79. スターチス (2)
最低限の着替えだけを持ってアイリスの家に足を踏み入れた、そのすぐ後のこと。とにかくまずは温まってこいと言わんばかりに、浴室へと押し込められた。
当然、押し込められる前にアーロンとレティシアにも自分の姿を見られてしまった。事情を何も知らないはずなのに、それでも心配そうに声をかけてくれたのがありがたくて、そして申し訳なかった。
「……」
乳白色の水面が揺らめくのを、ただじっと見つめ続ける。
一体どれほどの時間をそうして過ごしたのだろうか。時計がないこの空間では、具体的な時間を知ることはできない。
けれども、まだ頭が茹っていない辺り、思ったよりは短い時間なのかもしれなかった。
「……はぁ」
思わず漏らしたため息が、水面に波紋を残して空気へと溶けていく。しばらく黙って見ているうちにその波紋も消え、再び微かに揺らめく水面へと戻っていった。
(みっともないところを……)
周囲に誰もいなくなると、途端に先程の出来事が頭に浮かぶ。それと同時に、平手打ちされた頬の痛みも、思い出したかのように強くなり始める。
お湯から手を出して、その頬にそっと触れる。それだけでは何も分からなかったが、少し前に鏡で見た頬は、いつもよりもはっきりと赤かった。
「……」
お湯の中に手を沈めながら、これからどう振る舞うべきか考える。あれだけ動揺し、そして怯えた姿を見られた後で、どんな顔をしてアイリスと向き合えばいいのだろうか。いくら自分の中の経験を探ってみても、どこにも答えは見つからない。
他に、太一や柚子にも同じ姿を見られた。事態の収拾を押し付けてしまった。今後のことまで迷惑をかけてしまった。合わせる顔がないとは、まさにこのことだ。
「……はぁ」
抑えきれないため息が再度漏れる。どうせ抑えきれないのなら、答えの出ない悩みも一緒に吐き出してしまえたら、どれだけ楽だっただろう。そんなことを考えている時点で、吐き出すことはできていないのだが。
とはいえ、それだけのことを考えられる程度には回復してきたとも言える。店を出たばかりの頃では、こんな悩みは頭の片隅を掠めることすらなかったはずだ。
(出ますか……)
どれだけの時間が経ったのかは相変わらず分からないが、あまり長いこと入っているのもよくないだろう。先程までのアイリスの様子では、下手をするとすぐそこまで様子を見に来る可能性すらある。
最後にもう一度シャワーを浴びて、浴室を出る。
「……寒い……」
浴室の暖まった空気から一転、洗面所の空気は冷えきっていた。もう十二月も終わろうとしているこの時期なのだから当然のことなのだが、今日は一段とその寒さが身に沁みるような気がする。
そんな寒さから逃れるように、手早く着替えまでを済ませる。いつもならこのタイミングで髪を乾かしているが、今いるのは自分の家ではなくアイリスの家。ドライヤーがあることくらいは見れば分かるが、そこへ手を伸ばすことはできなかった。
単純に、回復したと言っても、そこまでの気力は回復していないだけなのかもしれないが。
結局、髪に湿り気を残したまま、洗面所を出た。向かう先は、三人が待ち構えているであろうリビング。気まずいことこの上なかったが、他に行くべきところもない。覚悟を決めて、その扉を開く。
途端に、三人全員の目がこちらを向いた。
「……上がり、ました」
その状況に若干気圧されつつも、何とか一言告げる。浴室で一人だった時は案外回復しているのではないかとも思ったが、こうして自分以外の人間がいる場では、とてもではないが普段通りに振る舞える自信はなかった。
「ちゃんとあったまりま……、髪の毛が全然乾いてないじゃないですか!」
言いかけた言葉を途中で方向転換するアイリス。言い直した方はやや勢いが強かったが、それでも怒っているようには感じられない。むしろ、伝わってくるのは心配の感情だけ。
「ドライヤー、使っていいのか分からなくて……」
少しだけ嘘を含んだ言葉を返す。伝わってきた感情をそのまま宿す瞳を正面から見ることができず、思わずそっと目を逸らしながら口にしてしまった言葉だった。
「いいに決まってます。そういうところで遠慮しなくていいんですよ」
「……すみません」
「あ、いや、謝ってほしかったわけじゃなくて……」
何を慌てているのか、アイリスがどこかおろおろとした様子で小さく手を振る。
「もう……。ちょっとだけ待っててくださいね」
そうかと思えば、座っていたソファから立ち上がり、自分の横をすり抜けて廊下へと消えていってしまった。
その行動を理解することができず、ついその場で立ち尽くす。透かして見ることができる訳でもないのに、閉じられたリビングの扉をじっと見つめることしかできない。
「座ったら?」
「え……?」
「こっち。ずっと立ってるわけにもいかないでしょ?」
そうしていると、アイリスと同じくソファに腰かけていたレティシアから、そんな声をかけられた。いきなり他人を家に泊めることになったというのに、その表情はとても穏やかなもので。
だからこそ、その言葉に甘えていいのか考えてしまう。
「でも……」
「お待たせし……うわぁ!?」
意味のない返事をしそうになったところで、今しがたリビングを出ていったばかりのアイリスが戻ってきた。まさか自分がまだ扉の前にいるとは考えていなかったのか、そんな驚きの声が聞こえてくる。
「まだ座ってなかったんですか……。ほら、こっちに来てください」
レティシアの穏やかな誘いとは対照的に、アイリスの行動には有無を言わせないものがあった。自分の手を取り、そのままソファの方へと歩いていく。当然、自分は立ち止まったままという選択肢は、選ぶことができなかった。
「はい。座ってください」
「……」
「遠慮しなくていいって言いました」
力強く言いきられ、抵抗など無駄だと思い知らされる。今の自分がアイリスに勝てるはずがないのだから、考えることに意味はない。
ただただその言葉に従って、先程までアイリスが座っていた場所に腰を下ろす。
「アイリスの言葉には素直なんだね」
「ここは任せた方がよさそうね」
その様子を黙って見ていたアーロンとレティシアがそっと呟く。そこに負の感情は感じられず、ただひたすら自分のことを考えてくれているのが伝わってきた。
「頭、こっちに近付けてください。私が乾かしてあげますから」
「いや……、それは……」
二人の態度をありがたく思っていると、いきなりアイリスがそんなことを言い出した。見れば、その手にはドライヤーが握られている。リビングを出ていったのは、これを取りに行くためだったのだろう。
「流石に……」
申し訳なさと恥ずかしさが混ざり合ったような感情が押し寄せる。いかに今の自分が見ていて危なっかしい様子であろうとも、そこまでいくと過保護とも呼べる域に達しているような気がしないでもない。
「だめです。今の葵さんには、何にも任せられません」
「……」
だと言うのに、アイリスには譲る気が一切見られない。そして、言っていることは自分でもよく分かっていることなので、何も反論することができなかった。
「……普段お世話になりっぱなしなんですから、こういう時は返させてください」
最後の一押しは、そんな言葉。今までの強気な雰囲気ではなく、そっと頼み込むような一言。そう言われてしまっては、受け入れる以外の答えはない。
「……お願いします」
「はい。任せてください」
そう言って、柔らかな笑みを浮かべるアイリス。その顔を見ていると、少しだけ心の中の霧が晴れたような、そんな気がした。
「ちゃんと乾かさないと、風邪を引いちゃいますからね?」
目の前に立ってドライヤーを動かしながら、アイリスが言う。温風が耳の傍を通り抜けていく中でも、その声ははっきりと聞こえた。
「そんなことくらい、葵さんは分かってると思いますけど」
どんな表情をしているのかまでは分からない。アイリスが髪に触れやすいよう、やや俯き気味になっているからだ。
そうこうしている間にも、優しい手付きで髪の湿り気が取り除かれていく。
「はい。もう大丈夫ですよ」
どれくらいの時間、アイリスの手が行ったり来たりしていただろうか。そんな一言と共にドライヤーの音が消え、元の静かなリビングが戻ってきた。
「……ありがとう、ございます」
俯いたまま、そう呟く。こんな静かな場所だからこそ、辛うじてアイリスに届くであろう声。全てを任せきりにしてしまったのに、まともに感謝の言葉を伝えることもできなかった。
やはり、まだ気持ちは完全に落ち着いてはいないらしい。自分のことのはずなのに、それすらも把握できていない。
「ドライヤーを戻してきますから、そのまま待っててくださいね」
それでもアイリスは気を悪くするようなこともなく、何でもないようにそう言って再びリビングを出ていった。
「……」
「……」
「……」
三人分の沈黙が、リビングに染み込んでいく。アーロンもレティシアも、何を話せばいいのか分からなくなっているのだろう。
そうこうしているうちに、洗面所からアイリスが帰ってくる音がした。
「隣、いいですか?」
「……はい」
「じゃあ、失礼して……」
自身の家なのに、わざわざ確認を取ってから隣に腰を下ろす。普段であれば滅多に見ないような光景だった。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が四人分に増える。
耳が痛くなる程の静寂の中、三人は何を考えているのだろうか。あの場に居合わせたアイリスは元より、ほとんど状況を説明してもらっていないらしいアーロンとレティシアも、何を話せばいいか分からないにしても、聞きたいことは山のようにあるはずだ。
それなのに、誰も何も言い出さない。きっと気を遣ってくれているのだろうが、今はむしろその沈黙が苦しかった。
「……何か」
「え?」
「何か、聞きたいことがあるんじゃないですか?」
だからこそ、自分から切り出した。まともに話せるかどうかなど、自分でも分からない。けれども、こうなってしまった以上、アイリス達が望むのなら全てを話してしまうつもりだった。
「……聞いてもいいんですか?」
「ここで気を遣われて何も聞かれない方が、僕にとっては苦しいですから」
恐る恐るといった様子でアイリスが尋ね返してくる。先程までであれば、その瞳を見つめることはできなかっただろう。
だが、ある程度の覚悟を決めた今であれば、不思議と真っ直ぐ見つめ返すことができた。
「……」
いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったのか、少しだけ考え込む気配を見せるアイリス。山ほどあるはずの聞きたいことの中から、どれを最初に聞くべきか悩んでいるに違いない。
「それじゃあ……」
「はい」
「あの、女の人は……?」
「女の人?」
アイリスが口にした言葉に、レティシアが反応する。そこから疑問に思う辺り、本当に何も説明されていないらしい。
それなのにこうして受け入れてくれたことには、感謝の念しかない。
「ごめんね。僕達は詳しい話を何も聞かされてないから」
レティシアの言葉を引き継いだのはアーロン。その目は、自分ではなくアイリスの方を向いていた。
「だって、そんなに色々話す暇なんてなかったし……」
「まぁ、あんな葵君を見たら、そうなるのも分かるけど」
「……すみません」
アーロンにそんなつもりはないのだろうが、思わず謝罪の言葉が口から漏れてしまった。あの出来事があってから、こんな言葉ばかりを口にしているような気がする。
「謝らなくていいよ。こっちこそ悪かったね。そんなつもりで言ったんじゃなかったんだ」
「葵君にとっては話しにくいことなのかもしれないけど、まずは何があったのか、私達にも説明してもらえる?」
「そっか……。それを知らないと、私が何を言ってるのか分からないもんね」
「えぇ、そういうこと」
口を挟むタイミングも見当たらないまま、親子の間で話が進んでいく。
「私がお話ししても大丈夫ですか?」
そうかと思えば、そんな風にアイリスから話を振られる。と言っても、ただの確認のようなものだが。
「……お願いします」
ただただ怯え、震えていただけの自分などよりも、アイリスの方がよっぽどあの時の状況を把握しているだろう。ならば、説明するのもアイリスの方がいい。僅かな時間でそう考え、そして首肯する。
「えっと、そしたら……」
頷きを受けたアイリスが、視線を宙へと向ける。あの時のことを思い出しながら、何をどう話すか考えているらしい。
「八時くらい、だったと思うんだけど。お店に女の人が来てね? 多分、お母さんと同じくらいの歳の人」
「それがさっき言ってた女の人ね?」
「うん。で、その時葵さんはカウンターの前にいたんだけど、その女の人がいきなり葵さんのことを殴ったの」
「は?」
「え?」
あまりにも急過ぎる話の展開に、アーロンとレティシアの驚きが重なる。アイリスに向けられていた四つの瞳が、あっという間に自分を向いた。
「大丈夫かい?」
「まだ少し痛みますけど、多少は楽になりました」
頬に触れながら答える。そして、頬に触れていたからこそ、今の自分がどんな表情を浮かべているのか知ることができた。
その表情は、苦笑いだった。
「腫れがひどいようなら、無理せずちゃんと言ってね?」
「……ありがとうございます」
心配そうに言うレティシアに、軽く頭を下げる。最近の自分は、本当に周囲の大人に恵まれている。
「話の腰を折って悪かったね。それで、続きは?」
「その後は……。葵さんがそのまま座り込んじゃって。私も慌てて肩を抱き起したんだけど、全然反応してくれなくて……」
その時のことは、自分でもよく覚えていない。確かに、誰かに支えられていたような気がしたが、あれはどうやらアイリスだったらしい。
「そうこうしてるうちに太一さんと柚子さんも来てくれて、でも、その女の人が今度はひどいことを言い始めて」
「ひどいこと?」
「その……」
レティシアに聞き返されて、ちらりとこちらに目を向けるアイリス。言葉の歯切れが悪くなった辺り、その時に言われた言葉を繰り返してもいいのか悩んでいるのだろう。
「……」
少し前までの自分なら、首を横に振っていたのかもしれない。だが、もうその言葉から逃げることは許されない。そもそも、こんな状態の自分を受け入れてくれた二人には、全てを知る権利がある。
だからこそ、その先を促すように首を縦に振る。
「……その、葵さんのご両親と、葵さんが……」
それでもまだ抵抗があるのか、依然として言葉の歯切れは悪い。
「女の人の子供を、殺したって……」
「あ……」
「……」
そこまで言われて、アーロンとレティシアは何かに気付いたようだった。夏休みのあの日、その話題を振ってきた二人のことだ。件の女性の正体について、思い当たる節があって当然だった。
「そうか。その女の人っていうのは」
「そうね……。きっとそういうことね……」
「え? 何か知ってるの?」
今度はアイリスが驚く番だった。その場にいた自身ですらその正体が分からないのに、聞いているだけのアーロンとレティシアが答えに辿り着くなど、一切考えていなかったに違いない。
裏を返せば、アイリスはその話題について何も知らないことになる。
「……」
今度はアーロンから目を向けられる。他人に何かを求める時の仕草が同じである。そこに、二人の親子関係を見たような気がした。
「大丈夫です」
こんな形でアイリスに知られることになるとは思いもしなかったが、この期に及んでアイリスだけを蚊帳の外に置いておくことなど、できるはずがない。
「アイリスが覚えているかは分からないけど」
自分の肯定の言葉を受けて、アーロンが話し出す。これまで何度かアイリスがその話に近付く度に、半ば強引に遠ざけていた、とある話。
「うん?」
「今から九年前、この辺りで子供が何人も誘拐された事件があったことは覚えているかい?」
「誘拐……?」
「あぁ。この辺りって言っても、県内でって意味だけど」
「んー……?」
その確認に首を捻るアイリス。記憶を辿ってはいるようだが、まだ答えには辿り着いていないようだった。
「葵さんは覚えてます?」
そして、まさかの質問。気付いていないからこその一言だった。
「……覚えてますよ」
忘れることなど、許されるはずもない。あの事件が世間的な解決を迎えた時から、片時も忘れたことはない。
当然と言えば当然の答えだが、果たして震えずに言うことができただろうか。正直、あまり自信はない。
「九年前……。私が小学生の時……?」
「毎日学校まで車で送っていって、帰りは家が近い子達と集団で帰ってきてた時期があっただろう?」
「あぁ! あった!」
「その時のことだよ」
アーロンの言葉で、アイリスもようやく答えに辿り着いたらしい。こんな場にそぐわない程に大きく響いたその声は、か細い糸を手繰り寄せることに成功した喜びが含まれているように聞こえた。
「で、その事件が最後にどうなったかは思い出せるかい?」
「どうなったか……? えと……」
アイリスが再び記憶の海に沈んでいく。ただし、今回は手掛かりが豊富にある。欲しい記憶を呼び起こすのに、そこまで時間はかからないだろう。
「……火事とか、あった?」
案の定、あっという間に正解に辿り着いた。自信がなさそうな口振りだったが、しっかりと思い出せている。
「そうだね。誘拐事件は九年前から一年かけて六人が誘拐されて、そして七年前に火事で全員亡くなった」
「あったね、そんなこと。でも、それが今の話と何の関係が……」
「その時、事件を起こした犯人夫婦も一緒に亡くなったんだけど」
「うん……? うん」
「その夫婦の名前が、湊橋也と湊七実」
「……え」
思い出したはいいものの、それが何を示しているのかまでは理解できていなかったアイリスの動きが止まる。
名前を聞いて、すぐに結び付いたのだろう。やはり、自分などよりもずっと聡明だ。
「……葵君のご両親だ」
「……!?」
言い逃れのできない、決定的な一言。そんな言葉に、アイリスの顔が勢いよくこちらを向く。覚悟を決めたはずなのに、それをしっかりと受け止めることはできなかった。
微かに揺れる視界の端に、信じられないものを見るような瑠璃色が映ったからだ。
「……」
少しだけ呼吸が浅くなる。
そんな風に見られることなど、今に始まったことではないはずなのに。もう慣れたはずなのに。そうして離れていった者など、数えきれない程いるはずなのに。
今またこうして見つめられることに、薄ら寒い恐怖を抱く。そんな感情を誤魔化すように、震える左手を強く握り締める。
それでも、震えは強くなるばかりだった。
「あ、葵、さん……?」
その手に気付いたのか、アイリスが右手を伸ばしかける。だが、その手が重なることはなかった。何かを躊躇うように胸元に引き戻された右手は、行き場をなくしてただただ宙を漂っている。
「その火事でただ一人生き残ったのが、葵君、だったね?」
「……えぇ」
話の締めくくりの確認に、力なく頷く。確かに、自分があの火事の唯一の生き残りだった。アーロンとレティシアには以前話し、そして今日、アイリスにも伝わったことで、誤魔化す意味はもうなくなってしまっていた。
「きっと」
そうして話し終えたアーロンに続いて、今度はレティシアが口を開く。過去を話していたアーロンから、現在を話すレティシアへ。
「今日お店に来た女の人は、その火事で亡くなった、誘拐された子供のお母さんだったんでしょうね」
「あ……」
小さく、アイリスの声が漏れる。顔が再びアーロンとレティシアの方を向く気配があった。
「葵君がその事件に関わっていたのかは分からないけど、そのお母さんからしたら、やり場のない感情をぶつけられる、最後の一人ってことになるわね」
「……」
穏やかなのに人をからかうのが好きという、普段のレティシアの雰囲気は鳴りを潜め、やや伏し目がちにそう述べる。あくまでも推測の域を出ない発言だったが、自分としても概ね賛成といった言葉だった。
「だから……、謝って……」
「そう、ですね……」
何とか絞り出した一言。そこに込められた感情は、発した自分でも理解できなかった。
「……」
何かを考えるように黙り込むアイリス。相変わらず顔を見ることはできないが、その目は何を映しているのだろうか。
「大体、今の話で合ってたかな?」
現在の話も終わり、誰も彼もが黙り込んでしまったタイミングで、アーロンがそう口にする。これまで話してきたことは自身が見聞きしたことが中心で、実際のことは当事者に確認した方がいいという判断だろう。
「……」
「葵君?」
だというのに、自分から何の言葉も返ってこないことに、アーロンが不思議そうな声を上げる。そんな呼びかけを聞いても、頭の中では別のことを考え続ける。
これまでであれば、その言葉には肯定を返したはずだ。事実、夏休みの時にはそう言った。
だが、全てを話すと決めた今、返せるのは大部分を否定する言葉だった。
「……合ってるのは、二割くらいです」
「え?」
その一言に、大まかな説明をしていたアーロンの声が困惑に染まる。声こそ出なかったものの、アイリスやレティシアも同じように驚いてはいるようだった。
「二割……?」
「……」
こくりと。声すら発することなく、ただ小さく頷くだけ。その仕草で、何が伝わる訳でもないが。
「合ってたのは、両親の名前と僕だけが火事で助かったこと、今日来たあの人が遺族だったこと。この三つだけです」
「それだけ?」
「はい」
信じられないとでも言うように聞き返される。過去に一度は肯定されているのに、今回は自身の中での真実を否定されたその気持ちは、本人以外には分からない。
「……どこがどんな風に間違ってたのかな?」
尋ねてしまってもいいのかという感情が見え隠れする声音で、話の一歩目とも言えるような、そんな問いが投げかけられる。
「……」
それを受けて、三人の間違った認識を訂正しようと口を開く。だが、そこから音が出ることはない。
いざ話すとなると、決めたはずの覚悟が再び揺らいでしまって、何度もその仕草を繰り返すだけ。
「……」
やがてはそんな仕草も止まってしまう。この期に及んで、まだ何も話せない自分の臆病さが嫌になってしまいそうだった。
「……っ」
自分のものよりも一回りも小さくて、それでも何よりも大きな手が左手に重ねられたのは、そんな時だった。
思いがけない感覚に、弾かれるように顔を上げる。
「……」
しっかりと自分を見つめるアイリスと目が合った。行き場をなくして宙を彷徨っていたはずの右手は、今やその熱で自分の左手を温めてくれている。
これまで幾度となく見てきた瑠璃色の瞳には、これまでで一番強い光が宿っていた。
「……はぁ……」
その視線を受けて、心の中に溜まったものを息に乗せて吐き出す。不思議と、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「……あの事件で亡くなった子供達の名前、どこでも報道はされませんでしたよね」
「あぁ。確か聞いたことはないはずだよ」
ようやく切り出した言葉に、アーロンがそう返してくれる。その答えは分かっていたが、あくまで確認のためだ。
「あの時誘拐されて亡くなったのは、赤崎俊弘、小山橙花、黄島亮太、水鳥咲、佐々木藍、長野紫の六人です」
忘れるはずがない六人の名前。それを、決意が鈍らないうちに言いきってしまう。ここまで来れば、もう後戻りはできない。
「六人……」
「何か、書くものはありませんか? その方が説明しやすいので……」
聞いている三人からすれば、恐らく何を言っているのか分からないだろう。けれども、こればかりはそうしないと説明がしにくいことなのだった。
「これでいい?」
「ありがとうございます」
近くにあったメモ用紙とボールペンをレティシアから受け取る。六人分の名前を書き記すには、十分過ぎる大きさのメモ用紙だった。
「……」
左手はアイリスに握られたまま、右手だけで名前を順に書き記していく。
たった六人分の名前。全員分を書き終えるのに、それほど時間はかからなかった。
「これがその六人です」
言いながら、三人に見えるようにメモ用紙を差し出す。テーブルの中央に鎮座するように置かれたそれを、三人がじっと覗き込む。
「何か、気付くことはありませんか?」
「気付くこと……?」
アーロンが怪訝そうな表情を浮かべて、食い入るようにメモ用紙を眺める。
アイリスとレティシアも同じようにする中、少しの間だけ静寂が広がる。やがて声を発したのは、ずっと手を握ってくれているアイリスだった。
「……色」
「色?」
たった二文字のその言葉に、レティシアが不思議そうな声を漏らす。
「全員、名前に色が入ってる」
「あ……」
その二言目でレティシアも何を言いたいのか理解したらしく、不思議そうな声は納得の声に変わり、再度メモ用紙に視線が向けられた。
「合ってますか?」
「そうですね。まさにそれです」
言いたかったことは、アイリスが口にしたことそのもの。音だけ聞いていても絶対に気付けない、ほとんど言葉遊びのような事実だった。
「まぁ、緑だけは水の鳥と書いて『みどり』なんですけどね」
「全員名前に色が入っているのは分かったけど、それがどうかしたのかい?」
一つの共通点は見つかったものの、アーロンの中で次の疑問が浮かぶ。まだ説明の途中なので、その疑問も仕方のないことなのかもしれないが。
「誘拐した側。僕の両親の名前は、漢字まで覚えてますか?」
「漢字? 確か、歩道橋の『橋』に、池の右側半分で『也』。それに、漢数字の『七』に、実験の『実』、だったと思うけど……」
「そうです。だから、誘拐されたのはあの子達だったんです」
思い出すように口にしたアーロンの答えに頷く。そして、さらに核心に迫る一言を告げる。
「だから……?」
「虹……」
またも首を傾げるアーロンに代わって答えに辿り着いたのは、これまたアイリス。六人の名前を見ていた時から気付いていたかのような、そんな早さだった。
「ただの色じゃなくて、全員虹の色なんですね」
「そうです。あの二人は、自分達の名前から連想して、誘拐する子供を決めていたんですよ」
七色。そして橋。そんな子供じみた発想で誘拐を行っていたと、一体この世の誰が考えるだろうか。それもまた、あの二人の狂気の一部だった。
「そんな……」
初めて明かされた事実に、レティシアの口から小さく驚愕の声が漏れる。ともすれば自身の娘も危なかったと、そんな事実に気付いたのかもしれない。
「でも、虹なのに青がないんですか? それとも、計画はしてたけど、その前に火事で……?」
そんなレティシアの様子に気付くこともなく、ひたすらにメモ用紙を眺めていたアイリスが顔を上げる。口にした疑問は、少しの時間があれば、この場の誰もが考えたことだろう。
けれども、どれだけ考えたところで、その答えには誰も辿り着けない。
「いえ。きちんと青も揃ってました」
「え?」
まさかの返事に、きょとんとした表情のアイリス。その目をしっかりと見つめて、これまで誰にも話したことがなかった事実を告げる。
「湊葵。僕が、最初に誘拐された子供です」




