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80. スターチス (3)

「……」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。何かとんでもないことを言われたはずなのに、頭が理解することを拒んだかのように霧がかかっている。


「え……」


 ようやく口から出た言葉はほとんど擦れていて。自分がどれだけの衝撃を受けたのか、何よりも雄弁に物語っていた。


「……」

「……」


 同じく葵の言葉を聞いていたはずのアーロンとレティシアからは、声が漏れることすらない。どこか苦しそうな、それでいて今にも泣き出しそうな表情を浮かべる葵から目を逸らすことができない自分に、二人がどんな気持ちでいるのかなど分からない。


 だが、きっと同じように混乱しているのだろうということは容易に想像がつく。それだけの威力が、葵の言葉には秘められていた。


「い、今、なんて……」


 聞き間違いではないことくらい、自分が一番よく分かっている。それでも、思わず聞き返さずにはいられなかった。


「僕が、一人目の被害者だったんです」

「あ……」


 悲愴な面持ちのまま、葵が再び告げる。聞き直したところで、その中身は変わらなかった。


「あ、葵君が、一人目……?」


 まさしく信じられないといった様子で目を見開いたアーロンが、混乱そのままに呟く。


「それは……、でも……、……え?」

「全部、話しましょうか」

「あ、あぁ……。そうしてくれると助かる……」


 誰も何も理解できない中、ただ一人全てを知っている葵が口を開く。今はただ、黙ってその話を聞くことしかできなかった。


「とは言っても、どこから話したらいいのか……」


 そう言って、葵が一度目線を落とす。どうやら、本人にとっても説明が難しい、そんな話らしかった。


「……そうですね。まずは、あの火事があった時のことから説明しましょうか」


 やや間を空けてから、そう切り出す。右手に伝わってきていた震えは、いつの間にか収まっていた。


「あの火事で亡くなったのは、誘拐された六人の子供と犯人夫婦の合計八人。それが皆さんの考えですよね」

「そう、だね。そう思っていた」

「あれ……? でも……?」


 そこで違和感を覚える。混乱から抜け出せていない頭では数えることが難しいが、どうにも人数が合わないような気がする。


「葵さんがその夫婦の子供じゃないなら、本当の子供はどこに……?」

「そうね……。確かに数が合わない……」


 誘拐されたのが六人で、夫婦とその子供で九人だったから、亡くなった八人と生き残った一人という図式が成立していた。だが、実際に誘拐されたのが七人だったとすると、その場には十人いたことになる。これでは、一人が忽然と消えたことになってしまう。


「夫婦の子供も、あの火事で亡くなりました」

「え?」


 成り立たない方程式に頭を悩ませていると、すかさず葵から答えが提示された。


「つまり、あの火事で亡くなったのは全部で九人です」

「で、でも、遺体は八つしか見つからなかったって……」


 家族全員の気持ちを代弁するように、アーロンが言う。対する葵は、奇妙な程に落ち着いていた。


「その辺りは、僕も詳しくは知りません。崩れた家の下敷きになって遺体の損傷が激しかったとか、多分そういうことなんじゃないかと思ってます」


 事もなげに言いきる葵だが、その言葉はとても十代半ばの子供から出ていい言葉ではなかった。


「でも、夫婦の子供の遺体が見つからなかったのは、もっと他に大きな理由があるんじゃないかと」

「他の理由……?」

「えぇ」


 そこで一度言葉を区切り、じっとテーブルの上のメモ用紙を見つめる葵。自らが書き記した六つの名前を見て、一体何を思っているのだろうか。


 やがて顔を上げた葵が、途切れていた言葉の続きを口にする。


「その夫婦の子供と思われる人物が一人、火事から逃れて助かったからです」

「そ、そんなわけがない……! いくら葵君があの二人と同じ名字だったからといって、そんな間違いは……!」


 そうして告げられた、ほとんど荒唐無稽とも思える推測に、アーロンの語気が少しだけ強くなる。


「警察だって消防だって、流石にきちんと調べるはずだ……!」


 確かにその通りだと思う。いくら当事者である葵の言葉でも、それだけはどうにも信じ難かった。


「そうですね。顔も名前も、きちんと調べたはずです」

「だったら……」

「アイリスさん」

「はいっ?」


 何の脈絡もなく、いきなり葵の顔がこちらに向く。まさかこのタイミングで話しかけられるとは露程も考えていなかったので、どこか上擦ったような返事になってしまった。


「夏休みの終わり際だったと思うんですけど、僕が小さい頃の写真を見せたことがありますよね?」

「ありましたけど……」


 そんな自分の様子を気にすることもなく、そのまま不思議なことを尋ねられた。確かにアルバムは見せてもらったが、それが今の話と何の関係があるのだろうか。


「あの時、アイリスさんが一枚の写真を見て『何かちょっと違う』って言ってたの、覚えてますか?」

「な、何となくは……」


 その時の光景を思い出しながら、何とかそう答える。


 正直、言われるまではそんなことを言ったという事実は忘れていた。言われたから辛うじて思い出しただけで、何も言われなければ、この先もずっと忘れたままだっただろう。


「でも、それがどうか……」


 言いかけた言葉が途中で止まる。浮かんでしまった考えに、一気に鼓動が速くなる。その拍動の音が、強烈に鼓膜を揺らす。


「え……」


 まさかとは思う。だが、葵がこんな場面で関係のない話をするとは思えない。ならば、写真の話も火事の話と関係があるはずだ。


 つい先程、葵は何と言っていたか。


『顔も名前も、きちんと調べたはず』


 そうは言っていなかっただろうか。そして、そこに写真の違和感の話。繋がってほしくない考えが、一つに繋がっていく。


「う、そ……」


 自分で考えたはずなのに、思わず否定の言葉が漏れる。葵の左手に重ねた手に、徐々に力が入っていく。


 アーロンとレティシアが未だに答えらしきものに辿り着けない中、視線の先で葵の口が開かれた。


「アイリスさんは気付いたのかもしれないですね」


 まるで自分のことはお見通しと言わんばかりに、そんな一言を挟む。


 続く言葉は、今は亡き大切な相手を想うかのような、穏やかな口調で紡がれた。

















「あの火事で亡くなった最後の一人は、湊蒼。僕と同姓同名で、一卵性の双子で、血を分けた大事な弟です」




「そ、れは……」


 二度目の衝撃。薄々勘付いていたとはいえ、それでも受ける衝撃の大きさは変わらない。


「草冠に倉で『蒼』です。アイリスさんがおかしいって言ってた写真は、僕じゃなくて蒼の写真だったんです」

「……」


 何事もなかったかのように話を続ける葵だったが、最早その話についていける者など、この場には誰もいなかった。


「蒼が写った写真は全部隠せたと思ってたんですけど、あの一枚だけは見逃してしまったんですよね」


 こんな場なのに、悪戯がばれた子供のように言う葵。その雰囲気は、まさに空元気といったもので。


「ふた……ご……?」


 それでも、今は言われたことを呆けたように聞き返すことしかできなかった。


「えぇ。元々子供の名前は『あおい』だって分かっていた。そこにその名前を名乗って、顔まで同じ子供が現れた。だったら、その子供が夫婦の子供だと思われるのは当然です」

「で、でもっ!」


 葵は当たり前のことを言っているつもりなのかもしれないが、聞いているこちらからすれば、疑問が山のように積み上がっていく。


 漢字が違うとはいえ、双子に同じ名前を付けるのか。そもそも、それなら葵は誘拐されたとは言わないのではないか。双子の一人がいなくなっていることなど、調べればすぐに分かるのではないか。


 そんなあれこれが、一気に頭の中を駆け巡る。処理能力の限界を超え、今にもパンクしてしまいそうだった。


 アーロンとレティシアの二人は、既にパンクしてしまったように黙り込んでいる。今自分が動けているのも、葵の言葉を聞き漏らしてはいけないという、半ば脅迫的な思いがあったからに過ぎない。


 それがなければ、二人と同じように何もできなくなってしまっていたことだろう。


「アイリスさんが言いたいことは、何となく分かってます。ちゃんと全部話しますから」

「あ……」


 泣き笑いのような表情を浮かべる葵に、思わず言葉に詰まる。


 もしかすると、自分は何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。


 もう随分と前のことのように思える憔悴しきった葵を見ていたせいで、今の葵が落ち着きを取り戻していると、そう無意識に思ってしまっていた。


 だが、こんな話を他人に打ち明けるのに、冷静でいられる訳がない。そんなことは考えるまでもなく分かるはずだった。なのに、あれこれと否定する言葉を並べられて、葵は一体どんな気持ちだっただろう。


 話し振りから察するに、この話をしたのは恐らくこれが初めてなのだろう。きっと誰も信じることができず、ずっと胸の内に秘めたままにしてきたはずの真実。それを半ば無理矢理のような形で話すことになってしまった葵に必要なのは、何よりもその気持ちに寄り添うことではなかったのだろうか。


「あ、あの……、ごめんなさいっ……!」


 だからこそ、そんな言葉が口を衝いて出る。泣きたいのは葵の方のはずなのに、何故か自分の目に涙が溜まっていく。


「……アイリスさんが謝る必要なんて、どこにもありはしませんよ」


 そんな状況でも、葵は自分のことを気にかけてくれる。今は自らのことだけでも大変なはずなのに、どこまでも自分の知る葵らしい行動だった。


「それじゃあ、そろそろ少し昔話をしましょうか」

「昔、話……?」

「えぇ。僕が生まれてからのお話です。と言っても、その辺りのことは僕も聞いただけなんですけどね」


 そう前置きして、とうとう葵が全ての発端を語り始めた。




「さっきも言った通り、僕は双子の兄として生まれました。一卵性で、顔もほとんど同じです」

「……」


 先程とは違い、どこから話すか悩む必要はなかった。記憶にない部分を、周囲から聞いた情報を頼りに話し出す。


「いくつか気になってることはあると思います。それこそ、双子の兄弟に同じ名前を付けるのか、とか」

「それは……。はい……」


 隠すことなく認めるアイリス。きっと、その頭の中は混乱で満ちているのだろう。それでも何かに気付いて、泣きそうになりながら謝ってきたのだから、これほど他人を思い遣ることができる人もそうそういない。


「それは僕もそう思います。漢字は違っても読み方が同じ名前なんて、普通なら兄弟には付けません」

「だったらどうして……」


 答えが見えない疑問に、アイリスはますます混乱するばかり。もったいぶる場面でもないので、何も考えることなく、その答えを口にする。


「名付けた人が別々だったからですよ」

「別々?」

「実はですね、僕達が生まれた時、両親にはそんなにお金がある訳じゃなかったらしいんです。それこそ、子供一人を育てるのが精いっぱいだった」

「一人……」

「そして、父親の方には一人の弟がいました。その弟も結婚していて子供が欲しかったんですけど、夫婦共に体が弱くて、子宝には恵まれなかった」

「あ……」


 そこまで話したところで流石に答えに気付いたのか、小さな声が漏れるのが聞こえた。


「少し悪意のある言い方をすれば、需要と供給が一致した」

「……」

「つまり、僕が養子に出されたんです」

「だから、名前が?」

「はい。お互いの夫婦でそれぞれ名前を考えて、後で確認してみたら葵と蒼だった。どうするか悩んだらしいですけど、別々に暮らすことになるんだから、同じでも不自由はないという結論になりました」


 話してしまえばなんてことはない。名前が同じだったのは、ただそれだけの理由だ。


「そんなわけで、僕には両親が二組います。実の両親は湊橋也、七実。育ての親は湊洋介、鈴菜と言います」

「洋介さんと鈴菜さん……」


 複雑に複雑を重ねたような話に、理解を促すかのごとくアイリスが繰り返す。少しだけ俯きながら、内容を必死に噛み砕いているようだった。


「それはもう溺愛でしたよ。僕が覚えてる限りでは、二人から怒られたことなんてないんですから」

「……その頃からしっかりしてたんですよ、葵さん。多分」

「それはどうだか分かりませんけどね」


 今となっては遠い過去のことだ。洋介と鈴菜の顔は薄れることなく覚えているが、当時の自分のことなど、思い出そうとしても霞がかかったようにぼんやりとしている。


「とにかく、僕はそんな二人に引き取られて、七歳になるまで隣の県で暮らしていました」


 霞の先に手を伸ばすのを諦め、再び話に戻る。まだまだ分からないことに塗れているであろう三人を放っておいて、一人で記憶を遡ることなどできる訳がない。


「そんな風に別々に育てられることになった兄弟が、お互いのことを知っているのが普通なのかは分かりません。でも、少なくとも僕達はかなり小さい時からお互いのことを知っていました」

「教えてもらってたってこと、ですか?」

「そうです。それに、月に一回はお互いの家に家族全員で遊びに行くくらいでしたから」


 ほとんどが霞の向こう側に消えてしまった記憶だが、その記憶ははっきりと思い出せる。


「可愛かったんですよ、僕の弟。少しだけ控えめな性格で、とにかく優しくて。一緒に遊んでる時はもちろん、何をするにしても僕の後ろを追いかけてきてくれたんですから」


 記憶の中にある蒼の姿は、いつだって自分と共にあった。遊ぶのも一緒。食べるのも一緒。寝るのも一緒。


 そんな姿を思い出すだけで、思わず頬が緩んでしまう。


「っと、今はそういう話じゃなかったですね。どうしても弟のことになると、つい……」

「……」


 じっとこちらを見つめるアイリスの視線で、やっと話が逸れていたことに気付く。洋介と鈴菜が自分を溺愛していたように、自分も蒼のことを溺愛していたと気付いたのは、そんなタイミングだった。


 ぎゅっと胸を締め付けられるような感覚を抱きながらも、意識を目の前のアイリスに戻す。ほとんど思い出話をしているようなものではあるが、それでも話すべきところとそうでないところは別にしなければならない。


「で、そうやってお互いの家族で仲良くしていたところに、ある出来事が起こって雲行きが怪しくなります」

「え……」

「最初、僕が養子に出された理由を何て言ったか、覚えてますか?」

「えっと……。お金がなかったのと、子供ができなかった、から……?」


 複雑に絡み合った糸のような話を解きほぐすように、アイリスがゆっくりと答えを口にする。


「そうです。そして、事情が変わったのはお金の方です」


 反応がないアーロンとレティシアの方は分からないが、少なくともアイリスは話についてきていることを確認して、そう言葉を続ける。


 ここから先の話は、常人には理解できないであろうことも含まれるようになる。これまでの話で分からないところがあれば今のうちに解消しておこうかと考えていたが、それも杞憂に終わったようだ。


「僕が七歳になる少し前くらいのことです。実の両親が家を訪ねてきて、いきなり僕を引き取らせてほしいと言ってきたんです」

「い、いきなり、ですか?」

「いきなりです。何の前触れもなく」


 宣言した通りに怪しげな方向に転がり始めた話を聞いて、アイリスの顔に怪訝そうな色が広がっていく。


「その時は幼くて何を言っているのか理解できませんでしたけど、今なら分かります。簡単に言えば、二人がやっていた事業が成功して、一気に収入が増えたんです」

「だから、葵さんを引き取らせてほしいって……?」

「そういうことです。一番の問題だったお金の面が解決したから、自分達の子供を返してほしい。まぁ、理解しようと思えば、まだ何とか理解はできます」


 七年も経った後に言い出すことか、とは思ってしまうが。それとも、これは自分に子供がいないからこそ抱いた感情なのだろうか。誰にも真偽は分からない。


「よ、洋介さんと鈴菜さんは?」

「もちろん、はっきりと断ってました。いくら兄夫婦の頼みでも、それだけは受け入れられないと」

「そう、ですよね。溺愛してたんですもんね……」


 少し安心したように呟くアイリス。それは、兄夫婦とは違う考え方をした二人に対しての安堵だったのだろうか。


「でも、それが誘拐事件の引き金になりました」

「それが、ですか?」

「それが、です。これも後から分かったことなんですけど、あの二人、物事に対する執着心が常人の比じゃなかったんです」

「執着心……?」

「今回のことで言えば、自分達の子供は二人共手元に置いておきたい。そんな考えです」

「もしかして……」


 ここまで話せば、流石に分かってしまったようで。信じたくない考えに辿り着いてしまったかのように、アイリスの顔が驚きに染まっていく。


「葵さんが攫われたのって……」

「そうですね。初めは穏便に取り戻そうとした。でも断られてしまった。だから、強引な手段で取り戻した」

「そんな……!?」

「そんなことをするような二人でしたけど、間違いなく頭はよかった。行き当たりばったりで誘拐をするようなことはなくて、どこまでも細かく計画を立てて、それを確実に実行した」

「……」


 とうとう黙り込んでしまったアイリスだが、だからと言って話すのを止める訳にもいかない。どうにかついてきてくれることを祈りつつ、言葉を続ける。


「僕を攫った後、当の本人に自慢してきました。証拠はまず残っていないから、自分達が犯人だとばれることはないだろうと」


 今にして思えば、そんな行動も常軌を逸している。誘拐した子供に対して自らの計画の素晴らしさを語る行動が、普通の枠組みに収まっているはずがない。


 だが、当時の幼い自分は何が起こったのか分からず、ただただ困惑に飲みこまれていただけだった。


「実際、今でもまだばれていないんですから、その言葉は正しかったわけです」

「……」

「こうして、一人目の誘拐は成功しました。誘拐は全て県内で起こったと思われてますけど、一人目だけは県外で起こったんです」


 その言葉の意味を受け入れようとするアイリスが、そっと目を閉じて、ゆっくりと首を振る。しばらくぶりにアーロンとレティシアの方に目を向ければ、じっとこちらを見つめる四つの瞳が、そこにはあった。


「そして、二人の行動がエスカレートしていくのはこの頃からです」


 視線を受けながら、さらに事件の裏側を曝け出していく。


「僕を誘拐した時に感じた、細かく計画を立てて実行する快感。それと、法を犯しているという緊張感に、二人共のめり込んでいきました」


 事件が続いたのは、そんな子供でも考えないような理由が根底にあった。これこそが、二人の異常性の中でも際立った一面である。


「たったそれだけの理由で、次の計画を立て始めました。あの時のことはよく覚えてます。僕の目の前で、二人目の話をしてたんですから」

「そんなのって……」

「嘘だと思いますか? そう思えるのなら、僕だってそう思いたかったです。誘拐されたことも、何もかも」

「……」


 言葉が続かないアイリスをそのままにして、はっきりと思い出せるまでになった記憶を辿る。


「自分達の名前と僕の名前から連想して残り六色を揃えようと言い出した時には、本当にこの二人は自分の親なのかと、子供ながらにそう思いました」


 それでも、その時はまだ本当に実行するとは考えていなかった。そもそも、二人がばれないと言っていたことも信じてはいなかったので、それよりも先に警察が来るものだと、そう思っていた。


 けれども、その目論見は外れることになった。


「結局、その後の一年で本当に六人を誘拐してきました。皮肉なことに、それだけの人数を家に監禁していてもどうにかできてしまうほどの収入が、二人にはあった」


 加えて、二人はとにかく頭が回った。それだけのことをすれば、普通であれば周囲に何かしらの異変が伝わるものだ。だが、二人はそんなところにまで気を回し、周囲に一切気取られないように立ち回っていた。


 そうでなければ、二人が犯人と露見するまでに二年もの歳月が経過することなどあり得ない。


「その後のことは、皆さんが知っている通りです。連続誘拐犯だと特定された二人は、逃げることなんて一切考えず、僕達全員を道連れにしようとして家に火を放ちました」

「……」

「その辺りのことは未だに記憶が混濁していて、はっきりとは思い出せないです。ただ、何かがあって意識を失って、気が付いたら周りは火の海でした」


 力が込められたまま緩まないアイリスの手。その体温を感じながら、数えきれない程夢に出てきた光景を思い出す。意識して自分から思い出すのは、随分と久しぶりのことだった。


「周りには、黒い塊になった何かが転がっていました。僕がそうならなかったのは、ただの偶然です。ただ倒れていた場所がよかっただけで」

「……っ」


 その光景を想像してしまったのか、アイリスの目が固く閉じられる。心なしか、手が震えているようにも思えた。


 話しながら考える。もし何かの歯車が少しでも違っていれば、きっと自分もあの場で焼け死んでいたのだろう。そうなっていれば、ここでこうしてアイリス達に話をすることもなかった。


 何をどう考えても、自分が今ここにいることは、奇跡以外の何物でもない。


「そこからは必死です。どこをどう逃げたのか全く思い出せませんけど、どうにか家の外まで逃げ延びました。……誘拐された六人と、蒼を見捨てて」

「そんな言い方……!」


 最後の一言が、思いの外自分を責めるような言い方になってしまっていたらしい。頭の中に浮かんだ惨状に顔を伏せていたはずのアイリスが、久方ぶりに否定の言葉を口にする。


 上げられた顔を、正面から見つめる。零れ落ちそうなほどの涙が、瑠璃色の瞳に浮かんでいた。


「葵さんは……、何にも悪くないのに……!」

「……分かってます。僕が目を覚ました時には、もう誰も助からなかったってことくらい」

「だったらっ!」

「でも、やっぱり考えてしまうんですよ。目を覚ますのがあと少し早かったら。もしかしたら、誰か一人でも助けられたんじゃないかって」

「それは……」


 自分の言いたいことは分かるが、それでも納得できないとでも言うかのように、曖昧な言葉を呟くアイリス。上げられたはずの顔は、自信を失ったように再び俯いてしまった。


「子供達に差をつける気なんて一切ないですけど、それでも、蒼は……。蒼だけは助けたかった……!」


 思わず言葉に力が入る。そうなってしまう程に、蒼は自分にとって大事な存在だった。


「……」


 これまで一気に話してきたが、ここで初めて少しだけ間を空ける。そうでもしないと、きちんと話すことができなくなりそうだったからだ。


 そうして黙っている間、アイリスが両手で包み込むように手を握ってくれていた。


「……そうして一人だけ助かった僕は、また意識を失って、そのまま病院に運ばれました」


 どうにか話を続けられる程度には落ち着きを取り戻してから、再びゆっくりと記憶を言葉に変えていく。


「何か外的な要因があったのか、それとも心を守るために体がそうしたのかは分かりませんけど、次に目を覚ました時には、それより前のことは全く思い出せなくなっていました」


 あの時思い出せたのは、せいぜい自分の名前くらいである。それ以外のことは、ほとんど何も分からない状態だった。


「記憶、喪失……?」

「と言っていいのかは分かりません。色々と医者に言われたはずですけど、それもあんまり覚えてはいないので」


 単純に、子供には難し過ぎる話だった可能性の方が高いが。


「で、そこから少しずつ記憶を取り戻して今に至る、というわけです」


 最後にそう呟いて、話を締めくくる。長かった記憶の旅も、これにて終幕である。


「……」

「……」

「……」


 ところどころで反応を返してくれていたアイリス。対して、こちらをじっと見つめるだけで、ついぞ一言も言葉を発しなかったアーロンとレティシア。


 途中の様子は全くの正反対ではあれども、辿り着いた先は共に沈黙。自分の話をどうにか飲みこもうと、ただただ考え込むだけだった。


「……」


 そんな三人を見つめる自分も、また無言。何か余計なことを言うべき場面ではないと思っていたこともあるが、それ以上に疲労感が強かったことが大きい。


 少し前まであれだけ憔悴していたのに、思ったよりもすらすらと話しきることができたせいで、意外と回復しているのかとも感じていた。だが、実際は単に先程の出来事を意識せずに済んでいたからというだけだった。


 話し終わってしまえば、思い出したかのように気持ちも淀み始める。


「あの……」

「何かありました?」


 しばらく続いた沈黙を破ったのは、やはりアイリスだった。気になることはあるが、それを尋ねてもいいのか分からないといったような様子である。


「その、洋介さんと鈴菜さんは……」


 アイリスが控えめに口にしたその名前に、心の奥底が針に刺されたようにちくりと痛む。そこに横たわっている事実がもうどうしようもないことだとしても、何も感じずに済む訳ではない。


「……もう、亡くなりました」

「あ……」

「僕が誘拐されてから保護されるまで、二年半近くかかったんですけど、その間に」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らないでください。気になるのは仕方ないですから」


 何も悪くないのに、またしても頭を下げるアイリス。本当に、どこまでも優しい性格をしている。


「元々体が弱かったって話はしましたよね? そこに心労が重なって、まずは母さん……、鈴菜さんのことですね。とにかく母さんが亡くなって、その後父さん……、洋介さんが後を追うように亡くなったそうです」


 それを知ったのは、事件が終息してからしばらく後のことだ。どうにかほとんどの記憶が戻ってきた、そんな時期だった。


「初めて聞いた時は、言われたことが信じられなくて泣き叫んだような気がします。それでも、いつまで経っても二人が姿を現さなかったので、少しずつ信じるしかなくなっていったんだと思います」


 思えば、あの二人が見舞いに来なかった時点で気付くべきだったのかもしれない。けれども、あの時の自分にもっと周囲をよく見ろと言うのは、流石に酷としか言いようがない。


「どうして……。どうして、周りに本当のことを言わなかったの?」


 当時の自分が随分と荒んでいたことを思い出していると、今度はしばらくぶりにレティシアが口を開いた。その問いは、一連の話を聞いていれば至極当然のもので。


「話したって、何の意味もないからですよ」


 だからこそ、その答えを告げた自分の口調は、アイリスに問われた時とは比べ物にならないくらいに淡泊なものだった。


「意味がない?」

「はい。だって、僕があの二人の子供だってことは事実なんですから。否定したところで、それが変わるわけじゃありません」

「でも、自分も攫われた側だって分かってもらえたら……」

「そうしたら、責める声は蒼にも向くかもしれないですよね」

「……」


 無意識に語気が強くなる。その雰囲気に気圧されたのか、レティシアはその口を閉ざしてしまった。


「そんなこと、僕は絶対に許しません。周りに気取られないために、関係ないはずの蒼まで監禁されてたんですよ?」

「だからって、葵君がそんな風に言われるのは間違って……」

「間違っているとかいないとか、そんなことは僕にとって関係ないんです。ただ蒼を守ることができたら、それでよかった。生きている僕が何かを言われても、その気があれば反論はできます。でも、もう死んでしまった蒼は、反論することすらできないんですよ」


 結局、全てはそこへ行き着く。蒼が好奇の目に晒されないように。静かに眠れるように。そのためなら、自分はどんな汚名でも被ることができる。


「そこまでして、か……」

「弟に向ける感情としては重過ぎることくらい、重々承知です。でも、何もかも失った僕には、それくらいしか生きる理由が見出せなかったんです。あの時も、それに今も」


 アーロンに言われたことなど、とうの昔に気付いていた。それでも、自分を支える柱はその一本しかなかった。自らの身を削ることになる、その一本しか。


「そういえば、この場ではこうして話しましたけど、この事実を他の人に話すつもりはありません。なので、皆さんも他言無用でお願いします」

「それはもちろん、勝手に言い触らすつもりなんてないよ。でも、葵君は本当にそれでいいのかい?」

「さっきも言った通り、僕は何を言われたって平気ですから」


 あの事件で生き残ってしまった自分が果たさなくてはならない役割だと、そう納得しているのだ。今更誰に何を言われたところで、考えを変えるつもりはない。


「嘘です」


 それなのに。


 力強く否定する声が、隣から聞こえてきた。


「……何が嘘だって言うんですか」


 この話をしてから初めて聞くそんなアイリスの声に、少しだけ怯んでしまう。まさかそんな言葉が返ってくるとは、微塵も想像もしていなかった。


「何を言われても平気なんて、そんなはずありません」


 目を逸らすことなく、しっかりと見つめてくるアイリス。その瞳は、まるで自分の心の奥底まで見透かしているかのようで。


「平気、ですよ。もう慣れ……」

「だったらっ!」


 自分の言葉を遮って、アイリスが声を張り上げる。だが、そこにあるのは怒りではなく困惑の表情で。


 やがて、アイリスの髪がふわりと頬を撫で、そして表情が見えなくなる。


「え……」


 体に、小さくて温かな衝撃。


 繋がれていた手は、いつの間にか離されていて。今はただ、そっと背中に触れている。


 胸に微かに伝わってくるのは、他でもないアイリスの鼓動。


 その間に、二人を隔てる距離は一切ない。




 小さな体に抱き締められていると気付いたのは、擦れたような声を出してから、しばらく経った後のことだった。

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