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75. 七分咲き (1)

 後日談。振替休日だった月曜日は過ぎ、十一月十四日、火曜日。


「あの……、最後はお見苦しいところを……」


 昼休みになり、自身の昼食を持って二年生の教室にやって来たアイリスの第一声がそれだった。


「誰も気にしてないから、別にいいんじゃない?」

「いや、でも……」

「それに、結局泣いてるところを正面から見たわけでもないからね」


 どうやらアイリスはお化け屋敷を出てすぐのことを謝罪しているようだが、悠と碧依は何も気にしていなかったらしい。いつも通りの表情を見るに、気を遣っている訳ではなく、本当にそう思っているのだろう。


「そ、そうですか……」

「でも」


 そして、残った莉花も気にしていないのは丸分かりだが、何か面倒なことを言い出しそうな雰囲気をひしひしと感じる。


 表情はにやけ、切り出し方が既に不穏なものの時点で、疑うなと言う方が無理である。


「何で泣いてるところを正面から見てないんだろうなぁ……? 皆あの場所にいたんだけどなぁ……?」

「うっ……!」


 案の定の発言だった。泣いているところを見られたという状況だけで元々少しだけ頬を染めていたアイリスだったが、その色が一層濃くなる。


「湊君は何か知ってる?」


 厄介極まりない話の振り方で火の粉が飛んでくる。迂闊なことを言えば、莉花の標的の一人に加えられることは確実だった。


 もう既に加えられているという可能性については、心の安寧のために考えないことにする。


「渡井さんも見てたと思うので、別に僕がわざわざ言う必要もないですよね」

「文化祭の最後だけ、どうしてかちょっとだけ記憶がなくて……」

「じゃあ、言っても分からないですね」


 都合がいい言葉で言いくるめようとしてくる莉花を弾き返す。何があっても、あの時のことを自分から蒸し返すつもりはない。


「あー……、言う気はなしかぁ……」

「それだけ恥ずかしかったってことだね」

「余計なことは言わなくていいです」


 碧依まで莉花側として参戦しそうになったところを、何とか押し止める。面倒なことを言い出す技術にかけては一級品の二人が手を組むことだけは、絶対に阻止しなければならなかった。


「まぁ、それなら聞きやすそうなこっちに聞くだけなんだけどね」

「えっ?」


 ぐりん、と。そんな言葉と共に、莉花の首が再びアイリスの方を向く。標的が元に戻った瞬間だった。


 矛先が逸れたと思って安心していたアイリスからは、驚きの声が漏れ出す。目も少し丸くなっているのは、自分の気のせいではないはずだ。


「とうとう正面から抱き付いちゃったもんねー?」

「……っ!」


 いよいよ心配になる程、その頬が赤く色付く。視線は定まらず、あちこちを自由に泳ぎ回っていた。


「それともー? 私達の知らないところで、もう抱き付いたことがあったりするのかなー?」

「えぁ!?」


 この上なく面倒な口調になった莉花が、容赦なくアイリスを攻め立てる。為す術もなく翻弄されるアイリスは、ただただ狼狽えることしかできていない。


「あ、それ私知ってる」

「は?」

「言っちゃだめです!」


 そうしている中で、莉花の言葉に答えたのは、まさかの碧依だった。流石の莉花も、そんなところからそんな声が聞こえてくるとは思ってもいなかったようで、ただ一言意外そうな声を漏らして、碧依を見つめるだけになっている。


 そんな莉花とは対照的に、碧依が何を言おうとしているのか一瞬で理解したアイリスは、どうにかその言葉を遮ろうとする。だが、残念ながら碧依は止まらなかった。


「夏休みにね? もう抱き付いちゃったんだって」

「あぁぁ……!」

「ほう!」


 その暴露に、二人が再び対照的な反応を見せる。手で顔を覆って伏せてしまうアイリスと、とても楽しそうに顔を輝かせる莉花。心の内がこれほど分かりやすい二人も、そうそういないだろう。


「その話、もっと詳しく!」

「まぁ、私も聞いただけなんだけどね?」


 止める人間が動けなくなっていることをいいことに、夏休みの出来事がそのまま莉花へと伝わっていく。


「大変なことになりそうだね?」

「そう思うなら、助けてくれてもいいんですよ?」

「遠慮しておくね。こういう時は静かにしてた方が、被害は飛んでこないし」

「……逞しくなってしまったと言うか、何と言うか……」

「あの二人のせいだね」

「おかげ、じゃないんですね」

「せい」


 助力を求めた悠にあっさりと断られ、それでもどうにかこちら側に引き込めないかと模索しているうちに、碧依が語り終えてしまった。結局、味方は増えていない。


 そう思っていたのに。


「……湊君」

「何です」

「鳩尾は大丈夫だったか?」

「は?」

「え? 気にするところ、そこ?」


 予想もしていないところで、味方が一人増えていた。


 たった一言でそう断じていいのかは微妙なところではあるが、問いかけてきた莉花の表情は真剣そのもの。いつものような冗談を言っている時の雰囲気は一切感じられなかった。


「色々話したよね?」

「確かに色々聞いた。でもね、鳩尾は大事」

「話が繋がってないよ?」

「渡井さん……。もしかして……」


 何故か頑なにその一点を譲らない莉花の態度に、突然閃くものがあった。


 ここまで他人の心配をするのは、自身も何か同じような経験があるからではないだろうか。そして、莉花には歳が離れた、溺愛している弟がいるのではなかったか。


 その二つを結び付けると、自然と一つの結論に辿り着く。


「弟の頭が当たるとね……、息もできないくらいに痛いんだぁ……」

「……」

「……」

「……」

「……」


 遠い目をして言う莉花に、誰も、何も返せなかった。


「最近は背も伸びてきたから、もう鳩尾には当たらないんだけど、小さい頃は……」

「莉花。もう思い出さなくて大丈夫だから。苦しかったことは忘れようねー?」

「分かります。小さい子供って、加減を知らないんですよね……」

「葵さん?」

「そっかぁ……。湊君も小さい子供の相手をしてたかぁ……」

「せっかく忘れさせようとしてるのに! 葵君はしばらく黙ってて!」

「何これ?」


 ほんの僅かな時間の間に、気付けば周囲が一気に騒がしくなる。その理由も今の有様も、全てが悠の一言に集約されていた。




「で、だから湊君はあんなに慣れてたわけか」

「復活して早々に聞くことがそれですか」


 幻の鳩尾の痛みから戻ってきた莉花は、あっという間に敵に回った。やはり味方だと思ったのは間違いだったらしい。


「あ……。そういえば、背中……」

「何も言わないでください」

「優しかったです!」

「何で元気いっぱいなんですか」


 恥ずかしがるのかと思いきや、その正反対の反応だった。今日はどうにもアイリスの心が読めない。


「あんな風に子供をあやしてたんだ?」

「……あれが一番早く落ち着いてくれますから」


 追撃の手を緩めようとしない莉花から目を逸らしながら、そう白状する。下手にはぐらかして状況を悪くするよりは、今のうちに曝け出しておいた方が、最終的な被害は少ないと考えてのことだった。


「あれ? ってことは、あの時の私は子供扱いされて……?」

「まぁ、子供みたいに泣いてたもんね」

「あの時と言うか、普段から割とそんな感じだけどね」

「普段から……?」


 結果、気付かない方がよかったことに、アイリスが気付いてしまう。それだけでも一定のダメージは入ったはずなのに、返事をした碧依と莉花には一切の容赦がなかった。


「でも、葵君も顔が真っ赤だったよね」

「え?」


 そんな容赦のなかった碧依が、今度はその矛先を自分に突き付ける。その言葉は、自分でも全く意識していなかったことで。


「そんなにでした?」

「気付いてなかったの?」

「全く……」


 思わず聞き返してしまったが、返ってきた言葉は肯定とほぼ変わらない。自分では気付きもしなかったが、どうやら本当のことらしい。


 こんな場面で嘘を吐きそうにない悠に視線を送ってみても、ただ頷きが返ってくるだけだった。


「そうだったんですか……」

「ちょっと待って。何で私のことはすぐに信用してくれないのに、羽崎君のことはすぐに信用するの?」

「日頃の行いの差です」

「それじゃあ仕方ないね!」

「受け入れるんだ……」


 悠がいつもの表情になっている。こんな役回りばかりさせて申し訳なく思う反面、本人が嫌そうにしていないので、そのままでもいいかとも思ってしまう。


 ともかく、そんな常識人枠の悠と、高頻度で発想が突き抜ける碧依では、信頼度という点で悠に軍配が上がるのは当然のことだ。


「葵さんも顔が真っ赤だったんですか?」

「らしいですね」

「子供扱いなのに?」


 アイリス自身が言い出したことなのに、何故か根に持つように口にする。一切関わっていない話題のはずなのだが、自分が責められているように感じるのが不思議だった。


「……あの時のアイリスさんを子供扱いするのは、ちょっと無理があると言うか……」

「もうあの時だけじゃないんじゃないのー?」

「静かにしててください」


 気恥ずかしさを隠すように答えたのに、莉花から余計な茶々が入って台無しになった。最近の心情の変化を誤魔化すには、どうにも周囲の人数が多過ぎる。何を言っても突っ込みが入る未来しか見えなかった。


「……子供扱いじゃないなら、それでいいです」


 そう身構えていたのに、言い出したアイリスがあっさりと会話を終わらせてしまった。これには茶々を入れてきた莉花も面食らったようで。


「あれ? それだけ?」

「それだけって何ですか」

「いや、もっとこう……。ねぇ……?」

「何にも分からないですけど」


 全く要領を得ない莉花の言葉を、今度はアイリスが容赦なく投げ捨てる。先程の仕返しなのだろうか。


「そのことより、もっと大事なお話があるんですよ」

「大事な話?」


 アイリスの自分への追撃が緩かったのは、どうやらそれ以外に本命の話があったかららしい。はっきりとこちらを見つめていることを考えても、自分が関係している話と捉えて問題はないようだった。


「何々? 面白くなりそうな話?」


 その仕草に何らかの雰囲気を感じ取ったのか、碧依も興味津々といった様子でアイリスに問いかける。


「碧依先輩にとって面白いかは知りませんけど……」

「大丈夫。私が面白い方向に持ってくから」

「渡井さんは静かにしててくださいって言いましたよね?」

「そんな言葉で私が止まると思う?」

「思えないから重ねてるんですよ」


 重ねたところで効くとも思っていないが。あくまで形式的なものだ。


「それで? 話って何です?」


 いつまでも碧依や莉花の相手をしていても話は進まない。ただでさえ昼食を食べながらの会話で時間を使うのに、こんなことばかり話し続けていては、本題に入る前に昼休みが終わってしまう。


 そう思ってアイリスに会話の主導権を渡すと、何故かその顔が一気に笑みを深めた。何か不穏なことを言い出す気配がひしひしと伝わってくる。


「葵さん、何でも一つ、お願いを聞くって言ってくれましたよね?」

「言ってません」

「言いました」

「葵君が即答するってことは、言ったんだね」

「目も合わせないし、これは言ったね」

「逃げ場なんてないと思うし、諦めた方がいいと思うよ」

「……」


 見事なまでに四面楚歌だった。


「葵君がアイリスさんにそんなことを言うなんて珍しいね? 何をされるか分からないのに」

「碧依先輩は私のことを何だと思ってるんですか?」

「葵君をコスプレさせて喜んでる、変わった女の子」

「自己紹介ですね」

「まぁ、否定はしないかな」

「どっちも好き勝手……」


 放っておけばすぐにこんな話になる。せっかく主導権を渡したのに、そのアイリスが自ら話を逸らしてしまっては意味がない。


 苦渋の決断ではあるが、認めなければ話は先に進みそうになかった。


「……言いました。言いましたよ」

「へぇ……。何があったの?」

「お化け屋敷の最後の仕掛けです。そうでもしないと、覗いてくれる気配がなかったので」

「あー……、あれかぁ……」


 尋ねてきた莉花に、その時の状況を話す。あまり詳しい説明をした訳ではないが、仕掛けた側ということもあって、一応はそれだけでも納得してくれたらしい。


「つまり、フリーゼさんに仕掛けを覗いてもらうために、湊君が捨て身の作戦に出たってこと?」

「捨て身だの何をされるか分からないだの、皆さんが私のことをどう思ってるのかは、とっても、よーくっ、分かりましたっ」

「……これまでのアイリスさんのせいだと思いますけどね」

「え? 何か言いました? 葵さん?」

「何も」


 周囲からの扱いに不満しかないらしいアイリスだが、耳はしっかりと自分の一言を捉えていた。とても綺麗な笑みでプレッシャーをかけてくる。


 そんなアイリスからそっと目を逸らしつつ、頭は勝手に回転してしまう。


 今ここでこの話を切り出したということは、恐らく「お願い」とやらは決まったのだろう。迂闊なことを言って、その内容をより過酷なものにする必要はどこにもない。


「で? 今度はどんな服を葵君に着せようとしてるの?」

「聞き方が限定的過ぎません?」

「そうは言うけどね、葵君。それ以外でアイリスさんが言い出しそうなことって、何か思い付く?」

「いやまぁ、すぐには浮かばないですけど……」


 碧依に問いかけられて、答えに困窮する。正直なところ、その約束を口にした時も、どうせ何か新しい服を着せられることになると思って口にしていた。


 今更それ以外の「お願い」候補を尋ねられたところで、新しいものなど思い付くはずもなかった。


「残念ですけど」


 だが、アイリスの切り出し方は予想を裏切るもの。その始まり方ということは、新しいコスプレをさせるという選択肢は消えたと考えてもよさそうだった。


 全員の注目を集めるように言葉を切って間を空けたアイリスが、続きとなる言葉をゆっくりと紡ぎ出す。


「そっちは、今のところサンタ服と巫女服が予約済みなので、新しいのはまた今度です」

「……」


 お願いの内容ではなく、ただただ辱められただけに終わった。


「あ、もう決まってるんだ……」

「そっちもそっちで、後で詳しく聞こうか」

「強く生きてね、湊君」

「……」


 唯一、体育祭で軽い苦労を分かち合った悠だけが、味方に戻ってくれていた。多勢に無勢としか思えなかったが。


「でも、それなら何をお願いするつもりなの?」

「それはですね……」


 まるで、宣告することそのものが楽しいと言わんばかりに、やたらとにこやかな表情のアイリス。予想が外れた今、その口から飛び出してくるであろう言葉は、まだ完全に闇に包まれている。


「葵さん」

「……はい」

「今度、私の家に泊まってもらいますからね」

「あー……」


 その言葉を聞いた途端、微かな後悔の念が押し寄せる。比較的最近の話題だったはずなので、アイリスがこう来ることは予想できたはずだった。予想さえできていれば、あらかじめ釘を刺しておくこともできただろう。


 今となっては、全てが後の祭りだが。


「僕にできる限界の外だって言うのは……」

「後出しで卑怯ですよ」

「ですよね」


 それでも一応は確認してみたが、案の定受け入れられることはなかった。悲しいことに、こちらは予想通りである。


「へぇ! お泊り!」

「踏み込んだねぇ……」


 アイリスの提案は碧依と莉花にとってもまさかのものだったようで、一気にその目が輝きを増す。唯一反応を示さなかったように思える悠も、よく見れば、丸っこい目をさらに丸くしているようにも見えなくはなかった。


「一緒に寝たりするのかな?」

「そんなことをしたら、僕が何をされるか分かったものじゃないです」

「そ、それはまだ早いと言うか……。葵さんの寝顔の写真は撮りますけど……!」

「逆、逆」


 両手で頬を押さえて首を振るアイリスに、仕掛けた莉花自身が突っ込みを入れる事態になっていた。言われなくても立場がおかしいことくらいは理解しているが、相手はアイリスなのだ。ある意味常識が通用しない相手である。


「面白そうだけど、アイリスさんのご両親は認めてくれそうなの?」

「お父さんとお母さんが最初に誘ってました」

「あぁ……、うん」

「今、何を諦めたんですか?」


 優しい目で自分を見つめてきた碧依。呟かれた言葉は、どう聞いても何かを諦めたもののようにしか聞こえなかった。


「何にも? 気に入られてるんだなって」

「気に入られ方がおかしいんですけどね」


 言い方を変えれば、重いとも言う。


「まだ日は決めてませんけど、またお話ししますから。葵さんの都合もありますしね」

「もう断るって選択肢はないんですね」

「そしたら、次は何をお願いしましょうか……」

「分かりました。諦めます」

「その言い方も引っかかります」


 微かな不満を漏らすアイリスだが、機嫌はそこまで悪くはないようだった。その頬が未だに緩んでいるのが、何よりの証拠である。


「湊君にしては、割とあっさり諦めたね?」

「断った時のお願いが想像できなくて」

「コスプレでもなければお泊りでもないって、確かに予想はできないか」

「今のアイリスさんは、何が飛び出してくるか分からないびっくり箱みたいなものです」


 悠が意外そうに言うが、何が起こるか分からないびっくり箱の蓋を積極的に開ける必要もない。まだ大人しいお願いで収まっている、今が引き時だった。


(大人しい……。大人しい……?)


 本当に大人しいかは別として。


「びっくり箱って言い方も引っかかります」

「気にしないでください。本当のことですから」

「そこは『冗談』って言うところですよね?」

「さぁ?」

「あんまり惚けてると、葵さんがうちに住みたいって言ってたって、お父さんとお母さんに言いますよ」

「冗談です」


 こんなところにも、絶対に守らなければならない一線があった。迂闊に明け渡したが最後、取り込まれて離してもらえない匂いが色濃く漂ってくる。


 何より、そう言ったアイリスの目に、冗談の色が全く浮かんでいなかった。放っておけば、本当に部屋が用意される。


「脅し文句が特殊過ぎない?」

「アイリスさんのご両親、どんな人なんだろうね?」

「湊君が魔窟って言うのも、ちょっと納得できるかも」


 色々とぎりぎりな自分とは違い、完全に他人事である三人の感想は随分と穏やかなものだった。




「急に寒くなってきましたねー……」

「もう十二月ですからね」


 とうとう今年も最後の月に入った、十二月一日、金曜日。


 いつも通り電車に揺られながら窓の外へと目を向けるアイリスに釣られ、一緒に景色を眺める。


 これまでは数えきれない程の葉を茂らせていた木々も、今やすっかり冬模様。雨こそ降っていないものの、空を覆う鈍色の雲と相まって、どこか寒々しい雰囲気を醸し出していた。


「来週の天気予報見ました? 雪でしたよ、雪」

「気温も低かったですしね。いよいよ冬らしくなってきたって気がします」

「炬燵から出られなくなっちゃう時期ですね」


 しみじみと言うアイリス。言われるまでは全く想像していなかったのに、言われた途端に炬燵で緩みきった顔を見せているアイリスの姿が頭の中に浮かぶ。


「風邪を引きそうで心配です」


 そのまま寝てしまって、見事に風邪を引くところも想像できた。アイリスならやりかねない。


「葵さんも炬燵で寝ちゃうんですね。ちょっと意外です」

「アイリスさんが、です」

「なんでですかっ」


 だと言うのに、当の本人はそんな勘違いをしていた。


「いくら私でも、そんな理由で風邪は引きませんもんっ」

「あぁ。アイリスさんはポメラニアンでしたね」

「誰が喜んで庭を駆け回りますかっ」


 不満顔そのままに、さらなる突っ込みを入れてくるアイリス。ポメラニアン云々の話は置いておくとしても、アイリスは元気に雪で遊んでいるイメージがあったので、意外と言えば意外だった。


「そう言うなら、葵さんだって雪の中に飛び込んでくださいよ」

「誰が狐ですか」

「それか、炬燵でくつろいでる私の隣で丸くなってくれてもいいです」

「誰が猫ですか」


 どちらもお断りである。ただただアイリスが可愛がりたいという欲望が透けて見えている。


「しかもその猫、炬燵に入れてないじゃないですか」

「大丈夫ですよ。私があっためてあげますから」

「全く落ち着けないですね」

「どういう意味です?」

「そのままの意味ですけど?」


 それこそ猫のように威嚇してくるアイリスだが、やはり迫力は一切感じられない。そういうことに向いていないのは、いつまで経っても変わりはしなかった。


「葵さんは、一体いつになったら私に懐いてくれるんですか?」

「懐く日は来ないと思いますけど……」


 それが訪れてしまった日には、一体どんな光景が繰り広げられるのだろうか。何故かあまり想像したくない光景のような気がした。


「まだ懐柔が足りないんですか……」

「今、『懐柔』って言いました?」


 こんな場面で使うような言葉ではないと思うのだが、それ以外には聞こえなかった。しかし、呟いたアイリスの表情は真面目なもので、そんな物騒な言葉を使ったようには思えない。


「言ってませんよ?」

「言ったんですね」


 そう思っていたのに、現実は非情だった。アイリスがこんな言い方をする時は、大抵何か隠し事をしている時である。


「何を隠してるんですか」


 尋ねたところで答えてくれるとは思えなかったが、隠し事そのものには気付いていると示すことが大事だ。黙ったままでは、企みが加速していくだけである。


「別に何にも? 私が葵さんに甘えるのはいつものことなので、葵さんを懐柔して私に甘えさせようとか、そんなことは考えてないです」

「『懐柔』って言いましたし、考えてたんですね」


 だが、意外なことに答えそのものが返ってきた。そして、今度は聞き逃さなかった。


「本当に素直ですよね。褒めてはないですけど」

「えへへ……」

「褒めてないって言ってるんですよ」


 隠し事ができないのも、素直と言えば素直である。尋ねられてあっさりと白状するのも素直。そして何より、欲望に素直なアイリスだった。


「素直なのは葵さんにだけですよ」

「その特別は別にいらないです」

「そんなわけで、葵さんも私には素直になってくれてもいいんですよ?」

「僕は隠し事が多いので」

「自分で言いますか」


 よく分からない誘いを一蹴する。考える間すらなく返ってきた言葉に、アイリスはどこか寂し気な表情を浮かべていた。


「まぁ、いつかそんな隠し事も教えてくれるようになったら、私は嬉しいですよってことで」

「来ますかね、そんな日」


 来るとすれば、その時はきっと。


 ともすれば暗くなってしまいそうな顔を、どうにかいつも通りに見せかける。


「どうかしました?」

「いえ? 何でも?」

「あ、隠し事ですね?」

「秘密です」

「素直になりましょうよ」

「また今度ってことで」

「何なんですか、それ」


 そんな小さな変化すらも気付いてくれるアイリスをありがたく思いながらも、考えたことは口にはしない。


 自分でも随分と適当なものに聞こえるはぐらかしの言葉に、微かに呆れながらも、どこか楽しそうに笑うアイリス。その顔が、一瞬だけ差した朝日に照らされて、どこまでも眩しく輝いていた。




「二人はクリスマスとかお正月とか、何かするって話してるの?」


 碧依も合流して、いつもの三人になって少し。何でもないような話の流れから、碧依がそう切り出した。


 あくまで尋ねているような口調ではあったが、どうせ自分達二人で何かするのだろうという、ほとんど確信に近いような予想を立てていそうな聞き方だった。


「クリスマスは一緒にバイトですよね」

「ですね。一年で一番忙しい日ですから」

「あー……、それはそうだよね」


 自分に確認するように答えたアイリスに、予定を思い出しながら返す。どんな店で働いているか知っている碧依も、その答えには納得するしかないようである。


「じゃあ、二十四日に遊んだりするの?」

「え?」

「ん?」


 だが、続く言葉に二人揃って首を傾げる。碧依との間に、何か決定的な認識の違いがあるような気がした。


「あれ? 何か変なこと言った?」


 そんな違和感は碧依の方も抱いたようで。結局、三人揃って首を傾げる事態となった。


「あ」


 そして気付く。アイリスと自分の二人と、碧依が指し示している日付が異なっていることに。


「僕達が言ってるのは二十四日のことです」

「あ、そっち?」


 その一言で碧依も理解したようで、ようやく認識のずれが解消される。


「そっか。二十四日もほとんどクリスマスみたいなものだもんね」

「何なら、ケーキはそっちの方が売れてる可能性すらありますからね」

「確かに。私の家もその日に買ってる」

「私の家もそうですね」


 毎年の恒例行事を思い出しながら、アイリスも呟く。ちなみに、去年の自分は両日共に何もしなかった。一人暮らしをしていると、やはりそういったイベントには疎くなる。


「ってことは、一緒なのは二十五日か」

「残念でしたね、碧依先輩」

「え、何?」


 わざわざ言い直した碧依に、勝ち誇ったような表情のアイリスが告げる。そこまでになるようなことなど何も約束した覚えはないというのに、どうしてそんな表情ができるのだろうか。


「二十四日の夜も、私の家で過ごしてもらいますもん」

「へぇ、そうなの?」

「今初めて聞きました」


 青天の霹靂である。これまで一度だってそんな話はしていないはずだ。


「らしいけど?」


 再度アイリスに視線を向けた碧依が、訝しがるような声音で問い質す。


 対するアイリスは、未だに勝ち誇ったような表情を崩さない。


「今初めて言いました!」

「……」

「……」


 流石の碧依も、これには沈黙しか返せないようだった。そっとこちらに目を向けた碧依の首が小さく縦に振られているのは、きっと電車の揺れのせいではないはずだ。


「ってことで、バイト終わりは空けておいてくださいね?」


 無邪気に微笑むアイリスだが、こんな仕打ちをしておいて素直な言葉が返ってくると、本当にそう思ったのだろうか。


 ということで。


「残念ですけど、そこはもう埋まってますね」

「え……?」


 一瞬でアイリスの笑みが崩れる。代わりに現れたのは、底なしの不安。


「う、埋まって……?」

「ですね。一緒に過ごすって決めてるので」

「あぇ……!?」


 そして驚愕。短い間に、アイリスの表情がころころと移り変わっていく。


「だ、誰と……?」


 最後に現れたのは、涙を湛えた、今にも泣き出しそうな顔。


 思った以上に効いているようで戸惑いはするものの、何となくこの辺りが引き時なことを察する。これ以上は単なる嫌がらせにしかならない。


 そんな訳で。


「僕とです」

「それを世間じゃ『一人』って言うんですよっ」


 小さな爆弾が爆発した。そう思わせるような、全力の揺さぶりだった。


 そして何より、その声。普段は電車の中であまり大きな声を出さないようにしている節があるアイリスだったが、この時ばかりはリミッターが完全に外れていた。


「びっくりして損しました!」

「葵君らしいね」

「今はそんならしさなんていらないんですよっ!」

「うんうん。分かったから。でもね、ちょっとだけ静かにしようねー、アイリスさん」

「あ……」


 子供を宥めるかのような碧依の言葉に、やっとアイリスの動きが小さくなっていく。数人から視線を浴びていることに、そこで初めて気付いたようだった。


「葵君が誰かに盗られちゃうかもって心配になるのは分かるけど、周りはよく見ておかないとね?」

「はい……」

「僕は僕のものです」

「今そういう話はしてないの」

「はい……」


 誰も碧依に勝てなかった。


「で、そういう風に言うってことは、葵君は空いてるんだよね?」

「僕の予定を埋めるのなんて、それこそアイリスさんか僕くらいのものです」

「あ……。えへへ……」

「これで喜べるんだから、アイリスさんもいよいよ末期だよね」

「何がです?」

「葵君はまだ知らなくていいよ」

「はぁ……?」


 何かに気付いて嬉しそうに微笑むアイリスに、意味がよく分からない言葉を投げかける碧依。気になって尋ねてみたものの、教えるつもりはないと言わんばかりに蚊帳の外に放り出される。


「とにかく、葵君は大丈夫なんだね?」

「えぇ」

「じゃっ、じゃあっ! 私の家にっ……!」

「分かりました。夜の予定はアイリスさんで埋めておきます」

「はいっ!」


 これ以上ない程に喜んでくれているアイリスの顔には、からかっていた時の負の色はもう見当たらない。


 今はただ、咲く季節を間違った大輪の向日葵のような、そんな笑みだけが花開いていた。

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