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8. 二つの出会いと一つの関係

「おはようございます、葵さん」

「おはようございます」


 翌日の朝。最寄りの駅に向かうと、そこにはアイリスがいた。昨日予想した通り、同じ時間の電車を狙ってこの時間に来たのだろう。照明の数が少なくてやや薄暗い駅の構内でも、瑠璃色と菜の花色は圧倒的な存在感を放っていた。


「ちゃんと起きられたんですね」

「も、もちろんですっ」


 腰に手を当てて、胸を張りながらアイリスが答える。いつかも同じ仕草を見たが、今日はその時とは少しだけ様子が違う。具体的に言えば、視線が明後日の方向に向いていた。


「二度寝、大丈夫でした?」

「そ、それはぁ……。ちょっとだけしました……、けど」


 腰に当てていた手が滑り落ちる。とうとう視線だけではなく、顔そのものを背けられた。自身の行動を言い当てられて恥ずかしいのか、頬がうっすら色付いているのがよく分かる。


「そこまで予想通りでした」

「もー……。私にどんなイメージを持ってるんですか……」

「手間がかからなそうで、でも少しだけ手間がかかる妹、みたいな感じですかね」

「調味料と同じじゃないですか!」


 自分で言っておいてどこかで聞いたことのあるフレーズだとは思ったが、アイリスのおかげで思い出した。


「でも、妹ですか……。そうですか……」

「どうかしました?」

「んー……? 気になりますか?」


 何かを企んでいるような表情で聞き返してくるアイリス。自分をからかおうとする意思が込められた、心の内を分かりやすく表す目だった。何をするつもりなのかまでは読み取れないが、からかわれると分かっていて、わざわざ相手のタイミングで踏み込む必要もない。


「いや、別にそこまでじゃないです」

「なんでですか! 気にして下さいよ!」

「だって、明らかに何か企んでますし」

「もう!」


 そんな訳であっさり梯子を外してみたのだが、相変わらずいい反応を見せてくれる。とりあえず先にからかうことができて満足したので、そろそろアイリスの話に乗ることにする。


「で、どうしました?」

「この流れで聞かれても……」

「機会は逃さない方がいいってことです」


 自分が逃すように仕向けたことは、一旦棚に上げておくことにした。


「いじわるですね……、『兄さん』」

「は……?」


 それは、不意打ちという言葉で片付けてしまうには、あまりにも大きな衝撃を伴っていた。少しだけ拗ねたような表情で発せられたその言葉に、一瞬動揺して思わず声が漏れてしまう。


「どうですか? それっぽかったですか?」

「え? あ……、そう、ですね……」

「それとも、『兄さん』じゃなくて『お兄ちゃん』とかの方が好みでした?」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 攻守逆転と言わんばかりにアイリスが押してくる。拗ねたような表情はどこへ消えてしまったのか、悪戯が成功した子供のように、実に無邪気な笑みを浮かべている。


 対して、自分の方は未だに動揺が抜けきらなかった。年下の子供の世話など、一年前まで毎日のようにやってきた。「兄さん」も「お兄ちゃん」も、数えきれない程呼ばれてきた以上、今更その呼び方で動揺するはずもないと思っていた。


 それなのに、アイリスが相手になった途端にこの始末である。一体何が琴線に触れたのか、自分自身も全く理解できない。


「思った以上に効いてますね。葵さん用の秘密兵器にしましょうか」

「もう秘密でも何でもないですけどね」


 意識が内側に向く中で、どうにかその言葉だけを絞り出す。先程と変わらずにこにこと笑っているところを見ると、どうやらアイリスには心の内まではばれていないようだった。それならば、わざわざこちらから打ち明ける必要もない。


 それよりも、厄介なことを呟いているアイリスへの対処が先なのは、誰の目にも明らかだった。




「あれ? 湊君?」


 昨日の帰りと同じくアイリスと二人で並んで電車に揺られていると、途中の駅から乗ってきた碧依が、戸惑ったような声で話しかけてきた。見れば、声の調子と同じく、顔にも困惑の色が浮かんでいる。


「おはようございます、水瀬さん」

「あ、おはよう、湊君」


 いつもの挨拶を交わす自分の隣で、アイリスも小さく頭を下げる。お互いに相手のことを不思議そうに見つめているが、戸惑い具合としては、碧依の方がやや上らしかった。


「えっと……、お隣さんは……?」

「アルバイト先の後輩です。昨日、図書委員の後輩にもなりました」

「アイリスです。よろしくお願いします」

「あ、ご丁寧にどうも。湊君と同じクラスの水瀬碧依です。よろしくね」


 戸惑いながらもアイリスとは反対側の隣に腰かけ、早速お互いに挨拶を交わすアイリスと碧依。アイリスには若干の緊張のようなものが窺えるが、そこまで気にする程のものでもないだろう。


「湊君、湊君。この子、可愛過ぎるんだけど、私が貰っていい?」

「は……?」

「え……?」


 初対面の挨拶を交わしてすぐに、碧依が不穏なことを言い始めた。もしかすると、寝坊でもして、頭が上手く働いていないのかもしれない。その割にはいつも通りの姿に見えるが。


 一方のアイリスはといえば、自分と同じく混乱しているようだった。たった今初めて言葉を交わした相手からこんなことを言われたとなれば、その反応も当然のものである。


「貰う……?」

「うん、貰う」


 そんな可能性はほとんどないと思いつつ、それでも聞き間違えた可能性を考慮して聞き返してみるも、やはり碧依の言葉は変わらなかった。これで二度聞いたことになるが、結局意味はよく分からない。面倒なことになりそうな予感を抱きながら、再びアイリスに目を向ける。


 瑠璃色の瞳に困惑の色を残しながらも、首を横に振っていた。何故かは分からないが、その仕草を見て、一度からかってみることに決めた。


「何を言ってるのか分からないですけど、別に僕のものでもないので、好きにしたらいいんじゃないですか?」

「ほんと!?」

「葵さん!?」


 そう口にした途端、両隣から喜びと驚きの声が同時に聞こえる。碧依が喜色満面、アイリスが周章狼狽といった様子だった。


「じゃあ貰っちゃうね!」

「だめです! 私は葵さんのですもん!」

「私、碧依さんだよ?」

「湊さんのですっ」

「え? 水瀬さん?」

「み、な、と、ですっ」


 朝から元気な二人だった。そして、相変わらず碧依は押しが強い。


 自分が呑気にそう考えながら車窓の景色を眺めていると、不意に碧依から話が飛んできた。


「ねぇねぇ、湊君。アイリスさん、湊君のらしいよ?」

「バイト先でも委員会でも後輩ですもん!」

「じゃあ、自由にしてもいいですよ」

「やったね! ありがと!」

「助けてくれないんですか……!?」


 どういった理屈かは知らないが、自分がアイリスの所有権を持っているらしいので、とりあえず許可を出しておく。アイリスが縋るように袖を掴んで振り回してくるが、からかうと心に決めた自分には効かなかった。


「何をしようかなぁ……? 湊君に着せようと思って見てた服とかを着てもらうのがいいかな……?」

「待って下さい」


 適当に受け流していると、何やら聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできた。アイリスをからかう時間は終わりである。


「どうして僕に着せようとしてたのかはあえて聞きませんけど、そもそも性別が違いますよね?」

「……? 女物だよ?」

「当たり前みたいな口調で言わないでもらえます?」


 純粋な目で首を傾げる碧依だったが、どう考えてもそんな仕草をしていい場面ではない。恐らく以前話していたことの続きなのだろうが、服を選ぶところまで話が進んでしまっていることに、上手く言葉にできない衝撃を受ける。


「前言撤回です。アイリスさんは僕のらしいで渡しません」

「葵さん……!」


 ようやく味方が現れたことに、アイリスが目を輝かせながら喜んでいた。実態はただの保身でしかないのだが。


「えー……? どうしてもだめ?」

「どうしても、です」

「そっか……、残念……。でも、いつか着てもらうからね」

「……」


 アイリスになのか、それとも自分になのか。その部分をはっきりさせておきたいという気持ちはあるものの、「両方」という答えが返ってきそうな予感もしたので、今は何も聞き返さないでおくことにした。




「どうしてすぐに助けてくれなかったんですか?」


 厄介事を先送りにしただけのような会話の後のこと。早くも碧依への警戒心が増したアイリスによって、何故か自分が問い詰められていた。


「からかうって決めてたので」

「もー! もっと優しくしてくれてもいいじゃないですかっ」

「アイリスさんって、見てるとからかいたくなるんですよね。どうしてなんでしょうね?」

「それを私に聞くんですか?」


 僅かに怒気を含んだ表情すらも可愛いのは反則だと、そんなことを考えながら疑問を口にする。分かりきっていたことではあるが、残念ながら答えは返ってこなかった。


「でも、湊君がそんな風に誰かをからかうのって、ちょっと珍しい気がするね?」

「そうですか?」

「うん。まぁ、まだ初めましてからそんなに時間経ってないけど、イメージと違うって言うか……。それだけアイリスさんと親しいってことなのかな?」

「その辺はあんまり意識したことがないですけどね」


 自分ではなかなか意識しない部類のことなので、碧依に言われるまでそんなことは考えもしなかった。これで仲が悪そうに見えるのなら問題だが、親しそうに見えるのなら、別段言うことはない。


「へぇ……。じゃあ、私が特別ってことですか? えへへ……」

「からかわれるのが特別ってことでいいんだ……」


 ただ、アイリスがそう言って喜ぶのは予想外だった。何やら頬を染めて笑っているが、自分の気持ちとしては碧依に近いものがある。


「これはお許しが出たってことでよさそうですね」

「あ、違っ……、できれば優しくしてもらえると嬉しいなーって……」

「それはちょっと約束できないです」

「なんでですか」


 そんな表情から一転、少しだけ涙目になったアイリスが抗議の声を上げる。そういうところがからかわれる原因だと気付くのは、一体いつになるのだろうか。恐らく微笑ましい目でアイリスを眺めながら、心の中でそう考えるのだった。




「そういえば、お二人って名前がそっくりですよね」

「そうなの。仲良くなったのも、それがきっかけだしね」

「おかげでさっきは大変な目に遭いました……」


 碧依の押しの強さを体験したアイリスが、やや疲れたように呟く。まだ朝だが、こんな様子で今日一日大丈夫なのだろうか。自分もその片棒を担いでいたような気がするが、そんな都合が悪いことは無視しておくことにする。


「水瀬さんはともかく、僕の方は、男にしては大分女性寄りの名前ですからね」

「あれ、自覚してたんだ?」

「これまで何回同じことを言われてきたと思ってるんですか。嫌でも気付きますって」

「あ、それじゃあ、名前のことはあんまり言わない方がよかったですか……?」


 自分の思い出話のような何かを聞いて不安になったのか、アイリスが瞳を揺らしながら問いかけてくる。そんな意味を込めたつもりは一切なかったのだが、アイリスにはそう聞こえてしまったらしい。言い方が悪かったと反省しつつ、その不安を取り除くように否定の言葉を口にする。


「いや、全く気にしてないので大丈夫です」

「そ、そうですか?」

「ですね。ってことで、アイリスさんも気にしないで下さい」

「そういうことなら……」


 何か悪いことをした訳でもないのに、随分と気にしてしまっているようだ。きっと、性格の根元が優しさでできているのだろう。


「それにしても、湊君ってバイトしてたんだ」


 そんな空気を察したのか、自然な流れで碧依が話題を変えてくれた。せっかくなので、それに便乗させてもらうことにする。


「一人暮らしですからね。色々と必要なので」

「あ、そうなの? 高校生で一人暮らしって珍しいね」

「ちょっと色々ありまして」

「葵さん、『色々』で全部済ませようとしますよね」


 話題が逸れたことで普段の調子を少し取り戻したのか、アイリスがじっとりとした目をこちらに向けながら碧依に同意する。


「確かにそれ分かるかも。何でもそれではぐらかそうとするもんね」

「ですよね。何か隠してそうです」

「まぁ、隠してるのは正解ですけど、別に話しても面白い話じゃないので」

「へー? 隠してるのは認めるんだ?」

「ここで誤魔化して、もっと詳しく聞かれても面倒ですからね」


 意外そうに言う碧依だったが、受け流すのが大変そうな二人分の問いかけを避けるには、少しだけ真実を話してしまうのが一番楽である。先程の一件がまだ尾を引いているのか、アイリスの方も、それ以上踏み込んでくる気配はなかった。


「ふーん……。あんまり話したくないことみたいだし、触れないでおいた方がいいかな……?」

「話したくないって言うと語弊がありますけど、そうしてもらえると、僕としても楽です」


 そう言いながら碧依から目を逸らし、暗に話はこれで終わりだと告げる。微妙な話題になったのもそうだが、そもそも電車が終点の駅に着いたということもある。タイミングで言っても、ここでこの話題を終わらせるのが自然だろう。


 アイリスと碧依もその思いを汲んでくれたのか、それ以上何かを口にすることもなく、それぞれの鞄を手に三人揃って改札へと向かうのだった。




「あの、葵さん」

「はい?」

「うん?」


 駅を出て学校への道を三人で歩く。あれから時間も経ち、アイリスはすっかり回復したようだった。


 そんなアイリスがきっかけで、とある問題が露呈する。「あおい」の響きだけでは、自分と碧依のどちらを呼んだのか分からないという、言われてみれば当たり前の問題だった。


「あ、湊さんの方です」

「あー……。……ややこしいね?」

「ですね。どうしましょうか」

「あ、じゃあ、水瀬先輩は碧依先輩でどうですか?」

「アイリスさんに『先輩』って呼んでもらえるなら本望です。それで」


 どうするか迷ったが、結局敬称を変えるという解決策に落ち着いた。名前の響きが同じ人間が二人、すぐ近くにいるというのはなかなか面倒だった。


「それで? どうかしました?」

「えっと、碧依先輩にもなんですけど、宿泊学習のことを聞きたくて」

「あぁ。そういえば、一年も来月になったんでしたね」

「そうですそうです。どんな感じなのかなって思って」

「あー……、私には分からないやつだね、それ」

「え?」


 一旦寄り道はしたものの、話題はすぐに本題に戻る。どうやらアイリスとしては宿泊学習のことが気になっているようだったが、残念ながら、この話題は碧依には答えられないことだった。事情を知らないアイリスが、不思議そうな顔をして首を傾げている。


「水瀬さんはこの四月からの転校生なんですよ」

「あ、そうなんですか?」

「つまり、そういうこと。力になれなくてごめんね?」

「いえいえ。気にしてもらわなくて大丈夫です」


 碧依は両手を合わせながら、アイリスは両手をわたわたと振りながら。二人揃って、感情がよく表れる手の動きだった。


 何やら微笑ましい光景はさておき、碧依には分からない話題となれば、この場でそれを伝えられるのは自分しかいない。できれば同性の意見がある方がアイリスとしてもよかったのだろうが、ないものねだりをしても仕方がなかった。


「一年の宿泊学習ですか……。あれは……」

「え? どうしてそんなに遠い目を……?」


 何か答えられることがあっただろうかと、一年前の記憶を探っていると、視線が自然と空を向いた。あまり楽しくなかった記憶を掘り起こす時、人の目は虚ろになる。


 そんなことを一切知らないアイリスは、自分の急激な変化に不安そうな声を漏らしてした。自分の様子から、何かよくない空気を感じ取ったらしい。


「あ、そういえば、莉花が全然楽しくなかったって言ってたね」

「えー……? 楽しくないんですか?」

「楽しくないです」

「葵さんまで?」


 楽しい宿泊学習を期待している後輩にこんなことを言うのは心苦しいが、どうしてもその部分に嘘は吐けなかった。


「そうですね……。ずっと山籠もりでしたから」

「あれ? でも、今年はそうじゃないみたいですよ?」

「そうなんですか?」

「はい。去年の評判が悪くて、それで改善したらしいです。評判が悪かったって冗談か何かだと思ってましたけど、その様子だと本当だったんですね」


 今年のアイリスも同じ思いをするのかと、若干不憫に思っていたところに、その新しい情報である。わざわざ意識して思い出す必要がない程に去年の評判は悪かったが、まさか翌年すぐに改善が図られるとは思っていなかった。考え方によっては、自分達の犠牲が役に立ったとも言える。


「今年はどんな感じなの?」

「初日は山ですけど、二日目からは街中でした」

「へぇ。じゃあ、私達とそんなに変わらないね」

「碧依先輩たちも?」

「うん。私達は二日目まで山だけど、最終日は街中を自由に観光できるんだ」

「最初の二日も、意外と面白そうなものが多いですしね」

「そうそう。アーチェリーとか、やったことがないから結構楽しみ」


 何とも言い難い理由で決まったアーチェリーだが、碧依は思いの外楽しみにしているようだった。その言葉通り、一瞬碧依の足取りが弾んだような気がする。


「山は絶対なんですね」

「一学年分の人数が寝泊まりできる宿泊施設なんて、大体山の中にしかないからだと思いますよ」

「そっか。二百人はいるもんね」

「何にせよ、楽しめそうならそれに越したことはないです」


 自分達のような思いをする生徒がもう量産されないのなら、こんなに喜ばしいことはない。ということで、アイリスには是非とも楽しんできてほしいという気持ちを込めて、それだけを口にしておく。


「はいっ! 楽しんできます! ……それでですね?」

「はい?」


 意識が早くも宿泊学習に向いているのか、もう楽しんでいそうな笑みを浮かべるアイリス。そんな気が早くて可愛い後輩から、さらに質問が飛んできた。


「何か気を付けた方がいいことってありますか? 持ち物とか」

「気を付けた方がいいことですか……。そうですね……。行き先はどこなんですか?」

「去年と同じって先生が言ってました」


 その言葉を聞いて、少しだけ思案する。去年と同じということは、必ず何かを伝えられるということになる。


「寒さ対策はしっかりした方がいいです。昼は晴れていれば多少は大丈夫ですけど、天気が悪かったら結構寒いですし、夜は晴れでもそうじゃなくても寒いです」


 アイリスと、自らも参考にしようとしているであろう碧依に両隣から見つめられる中、最初に思い付いたことを口にする。実際にその場で体験してみないと分からない、この三人の中では自分にしか分からないことだった。


「山ってことですけど、そこまでですか?」

「ですね。特に、寝る時の服は気を付けてください」


 そう言っている間にも、徐々に去年の記憶が蘇ってきた。施設内のそこかしこで、かなりの人数が大変な思いをしていたはずだ。自分も一応ある程度の対策はしていたが、それでも少し肌寒い思いをした。アイリスや碧依がどれほど寒さに強いのかは分からないが、気を付けておいて損はないだろう。


「分かりました。しっかりあったかくしますね」


 心の中に書き留めるかのように、アイリスが小さく頷く。この様子ならば、せっかく伝えたのに忘れられるということもないに違いない。


「他には……。これは、誰か分かる女子にも確認するのが確実だとは思いますけど……」

「うん?」


 一番重要なことを伝えられたからなのか、それに引っ張られるようにして、他の注意点も浮かんでくる。ただ、これに関しては、自分はあまり詳しくアドバイスできるような立場ではなかった。


「お風呂のことなんです。言われなくてもそういうのを持っていってそうですけど、普段使いのシャンプーとかがあれば、ミニサイズのものを持っていくといいと思います」

「あ、そうですね。忘れないようにします」

「最悪、備え付けもありますけど、それ相応のものだと思うので」


 男子なら別にそれでも構わないのだろうが、女子はそう簡単にはいかないだろう。元々持ち物に入っていそうではあるが、改めて念押ししておくのがよさそうだった。


「防寒とお風呂セット……。あとは何かありますか?」


 心のメモに追記したアイリスの、更なる問い。確認できることはできるだけ確認しておこうという、準備段階で最も重要な姿勢が見て取れる。


「そうですね……。アイリスさんは、乗り物酔いって大丈夫な方ですか?」

「乗り物酔いですか? 今まで酔ったことがないので、多分大丈夫だと思いますよ」

「それでも、一応酔い止めは持っておくと安心です。行き帰りで山道を通りますけど、そういう道って結構曲がりくねってるので、普段酔わない人でも酔いますから」

「あ、そっか、そうですよね」

「もし自分で使わなくても、誰かが忘れた時に渡せますし」

「ん、分かりました。ちゃんと準備しておきますね」


 とりあえず浮かんだものを三つ程伝えたが、去年参加して感じたのはそのくらいだろうか。もし他に思い出したら、それはまた別の機会にでも伝えればいいはずだ。本番まで、アイリスと会う機会はいくらでもある。


「やっぱり気が利くよね、湊君」


 会話の切れ目を感じ取ったのか、しばらく黙って話を聞いていた碧依がぽつりとそう呟く。


「そうですか?」

「うん。最後の酔い止めの辺りとか、他の人に渡せるかもなんて、普通は考えないと思うよ?」

「まぁ、昔色々ありましたから」

「また『色々』ですか」


 うっすらと苦笑いを浮かべたアイリスに、そう突っ込まれる。あまり自覚していなかった辺り、ほぼ口癖と言っても差し支えなかった。


「それにしても、アイリスさんの方が寒いってことは、私達の方も寒いのかな?」

「行ったことがないので何とも言えませんけど、五月頭だったら、どこの山もまだ肌寒いんじゃないですか?」

「そっか。じゃあ、私達もちゃんと準備しておくのがよさそうだね」

「葵さんは去年寒かったですか?」

「寒かったです。ずっと天気が悪かったですからね。何人か体調が悪くなる人が出るくらいでした」

「うわぁ……」


 その光景を想像したのか、苦笑いだったアイリスの表情が、微かに青ざめたものに変わる。今の二年生は去年の十月下旬に宿泊学習が行われていて、そもそも寒くなり始める時期なことに加え、全日程を通して常に雨が降っていた。篠突く雨に、一時は予定が少しだけ変更された程だ。


 それだけのことはなかなか起こらないとは思うが、そうなる可能性もあると知っているのといないのとでは、心構えが大きく変わってくるだろう。


「防寒、大事ですね」

「流石に冬用のコートまではいらないですけど、カイロとかはあった方がいいと思いますよ」

「ですね。いくつか持っていきます」

「今ぱっと思いつくのはこのくらいですかね。他に何かあったら、また伝えます」


 つい先程頭の中で考えていたことを一応言葉にしておく。あまり追加で思い出すことはないとは思っているが。


「色々ありがとうございます。色々参考にしますね」

「わざとですか?」

「あ、ばれました?」


 一通り確認を終えたアイリスの口から出てきたのは、明らかに自分の言葉を真似た言葉だった。電車の中でからかった分の仕返しなのだろうか。だとすれば、随分と可愛らしい仕返しである。悪戯っぽい笑みも、そんな雰囲気作りに一役買っている。


「……」

「水瀬さん? どうかしました?」


 そうしてアイリスにからかわれていると、再び沈黙していた碧依が、何かを言いたそうな顔でじっと見つめてきた。一体何を見透かそうとしているのか、その視線はいつもより少しだけ険しい。


「湊君さ、アイリスさんと話してる時と他の人と話してる時で、ちょっと雰囲気が違う?」

「え?」

「そう、ですか?」


 そんな碧依からの、突然の指摘だった。アイリスも自分も、その言葉に困惑の声を漏らす。


「自分の雰囲気なんて流石に分からないんですけど、そうなんですか?」

「何て言ったらいいのかな……? 普段より目付きが優しいのかな……?」


 碧依の返事はどこか要領を得ない言葉だったが、とにかくそう見えるらしい。そう言われても、やはり自分の雰囲気は分からない。


「特に意識して態度を変えてるつもりは……」

「?」


 そう呟きながら、隣からこちらを見上げてくるアイリスを見つめ返す。普段の自分の様子をあまり知らないアイリスはもちろんのこと、自分自身にも特に心当たりはなかった。


「何だろうな……? 気になってもやもやする……」

「それはこっちの台詞ですよ?」


 気になる言葉を投げかけるだけ投げかけて、そのまま思案に耽らないでほしい。取り残された側の方が、もっともやもやして仕方がない。


「まぁ、アルバイト先でも委員会でも大事な後輩ですからね。無意識にそうなってるのかもしれないです」

「大事……」


 何も考えずに、思ったことをそのまま口に出す。それがよくなかったのか、言葉の一部だけを切り取ったアイリスが、何やら嬉しそうに反応しているのが聞こえてきた。随分と都合よく切り取っているが、果たして何を言い出すつもりなのだろうか。


「そうですよね! 大事な相手ですもんね!」

「言葉の一部を切り取って、そのうえ捏造までしたね」

「ここまでだと、いっそ清々しいです」


 喜んでいるところ申し訳ないが、そこまでは言っていない。


「そうですか……。それなら目付きが優しくなるのも仕方ないですよねっ」

「またからかわれたいんですか?」

「ごめんなさい」


 またしても自身に都合がいいように解釈し始めたアイリスを、たった一言で制する。頭が即座に下げられ、菜の花色の髪がさらりと揺れた。


「やっぱり仲良いね」


 ぽつりと呟かれた碧依の言葉は、面と向かって受け止めるにはやや恥ずかしいものだった。




「湊君」

「はい?」


 一日の授業を終えた放課後。帰る準備をしていたところで、クラスメイトの一人から声がかかった。普段は全く関わりがない相手だが、何かあったのだろうか。


「お客さんが来てる」

「お客さん?」

「うん。一年生の」

「あぁ……」


 その一言で、誰が訪ねてきたのかに思い至る。そもそも、わざわざ自分を訪ねてくる一年生など、この学校には一人しか心当たりがない。


「一年が来るなんて珍しいね? 何したの?」

「何かした前提で話を進めないでくださいよ」


 隣の席で部活の準備を進めていた莉花が興味を抱いたらしい。思えば、同じ学校とはいえ、学年が違えば普段の生活で関わることはあまりない。それこそ、莉花のように部活に所属していない限りは。


「違うの?」

「僕にどういうイメージを持ってます?」

「詳しく聞きたい?」

「やめておきます」


 間違いなくろくでもないことを考えている顔をしていた。藪をつついて蛇を出す必要もないだろう。


「ねぇ、それで……」

「あ、すみません。知り合いだと思います。金髪でした?」

「うん。綺麗な」

「じゃあ間違いないです」


 莉花と話していて放置する形になってしまったクラスメイトが、躊躇いがちに割り込んでくる。謝罪とともに一応の確認をすれば、予想通りの答えが返ってきた。やはり考えている相手で間違いないようだ。


「それなら呼んでくるね?」

「えぇ、お願いします」


 迎えに行くつもり返事をしたのだが、ありがたいことに呼んできてくれるとのことなので、そのまま任せることにする。


 そこまで会話を終えてから、果たして教室の中まで連れてきてもらうのが正解だったのか、ということにふと思い至る。このままでは、ほぼ間違いなく莉花が面倒なことになるのではないだろうか。


「あ……」

「へぇ、金髪の子なんだ? 羽崎君みたいなハーフ?」


 クラスメイトを呼び止めようとしたタイミングで、再び莉花が話しかけてくる。会話の断片から得られた珍しい特徴に、ますます興味が湧いた様子である。


「いや、両親とも外国の方だそうですよ」

「おぉ……。じゃあ、完全に外国の子だ」


 留学生という訳でもないのに完全に外国人というのは、学校という狭い世界の中では意外と珍しい。莉花の興味は最高潮に高まっているのか、視線は完全に自分から外れ、教室の入口に向けられている。


「……はい、ありが……います」


 そうこうしているうちに、クラスメイトを呼び止める計画は見事に失敗した。既に教室の入口から、聞き覚えのある声が途切れ途切れに聞こえてくる。それから間を置かず、ひょっこりと菜の花色の髪を揺らしながら、見慣れた顔が現れた。


 上級生の教室に一人でやって来るのは流石に落ち着かないのか、アルバイト初日に初めて顔を合わせた時のように、やや緊張したような顔をしていた。


 少しだけ教室の中を見回した後、自分の視線と瑠璃色の視線が交錯する。その瞬間、強張っていた顔が柔らかく緩むのが見て取れた。そのまま自分の方へと向かってくる。


「朝以来ですね、葵さん」


 訪ねてきたのは、言うまでもなくアイリスだった。




「わざわざ二年生の教室までなんて、何かありました?」

「いや、何にもないですよ? この後バイトなので、一緒に帰りませんかってお誘いです」

「あぁ、そういうことですか」


 わざわざ放課後に訪ねてくるのだから何かあったのかと思ったが、それは幸いにして杞憂に終わったようだった。考えてみれば、この後同じ場所に向かうのだから、一緒に帰っても何もおかしくはない。


「湊君……。この子……!」

「はい?」


 そんな話をする中、隣で莉花の視線がアイリスに釘付けになっていた。分かりやすく嫌な予感がした。それも、今朝と同じ方向の嫌な予感である。


「私に……」

「そこまで、です」

「うぇ!?」


 予想通りのことを言おうとしたであろう莉花を、恐らく最速で制する。やはり、一度経験していることに対しては、対処するスピードが違う。


「何で止めたの?」

「どうせ『私にちょうだい』とか、その辺りじゃないですか?」

「何で分かったの!?」

「その件は今朝やりました」

「あ、あはは……」


 一連のやり取りに、アイリスが思わずといった様子で苦笑いを浮かべる。一日に二度も同じことを言われるとは思っていなかったのだろう。莉花が碧依の影響を受けたのか、それとも碧依に影響を与えたのか。どちらでも構わないが、言われた方は堪ったものではない。


「いいじゃん! こんなに可愛い子を前にして黙ってるなんて、女が廃るよ!」

「廃れさせておいてください」


 じりじりと迫って来る莉花からアイリスをかばう位置に移動する。怪しげな目付きと手の動きが相まって、半分ホラーの様相を呈していた。口からは若干気の抜ける笑い声が漏れている辺り、残りの半分はコメディだが。


「さぁ、湊君。そこをどいてもらおうか」


 ホラーなのにコメディという新しいジャンルの体現者と化した莉花が、さらに一歩迫ってくる。


「どかないと……」

「と?」

「どんな髪型がいいかなぁ……?」

「諦めてください、アイリスさん」

「あれ!?」


 背中に隠れていたアイリスを、莉花の前に晒すことにした。いきなり差し出されたアイリスが驚きの声を上げているが、脅されてしまっては仕方がない。


「だめですって葵さん! この先輩、碧依先輩とおんなじ感じがします!」

「多分、悪いようにはならないですから」

「そういうことじゃなくって……! むぐっ……!」

「あぁー……、可愛いぃ……!」


 とうとう莉花に捕獲されたアイリスが、思いきり抱き締められていた。莉花がこれ以上ないという程に、恍惚とした表情をしている。


「癒される……。朝昼晩で一日三回抱き締めたい……」

「んぅー! むぁー!」


 アイリスがもがいているが、そこから抜け出せる気配はない。思ったよりも莉花が抱き締める力が強いらしい。もしくは、アイリスの力が弱過ぎるだけなのか。


「すぅ……」

「いやいや……。何をしてるんですか……」


 一方、抱き締めている側である莉花はといえば、とうとうアイリスの髪の匂いを嗅ぎ始めていた。ここまでになると、流石に止めた方がよさそうである。


「ほら、そのくらいにしてあげてください。あんまりやり過ぎると、今後警戒されますよ」


 もう手遅れだろうということは言わないでおいた。


「あと一吸いだけ……」

「猫ですか」

「すぅ……」

「しっかり吸ってますし」


 そこまでしてから、ようやくアイリスが解放された。一瞬で自分の背中に隠れて、警戒心をたっぷり宿した目で莉花を睨んでいる。ただし、涙目の時点で迫力は一切なかった。


「猫ですか」

「だからだめって言ったじゃないですか!」


 無意識に出てしまった突っ込みのせいなのか、視線がスライドして矛先が自分に向く。


「文句なら、脅してきた方にお願いします」

「うぅー……!」


 このままでは厄介なことになりそうだったので、そう言って矛先を再び莉花の方に向ける。初対面の先輩にいきなり文句を言うのはハードルが高いのか、複雑そうな顔で呻き声のようなものを上げるだけで、それ以上アイリスが何かをすることはなかった。


 そういった意味で言えば、初対面の後輩をいきなり抱き締めた莉花は、色々な意味で化け物のような存在なのかもしれない。


「いやぁ、いい抱き心地でした!」

「こんな状態の本人を前にして、よくそんなことが言えますね」

「……」

「で、この子はどちら様?」

「傍若無人……」


 誰なのかを確認する前にあれだけの行動ができる意味が、自分には分からない。こんな言葉を使う機会が、人生の中で訪れるとは思っていなかった。


「……アルバイト先と委員会の後輩ですよ」

「へぇ、後輩。あ、渡井莉花です。よろしくー」

「……アイリスです」


 莉花の方はご機嫌で手まで振っているが、アイリスはこれまで見たことがない程沈んだ自己紹介だった。無理もない。


 周囲の様子を窺えたのは、そのタイミングだった。これだけ騒いでいれば注目を集めて当然なのだが、やはりあちこちから見られていた。ましてや、その一人はクラスどころか学年すら違うのだから、尚更である。


 もちろん、理由がそれだけではないことにも気付いているが。


「あれ? アイリスさんだ。また湊君にからかわれてたの?」

「私にどういうイメージを持ってるのか、詳しく聞きたいです」

「ついでに僕も聞きたいですね」


 何となく気まずさのようなものを感じていると、席を外していた碧依が戻ってきて、いきなりそんなことを言い出した。碧依といい莉花といい、自分に対してどんな印象を抱いているというのだろうか。


「アイリスさんをからかって楽しんでる人と、湊君にからかわれて喜んでる人、かな」

「喜んで……!? えぇ!?」

「また人聞きの悪い……」

「二人揃って楽しそうにしてるよ? ねぇ、莉花?」

「だね。仲が良いんだろうなって思ったけど」


 仲が良いに越したことはないが、そんな風に見られていたとは気付きもしなかった。果たして、それは「仲が良い」と表現するのが正しいのか、ふと疑問を抱いてしまう。


「喜んでなんてないですからね!?」

「僕に言われても。そう言ってるのはあっちの二人ですよ」

「いーえっ! 葵さんにも言っておかないと、またからかってきそうですもん!」

「言われたところで、からかうことには変わりないですよ?」

「なんでですかっ」


 慌てたように訂正してくるアイリスだったが、残念ながら、そう言われたところで自分の態度は変わらないだろう。全ては、からかった時のアイリスの反応が面白くて可愛いのが悪い。


「楽しそうだよね?」

「楽しそうだね」


 結局何も変わらないであろう会話の横で碧依と莉花が漏らした感想は、やはり面と向かって受け止めるにはやや恥ずかしいものだった。


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