81. 狂い咲きのラナンキュラス
「何を……」
突然の出来事に思考が追いつかない中、アイリスの腕にはさらに力が込められていく。
微かに伝わってくる程度だった鼓動は、いつの間にかはっきりと感じ取ることができるようになっていた。
「だったら……、どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるんですか……!」
「泣き……?」
思いもよらない、そんな言葉。アイリスがどんな表情を浮かべているのかは分からなかったが、感情を全力でぶつけてきていることだけは理解できた。
「お話が終わってからずっとそうですっ! ずっと泣きそうなのに、ずっと我慢してましたっ!」
「そんなわけ……」
「あります! 誰よりも葵さんを見てる、そんな私が言うんですから!」
何を言っても認めてもらえない。アイリスの言葉を借りるなら、誰よりも自分のことを理解しているのは自分のはずなのに、そこまで言われると途端に自信がなくなってくる。
「平気なわけがないじゃないですか……! 誰よりも辛い思いをしてるのは葵さんなのに……!」
「……」
「普段から優し過ぎるんですから、ちょっとくらいはそれを自分に向けてくださいよっ!」
あんな話をした自分よりも、むしろアイリスの方がよっぽど情緒が不安定なのではないかとすら思える程の、そんな叫び。
「変に格好つけなくていいんです! 私の前でくらい、そのままの葵さんでいてください……!」
それは、ほとんど懇願に近いような一言で。だからこそ、本音であることが伝わってくる。
「……無理ですよ。もう、こんな性格になってしまったんですから」
「少しずつでいいですから……。ちゃんと私が傍で見ていてあげます……!」
十七歳にもなって、今更性格など変えられるはずもない。だと言うのに、アイリスに引き下がる様子は見られない。
「私は弟さんのことを何も知りませんけど、葵さんに苦しい思いをしてほしいなんて、そんなことを考えるような人だったんですか……?」
「そんなことは……」
蒼に限って、そんなことを考えるはずがない。自分よりも、ずっと他人を思い遣ることができる性格だった。
だからこそ、アイリスに言われるまでもなく分かってはいた。いたけれども、こうしていなければ、きっと自分はもう生きていなかったはずだ。
身を削る柱に自分を縛り付ける思い。人によっては、それを呪いと呼ぶのだろう。
「それなら、もう解放されたっていいじゃないですか。それだけのことを、葵さんはしてきたんですから」
「……そうしたら、いつか蒼のことを思い出せなくなるような気がして……」
写真に切り取った一瞬の時間なら、それを見れば思い出せるのかもしれない。だが、水のように流れてきた時間は、何か形に残しておけるような代物ではない。唯一残しておけるのは、自分の思い出の中だけ。
あれだけ大事に思っていた弟のことだ。忘れるなどあり得ないと、本当ならそう断言したかった。だが、実際に何が起こるかは分からない。
事件のことを意識せずに過ごしていく中で、やがては蒼の顔に霧がかかってしまうのではないかと。一度でもそう考えてしまった時点で、それ以外の選択肢を選ぶことは到底できなかった。
「忘れるはずがないですよ」
「どうして……、そう言いきれるんですか」
自分でも自信がないのに。傍で見ているだけのアイリスに、一体何が分かるというのか。自分のことを思って言ってくれているはずのアイリスに、思わず見当違いの感情を抱いてしまう。
それでも口から出たのが否定の言葉ではなく疑問だったのは、もしかすると自分でも何かを期待しているからなのかもしれなかった。
「だって、葵さんですもん。自分が苦しい思いをしてでも弟さんを守ろうとする人が、その相手を忘れるなんてこと、するはずがありません」
「……」
「それに、弟さんはとっても優しかったんですよね? それなら、双子のお兄さんもきっと同じくらい優しいはずです」
「あ……」
耳元でそっと呟かれた、その言葉。
『蒼と同じくらい優しいはず』
アイリスからすれば、そこに深い意味は込めていなかったのかもしれない。それでも、自分にとってはあまりにも大きな一言で。
「蒼と……、同じ……?」
あの時。真っ赤に染まった景色の中で切れてしまった、蒼との糸。
近過ぎる二人を結んでいた糸は、その分とても短くて。その先にもう何もないことなど、見るまでもなく分かっていたのに。
それでも諦められずに探し続けていた糸の先は。
「そうです。もしここに弟さんがいたら、そんなことはしなくていいよって、そう言ってくれるんじゃないですか? 葵さんとおんなじ、ちょっと困ったみたいな顔で」
他でもない、自分の中に繋がっていた。
「あぁ……」
すとんと。何かが胸に落ちる。
それと同時。心の奥底を隠していた何枚もの花弁が、一枚、また一枚と、その役目を終えていく。
「あぁ……!」
自分に対してすら隠していた本心が、少しずつ開いていく花弁の隙間からとうとう顔を覗かせ始める。
あの時から、ずっと聞きたかった声。
「でも、葵さんと一緒で、多分その後『ありがとう』って言っちゃうんでしょうね」
何よりも聞きたかったその声は、ずっとずっと、自分の心の一番奥にあった。
そう気付いた瞬間には、もう視界が潤んでいた。
「……っ!」
アイリスに気取られないよう、声が漏れそうになるのを必死で堪える。それでも、自分の意思に反して、目に溜まる涙は増えるばかり。
「だから、もう無理なんてしなくていいんですよ」
これまでとは違う、優しさに満ちたその声。そっと背中を撫でる仕草は、自分が泣きそうになっていることなど見透かしているようで。
「でも……っ!」
それでも、震える声で涙を隠そうとする。頭のどこかでは無理だと分かっていても、ほとんど無意識にそうしてしまう。
「それじゃあ……、僕は……、何を……!」
ずっと蒼を、子供達を思い続けながら生きてきた。それなのに、急にそれが消えてしまったなら、自分は一体何を目的に生きていけばいいのか。
まるで永遠に続く霧の中に突然放り出されたような、そんな錯覚に飲みこまれていく。
「葵さんがしたいことをすればいいんです。すぐに見つからないなら、私も一緒に探してあげますから」
全てが白に包まれる中、必死にもがいて伸ばした手が、温かな手に包まれる。
「アイリス、さんが……?」
「はい。初めて会った時からずっと、誰よりも葵さんを見てきた私が、です」
その手は、まさに迷子の幼子を導くかのようで。引かれて歩くうちに、少しずつ霧が薄くなっていく。
「葵さんは何にも心配しなくていいですから。何かあったら、絶対に私が助けます」
そうして霧が晴れていこうとも、まともに何も見えないことには変わりない。霧に包まれる前よりも、涙の量はさらに増えていた。
「無理、ですよ……。だって、今の僕だから……、アイリスさんと親しくなれたのに……」
心に残った最後の花弁。それは、なるべく見ないようにしていた、アイリスに対する自分の感情を表していて。
「葵さん。私、ずーっと前に言いましたよ?」
背中を撫でる手が止まり、そしてそっと力が込められる。
「私の態度は絶対に変わらないって」
そのたった一言で、あの夏の日が蘇る。
今、アイリスがどんな顔をしているのかは分からない。それでも、きっとあの時と同じ、真剣な顔をしているのだろうと思う。それとも、その静かな口調の通り、穏やかなものなのだろうか。
いずれにせよ、自分の話を聞いたから思い付いた訳ではなく、ずっと前からアイリスはそう思ってくれていた。
だからこそ、その言葉は真っ直ぐ心の奥底に届く。
「……本当、ですか……?」
声の震えは、最早隠しようがない程になっていた。誰にも顔は見られていないはずなのに、どんな表情を浮かべているか筒抜けになっていることだろう。
それでも、もうそんなことを取り繕う余裕すらない。
「ちょっとくらい、私のことも信じてください。と言うか、絶対に嫌ってなんてあげませんから」
力強い一言が、最後の一枚をそっと開かせる。
「……っ!」
限界だった。
「うぁ……っ!」
誰に何を言われても零れなかった雫が一粒、とうとう頬を伝って落ちていく。
一度堰を切ってしまえば、押し止める術はもうどこにもなくて。
隠していた感情と共に、ただただ溢れるように頬を伝い続けるだけ。
「あぁぁ……!」
恥も外聞もなく、ひたすらアイリスにしがみ付いて慟哭する。そんな自分を、アイリスはひたすら優しく抱き留めてくれていた。
「今まで、ずっと苦しかったんですよね。でも、もう大丈夫ですから。私には何にも隠さなくていいんですよ」
そのまま頭を撫でられる。子供をあやす仕草そのものだったが、今は何よりも、その気持ちが温かい。
もう、まともな声も上げられなかった。
「うぅ……っ! ぐ……、あぁ……!」
目は固く閉じているはずなのに、涙はいくらでも溢れてきて。
それはまるで、これまで溜め込んできた感情を全て吐き出しているようで。
「辛くて苦しいのも、悲しくて泣くのも。全部全部、我慢しなくてもいいですから。全部全部、私が受け止めてあげます」
心の中が感情の奔流で掻き乱される中、それでもアイリスの声だけははっきりと届く。
「だから、今は好きなだけ泣いてください。ずっと傍にいますから」
「うぁぁ……! あぁっ……! あぁぁぁ!」
自分でも聞いたことのないような叫びが漏れる。どんなに足掻いても止められないその声が、静かなリビングに響き渡っていく。
そんな叫びを間近で聞いているはずのアイリスも、再び口を閉ざす。
自分の泣く声以外の音が消えた世界で、アイリスの手は、どこまでも優しく頭を撫で続けていた。
「……」
「……」
これまで流せなかった分の涙を流しきるような、そんな慟哭はどれだけ続いただろうか。見たこともないような姿を見せる葵をひたすら抱き締め続けるうちに、とうに時間の感覚はなくなっていた。
「……」
それでも、永遠に続くかと勘違いしてしまいそうなその時間も、静寂と共に終わりを迎える。
「葵、さん……?」
「……」
そっと呼びかけるも、返事はない。返ってくるのは規則正しい息遣いだけ。
しがみ付かれていたはずの手も、気付けばいつの間にかその役目を放棄していた。
「寝、ちゃった……?」
葵の顔が見えないまま、一つの結論に達する。そう考えると、少しだけ重たくなった体も説明がつく。きっと、力が抜けてしまっているのだろう。
「多分、泣き疲れちゃったのね」
「ずっと緊張してたのが途切れたってのもありそうだけど」
そんな様子を見ていたらしいアーロンとレティシアが、随分と久しぶりに口を開く。その目は、どこまでも穏やかに自分達を眺めている。
「あ……」
その声を聞いて、一気に恥ずかしさがこみ上げてくる。
自分は両親の前で何をしたか。今までは葵のことを考えるので精いっぱいだった頭が、そんなことを冷静に考え始める。
「……見て、ました……?」
何故か敬語が飛び出してきた。これまでそんな口調で話したことなどないはずなのに。妙に頬が熱くなる一方で、アーロンとレティシアの様子は落ち着いたまま。だからこそ、自分の焦り具合がより際立ってしまう。
「全部ね」
「僕達は何も言わない方がいいと思って、ずっと黙ってたけど」
「あぁぁ……!」
葵のものとは全く違った感情を込めた声が漏れる。自分のものはただの羞恥だ。
二人から顔を隠すように、そっと葵の首筋に顔を埋める。ふわりと、自分の髪と同じ匂いがした。
「そこまで恥ずかしがらなくても」
「どうせ今も僕達の前で葵君を抱き締めてるのに」
「あぁぁ……!」
そんな二人の指摘に、先程と全く同じ声が出た。やはり羞恥である。
「私はぁ……! お父さんとお母さんの前で何を……!」
「でも、それだけしたから、葵君は泣いてくれたんじゃない?」
「葵君も嫌がってはいなかったしね」
「いきなり真面目なお話に戻らないでぇ……!」
言葉の寒暖差が激し過ぎる。二人なりに気遣ってくれているのは伝わってくるが、それにしても、もう少し方法は考えてほしかった。
「……色々なことがあったみたいね」
「あぁ。ずっと、泣きたくても泣けなかったんだと思うよ」
「……」
葵の首筋に顔を埋めたまま、そんな会話を聞く。普段の葵にこんなことをすれば、まず間違いなく即座に引き剥がされる。それもないということは、本当に泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
あるいは、最近の葵なら引き剥がさずに受け入れてくれただろうか。
「それにしても、双子だったとはね……」
受けた衝撃を吐き出すかのような、アーロンの小さな一言。当然その顔は見えなかったが、ソファの背もたれに体を預けるような音がした。
「正直、聞きたいことはまだまだたくさんあるけど、それを聞いてしまってもいいのかどうか……」
「そうね……。あんな葵君を見せられちゃったら、こっちからあんまり突っ込んで聞くのもどうかとは思うし……」
考えるまでもなく、レティシアが言っているのは先程の葵のことだろう。ただひたすらに感情を爆発させていたあの姿を見てしまえば、それ以上こちらから踏み込んでいいのか不安になるのもよく分かる。
「……私は」
それでも、自分の意見は違う。
「聞いてあげた方がいいと思う」
「え?」
全く正反対の意見に、レティシアから驚きの声が上がる。まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。それも、葵が感情を爆発させる原因となった、自らの娘から。
「葵さんは、隠してたことを全部教えてくれたんだよ? なのに、こっちが変に遠慮してると、その方が気まずい思いをさせちゃうと思うけど」
「それは……」
「まぁ、そういう風に考えることもできるか……」
納得したような、そうでないような。どこか曖昧な色を含んだ声が響く。食い違う意見を前にして、大人としてどうするべきか悩んでいるようだ。
「……今葵君抜きで話していても仕方ない、か」
「そうね。結局話すのは葵君なんだから。また葵君が起きて、少し落ち着いてから考えることにしましょうか」
悩んだ結果、判断は先送りになった。こうして葵が自分の腕の中で眠ってしまっている以上、今考えてもどうしようもないという結論だった。
「それにしても、ちょっといいことを言った風だったけど、恥ずかしがって葵君の首筋に顔を埋めてる辺りは締まらないね」
「うっ……!」
「好きな男の子の首筋に顔を埋めるのはどう?」
「うぅっ……!」
結論を出したことで気持ちに余裕が出てきたのか、アーロンとレティシアの矛先が再び自分の方を向いた。これではますます顔を上げられない。
わざわざ「首筋に顔を埋める」という表現を何度も繰り返す辺り、完全に悪意を持って話しかけてきている。
「……って。……え?」
そうして相変わらず二人の目から逃れていると、何か聞き逃してはいけない言葉があったことに気付く。
上げられなかったはずの顔が、ゆっくりと二人の方を向く。
「な、なんで……?」
「うん?」
「何でって、何が?」
自分が気付いたことに思い至っていないのか、アーロンとレティシアが揃って頭の上に疑問符を浮かべる。声の調子が、そこに一切嘘が含まれていないことを表していた。
「なんで、私が葵さんのことを好きだって……」
聞き逃してはいけなかったのは、レティシアの言葉。いくら眠っているとはいえ、その本人がいるような場所で発していい言葉ではなかった。
「え……? だって、お父さんとお母さんには言ってない……?」
ついでに言えば、二人に自分の気持ちを話したこともなかったはずだった。それなのに、レティシアの口からそんな言葉が聞こえてきた。これは由々しき事態である。
「いや、見てたら分かるわよ」
「あれほど分かりやすいことも、そうそうないだろうね」
「うそ……!?」
そうしてあっさりと白状する二人。気付いて当然とでも言わんばかりの口振りは、いつかと同じ焦りを抱かせる。
あの時、葵はそういうことに疎そうだから気付いていないと言ったのは、確か碧依だったか。それでも、あれからかなり露骨に感情を表すようになって、今がどうなのかは分からない。
もしかすると、今度こそ本当に葵に気付かれている可能性がある。
「あんまり親を見くびらない方がいいわよ? 子供のことは案外お見通しだったりするんだから」
「それ以前に、アイリスが隠そうともしてないからってこともあるけど」
「隠してるぅ……!」
何やら自分と両親の間で認識に齟齬があるようだった。まさかの可能性のことを考えたいのに、そこに意識を割くことを許してくれない両親が、そこにいた。
「いやいや……。あれだけ『好きです』って空気を出しておいて、それは通用しないわ」
「あぁぁ……!」
顔が葵の首筋に戻った。それでも、規則正しい寝息は途切れない。
「さっきはそれどころじゃなかったみたいだけど、今はどうかしらね?」
「僕達両親が見てる前で、好きな男の子に抱き付いて。どころか顔まで埋めて」
「ひぅっ……!?」
強調するように区切ったアーロンの言葉に、喉の奥から小さな擦れ声が漏れる。言われる前から少し意識し始めていたところにその言葉。
限界である。
「……!」
「あ、震え始めた」
「頭がパンク寸前までいったわね」
寒い訳ではない。エアコンで暖められたリビングは、とても快適な温度になっている。
緊張している訳でもない。むしろそれは先程までの葵であり、自分が緊張する理由はどこにもない。
怖い訳でもない。葵に感情を知られている可能性があるのは少しだけ怖いと言えば怖いが、今体が震える程ではない。
ただただ、恥ずかしかった。
「見ないでぇ……!」
「それは無理。娘の可愛いところは目に焼き付けておかないと」
レティシアの言葉に、慈悲は一切感じられない。その顔を見る勇気は、どこにもありはしなかった。
「さて、冗談は程々にして、そろそろお布団でも敷いてきましょうか」
「手伝うよ」
「あら、ありがとう。……それとも、あなたのベッドで一緒に寝る?」
「……っ!」
「……これも冗談よ」
「やめてぇ……!」
一瞬でその光景を想像してしまって、思いきり肩が跳ねてしまった。普段の葵ならどうかは分からないが、今の葵と一緒に寝て安眠できるとは、とても思えない。
「ま、そんなわけだから、少し待っててもらえる?」
「葵君が寝てるからって、何か悪戯するのはだめだからね?」
「しないぃ……!」
そう言いながら、二人がソファから立ち上がる音がした。
娘に対する信頼があるのかないのか、よく分からなくなってしまいそうだった。
「涙の跡くらいは拭いておきましょうか」
空いている部屋に、何故か準備してあった布団を敷き終わった二人が戻ってきた。その間動くこともできず、ひたすら顔を隠したまま身動ぎもしなかった自分を見て、レティシアが口にしたのはそんな一言。
自分は全く関係がなかった。
「明日の朝、絶対に恥ずかしがるだろうしね」
「拭いたところで、結局恥ずかしがるような気しかしないけど」
微かに苦笑いのような雰囲気を漂わせる口調のレティシアが、何かを用意するような音を出す。水音も混ざっている辺り、お湯でタオルか何かを濡らしているのかもしれない。
「ほら、そろそろ離しなさい。ずっと抱き付いていたいのは分かるけど」
「あぁ……!」
そうして近寄ってきたレティシアに、そっと体を引き離される。隠していた顔が二人の前に晒された瞬間だった。
「……真っ赤じゃないの」
「意識しちゃったんだもん……!」
そうなった元凶たる二人を恨みがましい目で見つめるも、そこに一切手応えはない。まさに暖簾に腕押し、糠に釘。柳に風と受け流す二人には、何も届いていないようだった。
「あなたのことはまた今度散々からかうとして、とりあえず今は葵君ね」
「また今度……?」
不穏が過ぎる一言を残しながら、視線を葵に向けるレティシア。釣られて同じ方向を見れば、当たり前だが、そこには葵の寝顔があった。
「寝顔はちょっと子供っぽいのね」
「と言うより、年相応なんだろう。普段が大人びてるせいで、イメージが薄いだけだと思うよ」
「……」
二人が話している傍ら、無言でその寝顔を見つめる。もちろん、葵の寝顔を見るのは初めてのことだ。
涙の跡は残っているものの、確かにレティシアが言う通り、いつもよりどこか幼く見える寝顔だった。
だが、アーロンが言う通り、本当は年相応なのだと思う。だというのになかなかそう思えないのは、やはり過去の出来事のせいでそう振る舞うしかなかったからなのか。
そして、ずっと隠していたその秘密を打ち明けてくれた今なら、普段からこんな表情を見せてくれるようになるのだろうか。
答えの見つからないそんな問いが、ふと頭の中に浮かぶ。
「はいはい。見惚れてるところ悪いけど、葵君も泣いた後の寝顔なんて見られたくないと思うわよ?」
「み、見惚れてなんて……」
「誤魔化しても意味がないのは、さっきの僕達の言葉で分かったよね」
「……」
そんなことを考えていると、またしても二人からからかいの言葉が飛んできた。また今度とは一体何だったのか。
「……見惚れてました」
「そうそう。素直が一番」
「どんな立場で言ってるの」
「いよいよ葵君が本当に息子になる日も来るのかもしれない、そんな親の立場」
「またそうやってぇ……!」
葵を起こさないよう、涙の跡をそっと拭いながら言うレティシアの言葉は、相も変わらず飛躍したものだった。仮に実現したとして、それは果たして何年後になるというのか。
「さ、今はこんなものかしらね」
「それじゃあ、二階まで連れて行くから、扉の開け閉めはお願いするよ」
言うが早いか、アーロンが葵の体を横抱きで軽々と抱え上げる。最近はあまりそういった場面は見たことがなかったが、やはりそれ相応に力はあるらしい。
「……軽いな……」
あるいは、様々なものを溜め込んでなお、葵が軽過ぎるだけなのか。
「葵さん、痩せてる方だからね」
そんな感想を漏らしたアーロンに事実を告げる。きっとそういうことを言っているのではないとは分かっているが、何らかの答えを口にするのは、どうにも憚られた。
「……」
抱えられた葵の顔をもう一度だけ見て、リビングの扉へと向かう。布団の準備の時に何も手伝えなかったのだから、これくらいはするべきだろう。
「二階の空いてる部屋だから」
「言われなくても」
「あら。勝手にあなたの部屋に敷いておいてもよかったのよ?」
「私がよくないけど……!?」
向かう先は、二階に二部屋ある空き部屋のうち、自分の隣の部屋。壁を一枚隔てた先で葵が眠っているという状況ですら落ち着かなくなりそうな気配があるのに、同じ部屋ならきっと朝まで眠れない。
今にして思えば、よくこんな気持ちで葵を家に泊めようとしていたものだ。あの時は何も考えていなかったに違いない。
レティシアと二人してアーロンを先導する。程なくして辿り着いた部屋は、流石にひんやりとした空気で満たされていた。
「やっぱりすぐには暖まらないわね」
「仕方ないよ。さっき電源を入れたばっかりなんだから」
二人も同じことを思ったようで、その視線は久しぶりに仕事を任されたエアコンに向いている。稼働音こそするものの、吹く風はまだそこまで暖かくはない。
「しばらくしたら多少は暖かくなるよ。タイマーで勝手に切れるようになってるし、乾燥し過ぎることもないはずだ」
敷いてあった布団に葵を寝かせながら、アーロンが言う。見覚えのないその布団は、葵の息遣いに合わせて微かに上下を繰り返していた。
「さてと」
アーロンが立ち上がって布団の傍から離れ、何かを区切るような一言と共にこちらを向く。
「僕達も早いところお風呂に入ってしまわないとね」
「えぇ。葵君がどうするかはまた聞かないといけないけど、クリスマスのお祝いも明日にしましょうか」
「あ、そっか。ごめんね……」
それどころではなくなってしまっていたので失念していたが、レティシアはクリスマスというイベントに向けて、色々と準備をしていたはずだ。もしかすると、何か台無しにしてしまったものもあるのかもしれない。
「大丈夫よ。料理はまた温めればいいし、ケーキは元々明日にするつもりだったから」
「あれ? そうなの?」
「そうね。二人が少し遅くなるのは分かってたから。料理も食べてケーキも食べてってなると、ちょっと大変かと思って」
初めて聞く計画だった。その辺りのことはレティシアに任せきりだったからということもあるが、それはそれとして話しておいてくれてもよかったのではないだろうかとも思う。
「案外食べられちゃうような気もするけどね」
「夜遅くにケーキまで食べて、お腹回りが気にならないのなら」
「ごめんなさい」
電光石火の謝罪だった。何に対して謝っているのかは自分でも分からなかったが、とにかくその一言が口を衝いて出た。
「葵君の前では綺麗でいたいものねぇ……?」
「ぐぅ……!」
自分のことを知り尽くしている親だと言わざるを得ない、的確な一言だった。それでも、ぐうの音だけは出た。
「でも、葵君はそんな風に無理をされるのも嫌なんじゃないかな?」
体型に関してはどうしても多少疎くなるアーロンが、少し考えるようにして葵の方を振り返る。小声で話しているとはいえ、それでも目を覚ます様子がないか気になるらしい。
「健康的なのが一番って言ってた」
「葵君らしいね」
「だから、健康的に体型を維持することに決めました」
自分で言うのも何だが、今の体型は細い方だと思う。ならば、あとはこれを健康的に維持するだけの話だ。
「と言うか、変に無理をしたら、葵さんが栄養バランスまで完璧に面倒を見てくれそう……。流石にそれは申し訳ないし……」
「……やりかねないって思った私は正常なのかしらね」
「僕も思ったから、多分正常なんじゃないかな」
三人揃って葵の寝顔を眺める。まさか寝ている間にこんなことを言われているとは、いくら葵でも露程も考えていないだろう。
「まぁ、とにかく色々は明日になってから決めたらいい。とりあえずアイリスも疲れてるはずなんだから、先にお風呂に入ってきなさい」
「別に後でもいいよ?」
「そう言って入る前に寝ちゃって、明日の朝慌てるわけね。『お風呂に入ってない状態で葵さんの前には出られない!』って言って」
「……先に入ってきまーす」
「よろしい」
そんなことはあり得ないと言いきりたいレティシアの想像だったが、残念ながらそれはできなかった。随分と遅い時間になってきた今、本当にいつの間にか寝ていてもおかしくない。
と考えていたはずが、そこでとある事実に思い至る。
「あれ。でも明日は平日だし、二人は仕事があるんじゃ……?」
葵と自分は既に冬休みに入ったので気にする必要はない。だが、社会人である二人は別だ。平日で仕事がある以上、あまり夜遅くまで起きているのはよくないのではないだろうか。
そう思って切り出したが、返ってきた言葉には微かに呆れが混ざっていた。
「僕達ももう年末休みに入ったって、そう言った覚えがあるんだけどなぁ……?」
「聞いてなかったんでしょうね。多分、頭の中は常に葵君でいっぱいなのね」
「あ……」
そう言われて、何となくそんな話をした記憶が蘇ってきた。有給休暇を使って年末年始の休みを少し長くしたと、二人がそう言っていたような気がする。
「分かったら余計なことを考えてないで、さっさとお風呂に入ってきなさい」
「はーい……」
苦笑いを浮かべるレティシアに後押しされて部屋を出ながら、そういうことであれば、早いところ準備をして入ってしまおうと、頭の片隅で考える。
「……」
最後に部屋を出たアーロンが扉を閉める寸前。一瞬だけ見えた葵の寝顔は、今日一番穏やかなものだったような、そんな気がした。
「……」
湯船のお湯に浸かったまま、無言でぼうっと壁を眺める。シャワーから跳ねた水滴が、不規則な動きでゆっくりと流れ落ちていった。
「……」
自分以外の誰も存在しない空間にいると、その考えはどうしても自身の内に潜り込んでいく。
(あんな大見得を切っちゃって……!)
呼び起こされるのは、つい先程の記憶。葵に対して、自分も一緒に探すと言いきったあの場面。
(何!? 私も一緒に探すって!?)
あの時は、勢いそのままに頭に浮かんだ言葉を口にしていただけだった。そのこと自体は後悔などしていない。余計なことを考えて話したような言葉なら、葵はあそこまで感情を曝け出してくれることはなかっただろう。
(そんなの、ほとんど告白……!)
だからこそ思い悩む。言ったことは後悔していないが、恥ずかしくない訳ではない。あんな状態だった葵が何かに気付くのかは分からないが、後から思い出して気付く可能性は十分にある。
もしそうなった時、自分は葵に対してどんな顔を向ければいいのだろうか。
考えても答えの出ない問題に、思わず膝を抱え込む。
「……」
悔しいけれども、自分の背は高くはない。ことあるごとに小さくないとは言ってきたが、そろそろそれも苦しくなってきた。
そんな自分だからこそ、足を伸ばして入るスペースはあるはずなのに、今やその半分程のスペースで体を丸めていた。
それは、まるで何かから身を守ろうとするかのようで。
「……」
抱え込んだ膝に額をくっつけようとするかのごとく、軽く俯く。実際のところ、小さな自分の膝は水面から出ていないので、ただ目の前に乳白色が広がっているだけなのだが。
(考えても仕方ないのは分かってるけどぉ……!)
もうなるようにしかならないのは分かっている。
一時期はまともに話せなくなるくらいになった。吹っ切れた後は、とにかく意識してもらえるように努力した。
そして今日。これまで誰にも話したことがなかった秘密を打ち明けてくれた。そうしてくれるくらいには、自分のことを受け入れてくれていた。出来事としては明るいことではなかったが、それでもそこだけは喜んでいいところだろう。
「……」
着実に近付いている。近くにいるのにどこか遠かった葵の姿は、もう目の前に迫っている。
そんな事実が、頭の中に幸せなイメージを組み上げていく。それはもうほとんど無意識のようなもので。
悩みのせいで若干険しかったはずの顔が、どんどん緩んでいくのがはっきりと自覚できた。もしお湯が透明だったなら、そこにはそんな自分の顔が微かに映り込んで複雑な気分になっていたことだろう。ある意味、入浴剤が入っていて助かったとも言える。
「えへ……」
久しぶりに声が漏れる。それは声と呼んでもいいのか分からないようなものではあったが、そんなことはいちいち自分では気にしない。ただただ、組み上がった幸せなイメージをさらに補強していく。
「……あれ?」
そうして葵のことばかりを考えていたからなのか。不意に気付く。
(葵さん……?)
今自分が浸かっている湯船に、一足先に浸かっていたはずの人物がいることに。
それは、他でもない葵その人で。
(葵さんが浸かった、お風呂……?)
意識し始めてしまうと、もうだめだった。次から次へとその光景が浮かんでくる。
「ひぁぁ……!?」
たった今自分がいるところに、つい先程葵がいた。当然、一糸纏わぬ姿で。その姿は流石に想像することなどできないが、その事実があるというだけで一気に体温が上がる。
(だめだめだめ……!)
俯いていた顔が勢いよく上がる。何故か、このお湯に顔を近付けることさえ許されないような、そんな気がした。ほとんど全身浸かっているにも関わらず、だ。
その事実も異常な程に気恥ずかしくて。心の内はざわざわと、体はそわそわと落ち着きをなくしていく。
「あ、上がろ……」
どうにもこのままここにいるとよくないような気がして、即座にそんな選択をする。湯船の淵を掴んで立ち上がれば、数多の水滴が重力に従って肌を伝っていった。
そわそわとしたまま軽くシャワーを浴び、浴室を出る。
いつもよりも随分と短い入浴時間にアーロンとレティシアの首が傾げられたのは、それからしばらく後のことだった。




