか?」

「僕達かい?」

「そんなことを言える辺り、少しはいつもの葵さんに戻ってきたってことですね」


 意表を突かれたことで少しだけ驚くアーロンと、何かに納得しながら頷くアイリス。一瞬だけ訪れた静寂に、レティシアが皿を洗う音だけが響いた。


「ってことは、次は私が食べさせてもらってもいいですよね」


 だが、その静寂は本当に一瞬の出来事。すぐさまアイリスが分かりきっていた答えを口にした。


「それも僕のダメージが大きくないですか?」

「気のせいです」


 言いきった。ただ、その目はこちらを向いてはいなかった。


「ま、それはその時考えることにしましょう。それより、今お話ししないといけないことは別にあるはずです」

「別?」


 どう言いくるめるべきなのか。それとも、とことんアイリスに弱い今の自分では、受け入れる以外の選択肢は存在しないのか。そんなことをまだ鈍い気がする頭で考えていると、言い出した本人が話題を変えてくれた。


 結論の先送りでしかないような気もしたが、まずは今を凌げたのでよしとする。


「はい。葵さんに必要なものをいつ取りに行くかです」

「あー……」

「色々多そうだからね。近いけど車を出すよ」

「わざわざそこまでしてもらわなくても……」

「遠慮しない」

「……はい」


 まるで親に叱られたようだった。相手は年下なのに。


「着替えはもちろんですけど、宿題とかもありますもんね。全部含めたら、結構な大荷物になるんじゃないですか?」

「どれくらいここにいるかにもよりますけど」

「え? 私が、葵さんはもう大丈夫だなって思うまでですけど……」

「……具体的な日付じゃないのが怖いです」


 それはつまり、全てはアイリスの胸三寸ということではないだろうか。その気になれば、冬休みの最終日までということもできてしまう。


 と言うより、なりそうだった。


「僕は何も考えてないです。何も……」

「いきなりどうしたんですか?」

「アイリスさんが怖くて」

「なんでですか!」


 魔窟の主だからである。


「ま、いつまでいるかはその時の気分だとして、とにかく必要なものを取りに行こうか」


 またしても話が逸れそうになったところで、アーロンの一言が軌道修正の役割を果たしてくれた。


 ただし、これもまた結論の先送りでしかない可能性が高い。


「……やっぱりそのまま帰るっていうのは……」

「だめです」


 通るはずもないだろうと思って切り出したそんな提案は、当然のように却下された。微笑みながら、捕まえるように手を握られるおまけ付き。


「少なくとも、今日はクリスマスのお祝いの仕切り直しなんですから」

「その節はご迷惑を……」

「やぁっ!」


 ほとんど無意識に謝りかけたところで、アイリスが謎の掛け声と共に手に力を込めてきた。


「……」

「……」


 何がしたいのかを理解できず、思わずその目を見つめてしまう。そこには、何故か不満が滲む瑠璃色があった。


「痛がってくれないんですか」

「あぁ……」


 そこまで言われて思い出す。夏祭りに行ったあの日、確かに同じようなことをアイリスにした覚えがある。要は、その意趣返しということだろう。


「アイリスさんの握力じゃ無理ですよ」

「……っ! ……っ!!」

「無理ですって」


 一度だけ痛がったことはあるが、あれは不意を突かれたからであって、こんな状態で同じ痛みを感じる訳がなかった。


 伝わってくるのは、小さくて柔らかな手が小刻みに震えていることくらいのもの。


「……こんなに小さい手なのに、昨日は随分と助けられたんですよね」

「ひゃあ!?」


 ぼそりと呟いただけの一言に、過剰と言える程にアイリスが反応した。どうにか自分を痛がらせようともがいていた手は、すっかりその役目を忘れて弛緩してしまっている。


「いっ、いきなり何を……!?」

「いや、あんな風にして、あんなことを言ってくれる後輩がいてよかったなって」

「そ、そこまでですっ! 改めて言われると恥ずかしいですからぁっ!」


 片手が塞がっているせいで、赤くなった顔を隠すこともできないアイリス。ただただ、羞恥のせいで涙を浮かべて目を回す後輩の姿は、ある意味ではとても可愛らしいものだった。


「こういうところなんだろうね」

「でしょうね」


 聞こえてきた二人分の声に振り返る。


 盛大に狼狽えるアイリスを見つめるアーロンとレティシアの目は、ひたすらに優しく、そして慈しむような雰囲気に染まっていた。

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