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78. スターチス (1)

「お客さん、ほんとにひっきりなしに来ますね」

「そういう日ですから。今年はアイリスさんがいる分、去年よりは楽です」


 十二月二十四日、日曜日。ケーキを取り扱う店が、一年で最も忙しいとも言える日。今年は日曜日に被ったこともあり、日中から客足は途切れることがない。


「でも、何で二十四日を『クリスマスイブ』なんて言うんですかね? クリスマスの夕方は二十五日じゃないんですか?」


 話しながらも手を動かし続けていたアイリスが、そんな疑問を口にする。当たり前のように英語を話すことができるアイリスならではの疑問だった。


「そういえば、柚子さんが何か言ってましたね。ユダヤ暦がどうのこうのって」


 同じように手を止めることなく、記憶を掘り起こして言葉を返す。九割以上を思い出せていない辺り、掘り起こすと言ってもいいのかは、甚だ疑問ではあったが。


「ご予約の品です」

「はーい」

「ありがとうございました!」


 カウンターで待っていた客にラッピングした箱を渡し終えたアイリスが、そのまま次の作業に取り掛かるべく戻ってくる。


 いつもよりも早足気味なところから察するに、内心では多少の焦りを抱えているのだろう。何かトラブルが発生しないよう、いつも以上に気にかけておく必要がありそうだった。


「柚子さんが何か言ってたんですか?」


 戻ってきてすぐに次の箱を組み立てながら、アイリスが途切れていた話を再開させる。だが、次は自分の作業が終わってしまった。


 店員同士の会話で客を待たせることなどできるはずもなく、再び会話を断ち切って接客へと向かう。


「お待たせしました」

「……」

「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」


 無言で頭を下げて商品を受け取った相手を、いつもの決まりきった言葉で見送る。去年のこの日もそうだったが、絶えず同じ言葉を繰り返し続けているせいで、自分の中にそんなプログラミングが施されているのではないかと錯覚してしまいそうだった。


「で、クリスマスイブの話でしたっけ?」


 作業台を布巾で拭きつつ、今度こそ会話を再開させる。


「です。柚子さんがどうこうって」

「あぁ。確かそんな話を聞いたはずなんですけど、もうほとんど覚えてないんですよね」

「葵さん、そういう細かいことも覚えてそうなのに、ちょっと珍しいですね」


 そう言って驚きはしつつも、作業自体は丁寧に進めているのが見て取れる。慣れた作業でも手を抜かないその様子は、随分と頼もしさを感じさせるものだった。


「その時は覚えてたはずなんですけど、結局僕には関係がない話ですから」


 どうせ一人で過ごすのなら、クリスマスイブが二十四日だろうが二十五日だろうが関係ない。そんなことを考えてしまって、記憶の片隅にも残らなかったのかもしれない。


「あと、どっちにしろ二十四日は目が回るくらい忙しいって言われてたので、気にしてる場合じゃなかったってこともあります」

「うわぁ……」


 今の人数を一人で接客することでも考えたのか、アイリスの手が一瞬だけ止まった。心なしか、表情が泣きそうなものに変わっているようにも見える。


「たまに柚子さんが手伝ってくれましたけど、それでも気付いたら夜になってました」

「うわぁ……!」


 今度は一瞬どころではなく手が止まった。


「先に葵さんが働いててよかったです……!」

「是非アイリスさんにも味わってほしいんですけどね。いつの間にか外が暗くなってる現象」

「嫌です……! 絶対に葵さんも道連れにします……!」


 言い方も目も、どちらも本気にしか見えなかった。その目を見ていると、怨念よろしくその状況に引きずり込まれそうに感じてしまうのだから、これ程恐ろしいものもない。


「お待たせしました!」


 そんなタイミングで、次の客へとアイリスが商品を届けにいく。口調も目も、すっかり元通りに戻ったアイリスから箱を受け取った客が、嬉しそうに顔を綻ばせる。


「道連れ、頑張ってね」

「はいっ。来年も二人で接客しますから、その時も来てくださいね!」

「……」


 何度か聞いたことがある声だと思っていたが、案の定常連客の一人だった。そうでもなければ、アイリスにそんな一言をかけて去っていったりはしない。


 ある意味来年の分の勧誘を済ませた優秀な店員とも言えるアイリスが、随分と軽快な足取りで目の前までやって来た。


「逃がしませんから」

「怖いんですよ」


 嬉しくない方に目の色を戻し、妙に冷えきった声で一言呟く。文化祭で作ったお化け屋敷など相手にならない、本物の恐怖がそこにはあった。


「冗談ですよ、冗談」

「それにしては迫真過ぎましたけど」


 ぱっと元の雰囲気が帰ってきたが、残念ながら、あの言葉はしばらく忘れられそうにない。何なら、何度か夢に出てきそうな勢いだった。


「演技派ですから」

「文化祭の時の泣く演技も上手かったですもんね」

「あれは本気です。あれはあれで絶対に許しませんもん」

「……」


 完全に墓穴を掘ってしまった。忙しさにかまけて、どこか頭の中で油断していたのかもしれない。


「どうやって恨みを晴らしましょうか……」

「……お手柔らかにお願いします」

「それは私の気持ち次第ですね」


 こんな日に似合わない会話を繰り広げながら、何とか店内の客を捌いていく。


「……」


 ふと窓の外に目を向ければ、そこには徐々に色を濃くしていく夕方の空が広がっている。今年は、そんな景色の変化に気付ける程度の余裕は持つことができていた。




「やっと落ち着きましたぁ……!」

「あとは消化試合ですね」


 店内に人がいなくなったのを確認してから、アイリスが凝り固まった体を解すように盛大に伸びをする。伸ばした腕に釣られたのか、何故か少しだけ爪先立ちになっている。


 現在の時刻は午後八時前。七時を過ぎた辺りから客の数は減り始め、この時間になってようやく休憩らしい休憩を取ることができていた。


「あとは予約の人が何人かいるだけですもんね」

「えぇ。たまに予約なしの人も来ますけど、この時間になってしまえば、そこまで多くはないですから」

「ほんとに忙しかったですね……」


 しみじみと呟くアイリス。まだ時間は残っているが、そう言いたくなる気持ちも十分理解できる。


 今年はずっと二人態勢を維持していたが、それでも接客はひっきりなしだったので、いつもの数倍は疲れていてもおかしくない。そんな疲れを吐き出すように呟くことを、一体誰が咎められようか。


「カフェスペース、閉じておいて正解でしたね」

「あの状況でそっちの対応までするなんて、絶対に無理ですからね」


 アイリスが目を向けた先。いつもなら開放されているはずのカフェスペースは、今日に限っては終日閉鎖されていた。理由は言わずもがな、人手が足りないからである。


「正直、そのことを聞いた時はもったいないって思いましたけど……」

「言いたいことは分かります。でも、無理なんですよね」


 その言葉を重ねて繰り返す。何度でも口にしてしまうほど、今日という日は人手が足りない。


「もし開けてたらと思うと……! ぞっとします……!」

「去年もそうでしたけど、太一さんと柚子さんの英断に感謝です」


 従業員のことを考えてくれる、とてもいい経営者である。あとは、ウェイトレス服を着せるのをやめてくれるのならば、何も言うことはない。


「まぁ、とにかくあとは穏やかに終わるはずですから」

「やっぱり穏やかなのが一番ですね」


 普段の言動があまり穏やかではないアイリスが言うと、途端に説得力がなくなる言葉ではあったが、その意見には概ね同意だ。加えて言えば、いつも以上に忙しかったこともあり、余計な突っ込みを入れてさらに疲れてしまうのは避けたい。


「二人共? 休憩はどうする?」


 バックヤードに繋がる扉を開いて柚子が声をかけてきたのは、そんなやや失礼なことを考えているタイミングだった。


「僕はこのままで大丈夫です。どうせあと少しですし」

「あ、それなら私もこのままで」

「そう? 無理とかはしてない?」

「柚子さん達こそ、僕達よりも前から休みなしじゃないですか」

「私達のことは気にしなくていいですから」

「あら優しい。それじゃあ、お言葉に甘えて裏にいるから、何かあったら呼んでね」

「分かりました」

「任せてくださいっ」


 アイリスが言いきったのを満足そうに確認してから、扉は静かに閉まっていった。


「この忙しさでずっとケーキを作り続けるのも、それはそれでぞっとしますね」

「そこは僕達じゃ手伝えないですからね」


 その扉を見ながら、アイリスがぽつりと呟く。自らがそちらを担当する想像でもしたのか、その顔は微かにだが青ざめているように見える。


 もし自分達に余裕があれば手伝いたいという気持ちはあるのだが、いかんせん技術的な部分が多分に含まれる仕事だ。とてもではないが、気軽に手を出していい分野ではない。それ以前に、衛生的な面でも問題があるのだろう。


「それにしても、こう言うとあれですけど、このお店ってそんなに大きなお店じゃないのに、あんなにたくさんお客さんが来るんですね」


 バックヤードにいる太一と柚子に聞こえないようにしているのか、そう話すアイリスの声は若干小さくなっていた。口元に手を当て、まるで内緒話でもするかのようである。


「クリスマスイブってことは当然ありますし、そもそも結構な人気店ですからね」

「そうなんですか?」

「アイリスさんはあんまりそういうことを意識しないかもしれないですけど、飲食店って、長い間続けるのが難しいらしいですよ」

「ってことは、結構長く続いてるこのお店は……」

「地域密着型で大成功ってことですね」

「はぁー……」


 感心したように息を吐き出すアイリス。自身が働いている店がまさかそこまでの人気店だったとは、考えたこともなかったようだった。


「そうなると、追加でバイトを雇ったり、なんてこともあるんですかね?」

「それは二人に聞いてみないと分かりませんね。でも、絶対にないとは言いきれないと思いますよ」

「ふーん……」


 壁の向こうの太一と柚子を見透かそうとでもしているのか、アイリスが壁へと目を向ける。果たして、心の中では何を考えているのか。その横顔からは推し量ることはできなかった。


「それじゃあ、僕はショーケースでも綺麗にしてきますね」


 このまま横顔を眺めていたところで、何か話が進展する訳でもない。ちょっとした休憩と呼べる程度には休めたので、そろそろ仕事に戻ろうと、そんな風に切り出す。


「あ、はい」


 壁を見つめ続けていたアイリスも、その一言で我に返ったようだった。その姿を横目に見ながら、カウンターから出てショーケースの表側へと移動する。


 毎日綺麗に磨かれているはずのショーケースも、この時間ともなればやや曇りが目立つようになる。小さな子供も含め、様々な人が表面を触るのだから、こればかりは避けようがない。


 まずは目立った汚れから。そう考えてしゃがみ込む。


 カウンターから持ってきた布巾で汚れを拭き取っていけば、たちまち元の輝きを取り戻す。もう中に残っている商品はかなり少なくなったが、それでも綺麗なショーケースの中に並んでいるケーキは、未だにどれも魅力的な空気を放っていた。


「あ」


 そうして大まかに拭き掃除を終えた辺りで、アイリスが小さく声を漏らした。それとほぼ同時、客の出入りを示す音が鳴る。もう残り少ないであろう客の来店に、思わず声が出てしまったというところだろう。


「いらっしゃいませ!」


 振り向くより先、最初に客の姿を捉えたアイリスの声が響く。今日はかなり疲れているはずだが、それを感じさせないような明るい声だった。


 そんな声に続いて振り返る。ショーケースの前にいる以上、やって来た客に近いのは自分だ。予約している客であろうとしていない客であろうと、話しかけられるとすれば、それはやはり自分だろう。


「いらっしゃ……」


 そう思って声をかけようとしたのに、全く意図していなかったタイミングで言葉が途切れてしまう。


「あ……」


 次いで漏れたのはそんな声。驚きが頭の中を支配して、口が半開きになったまま閉じることすらできない。


「は?」


 そして、それは相手の女性も同じ。ただし、その後の反応は全く正反対だった。


 自分の心の中がひたすらに後悔と恐怖に染まっていく一方で、忘れたことなど一度もなかった相手の顔は、怒りただ一色に染まっていく。


 二つの感情に支配されて一歩も動けないままでいる中、その怒りに身を任せたかのように目の前まで迫ってきた女性が、右手を振り被った。


「……っ!」


 視界から一気に色が消えていき、全てがスローモーションのように映る。


 甲高い音が店内に鳴り響くのと、頬に鋭い痛みが走ったのは、ほとんど同時だった。


 平手打ちされた頬を押さえることすら許されず、胸を突き飛ばされて、背中からショーケースに激突する。


「ぁ……」


 擦れたような声しか出せないまま、ショーケースの表面をなぞるように、ずるずるとその場にへたり込む。


 ひらりと。


 色のない世界で、何かが目の前を落ちていく。それが自分の被っていたサンタ帽であることに気が付いたのは、隣にアイリスが駆け寄ってきた後のことだった。




「……え?」


 目の前で起こった出来事に理解が追いつかない。ようやくそんな呆けた声が出せたのは、ショーケースの向こう側に葵が座り込んでしまった後のこと。


 今視界に映っているのは、誰がどう見ても怒りで染まりきった顔だけ。たった今客として出迎えた、何の変哲もないはずだった一人の女性。


 その女性が、葵の頬を殴った挙句、胸を突き飛ばした。


「葵さん!?」


 やっと理解が追いついたその瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。


 慌ててカウンターを飛び出す。座り込んだまま動かない葵の傍へと駆け寄って、その肩を抱き起こす。


「大丈夫ですか!?」


 何よりも先に頬に目を向ける。インドア派の葵らしく、同世代の男子よりも色の白い肌。そこに、徐々に赤みが増していく。


 それを見た瞬間、一気に頭に血が上るのが自覚できた。


「いきなり何するんですか!」


 これまでの人生で、一度だって出したことがなかった鋭い声。咄嗟に口から出たのは、まさにそんな声だった。


 言い逃れのしようがない暴行を働いた相手を睨みつける。そうすることで自分も同じ目に遭う危険があることなど、頭の片隅にも浮かばなかった。


「アイリスさん?」


 叫んだ声がバックヤードにまで届いたのか、扉が開く音と一緒に、柚子の怪訝そうな声が聞こえる。


 だが、そんなことを気にしている余裕など、今の自分にあるはずもない。


「警察を呼びますよ!?」

「は?」

「え?」


 あまりにも穏やかではない叫びに、太一と柚子が困惑する声が響く。


 しかし、そんな戸惑いも一瞬だけ。状況は理解できなくとも、そのままにしておいていい雰囲気ではないことは察したらしい。


 先程自分がそうしたように、二人が揃ってカウンターの中から飛び出してきた。


「葵君……?」


 そこで初めて座り込んだ葵に気が付いた太一が、再び戸惑ったような声を漏らす。けれども、それに対して葵が何か反応を示すことはない。


「あの……? 何か……?」


 そんな葵に一度目を向けた柚子が、目の前に立っている女性にそっと話しかける。なるべく相手を刺激しないようにと配慮された、いつもよりも幾分か穏やかな声だった。


「うるさいっ!」

「……っ」


 ところが、返ってきたのはそんな怒号で。葵と自分を見下ろしながら睨みつけていた感情そのままに、周囲の全てを威嚇するかのように声を張り上げる。


 その声に、支えていた葵の肩が大きく跳ねた。そればかりか、まるで身を守ろうとするかのように腕で頭を抱え込む。一度大きく跳ねた肩は、それがきっかけだったと言わんばかりに小さく震え始める。


 これまで見たこともないような葵のそんな様子に、思わず目を向ける。腕の隙間から見える薄茶色の瞳は、涙を浮かべる余裕すらないほど、ただひたすら怯えに支配されていた。


「どうしてここにこいつがいるのよ!?」


 そんな葵の様子は知ったことではないとでも言わんばかりに、一度堰を切った女性の怒りは止まらない。言葉を選ぶ様子もなく、頭に浮かんだであろう言葉をただただ葵へと投げつける。


「私の子供は! もう何もできないってのに!」

「は?」


 意味が分からなかった。目の前で怒りの感情を撒き散らす女性の子供と、自分の腕の中で震えている葵。そこには何の関係もないようにしか思えない。


「お前と! お前の親に殺された私の子供は! もう何もできないのに!」

「……え?」


 はずなのに、その一言で再び理解を置き去りにして、事態だけが進み始める。


「黙ってないで何か言いなさいよ!」

「あ……!」


 一瞬だけ気が緩んだそのタイミングで、女性が葵の胸倉を無理矢理掴む。抵抗する様子など一切見られない葵は、まさにされるがまま。必死に顔を隠し、固く目を閉じている。


「ちょっと!」

「何してるんですか!」


 あまりの剣幕に圧倒されていた太一と柚子が、その様子を見て女性の腕を押さえ込む。それでもなお、掴んだ胸倉は解放されない。


「お前が殺したんだから! 言わなきゃいけないことがあるでしょ!」


 そう叫んで、またもショーケースに向かって葵を突き飛ばす。その体を受け止めようと咄嗟に腕を伸ばすも、手は空を切るだけ。支えるもののない葵の体は、そのまま重力に従って崩れ落ちる。


「葵さん!」

「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」


 再びその肩を抱き起こそうと近付いたところで、ようやく葵の口から意味のある言葉が漏れる。その声はひどく震えていて、怯えきった心をそのまま表しているかのようだった。


「何であの火事でお前みたいなのだけが助かって、私の子供は助からなかったのよ!」


 太一と柚子に押さえられながらも、それでも女性は叫び続ける。


 理解は追いついていなくとも、その先に続くであろう言葉だけは、絶対に葵に聞かせてはならないと直感で悟る。


「聞いちゃだめですっ!」











「お前が死ねばよかったのに!」











 僅かに間に合わなかった。葵の耳を塞ごうとした、その寸前。溜め込んでいた感情を爆発させた女性が、これまでで一番大きな叫びを響かせる。


「ぁ……」


 がたがたと震えていたはずの葵が、小さくてか細い声を漏らしたきり、その体の動きを止めた。


「あ、葵、さん……?」

「……」


 恐る恐る呼びかけてみるも、反応は一切ない。怯えに染まっていたはずの瞳は、今や虚ろなものに変わってしまっている。


 じっと床を見つめているのに、その瞳は何も映していないようにも見える。まるで魂だけが抜け落ちてしまったかのような、そんな姿だった。


「アイリスさん。ここは僕が何とかするから、葵君と一緒にバックヤードに戻っててもらえる? 柚子も手伝ってあげて」

「は、はい……!」

「えぇ」


 力なく項垂れる葵を、柚子と二人がかりでどうにか立ち上がらせる。その体は驚く程軽くて、そして小さい。


「ちょっと! どこ行く気!? 話はまだ終わって……!」

「続きは僕が聞きますから。これ以上近付かないでください」


 あれだけのことを言ったのに、それでもまだ怒りを収める気配を見せない女性が、こちらへと歩き出そうとする。その間に割って入った太一が、どうにかその動きを押さえ込もうとしていた。


「行きましょ、アイリスさん」

「はい」


 その様子が気にならないと言えば嘘になるが、今は何よりも葵のことが気がかりだった。


 店内に響き渡る甲高い叫びを聞きながらカウンターを抜け、バックヤードへと場所を移す。背後で扉が閉まった瞬間、女性の声は格段に小さくなった。


「ここでもまだ聞こえるわね。ちょっと大変だけど、二階の方がよさそう」

「……ですね」


 閉まったばかりの扉に目を向けて、柚子の意見に賛成する。全く力が入っていない葵を二階まで連れていくのは大変そうだが、あの声を少しでも遠ざけた方がいいのは誰の目にも明らかだった。


「もうちょっとだけ、頑張ってくださいね」

「……」


 そう話しかけたところで、当然返事はない。けれども、微かにその首が縦に振られたような、そんな気がした。




「……」

「……」


 普段は太一と柚子が使っているであろうソファに座ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。見渡せば時計くらいは見つかるのかもしれないが、またもや小さく震え始めた葵から目を離すことはできなかった。


 柚子が店内に戻るためにバックヤードの扉を開けた時以外、階下の騒ぎがここまで聞こえてくることはなかった。


「……葵さん」

「……」


 震えが止まらないその左手を、そっと両手で包み込む。そこに、いつか感じた熱はない。


 葵は今、どんな目をしているのか。固く閉じられたままの目は、正真正銘、何も映してはいない。


 気の利いた言葉をかけることもできず、ただ手を握って見つめることしかできない自分が、とても腹立たしかった。


「……」


 そうしていると、頭の片隅で先程の出来事が思い起こされる。もちろん意識の大半は目の前の葵に向けられているが、だからこそ気になる言葉がいくつかあった。


 それも、普段の生活ではまず聞くことがないような言葉。


(殺した……?)


 その言葉を頭の中で呟いたのと同時に、無意識に葵の手を握る力が強くなる。


(葵さんが……?)


 到底信じることができない一言だった。


 出会ってから半年と少し。短くとも密度の濃い時間の中で、葵の様々な面を見てきたつもりだった。そのどこにも、他人を物理的に傷付けるような面は見当たらない。


 もちろん、葵の全ての面を知っていると断言することはできない。もしかするとまだ見たことがないだけなのかもしれないが、それでも葵にそんな一面があるようにはとても思えなかった。


「大丈夫ですか?」


 そんな考えを振り払うように、一度声をかける。答えが返ってくるとは思っていないが、そうしていないと悪い考えが浮かんできそうな気がしたからだ。


「……アイリス、さん……」

「……っ! 葵さんっ!」


 そう思っていたのに、予想に反して返事があった。普段とは比べ物にならない程に弱々しい声だったが、それでも返事は返事だ。ずっと待っていた瞬間が、やっと訪れた。


「少しは、落ち着きました……?」

「……すみません……」

「謝らなくていいです。ここには私以外いませんから」


 小さく呟きながらうっすらと開かれた目には、僅かではあるが色が戻っている。少なくとも、意識ははっきりしていそうだった。


「今は何にも言わなくていいですから、とにかくゆっくり休んでください」


 正直なことを言えば、聞きたいことは山のようにあった。だが、それを今ぶつけたところで、葵が余計に疲弊するだけだということは分かっている。


「……でも」

「今はいいって言ってるんです」

「……はい」


 弱々しい抵抗を見せた葵を、真正面から抑えつける。少し言葉が強くなったような気もしたが、それだけはっきり言わなければ、今の葵には伝わらないだろう。


 再び黙り込んでしまった葵の目を見ながら、少しだけ身を寄せる。


 小さな身動ぎ以外、葵の反応はなかった。




「調子はどう?」

「少しは落ち着いたみたいですけど、まだ何も言わなくていいって言ってあります」

「そっか。今はその方がいいかもね」


 暖房以外の音がなかった空間に、ようやく他の音が戻ってきた。騒ぎが収まったのか、葵の様子を見るために、柚子が二階へと上がってきたのだった。


「あの……、下は……?」

「あの人ならもう帰ったわ。もう心配しなくて大丈夫」

「そうですか……」

「まだ少し商品が残ってるから、こっちに来たのは私だけだけど」


 そう言いながら、柚子が一度だけ階下に目を向ける。その言葉から察するに、太一は下で店番をしているということだろう。


「時間になったし、二人はもう上がりでいいって」

「え?」


 柚子の思わぬ一言に、時計を探して辺りを見回す。そうして見つけた時計は、午後九時過ぎを示していた。


「もうこんな時間……」

「思ったより時間が経ってたわね」


 最後に時計を見たのは、確か午後八時前。気が付けば、一時間以上も経過してしまっている。


「葵さん。着替え、大丈夫そうですか?」

「……えぇ」


 問いかけたことで、しばらく黙ったままだった葵がようやく口を開く。弱々しい声であることには変わりなかったが、込められた意図ははっきりと伝わってきた。


「お店の方はもう大丈夫だし、家まで送っていきましょうか?」

「……」


 今度は無言。それでも、首はゆっくりと横に振られている。


「でも……」

「大丈夫です。私が一緒に帰りますから」


 なおも心配そうに食い下がる柚子を遮って断言する。最初からそのつもりでいたということもあるが、何よりその後のことのためだった。


「それに、今日の葵さんは一人にしちゃだめな気がするので、私の家に泊まっていってもらうつもりです」


 その言葉に、葵の手がぴくりと反応する。何も口にはしないが、感情の薄い瞳は自分の方を向く。


「あら、そうなの?」


 これは流石に柚子にとっても意外な提案だったのか、その顔に浮かぶのは驚いたような表情。


「お父さんとお母さんにはこれから連絡しますけど、絶対に断られたりはしませんから」


 そんな柚子から目を逸らすことなく、はっきりと言いきる。もちろん、柚子に伝える意味もあるが、一番は隣の葵に伝えるためだった。


 状況を全て説明することは叶わないだろうが、それでも二人なら受け入れてくれるだろうという確信はある。そうなれば、あとは葵の気持ち次第だ。


「それでいいですよね、葵さん」

「いや……、でも……」


 相変わらず力が感じられない口調で呟く葵。先程と違って言いたいことがはっきりしなかったが、否定の意味を持っていることだけは理解できた。


「前に約束しましたよね。いつか私の家に泊まってもらうって。それを今日にします」

「……」


 何かを思い出そうとするように葵が俯く。それとも、ただ更なる否定の言葉を考えているだけなのか。


 いずれにせよ、自分は一歩も譲る気はない。当然のことながら、見るからに憔悴しきった葵を一人にするのが心配だからという理由もある。


 けれども、何よりの理由はそこではなかった。一番の理由は、このまま葵を帰してしまえば、何故かもう二度と会えなくなるような、そんな嫌な予感がしたからだ。


「とにかく、このあと葵さんの家で準備をしてから、私の家に来てもらいます。いいですね?」


 否定の言葉は聞きたくないと。そんな思いを乗せて、握った手に力を込める。


「……はい」


 その思いが伝わったのか、それとも、単に拒否し続けるだけの気力すらなくて諦めただけなのか。どちらにせよ、その一言でこれからの動きは決まった。


「それじゃあ、そろそろ着替えましょうか。私は家に連絡しないといけないので、葵さんもゆっくりで大丈夫ですから」


 こくりと。肯定の意思を表すように、小さな頷きが返ってくる。こんな時に考えることではないことくらい分かってはいるが、まるで幼子のような、そんな可愛らしい反応だった。


「そうだ。二人共」

「はい?」


 自分に手を引かれた葵がゆっくりと立ち上がるのを見てから、柚子が思い出したように切り出す。


「明日からのシフトだけど、無理して入らなくてもいいから。葵君は当然そうだけど、アイリスさんも、なるべく葵君の傍にいてあげて」

「え……、でも……」

「気にしなくていいの。元々二人でやってたお店なんだし、どうとでもできるわよ。葵君が復帰できそうになったら、その時はまた連絡して?」

「そういうことなら……」


 突然暗くなってしまった空気を吹き飛ばそうとでもいうのか、柚子の表情はいつも通りの明るいもので。あまりにも頼もし過ぎる一言に、その言葉を否定する理由が見つからなかった。


「でも、葵さんのことは……」

「大丈夫よ。私達じゃどうにもできないかもしれないけど、アイリスさんなら何とかできるわ」

「それは……。ちょっと自信ない、ですけど……」


 もちろん、最善は尽くすつもりだ。けれども、自身のことが話題に上がっているのに反応しない葵の様子を見ていると、確実にどうにかできるとは言い難い。


「それに、こんないい子をそう簡単に逃すはずがないでしょ?」

「……いつもの葵さんが聞いたら、全力で逃げ出しそうですね」

「そう?」


 惚けるように言う柚子の姿に、久しぶりに頬が緩んだような気がした。


「ま、そういうことだから。連絡、待ってるわね」

「はい。必ず」

「それでよし。じゃあ、二人共着替えてきなさいな。私はバックヤードにいるから」


 最後にそう言い残して、柚子は階下へと消えていった。


「……」

「……」


 再び沈黙が空間を支配する。ただ、先程の沈黙とは違い、今回の沈黙はほんの少しだけ空気が軽くなったような、そんな沈黙だった。


「葵さん。私も下で待ってますから。自分のペースでいいので、ゆっくり着替えてくださいね?」

「……」


 反応はまたもや小さな頷きのみ。何も返ってこなかった時よりは、ずっと意思が読み取りやすい。


 それでも、葵を一人にするのはまだ怖いものもある。あるけれども、だからと言ってこの場に残ることなどできる訳もなく。繋いでいた手をそっと解いて、階段へと歩き出す。


 階段を下り始める前に、ちらりと葵を振り返る。そこで最後に見たのは、緩慢な動きで着替えへと向かう、いつもより小さな葵の姿だった。

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