77. 冬色
「積もり過ぎじゃないですか?」
「この冬は大雪なのかもしれないですね」
十二月十五日、金曜日。外の景色が一面真っ白に染まった駅舎の中、マフラーと手袋でシルエットがもこもこし始めたアイリスが呟いた。
今身に着けているのが、以前話していたどこに片付けたか思い出せなかったマフラーと手袋だろう。どうやら無事に見つかったらしい。
色はごく薄い黄色。クリームイエローとでも言うのだろうか。菜の花色を白で希釈していったようなその色合いは、アイリスの髪の色をよく引き立たせていた。
「歩きにくいので、あんまり積もり過ぎるのは嫌なんですよねー……」
「あぁ……、滑って転んでそうですもんね」
その姿が容易に想像できる。これから先、奇妙な声を上げて尻餅をつくアイリスが見られるのかもしれない。
「なんで納得したんですか?」
対するアイリスは何か言いたげな顔。どうせそんな簡単には転ばないといったようなことを考えているのだろうが、残念ながら雪道を完璧に歩いてみせるアイリスの姿は想像できない。
「アイリスさんのイメージ通りだなって」
「転ぶイメージなんて、勝手にしないでください」
そう言って口を尖らせるアイリス。そんな表情も、今はマフラーに少し隠れて見えにくかった。
「私だって、ずっとこの町で育ってるんですから。雪には慣れてますもん」
「まぁ、それもそうですね」
アイリスの言うことも尤もである。幼い頃からこの町で育っているのなら、雪はこの時期の隣人のようなものだ。それがいいことなのかは別として、慣れてしまうのは自分も納得できる言い分だった。
「……凍ってるのはだめですけど」
「結局滑るんですか」
「あれは無理です」
そう思っていたのに、アイリス本人が気まずそうに付け加えてきた。どうやら、雪が積もっているだけなら何とかなるが、凍ってしまうと太刀打ちできなくなるらしい。
そっと目を逸らす姿は、マフラーをしていてもはっきりと捉えることができた。
「そんな風に言ってる葵さんだって、滑る時は滑りますよね?」
結局滑ると自白したことが恥ずかしかったのか、それとも単純に仲間を増やしたいだけなのか。答えをほとんど決めつけるような形で問いかけてくる。
「滑りますね。何とか転ばないようにしますけど」
「私は大体転ぶので、そこは私の勝ちですね。残念でした」
「何を言ってるんですか?」
胸を張って自慢げに言っているが、それは敗北ではないだろうか。本人がそれでいいなら、あまり深くは尋ねないが。
「それにしても……」
「ん?」
そのまま視線を窓の外に向けるアイリス。釣られて、同じ方向を見遣る。
大粒の雪が降っていた。初雪の時には雪の花とは呼べないと思った記憶があるが、今降っているのは間違いなく大輪の花。地面に落ちても消えることはなく、ただひたすらに層を成していく。
「一晩でここまで積もったのって、結構久しぶりですよね」
「ですね。少し前なら、もう少し積もってた覚えもあるんですけど」
「確かにそうだったかもしれないです。私が小さい時なんて、下手したら埋まっちゃうんじゃないかってくらいに積もってましたもんね」
そんな言葉を交わしながら思い返す。
昨日の帰りにはほとんど積もっていなかったのに、たった一晩で優に二十センチは積もってしまっていた。まだまだ止む気配がないことを考えると、帰ってくる時間にどうなっているのかは、あまり想像したくない。
風があまりないのが、せめてもの救いか。これで風まで強ければ、所謂吹雪で視界が真っ白に染まっていたことだろう。どんな原理なのかまでは知らないが、しんしんと大粒の雪が降り続ける今の景色は、うっすらとした青色に染まっていた。
「……今も埋まりそうとか考えました?」
「そんなこと、言われるまで思い付きもしませんでした」
外で降る雪とは違う、じっとりとした視線を向けられる。小さいなりには小さいなりのいいところもあると豪語するようになったアイリスだが、やはり気になるものは気になるらしい。
「ほんとですか? 嘘だったら、家族総出で葵さんを雪の中に放り投げますよ?」
「何も考えてなかったって言ってるのに」
発想が恐ろしかった。しかも、二十センチという微妙に薄い厚さに放り込まないでほしい。仮にやるのであれば、もう少し積もってからだ。
「信じてはいますけど、それはそれとして葵さんを雪の中に放り込んでみたい気持ちはあります」
「ただ遊びたいだけじゃないですか」
「そうとも言いますね」
一切悪びれる様子もなく、それこそ舌でも出しそうな口調でアイリスが言う。
「葵さん、雪だるまとかを作るのが上手そうですよね」
「どんなイメージで?」
そんなことを言われたのは、これが人生初である。そもそも、何を以て雪だるま作りは得手不得手が決まるのか。
「ほら、葵さんって、手先が器用ですし」
「だからって……」
「全くでこぼこしてない、綺麗に丸い雪だるまを作ってそうです。こだわりがありそうというか……」
「そんなこだわりはないですけど、綺麗に丸めた雪玉ならアイリスさんにぶつけてあげますよ」
「絶対に固い雪玉じゃないですか。嫌ですよ」
そう言って、アイリスが珍しく苦笑いを浮かべる。雪玉をぶつけられたところを想像してしまったのか、頭を守るように両手が動いていた。
「そもそも、この歳になって雪合戦なんてしませんよ」
「やってみたら意外と楽しいかもしれないじゃないですか。全部避けてみせます」
「やるとしたら、転んだところを狙います」
「鬼ですか」
動くアイリスより、転んで動かなくなったアイリス。ゆっくり近付いて焦らせるのもいいかもしれない。
「……それもこれも、それくらいの雪で収まってくれたらの話なんですけどね」
話の流れを変えるように呟いたアイリスが、再び窓の外へと目を向ける。
こんな話をしているが、そもそも外に出てそんなことができる程度の積雪で収まってくれることが前提としてある。
今朝の天気予報では、数日は雪に警戒するように言っていた。事実、今も積もった雪の量は増え続けている。雪だるまだの雪合戦だのといった話は、これ以上は積もってほしくないという願望が言葉になったものなのかもしれなかった。
「……埋まりそうなくらい降ったら、葵さんに背負ってもらって通学することになるかもですね。ちょっとだけ気になることがありますけど」
「そう思うんだったら、気軽にやろうとしないでください」
仮に背負ってみたとして、結果は恐らく共倒れだろうが。そんなことをするくらいなら、その日は素直に休みにしてもらいたいものだ。
「……葵さんは気にしないんですね」
「……何を言っているのか分かりませんけど、それより単純に危ないので」
間違いなく二人で同じ考えを共有しながら、それでも決してそのことは口に出さない。意識することそのものが、何か悪いことのようにすら思えた。
「それより、そろそろ電車が来ますよ。向こうに行かないと」
このまま話し続けたところで、会話の転がる方向がよくなるとは思えない。ならばいっそ、ここで打ち切った方がいい。
「あからさまですね」
「放っておいてください。電車が来るのは本当ですから」
「じゃあ、今はそういうことにしておいてあげます」
随分と含みのある言葉と共に、アイリスが笑う。それこそ、見た目は外の景色とは正反対に明るいものなのに、どこか意地悪そうな、そんな雰囲気も漂わせる笑みだった。
そんな会話を繰り広げた二日後の十二月十七日、日曜日。
そんな会話を繰り広げてしまったからなのかもしれないが、あの後も雪は降り続き、しっかりと積雪の量は増えてしまった。
降雪自体は収まったものの、地表へと残した爪痕はかなり大きい。金曜日の朝で二十センチ程度だった積雪は、今や四十センチを超えている。除雪されていない道を歩くのには、かなりの労力を要するようになっていた。
「ひょわぁ!?」
近くの家の屋根に積もった雪の厚みに圧倒されていると、隣からそんな奇妙な声が聞こえてきた。
何となく事態を予想して目を向けてみれば、そこにあったのは尻餅をついたアイリスの姿。
「大丈夫ですか?」
「冷たいです……」
怪我の方を心配したのだが、返ってきたのはそんな言葉。その様子から察するに、どこも怪我はしていないらしい。
「ほら」
「ありがとうございます」
未だ立ち上がらないアイリスに手を差し出す。手袋越しに握った手は、いつもより一回り大きく感じられた。
「ひどい目に遭いました……」
「予想通りでしたね」
服に付いた雪を払い落している姿を眺めながら、そう声をかける。二日前に駅舎で考えた、そのままの姿が再現された形だ。
「滑ってなんてないんですよ」
実際に起こってしまった出来事を否定するかのように、アイリスが口にする。恐ろしい程に説得力が伴っていないが、とりあえず言い分を聞くことにした。
「じゃあ、一体何だったんですか」
「思ったより足が深く沈み込んじゃって。バランスを立て直そうとしたら、いつの間にか転んでました」
「……」
「何ですか、その目は」
黙って頷いていたのがお気に召さなかったのか、瑠璃色の瞳がうっすらと細められる。
ただし、頬が赤くなっている時点で、恥ずかしがっていることは明白なのだが。あの赤さは、きっと寒さのせいだけではない。
「いえ、別に? もう転ばないといいですねって」
「大丈夫ですよ。だって、こうしますもん」
そう言うアイリスに、助け起こすのに差し出した手をもう一度握られる。要は、支えがあれば大丈夫ということだろう。
「自分から握るのは恥ずかしいって言ってませんでした?」
「今はそんなことを言ってる場合じゃないです」
即答だった。それだけ、今の状況が悪いとも言い換えることができる。
「これで私が転んだら、葵さんも一緒に転べますね」
「離してください」
「嫌です」
にやりと笑うその様子を見るに、純粋に支えとしている訳ではないようだった。何なら、比較的純度が高い悪意に満ちている。解放を認めてくれないところも、悪意の純度向上に一役買っていた。
「そんなに心配しなくて大丈夫ですって。さっきみたいなことがそんなにぃ!?」
「おっと」
何を根拠にしているのか知らないが、やたらと自信たっぷりなアイリス。
だが、そんな自信とは裏腹に、再び足を滑らせる。もう転ぶことはないと、そう言いきろうとしたであろう、その矢先の出来事だった。
「そんなに、何ですか?」
「……」
手を引いて、何とか転ぶこと自体は避けた。避けられはしたが、危なかったことには変わりない。もう少しでアイリスの言葉が現実のものになるところだった。
そんなアイリスは、この上なく気まずそうに目を逸らしている。そうしたくなる気持ちは、痛い程に理解できてしまう。
「転ばなくてよかったですね」
「ありがとうございました……!」
恥ずかしさの色が多分に含まれた、そんな感謝の言葉なのだった。
いつもの倍以上の時間をかけ、Dolceria pescaまで辿り着く。この雪では客足も遠のきそうなものだが、それはシフトが入っていることには関係ない。
久しぶりに雪がない地面を見たような気がする裏口前で、服に雪が付いていないか念のため確認する。着替える場所が場所なので、なるべくそういったものは持ち込みたくない。
「おはようございます」
「おはようございます!」
二人して問題がないことを確認してから、バックヤードへと繋がる扉を開ける。途端に、暖かな空気が全身を包み込んだ。
「おはよう。雪は大丈夫だった?」
「何とか、ですね。今は降ってないので」
「……それでも転びましたけど」
今日出迎えてくれたのは太一。普段であれば何かの作業をしていることが多いが、今はそこまで忙しくないのか、コーヒーを飲んで休憩しながらの出迎えだった。
「怪我はしなかった?」
「大丈夫です。冷たかっただけでしたし、その後は葵さんに支えてもらいながら歩いてきたので」
「支え……?」
どんな姿を想像したのか、太一の頭上に疑問符が浮かぶ。
「手を繋いできました!」
「あぁ……、そういう……」
アイリスの言葉に、納得したように頷く太一。見間違いなのかもしれないが、その視線が自分達二人の手に向けられているような、そんな気がした。
「今日はお客さんが多くないかもしれないですね」
その視線がどこかむず痒くて、思わず話題を逸らしてしまう。太一の様子を見た時から聞こうと思っていたことではあるが、このタイミングで切り出したのはわざとだ。
「ん? そうだね。流石にこの雪だとね……」
「ですよね。太一さんがあんまり忙しそうにしてないので、何となくそんな気はしてました」
「今日は二人共、割と暇かもね」
「天気はどうしようもないですから。こればっかりは仕方ないです」
予想通り、今日の来店客は少ないらしい。それこそ、ここにいない柚子が一人で対応していても問題ないくらいなのだろう。
「あれ?」
「どうしました?」
太一とそんな話をしていると、視線をバックヤードの一角に向けたアイリスから、何やら意外そうな声が上がった。
「いや、あれ……」
「あれ……?」
アイリスが指差す方に目を向ける。そこにあるのは、ウェイター服とウェイトレス服を掛けておくハンガーラック。その日に着る服が掛けられている、いつもの場所だ。
そこには、ウェイトレス服が二着。
「え?」
つい先程のアイリスと同じように、自分の口からもそんな声が漏れる。
「どうかしたかい?」
そんな様子を見てか、視線を一度ウェイトレス服に送ってから、太一がそう尋ねてきた。
「いや、今月は絶対に二十四日だと思ってたので……」
「ですよね。私も絶対にそうだと思ってました」
二人して、そう答える。
驚いたのはその存在ではなく、時期。今更そこにウェイトレス服が二着掛かっていたところで、何も驚くことはない。本当は驚くべきことなのだろうが、最早その感情は薄れきってしまった。
気になったのは、今日そこにウェイトレス服があるという、その事実の方だ。今月は、一年を通しても一二を争う程の大きなイベントが待ち構えている。てっきりそこに合わせて今月の一回がやってくるとばかり思っていたので、完全に意表を突かれてしまったのだった。
「あ、そのことか」
そこまで話せば、流石に太一も理解に至ったらしい。
「クリスマスはサンタ帽を被ってもらうだけにするって言ってたよ。あんまり色々盛り過ぎても、属性が渋滞するとか何とか……」
「獣耳男子高校生ウェイトレス尻尾付き、なんてものをもうやったのに?」
「……あれは凄かったよね」
この店で属性の大渋滞を引き起こしたことは記憶に新しい。それを考えれば、サンタ帽を被った男子高校生ウェイトレスなど、尻尾がない分まだ属性が少ない方である。
「今日もやりますか?」
「やりません」
「今年のウェイトレス納めですよ? 属性てんこ盛りでもいいと思いません?」
「始まってるのがおかしいとは思いません?」
「思いません」
何もありがたくない提案をしてくるアイリス。未だに認識に大きな齟齬があった。
「と言うか、もう着ることに抵抗したりはしなくなっちゃいましたよね」
「抵抗したって着せられますし、あれ以外に着る服がありませんから」
「葵さんが受け入れてくれて、私はとっても幸せです」
「受け入れてはないですけど」
ただ諦めただけであって、決して受け入れた訳ではない。そこのところをはっきりさせておかないと、今後何を着せられるか分かったものではない。
既に手遅れという意見も否めないが。
「それじゃあ、そろそろ葵さんが受け入れてくれたウェイトレス姿になってきましょうか。時間のこともありますし」
「受け入れてはないですけど」
「今年最後のウェイトレス姿ですからね。じっくり堪能しますよ!」
「聞いてます?」
そう言って着替えを促してくるアイリスの目は、きらきらと輝いている。蛍光灯の光を反射するだけではここまで輝きはしないはずなので、そもそも瞳自体が輝きを放っているのだろう。
自分の話は、何も聞いていなそうだった。
「思ったんですよね」
太一の言っていた通り、客数はかなり少なかった。それこそ、今のように店内に一人も存在しない時間もかなりの頻度で訪れるくらいには、客足は遠い。
訪れる人がいなければ、店員としてできることは少ない。カフェスペースの清掃をいつもより入念に行っていると、テーブルを拭いていたアイリスから、そんな言葉が聞こえてきた。
「はい?」
手は止めずに、言葉だけを返す。ちらりと目を向ければ、アイリスもテーブルを拭きながら話していたようで、こちらを見てはいなかった。
「葵さんがお正月に着る巫女服なんですけどね?」
「その話の入り方は合ってるんですか?」
思わず手が止まってしまう。この上なく不穏な切り出し方をされてしまえば、誰だって床の掃き掃除をしている手くらいは止まるだろう。
だが、切り出した方の手は止まらないうえに、口も止まらない。
「今くらいはちょっと積もり過ぎですけど、やっぱりうっすら雪が降ってる時の方が、雰囲気としては合うんじゃないかって」
「はぁ……?」
いまいち理解しにくい感覚を突き付けられる。何をどう思うのかはその人次第なので、アイリスがそう思うこと自体は否定しないが、自分が納得できるかどうかは別の話だ。
「私が巫女さんを見るのって、山の方にある神社に初詣に行く時くらいなんですけど、その時のイメージが強いんですかね?」
「確かに、冬のイメージはありますね」
「少しだけ雪が降ってる中で、境内の掃き掃除をしてる巫女さん、いいと思いませんか?」
「ん?」
アイリスの手が止まった。何やら雲行きが怪しくなってきたような気がする。
「寒くて赤くなった頬とか、白い息とか、ぼんやりと空を眺める姿とか! 神社が後ろにあって、周りに人がいなかったら、もっといいと思いませんかっ?」
「そんな写真かイラストでも見ました?」
想像している風景がやたら具体的だった。それこそ、何かモデルになったものでもあるのではないかと勘ぐってしまう程度には、浮かべている風景が自分にまで伝わってくる。
「全部私の想像ですよ? 場所に合わせて言うなら、多分煩悩ですね」
「除夜の鐘の意味がないじゃないですか」
煩悩を取り除くはずの除夜の鐘だったが、アイリスから特大の煩悩を除けていない。これでは、百八回は撞き損である。
「大丈夫ですって。参拝で煩悩は全部消えますから」
「初詣って、そういうものでしたっけ?」
「ちなみに、私が『巫女さん可愛いなぁ』って思うのは、参拝の後におみくじとかお守りを買う時です」
「消えた煩悩が復活してません?」
その年最初の煩悩が、消えたはずのその場で産声を上げていた。祀られている神様の困惑する様子が目に浮かぶ。
「で、それを僕に話してどうしようって言うんですか?」
「葵さんが着た時、もし雪が降ってたら、外で写真を撮りたいなって」
「寒いので嫌です」
「大丈夫ですよ。あっためてあげますから。……エアコンが」
「それはそうでしょうよ」
それ以外で温まる方法があるのなら、むしろ教えてほしい。そっと目を逸らして小さく呟いたアイリスにそれを求めるのは、やや酷なのかもしれないが。
「あ、でも……」
「ん?」
「お風呂の準備をしておけば、お風呂上がりの葵さんも一緒に見られるのでは……? 天才……?」
「余計にやりたくなくなりました」
「なんでですか!」
あったけれども、教えてほしくはなかった。先程の自分が間違っていたことは、素直に認めねばなるまい。
「来年最初の可愛い姿なんですから、完璧な姿で撮りたいに決まってるじゃないですかっ」
力説しながら詰め寄ってくるアイリス。その目には強い意思が宿っている。本人風に言えば、煩悩である。
「知りませんよ、そんなの」
「大事なことですよ! 来年の葵さんがどんなになるか、そこで決まると言っても過言ではないです!」
「僕の一年をどうしたいんですか」
それで決まる一年など、コスプレに塗れた一年以外に存在しないように思えるのは、果たして気のせいなのだろうか。
「今の葵さんみたいに、可愛さに振りきれた一年に」
「……」
今年の時点で、既に半年程はコスプレに塗れた年だった。実のところ、もう手遅れなのかもしれない。
「と言うかですけど、そう考えたらサンタ服も雪が合いますよね」
「出ませんからね」
「えー……?」
先回りして考えを潰す。放っておけば、間違いなく同じことを言い出していたはずだ。残念そうに声を漏らすその表情が、何よりの証拠である。
「まあでも、サンタ服ならそこまで寒くはないのかもしれないですけど」
考えてみれば、構造は普段着ているウェイトレス服と大して変わらない。風通しがよさそうなイメージのある巫女服と比べれば、防寒という意味では遥かにまともだろう。伊達に冬の空を飛び回ってはいないということか。
「え? スカートの丈は短いのにしましたけど……?」
「何余計なことをしてくれてるんですか」
「あは」
盛大に余計なことをしてくれたアイリスが、可愛く笑って誤魔化そうとしていた。ただし、可愛くても誤魔化せてはいない。
「どうしてわざわざそんなことを……」
「普段見られないものを見たいって思うのは、そんなに悪いことですか?」
「思うのは自由ですけど、それを行動に移すのはアイリスさんくらいです」
「えへへ」
「褒めてないです」
これで褒めるのは狂人だけである。生憎、自分は月一でウェイトレス服を着るだけの常識人なので、今の流れでアイリスを褒めることはない。
「写真、たくさん撮っちゃいますからね!」
「……」
微笑んだまま、確定した未来のようにそう宣言する。アイリスがこう言っている以上、きっと逃れる術はないのだろう。
半ば諦めるように、窓の外へと視線を向ける。雪が降っていないのは来た時と変わりないが、今は少しだけ、風が強くなっているように思えた。
「あれ? 今日なんだ?」
「何のことを話しているのかは分かりませんけど、今日でした」
「分かってるよね、その言い方」
こんな日で客足が遠かろうと、全くいない訳ではない。久方ぶりの接客相手は、月に一度か二度程度訪れてくれる、常連と言ってもいい女性だった。
あまり詳しく話をしたことはないが、アイリスと話している時に聞こえてきた内容から察するに、県内の大学に在籍しているらしい。正直、見た目だけで年齢を推測するのは難しいと言わざるを得ないが、自分からはいくらか離れていそうな雰囲気を纏っている。
「まだ見たことがなかったけど、本当に着てるんだね」
そう言って短めに切り揃えた髪を揺らしながら、快活な笑みを見せる。こちらは何となく見た目通りの、明るそうな性格がよく表れた仕草である。
「冗談だったら、どれほどよかったでしょうね」
「嘘みたいに似合ってるし、気にしなくてもいいんじゃない?」
「気にしなくなったら、それこそ色々終わりな気がします」
「確かに」
一度頷いて、再び笑みを見せる。どことなく、莉花を彷彿とさせる笑い方だった。
「今月は絶対にクリスマスに着ると思ってたから、その辺でもう一回来ようかなって考えてたんだけど、今日来て正解だったよ」
「僕もその日だと思ってたんですけどね。その日はサンタ帽だけらしいです」
「ふーん。じゃあ、私と一緒でクリスマスを狙ってる人は、残念な思いをするわけだ?」
言いながら、意地悪そうに口元を歪める。何を考えているかなど、火を見るよりも明らかだ。
「そんなもの目当てに来る人なんて、残念な思いをさせておけばいいんです」
「ありゃ、辛辣」
「ここは洋菓子店ですからね。それ目当てじゃない人は、お客さんではありません」
そういった類のものが見たいのなら、その目的に合った店に行けばいい。わざわざこの店に期待するのは間違っている。
「遠回しに早く選べって言われてる?」
「結構直接的に」
「私にも辛辣かぁ……」
残念そうに呟いているが、当たり前の話である。クリスマスを狙っていたということは、この目の前の大学生も、ウェイトレス姿を目的にしていたということになる。
そんな訳で、丁寧な接客は期待できないと思ってもらいたい。
「じゃあ……」
「これ、ですか?」
「まだ何にも言ってないのに」
ショーケースの裏側から指差したのはチョコレートケーキ。その名の通り、表面をチョコレートでコーティングした、甘さ全開の一品だった。
「毎回これですもんね」
「覚えてるの?」
驚きを隠そうともせず、目を丸く見開いている。まさか自らがいつも注文している品を覚えられているとは、微塵も考えていなかったらしい。
「よく来てくれる方が頼むものなら。ほとんど自然に覚えたようなものですけど」
「はぇー……。こうやって客を呼び寄せるんだぁ……」
「呼び寄せてるのは、商品と向こうのアイリスさんだけですよ」
「私ですか?」
いきなり会話に巻き込まれたアイリスが近付いてくる。その姿は、何度見ても看板娘と呼ぶにふさわしいもので。紛い物である自分とは、雲泥の差があるとしか言いようがない。
「まぁ、これは来るよね」
「来ますね。客層が広がったって話も聞きましたから」
「はい?」
二人して、そう口にする。これまでの会話を聞いていないアイリスは、未だに何のことか分かっていない様子だった。
「何のお話ですか?」
「何でもないよ。気にしないで」
「悪口とかじゃないですし、大したことじゃありませんから」
「葵さんがそういうことを言うとは思ってないですけど……。でも、気になるものは気になります」
怪訝そうな顔で、覗き込むように見上げてくるアイリス。別に話してしまっても問題ないような話題ではあったが、面と向かって話すのはやや気恥ずかしいものがある。
「って言うか、聞いてなかったんだ?」
「ちょっと考え事をしてて……」
実のところ、全く同じことを思ってはいたが、そういうことだったらしい。確かに、そうでもなければ、これだけ客のいない店内で会話を聞き逃すようなことはないだろう。
「え。私はそっちの方が気になるなぁ……? 何を考えてたの?」
「次に葵さんに着てもらう服は、どんなのがいいのかなって……」
「次……?」
「ご注文はチョコレートケーキでしたね。すぐに準備するので、少々お待ちください」
余計な詮索をされる前に、注文のことで無理矢理会話の流れを断ち切ってしまう。このまま会話が続けば、間違いなく自分にとってよくない方向に転がっていくのは目に見えていた。
「あぁ……、うん。それはそうなんだけど……」
「アイリスさんは先に会計をお願いします。なるべく早く準備しますから。また雪が降り出す前に帰った方が安全だと思うので」
「え? あぁ、はい」
何か釈然としない様子のアイリスがカウンターに向かったのを確認して、大急ぎで商品を箱に詰める。大急ぎではあるが丁寧に。我ながら完璧な仕事だった。
「お待たせしました」
「はい……」
会計を済ませたのと同時に、商品の入った箱を手渡す。これでもう、彼女が店内に長居する理由はなくなった。
「またのご来店をお待ちしています」
「はーい……」
目まぐるしく展開した流れについてこられなかったのか、彼女も釈然としない様子で店を出ていった。
再び店内に静寂が戻る。聞こえるのは、BGMとして流している音楽だけ。
「……」
「……」
隣のアイリスから、不思議そうな目で見つめられる。だが、自分から言うことは何もない。
「葵さん」
「何です?」
「次は変わった服とかじゃなくて、私服っぽい感じにしようかなって思いました」
「……」
どう考えても、たった今店を出ていった彼女に影響を受けたチョイスだった。




