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76. 七分咲き (2)

「で、結局さっきはお正月の話はしなかったけど」

「言われてみればそうですね」


 いよいよ吹き抜ける風がはっきりと冷たくなってきた、駅からの通学路。


 寒さから逃れるためなのか、元々小さな体をさらに小さく丸めるアイリスを眺めていると、反対側からそんな言葉が聞こえてきた。


「クリスマスも連れ込まれたんだったら、どうせお正月もでしょ」

「言い方が気になりますね」

「連れ込みました!」

「自分で言ってどうするんですか」


 事実としてはそうなのかもしれないが、それにしても嬉しそうに言うような言葉ではない。


「何て言うか、お正月どころか、年越しの瞬間も一緒にいそうだよね」

「歩いて数分なのに、何故か帰らせてもらえない未来が見えます」

「私がどうこうってより、お父さんとお母さんが引き止めそうですね」

「未成年が深夜にって言ってましたもんね。言い出したのはアイリスさんでしたけど」

「記憶にないです」


 大真面目な顔で首を横に振るアイリス。ここまで堂々と嘘を吐かれると、むしろ反論しにくくなるのは何故だろうか。


 そうして言葉に詰まっている間にも、アイリスと碧依で話が勝手に進んでいく。


「大丈夫? 年を越す前に寝ちゃったりしない?」

「そこまで子供じゃないですもん」

「炬燵で寝たりとか」

「そ、そこまで子供じゃないですもん」


 同じ言葉なのに、表情一つで印象は随分と変わる。最初は自信たっぷりだったのに、二回目は目が泳いでいた。間違いなく、炬燵で寝たまま年を越した経験がある反応だった。


「ほんとに? 葵君が膝枕をしてくれても、絶対に寝ない?」

「ひっ、膝……!」

「せめて炬燵には入れてください」


 何故か目を輝かせて見つめてくるアイリスには悪いが、そんなことより気にしなければならないことは他にあった。


 炬燵に入ったアイリスの頭を膝に乗せるということは、自分の居場所は炬燵の外である。後輩の家に招かれて、やることは炬燵の外での膝枕。心底意味が分からない光景だった。


「膝枕は嫌がらないんだ?」

「それでアイリスさんが寝て、静かに新年が迎えられるなら多少は考えます」

「寝ないって言ってるじゃないですか」


 ほとんど捨て身の策と変わりはないが、望みのものが手に入る可能性があるのならば致し方ない。


 その言葉を聞いて不満そうに抗議してきたアイリスだが、実際にそうなれば確実に寝る。これまでの経験から、確信を持ってそう断言することができる。


「それに、私が寝ちゃったら、誰もお父さんとお母さんを止められませんよ?」

「ちゃんと最後まで起きてましょうね」

「手の平返しが早いなぁ……」


 後輩の両親という、絶妙な立ち位置の相手に色々とからかわれる苦労に並ぶものなど、そうそうあるものではない。そんな相手に何だかんだと引きずり込まれそうになった経験がないであろう碧依には、決して分からない心情なのだった。


「大丈夫です。ちゃんと膝に頭を乗せてあげますから」

「寝心地最悪です……」

「私、本当に膝を枕にしようとする人って初めて見たかも」

「葵さんみたいなことを言う人が何人もいて堪りますか」


 随分な言われようだったが、自分でも膝を枕にして寝たくはないので、何も言えなかった。ある意味、流れに枕するのと変わりはない。


「そんなにアイリスさんが寝ちゃうのが心配なら、いっそのこと反対にしちゃえばいいんじゃない?」

「着てる服をですか?」

「確かに目は覚めそうですね。嫌な覚め方ですけど」

「立ち位置に決まってるでしょ。他人の話をどういう風に聞いてたの?」


 二人揃って呆れた目を向けられる。どうやら悪ふざけが過ぎたようだった。


「アイリスさんが葵君に膝枕をしてあげたらって言ってるの」

「私が葵さんを……」

「アイリスさんが僕を、ですか……?」

「……」

「……」


 アイリスと二人、お互いに顔を見合わせる。視線の先で何を考えているのかは分からないが、自分の頭の中には、これまでの記憶が蘇ってきた。


 記憶の中にあるアイリスの寝顔といえば、二回とも図書館でのこと。あんな状況でも寝られるアイリスなのだから、多少の出来事ではその未来を変えられるとは思えない。


 そんな考えを巡らせている間に隣のアイリスも何かの結論に至ったらしく、再び目が合う。この間、わずか数秒。


「寝ますね」

「寝ますね」


 そして、同時に同じ結論。言葉そのものも、タイミングも、何もかも一緒だった。


「待って待って。何にも分からない」

「何がですか?」

「何がですか?」

「待って待って」


 結果、碧依が混乱の極みに陥っていた。どう考えても自分達のせいだが。


「何で二人共同じことを言うの。葵君は?」

「アイリスさんが、寝ますね」

「で、アイリスさんは?」

「葵さんが、寝ますね」

「結局違うの?」


 混乱を解消しようとした結果、さらに渦に巻き込まれていった。


「私が膝枕をしてるのに、その私が寝るわけがないじゃないですか」

「いや、アイリスさんなら寝そうです」

「何を根拠に……」

「図書館」

「あー……」


 思い出してしまったアイリスの勢いが弱まり、天秤が一気に自分側へと傾く。やはり、実績があるというのは強力な手札である。


「でも、葵さんも寝ちゃうので引き分けですよね」


 そうかと思いきや、そんな一言で天秤の傾きを強引に戻しにかかるアイリス。それこそ自分が一度も見せたことがない姿なのに、一体何を根拠に言っているのだろうか。


「寝ませんよ。と言うか、寝られません」

「寝られないくらいにどきどきしてくれるってことですか?」

「ですね。後輩に膝枕をされながら、その両親に見つめられるなんて状況、心臓に悪くて仕方ないです」

「そういうことじゃないんですよっ」


 返ってきた答えが思っていたものと違ったのか、なかなかにはっきりとした否定の言葉が飛び出してきた。そんな様子から察するに、どうやら何かご立腹のようで。


「もっとこう……! 色々あるじゃないですか!」

「例えば?」

「私だったら、全力で葵さんの太ももを堪能します!」

「……」


 無言で少しだけ距離を取った。


 その分、即座に詰められた。当然、アイリスは不満顔。


「何で離れたんですか」

「いや、ちょっと身の危険を感じて……」


 素直なのはいいことだが、何でも素直に言えばいいというものでもない。今の言葉は、どう考えても胸の内に秘めておくべきものだった。


「素直だね、アイリスさん」

「せっかく葵さんが膝枕をしてくれるって言ってるんですよ? それなら、私も全力を出さないと失礼ってものです」

「アイリスさんが寝ないのならしません」

「全力って何?」


 いつの間にかアイリスの中では膝枕が確定しているうえに、身の危険を感じるタイプの全力も確定していた。


 碧依が混乱から抜け出せないまま、そんなことはお構いなしと言わんばかりに会話は続いていく。


「他には、こう……、頭を撫でてくれるとか」

「頭……、と言うか、髪を触られるのって、嫌なものじゃないんですか?」

「全く知らない人に触られるのは嫌ですけど、知ってる人なら……」


 ぽつりと呟きながら、アイリスが自らの髪に触れる。背中に流れる菜の花色の髪は、曇り空の下にあって、それでも日に照らされているかのように綺麗に輝いている。


「あ! じゃあ、私も……」

「碧依先輩はだめです」

「なんでぇ!?」


 そんな小さな一言に反応した碧依が、一瞬のうちに撃退されていた。今日も今日とて、アイリスの碧依への攻撃力は目を見張るものがある。


「だって、碧依先輩に触らせたら、絶対にろくでもないことになりますもん」

「大丈夫、大丈夫。そんなことしないって」

「じゃあ、何をするつもりですか?」


 碧依のことを全く信用していない目で見つめるアイリスが、それでも渋々といった様子で問いかける。自分のことを盾にするような位置に移動しているのは、果たして気のせいなのだろうか。


「匂いを嗅ぐかな」

「だめです、葵さん。この人やっぱり変態です」

「さっきのアイリスさんも似たようなものでしたよ」

「なんでですか!」


 同列扱いは心外だとでも言うように、怒りの色が混ざった瑠璃色が見上げてくる。自分としては、何故アイリスがそんな風に思えるのかが不思議でならなかった。


「太ももを堪能って。何をするつもりですか」

「さぁ……? 何をしましょうか?」

「知りませんよ」


 聞き返されたところで、困る以外の選択肢はない。と言うより、考えるだけ無駄だった。


「と言うか、今更なんだけどさ」

「はい?」

「葵君、大晦日もアイリスさんの家にいる前提で話してるね」

「あ……」


 結局何も考えていなかったらしいアイリスと不毛な会話を繰り広げている、まさにその最中。改めて変態認定された碧依の一言で、ようやく気付く。


 さも当たり前のように炬燵だの膝枕だのと話していたが、それは当然アイリスの家にいる場合の話である。大晦日の予定が何も決まっていない今、そもそもの前提が成り立っていない。


 何も考えていないのは、自分も同じだった。


「そういえば、別に葵さんと何か約束してるわけじゃなかったですね」

「つい約束したつもりになってましたけど、確かに何も言ってないです」


 再びアイリスと顔を見合わせて確認する。二人共何の覚えもない辺り、本当に何の約束はしていないはずだ。


「ってことは、膝枕がどうこうなんて、何も考えなくて……」

「その日も空けておいてくださいね」

「いい……、はず……」

「よくなかったね」

「……」


 言いきる前に言いきられた。言葉が被っていることに気付いていたはずなのに、途中で止める気は一切感じられなかった。それだけ、アイリスの思いが強いとも言える。


「クリスマスは夜だけですけど、大晦日は一日一緒に過ごせそうですね」

「あんなに目がきらきらしてるのに、まさか断るなんてことしないよね?」

「それは……」


 碧依の言う通り、今から当日が楽しみで仕方ないとでも言うかのように、ラピスラズリの煌きが増していた。断られることなど、最初から考えていないという風にしか見えない。


「……まぁ、どうせ暇ですし」


 そんな瞳に見つめられる中、口から出てきたのは肯定の言葉。何だかんだと言ってはいたが、どうせこうなるのだろうと最初から思っていたので、断るつもりも特になかった。


「葵君の方はあんまり素直じゃないね」

「放っておいてください」


 そんなことは自分でも分かっている。アイリスに対して思ったことを素直に口にするのが、以前よりも恥ずかしく感じるようになっていることくらいは。


 どこかぶっきらぼうになってしまった碧依への返事は、そんな感覚の変化の誤魔化しでしかなかった。


「それじゃあ、お父さんとお母さんにも言っておきますね」

「凄いなぁ……。アイリスさんのお父さんとお母さんには会ったことがないのに、絶対に受け入れられる未来が見える」

「これが人徳ってものです」

「葵君がそう思いたいなら、私は別に何も言わないけど」

「どうしてそんな言い方をするんですか」


 それは間違っていると言っているようなものである。こうでも思わないとやっていられないのだから、そこはそっとしておいてほしかった。


「これで本当に膝枕チャンスの到来ですね……! どっちがしましょうか……!」

「冬休みの宿題、準備しておいてくださいね。そんなことを気にかける余裕がないくらい、みっちり教えてあげます」

「お、教えてもらえるのは嬉しいですけど、もうちょっと優しく……!」


 またもやその話を始めようとしたアイリスを、夏休みに発覚した弱点を突いて無理矢理止める。その瞬間、待ち受ける未来に心を弾ませていた姿は一瞬で掻き消え、代わりに不安そうな表情が顔を覗かせた。


「照れ隠し、なのかなぁ……?」


 誰のことを指しているのかはっきりとは分からない、けれども恐らく自分のことを指しているであろう碧依の呟きは、何も聞こえなかったことにした。




「アイリスさんって、着物とか着るの?」

「いきなり何ですか?」


 時刻は午後一時過ぎ。午前中の授業が全て終わり、今は昼休みの時間。今日は紗季と純奈も含めての昼食の時間である。


 その最中、莉花に話を振られたアイリスが、何の脈絡もない話題に首を傾げていた。


「いや、深い意味なんて何もないんだけど」

「はぁ……?」

「もうすぐお正月だし、何となくそういう服も似合いそうだなって」

「あ、それ分かります」


 言い出した莉花は何となく程度にしか考えていなかったようだが、そこに反応を示した紗季は、もっと具体的なことを想像していたらしい。何かに納得するように、何度か頷いている。


「紗季?」

「アイリスは意識したことがないかもしれないけど、着物って、私達日本人でも似合う、似合わないってある気がするの」

「そう?」

「そうなの。でもね? アイリスみたいな子が着ると、ギャップがあっていいとか何とかで、どんなのでもそれっぽく見えちゃったりするんだから」

「そういうものかなぁ……?」


 力説する紗季だが、どうにもアイリスの心には届いていないようである。この手の話題にしては、アイリスの反応はどこか曖昧なものだった。


「あれ? あんまり分かってくれない感じ?」

「分かるとか分からないとか以前に、そもそも着物を持ってないから何とも……」


 話は結局のところそこに帰結する。持っていない、あるいは着たことがないから、力説されたところで想像できないということだろう。


「浴衣は着たことがあるんじゃなかったっけ?」


 過去の話を思い出すように言うのは悠。切り出したのはいいものの、記憶に自信がないのか、その顔にはどこか不安そうな表情が浮かんでいる。


「夏祭りの時に着ましたね。葵さんも一緒に」

「着ましたね。随分女物に近い男女兼用の浴衣を」

「着てもらうのが大変だったような気がします」

「あの頃の僕は、まだ多少なりとも抵抗できてたと思うんです」

「今は諦めるのが早くなりましたよね」


 そう口にするアイリスは、何故か朗らかな笑顔。悲しいことに、その一言には否定できる部分がどこにも見当たらなかった。


「その時はどんな浴衣を着てたの?」

「葵さんがですか? 私がですか?」

「葵君のも気になるけど、まずはアイリスさんのかな」


 自分の浴衣は気にしなくてもいいという意見は、きっと碧依には通用しないのだろう。ここで引き下がってくれるのなら、これまで色々な場面で苦労させられることはなかったはずだ。


「私のは、紫陽花と菖蒲の浴衣でした」

「へぇ……」

「葵さんも気に入ってくれた浴衣です」

「似合ってた?」

「似合ってましたよ。可愛かったです」


 これは間違いなく嘘偽りのない感想である。これくらいであれば、まだ素直に口にすることができる。


「えへへ……」

「あ、アイリスの頬が蕩けた」

「分かりやすいよね」


 紗季と純奈が生温かい視線を向ける先には、言葉通りに頬を緩める人物が一人。誰よりも素直に感情を表現する姿が、そこにはあった。


「そっかそっか。それじゃあ、そんなアイリスさんと並んでた葵君は、一体どんな浴衣だったのかな?」

「あさ……」

「朝顔の浴衣でした!」

「はっや」


 それは、復帰が早いという意味か。それとも、答えるのが早いという意味か。そんなことも分からなくなる程に、アイリスの反応は素早いものだった。


「私が選んだ服の中でも、特に自慢の一着ですっ」

「アイリスさんがこれまで選んだ服って、他に何があったっけ?」

「……メイド服、です。あと、服として数えていいのかは分かりませんけど、狐耳とか、尻尾とか……」

「ちゃんと次の二つも選んでますから、心配しないでくださいね」

「心配させてください」


 何故か自分を安心させるように言うアイリスだったが、こんなに不安なこともそうそうない。先程とは違い、今回の一言には心配な部分しか見当たらなかった。


「着々とレパートリーが増えていってるな?」

「こんなレパートリーを増やして、一体どうしろって言うんですか」

「私と碧依に写真を見せてくれたらいい」

「絶対にお断りです」


 そんなことをすれば、どんどん要求がエスカレートしていくことなど容易に想像できる。最初は写真の要求、次は実物の要求、最後は望んだ衣装の着用の要求である。


 既に実物を見られたことがあるという事実は、この際無視することとする。


「で、着物でしたっけ?」

「ん? そう。話が逸れちゃったけど」

「着物ですか……。着てみたい気持ちはあるんですけどね」

「けど?」

「やっぱり高そうで。あんまり迂闊におねだりできなくて……」

「あー……。まぁ、確かに」


 そんなやり取りを見かねた訳ではないだろうが、そのタイミングでアイリスが話を元に戻してくれた。


(いや……?)


 だが、莉花と話すアイリスの姿を見て、ふと思い出す。


 最早いつ言っていたかも思い出せないが、「独り占め」という言葉を使っていたような覚えがある。それが実物を指すだけではなく、写真まで含んでいるのだとしたら。もしかすると、今の言葉はそんな気持ちの表れだったのかもしれない。


「ってことで、着るとしたら、ここぞって時だと思います。成人式とか」

「成人式か……」

「何です?」


 そんな自分の考え事などお構いなしに、莉花とアイリスの会話は続く。意識を戻した先で見た莉花の顔は、明らかにアイリスをからかおうとしていることを物語っていた。


「いや、成人式でもちっちゃそうだなって」

「……小さいには小さいなりのいいところもありますし」

「あれ。思ってた反応と違う。例えば?」

「内緒です」

「えー? 気になるなぁ?」

「だめです。教えてあげません」


 恐らく、これまでのように否定の言葉が飛び出してくると考えていたであろう莉花が、意外な返事に目を丸くする。真意を探るようにアイリスの目を覗き込んでいたが、そのアイリスは拗ねたようにそっぽを向いていて、取り付く島もない。


「湊先輩は何か聞いてたりしないんですか?」

「期待してくれた長峰さんには悪いですけど、僕も前にはぐらかされました」


 話の流れは全く違ったもののはずだが、確か同じようなことを聞いた覚えがある。その時も、今と同じように答えは教えてくれなかったはずだ。あれから再度尋ねたこともないので、純奈の望む答えは返せそうにない。


「湊君も教えてもらえなかったの?」


 アイリスの返事を聞いた時の莉花以上に意外そうな声を上げたのは、これまで静かに話を聞いていた悠。どうもここにいる七人のうち、大半は自分がアイリスのことなら何でも知っていると考えている節があった。


 自分が知っていることなど、ほんの少しのことでしかないはずなのに、だ。


「ですね。僕が知ってるアイリスさんのことは、まだまだ少ないってことです」

「もっと色々聞いてくれてもいいんですよ?」

「小さいなりのいいところって何ですか?」

「それは秘密です」


 そう言われたから尋ねたのに、返ってきたのはやはりそんな言葉だった。ご丁寧にも、指を口の前に立てる仕草付きである。


「葵さんも何か秘密を教えてくれたら、その時は教えてあげてもいいかもしれないです」

「言えっ、湊君っ」

「……言うと思いました?」

「ちぇっ……」


 そのまま悪戯っぽく笑うアイリス。見慣れたはずの表情なのに、仕草一つ加わるだけで随分と雰囲気が変わる。普段はどこか幼く見えるその笑みも、今だけは、どこか大人びたものに感じられた。


「あ、じゃあ、私が葵君の秘密を教えてあげるよ」

「は?」

「聞きましょう」


 意識をアイリスに持っていかれているうちに、碧依が突然怪しげなことを言い始めた。視線を向ければ、僅かに口の端が吊り上がっているように見えなくもない。


 そんな碧依のいきなり過ぎる言葉に思わず疑問が飛び出してしまったが、勝手に教えようとしていることから考えると、どうせ大したことのない秘密なのだろうとは思う。


 だからと言って、自由にしておくつもりもないが。


「何を言い出すんです?」

「葵君ね」

「碧依さんも他人の話を聞かないですね」


 自分の言葉に耳を貸す様子が一切見られなかった。対するアイリスは神妙な面持ち。どちらの表情も、この瞬間においては間違っているとしか言いようがない。


「お風呂上りはコーヒー牛乳派」

「……秘密?」

「秘密」

「……」


 案の定、どうでもいいとしか思えないような内容だった。「秘密」という言葉の意味を知りたくなる暴露に黙り込んでしまったアイリスだが、その心の内ははっきりと伝わってくる。


 期待外れもいいところ。大方そんな感想だろう。


「さぁ、次はアイリスさんの番だよ。遠慮なく暴露しちゃって」


 まさか、本当に今の暴露で許されるとでも思っているのだろうか。誰もがそう思ったに違いない瞬間だったが、期待に満ちた目でアイリスを見つめる碧依は気付かない。


「……私は、その時の気分で普通の牛乳かコーヒー牛乳か決めます」

「そっか。ちなみに私はコーヒー牛乳派」

「うわ……、普通に話を続けた……」

「どう考えてもはぐらかされてるのにね」

「普段は渡井さんの陰に隠れてますけど、碧依さんも十分変わり者ですからね」

「おう、どういう意味だ」


 呆れたように言うアイリスだったが、碧依はそんなことは意にも介さない。当たり前のように会話が続いてしまったことで、アイリスから助けを求める視線が届けられた。


「成人式に向けて、少しでも背を伸ばそうってことですか?」

「そういう助け船は望んでないんですよ」


 ならばと投げかけた一言だったが、どうやら気に入ってはもらえなかったらしい。


「アイリスさんがコーヒーと名の付くものを飲めるなんて、ちょっと意外ですね」

「それもちょっと違いますけど……」

「じゃあどうしてほしいんですか」

「この人を引き取ってください」


 最早名前を呼ぶことすらなく、一本の指だけで碧依のことを示すアイリス。期待外れどころか、辟易としていることがありありと見て取れる。


「回収は受け付けてないです」

「大丈夫ですよ。葵さんなら捌けます」

「本当に捌けるなら、これまであれこれ苦労することはなかったはずなんです」

「その経験があったからこそ、今は捌けるようになってるって考えられませんか?」

「無理です」

「私だって無理ですよ」

「あれ? 何で押し付け合いみたいになってるの?」

「みたいじゃなくて、そのものだぞ」


 とにかくお互いに碧依の手から逃れようと必死だった。それこそ、押し付け合われている本人が、やけに悲しそうな表情を浮かべていることも気にならない。


「無意識に連携してるみたいになってる……」

「一人じゃ止められないから、二人がかりでって?」


 純奈と紗季の後輩組が小さく呟いていたが、そちらにも反応する余裕はない。気を抜いたが最後、厄介な相手を押し付けられることが決定する舌戦の真っ最中なのである。


「僕は普段から同じクラスってことで相手をしてますから、今はアイリスさんに譲りますよ」

「ってことは、扱いに慣れてるってことですもんね。葵さんの方が適任だと思いますよ?」

「あれぇ……?」

「よしよし。これに懲りたら、少しは反省しようねー?」


 ひたすらに悲しむ碧依を、莉花が自分のことを棚に上げて慰めていた。




「あ……」

「え?」


 アイリスと二人並んで歩く帰り道。電車を降りた最寄り駅は、既に彼方へとその姿を消した。


 葉が全て落ちきってしまい、幾分かやせ細ったようにすら見える桜並木に差しかかった、そんな時のことだった。


「ほんとに降ってきましたね」

「かもしれないとは言ってましたけど、今年はかなり早いですね」


 二人揃って見上げた空は曇り空。季節柄、これからしばらくは晴れ間が見えることの方が少なくなる。今見ている彩度の低い空は、この地方の冬を代表するような、そんな空である。


「ですよね。いつもは今月の半ばくらいから降るイメージですもん」


 空に視線を向けたまま、アイリスが小さく呟く。


 その視線の先。鼠色に染め上げられた空からは、ひらりひらりと白い花弁が舞い降りていた。


「早めに防寒具なんかの準備をしておいた方がいいのかもしれませんね」

「マフラーとか、どこに片付けたんでしたっけ……?」

「知りませんよ」


 あれだけ部屋には近付けようとしなかったのだから、自分がそんなことを知る機会などあるはずがない。今後のため、是非とも一人で頑張って探し出してほしい。


 そんな話をしている間にも、目の前を雪の結晶が通り過ぎていく。まだ雪の花と呼ぶには小さ過ぎる一片は、地面に辿り着くや否や、その身を融かしてアスファルトの色を変えていく。


 ぽつぽつと。少しずつ色濃くなっていく道を見ていると、それだけで気温が下がったようにすら感じられた。


「そもそもですけど、この冬は新しいマフラーとか手袋を買いたいんですよね」

「アルバイトもしてますし、色々と候補の幅は広がるんじゃないですか?」

「そういうのを聞くと、また迷っちゃうんですよ」


 お互いに傘を差しながら言葉を交わす。薄暗い光すら遮られ、顔を一層濃い影で彩ったアイリスは、そう言って困ったような表情を浮かべる。


 今朝会った時から分かってはいたが、その姿に防寒具の影はない。吹き抜ける風に、寒そうに首を竦める仕草を何度見たことか。


「大体のものは似合いそうですしね」

「そ、そうですか……? えへ……」

「まぁ、迷うのも楽しいと思うので。アイリスさんの新しい姿も楽しみにしてますよ」

「そう言う葵さんは、何か新しく買ったりしないんですか?」


 隣から見上げてくる瞳は、何の裏もなさそうな、とても純粋な色。そこだけ晴れ間の下にあるかのような、そんな鮮やかさだった。


「特にそういう予定はないですね」

「いつくらいから使ってるものです?」

「あんまり詳しくは覚えてないですけど、三年くらいは使ってるんじゃないですか?」


 問われて改めて考えてみるが、どうにもその辺りの記憶が曖昧だった。使っているマフラーや手袋をいつ買ったかなど、そもそも意識したことがない時点で正確な答えが出る訳もない。


「それなら、いっそ葵さんも買い替えましょうよ」

「僕も?」

「はいっ。葵さんにぴったりなの、私が選んであげますから!」

「不安しかない言葉ですけど、大丈夫ですか?」


 やたらと可愛らしいものを選ばれそうな気がするのは、果たして無視していい予感なのだろうか。思わず目が細くなってしまうのが、自分でもよく分かった。


「大丈夫ですって。私がこれまでそんなにおかしなものを選びました?」

「浴衣、狐耳、メイド服。これはまだ見てませんけど、サンタ服、巫女服」

「全部似合うじゃないですか」

「そう思ってるのはアイリスさんだけです」

「お父さんとお母さんもです」

「一家総出……」


 一家総出で男子高校生を可愛く仕立て上げる。言葉にすれば、これほど首を傾げたくなる一文もなかなかない。


 そして何より、アイリスの一言を否定できないのが悔しかった。


「今度はほんとに大丈夫ですから」

「そう言うってことは、これまでは大丈夫じゃなかったってことになりますよ」

「細かいことはいいんですよ。似合ってるんですから、全部問題なしです」


 似合っていてほしくはないという意見は、きっと聞き入れられない。空いた左手をぐっと握り締めるその姿からは、一切の迷いが感じられなかった。


「で、真面目なお話、どうですか?」


 そんな姿から一転、言葉通りに真面目な表情を浮かべるアイリス。これまでの冗談とは違い、この言葉は本気で言っていることが窺えた。


「……まぁ、そういう風に言われると、確かにそろそろ買い替えてもいいような気はします」


 だからこそ、やや前向きな言葉を返す。


「ですよねっ。ちゃんと選ぶって約束しますから、一緒に買いに行きませんか?」

「本当にちゃんと選びます?」

「選びます、選びます。葵さんが毎日使いたくなるようなのを選びますから」

「信じますよ?」

「任せてくださいっ」


 先程と同じ、左手を握り締める仕草。だが、そこに込められた意味は全く違うもので。


「じゃあ、頼みます」

「分かりました! お父さんとお母さんにも言っておきますね!」


 そう口にしたアイリスの顔は、この季節には珍しいはずの晴れやかなもの。その日が今から楽しみで仕方がないと、何よりも如実にそう物語っている。


 そんなアイリスの笑みに釣られるように、雲の切れ間から、一瞬だけ晴れ間が姿を覗かせていた。

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