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74. エーデルワイス (6)

「上手いことできてますよね」

「はい?」

「雪先輩のところの景品ですよ」

「あぁ……」


 全敗を喫した雪のクラスを出てしばらくして。自分が手にしたものを見ながら、感心したようにアイリスが呟く。


「景品が家庭科部で売ってる商品の割引券って、貰ったら行くしかないですもん」

「実際行きましたしね」


 言いながら、アイリスと同じものに目を向ける。たった今、件の家庭科部で買ってきたお手製のクッキー。丁寧にラッピングされた袋は、開ける時に慎重な手付きになってしまうこと間違いなしという出来栄えである。


 他にも様々なお菓子が並んでいたが、割引券を獲得したアイリスたっての希望で、クッキーを購入することとなったのだった。


「でも、どうしてクッキーだったんですか?」

「それは秘密です」


 わざわざ口の前で人差し指を立て、さらにはウインクのおまけ付き。機嫌がいいのは、誰の目にも明らかだった。


「ってことは、はっきりとした理由があるってことですね」


 ただ漠然と選んだだけなら、「秘密」などという言葉は出てこないはずだ。その言葉が出てきた以上、そこには確実に何かの思惑が存在していることになる。


「まぁまぁ。そこはあんまり気にしなくていいですから」

「気にしておかないと、後々厄介なことになる気がするんですよね」

「大変なのは、多分この後すぐだと思いますよ?」

「は?」


 不穏さしか感じない言葉に、思わずアイリスから一歩距離を取る。ほとんど無意識に体が動いていた。


「どうして逃げるんですか」


 当然、その距離はあっという間に元に戻る。それどころか、離れる前よりも近いようにすら感じられた。


 そんな近付かれてしまったすぐ隣から、いかにも不満があるという表情を浮かべたアイリスが、瑠璃色の瞳でじっと見上げてくる。


「いや、そんなことを言われたら、多分誰でも逃げますって」

「葵さんが逃げるのは嫌です」


 目が逸らされることもなく、はっきりと言葉が紡がれる。表情は間違いなく不満げなものなのに、その瞳には微かな寂しさのようなものが浮かぶ。


「……アイリスさんがおかしなことをしなかったら、多分逃げることはないと思うんですけど」


 その事実がどうにも恥ずかしくて、自分から目を逸らしてしまう。半年以上の時間が経っても、ラピスラズリのような目に弱いことは克服できないままだった。


「大丈夫ですよ。葵さんは大変だと思いますけど、もう何回もやったことがあることですから」

「……コスプレならしませんからね?」

「今してるじゃないですか」

「確かに」


 これほど説得力に欠ける言葉もなかなかない。間髪を容れずに届いた指摘に、自分もまた即答でそう返してしまう程に、意味が感じられない言葉だった。


「それに、巫女服とサンタ服は確定なので」

「……」


 自分の言葉には説得力がなかった一方、アイリスの言葉には慈悲がなかった。結果、今年のコスプレ納めと、来年のコスプレ始めが確定してしまった。年末を前にしてまさかこんなことになろうとは、年明けには全く考えていなかっただろう。


「今言ってるのはですね……」


 にこにこと、とても楽しそうに笑うアイリス。いつもなら可愛く見えるはずのその表情は、今この瞬間に限っては、恐怖の対象でしかない。


「葵さんにクッキーを食べさせてもらおうかなって」


 そうして告げられた一言は、確かに以前にもしたことがある行動ではあった。その度に気恥ずかしさを覚えながらも、結局は毎回押しきられて実行してきた、その行動。


 だが、今回はこれまでとは明らかに違うところがある。果たして、アイリスはそのことに気付いたうえで言っているのだろうか。ただただ笑みが浮かぶその顔からは、心の内が何一つ読み取れなかった。


「いや、でも……」


 とりあえず、いつもと同じように避けられないか試みる。危ないものには最初から近付かない方がいいに決まっている。


「ダブルスコアでしたよね?」

「それ、は……」


 それを持ち出されると、途端に反論が難しくなる。大差で負けた時に何でもお願いを聞くと認めた訳ではないので、有無を言わさず跳ね除けてしまえばいいだけの話なのだが、どうにもアイリスが相手だと、碧依や莉花にするようにはできない。慕ってくれる後輩への甘さが原因なのだろうか。


「食べさせてくれませんか?」


 そして例の瞳。最早、アイリス本人も自分の弱点だと理解しているのかもしれない。


「……一枚だけですからね」

「何を言ってるんですか。半分は葵さんが食べるとして、残り半分は全部葵さんに食べさせてもらいますもん」

「……」


 やはり慈悲はない。この期に及んで、前言撤回など認めてもらえる気配はなかった。


「それじゃあ、早速……」


 そう言って、アイリスが小さな口を開ける。まだクッキーの袋を開けてもいないのに、随分と気が早かった。


「ほらほら。葵さん」


 いきなりの出来事に少しだけ固まっていると、指先で唇に触れたアイリスから、そんな急かされるような声をかけられる。どうやら、自分の気持ちが落ち着くまで待ってもらえる未来は訪れないらしい。


「……」


 観念して、持っていた袋の口を開く。その瞬間、焼き菓子特有の甘い香りがふわりと漂ってきた。


 透明な袋の外から見た時点で分かってはいたが、やはり一枚一枚が小さい。きっと、アイリスの小さな口でも、一口で頬張るのに何の苦労もないだろう。そして、まさにそれこそが、先程からずっと気になっていたことだった。


 わざわざ何にとは言わないが、要は触れてしまいそうなのだ。そうなってしまった時、平常心でいられる自信は流石にない。


「どうかしました?」


 そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、不思議そうな雰囲気を隠そうともせず、アイリスが尋ねてくる。


 いっそのこと、思っていることを打ち明けてしまおうかとも考えたが、そのことを意識していると思われるのがどうにも恥ずかしくて、結局は黙り込んでしまう。


「袋まで開けておいて、『やっぱりやめます』なんて嫌ですからね?」

「……やればいいんでしょう、やれば」


 けれども、退路はもうない。ならば、できることは前に進むことだけ。


「……」


 小さなクッキー達の中から、なるべく大きな一枚を選んで、その端を指で摘む。どうにもならない状況をどうにかしようとした最後の足掻きだったが、それでもその大きさは心許ないとしか言えない。


 緊張しているからなのか何なのか、微かに震える指先を小さく開いた口元へと近付ける。それを迎えるようにアイリスが動いたのは、そのすぐ後のことだった。


「んっ!」

「うぁ……!」


 図らずもそんな声が漏れる。


 差し出したクッキーが口の中に消えていくそのタイミングで、できる限り自然に素早く手を引いたはずだった。


 それでも、指先は唇に触れてしまう。何だか触れてはいけないもののように思えたそれは、思ったよりも温かくて、そして柔らかかった。


「美味しいですっ!」

「そ、そう、ですか……」


 そう言いきったアイリスは、恐らく満面の笑みを浮かべているのだろう。


 だが、とてもではないがそんな表情を正面から見られる心境ではない。案の定、平常心など全く保つことができなかった。


「葵さんは食べないんですか?」

「食べ……、いや……」


 正直な話、それどころではなかった。開けたばかりの袋には、ざっと見積もっても、二十枚程のクッキーが入っていそうな雰囲気がある。その半分をアイリスに食べさせると考えると、今自分で食べたところで、味を感じる心の余裕はありそうにない。


「あ、もしかしてそういうことですか?」

「は?」


 心の中でひたすら葛藤を繰り返す中、こちらをじっと見つめながら問いかけてきたアイリスが、何かに納得したかのように呟いた。


「私、葵さんのことならちょっとは詳しいですからね。今の葵さんが何を考えてるのか、分かっちゃいました」

「……多分違うと思いますよ」


 そう言うアイリスの表情は、これでもかと言う程に自信に満ち溢れていた。


 しかし、こう言っては何だが、今の心の内を理解している顔とはとても思えない。本当に理解しているのなら、アイリスも気まずそうな顔をしているはずだ。


「葵さんも私に食べさせてほしいんですよね!」

「違います」


 言いながら、クッキーを一枚取り出して頬張る。あれこれと考えている場合ではなかった。ここで躊躇い続けていては、間違いなくアイリスに食べさせられる結末が訪れることになる。


「あぁっ……!?」

「何でちょっと残念そうなんですか」


 無意識に気恥ずかしさを隠そうとしてしまったのか、問いかけた声は、いつもより少しだけ低いものだった。


「食べさせてあげたかったのにっ」

「アイリスさんじゃないんですから、自分一人で食べられます」

「葵さんに食べさせてもらいたいだけで、私だって一人で食べられますもん」

「別にそこで張り合う必要はないと思いますけど」

「いーえっ! 大事なことですっ」


 その言葉に合わせるように、真剣な眼差しのアイリスが首を横に振る。何やら思うところがあるらしい。


「葵さんにお世話をされてると、自分がどんどんだめになっていくのが分かるんですよね。なので、自分でもできるんだぞって、たまには思い出しておかないと……」

「……それでいいんですか?」

「……よくないです」


 少し前までは、食べさせたいだの、食べさせてもらいたいだのといった、言ってしまえばそれっぽい会話を繰り広げていたはずなのに、今はこの上なく現実的な話にすり替わってしまっていた。


 真面目な色で彩られていたはずの瑠璃色の瞳は、すっかりその色を失ってしまっている。


「葵さんが悪いんですよぉ……!」

「どうしてですか」


 そうかと思えば、今度は困ったような、それでいて責めるような色が浮かぶ。


「だって、葵さんが甘やかし上手なんですもん……。こんなの、誰も抗えません……!」

「アイリスさんが甘え上手なだけですよ」

「ってことは、もしかして相性ぴったり……? だからこんなにだめになった感が……?」


 そんな中で、アイリスが何かに気付いてしまった。ぶつぶつと呟きながらころころと変わる百面相は、驚愕の表情が前面に押し出されている。


「いや、割と最初からこんな感じだったと思いますよ」

「なんでですか!」


 怒りの表情。


「最初はもっとちゃんとしてましたっ」

「今はしてないってことですね」

「してません!」

「認めるんですか……」


 再びの自信に満ちた表情。今の言葉と共に浮かべていい表情ではない。


「してないので、次の一枚をくださいっ!」

「はいはい……」


 最早、食べさせるのがどうこうと考えるのも空しくなってきた。開かれたアイリスの口に、再度クッキーを近付ける。


「むっ」


 小さな声がして、二枚目のクッキーが手元から消える。


「……っ」


 空しく思おうが何だろうが、指先に触れた感触は、相変わらず強烈に心を揺さぶるものだった。




「葵さん……」

「どうしました?」

「私、考えたんですよ」

「はぁ……?」


 家庭科部を出てからのあれやこれやを終え、所謂文化系の部活を色々と見て回った後。一向に歩みを進めようとしないアイリスが、今の状況を打開しようと口を開く。


「ついさっきまで、色々な部活の発表を見てきたじゃないですか」

「見てきましたね」

「演劇部の発表、面白かったですよね」


 ここ数時間のことを思い出すように言うアイリスに釣られ、自分も同じ記憶を思い出す。


 家庭科部の次に向かったのが、体育館での演劇部の発表である。内容はコメディ寄りの演劇で、そのクオリティの高さに、会場は随分と盛り上がっていた。


「ですね。去年は行かなかったんですけど、ちょっと後悔しました」


 記憶が正しければ、去年も同じように演劇を披露していたはずだ。だが、どうせ自分には向かないと思って足を運ぶことすらなかった。丸一年遅れの後悔が胸に押し寄せる。


「その後は文芸部でしたっけ」

「えぇ。部誌を買いに」


 この文化祭に合わせて発行された、いわば作品集。演劇部と違い、こちらは去年も訪ねて一部購入したことを覚えている。


 今年はどんな作品が掲載されているのか、どうせなら去年の部誌も引っ張り出して読み返してみようかなどと、帰った後のことを想像する。


 そんなことを考えている自分の隣では、その時の行動を正確に思い出そうとするかのように、アイリスが目を閉じたまま小さく頷いていた。


「文芸部の人と仲が良さそうで、ちょっとびっくりしました」

「去年同じクラスだったんですよね」


 先程訪ねた時にたまたま店番をしていたのが、去年のクラスメイトだった。去年の文化祭で初めて文芸部に所属していることを知ってから仲良くなった、かなり遅咲きの交友関係である。それでも、一年生の時の友人としては、一番仲が良いと言えるような間柄だった。


「大人しそうな女の子でした」

「まぁ、そんなに主張が激しいタイプじゃないですね」


 今周囲にいるのがアイリスや碧依、莉花といった面々であることを考えると、大抵の人間は主張が激しくないということになるが。


「本当に友達がいたんですね。それも異性……、異性?」

「失礼に失礼を重ねてきましたね?」


 首を傾げるタイミングがおかしかった。彼女はどこからどう見ても異性だ。


「……ああいう人が好みですか」

「別にそういうわけでも……」


 ここでわざわざ何のことか聞き返すのも野暮な話だ。もし思った通りの意味ではないとすれば、異性がどうこうといったことは言わないだろう。


「……」


 自分の心の内を見透かそうとするようなアイリスの視線が突き刺さる。何も悪いことなどしていないのに、何故か申し訳なく思えてしまうから不思議なものだ。


「それなら私も……」

「いや、アイリスさんはそのままでいいんじゃ……。と言うか、どんな流れですか」


 大して深く考えずに言葉を返していたが、未だにアイリスの思惑が見えてこない。本当に小さく、そして半ば本気で呟かれたように思える一言だったが、果たしてこれが言いたかったことなのだろうか。


「え? 葵さんはどんな女の子が好みなのかってお話ですけど……」

「そっちじゃないです」

「そっち……? ……あぁ」

「忘れてましたね?」

「覚えてましたよ?」


 目を逸らして惚けるアイリス。誰が見てもそうと分かる、言いたいことを完全に忘れていた人間の反応だった。


「覚えてましたけど、今のお話の方が大事だったと言うか……」

「じゃあ、最初の話は聞かなくて大丈夫ですね」

「待ってくださいっ!」


 アイリスの考えをなかったものとして歩き出そうとした途端、その動きを止めるように左手を握られる。歩き出すどころか、引っ張られて一歩後退した。


「何ですか」

「最初のお話も大事でした!」

「そんな取って付けたように言われても……」


 もう今更である。話の途中で別の話題にすり替わってしまうようなものなど、誰にとってもそこまで大事なものではないだろう。


 そう思っていたのに、アイリスの眼差しは本当に真剣なもので。


「色々言いましたけど、私が本当に言いたかったことはですね?」

「はい」

「もうちょっと、他の部活も見て回ってもいいんじゃないかなって……」


 ただ、真剣な眼差しは長続きしなかった。それどころか、顔ごと背けながら、やや曖昧な言葉を口にする始末。さらに言えば、空いた左手で頬を掻く仕草のおまけ付きだった。


「例えば?」

「た、例えば……?」


 正直な話をすれば、アイリスの狙いは最初から分かっていたが、とりあえずもう少し泳がせてみる。


 決して、これまで散々心を揺さぶられた仕返しなどではない。


「えぇ。そう言うってことは、どこか行きたい場所があるんじゃないですか?」

「行きたい、場所……? ……しょ、将棋部、とか……?」


 そこかしこに視線を彷徨わせたアイリスから飛び出してきた答えは、全く予想もしていなかったものだった。イメージと違い過ぎて、最初から候補にすら入っていなかった場所だ。


「指せます?」

「いえ……」

「8五歩」

「同歩」

「指せる人の言い方じゃないですか」


 適当に言っただけの手だったが、しっかりとした答えが返ってきた。指せるから何だという状況ではあるが。


「まぁ、行かせないんですけど」

「あぇ……?」


 これ以上話していても仕方がないので、繋がれたままの手を利用して引き寄せる。自分の動きを止めようとして握られた手だが、力加減次第では、むしろアイリスを動かすこともできなくはない。


「えっ」


 油断していたからなのか、思ったよりも軽い力で距離が縮まった。何が起こったのか理解が追いついていないアイリスが、目を丸くして見上げてくる。


「あの……?」

「このまま話していても埒が明かないですから」


 押し問答はこれで終わりと、そんな意味を言外に込める。その言葉でようやく自身の状況を把握したようで、目の前の表情が一気に恐怖に染まっていく。


「あっ……!?」

「さぁ、あれこれ言ってないで行きますよ。……お化け屋敷」

「嫌ですぅ!?」


 自分が引っ張ろうとする力に対抗して、両手で耐えるアイリス。必死に抗議してくる目には、若干の涙が浮かんでいるようにも見えた。


 何はともあれ、そういう状況だった。文化祭の終了時刻まで残り三十分となった、午後四時半。最後の最後に訪れたのは、他のどこでもない、自分のクラスである。


「いやぁ……!」


 髪が舞い上がる程の勢いで、アイリスの首が横に振られる。菜の花色が夕日を浴びて、鮮やかな光を放っていた。


 そんな目を奪われてもおかしくない光景も、すぐ傍に掲げられたおどろおどろしい看板を含めれば、一気に異様な光景へと変貌する。


 そもそもの話として、燕尾服を着た男子高校生が、ウェイトレス服を着た女子高校生を引っ張っている時点で、既に異様な光景になっていることは認めざるを得ないという意見もある。


「僕はアイリスさんのクラスに行ったんですから。じゃあ、アイリスさんも僕のクラスに来てくれないと」

「そんなのは詭弁ですっ!」


 まだ教室の中に入ってもいないのに泣きそうになっているアイリスが、それはもう必死の抵抗を見せる。ホラーがいかに苦手なのか、これ以上ない程に分かりやすく伝わってくる一幕だった。


 夏休みの一件で、既にその怖がり具合は知っているが。


「大丈夫ですって。作ってる側が言うのもあれですけど、結局は素人が作ったものですから。そこまで怖くは……」


 どうにか丸め込んで教室内に誘おうとしていた、まさにそんなタイミングで悲鳴が聞こえてくる。タイミングがいいのか悪いのか、何とも言えなかった。


「……素人が作ったから、何なんですか」

「そこまで怖くはないです」

「今の悲鳴聞こえてましたよね!?」

「多分、人一倍怖がりな人だったんでしょうね」

「私だって人一倍怖がりですけど!?」


 そう言って、懇願するような目を向けてくる。自分にとっての弱点とも言える眼差しだったが、アイリスをこのお化け屋敷に放り込むことを心に決めてしまっている今に限って言えば、それが効くことはない。


「なんか声がすると思ったら」


 そうして少しずつアイリスを引きずり込もうとしているところに聞こえてきた、三人目の声。その方向に目を向ければ、教室の扉を背にした碧依がいた。


「さっきぶりですね」

「どう? 自由時間は楽しめ……、てるみたいだね」

「どうしてこっちを見て言ったんですか!」


 途中で言葉を変えた碧依。その視線の向かう先は、未だに抵抗し続けているアイリスである。もっと言えば、全力で抗っている両手に視線が注がれていた。


「葵君が人前でそういうことをしてる時って、大体楽しんでる時な気がするから」

「楽しいんですか!?」

「楽しいですね」

「もぉー!」


 繋がった手が、上へ下への大騒ぎ。その不規則な動きは、まるでアイリスの乱れた心の動きを表しているかのようである。


「で、何? アイリスさんが中に入るのを嫌がってるってことで合ってる?」

「そうですね。百点です」


 そんなアイリスを眺めていた碧依が、今の状況を完璧に言い当てる。少し前に三人でそんな話をしていたからということもあるが、それを差し引いても、素晴らしい読みの精度だ。


「ふーん、そっか」

「な、何ですか……?」


 そうして状況を把握した碧依が、何か含みのある一言を呟く。碧依が続いて何かを言い出そうとしていることはアイリスも感じ取ったようで、忙しなく動いていたはずの両手が一気に大人しくなった。


「そんなに嫌?」

「嫌に決まってます!」

「じゃあ、葵君と一緒に入ってもいいよって言われても?」

「僕ですか?」


 考えてもいなかった指名だった。個人的には外から反応を窺おうと思っていたので、少しだけではあるが、不意を突かれた格好となる。


「うん。それなら、アイリスさんも多少は揺れるんじゃないかなって」

「そ、れは……」

「ほら」


 碧依が見つめる先で、先程まで渋りに渋っていたアイリスが、言葉通りに揺れ始める。お化け屋敷の中身を知っている人間が隣にいるというのは、ある意味光のように思えるらしい。


「全部知ってるので、僕は何も楽しくないですよ?」

「そこはほら。一番近くでアイリスさんの反応を見られると思って」

「まぁ、一緒にって言われたら入りますけど」


 確かに中身を知ってはいるが、だからと言って知っている人間が入ってはいけないというルールはない。一緒に入るならとアイリスが折れるのであれば、自分としては特に拒む理由もない。


「で、でもぉ……」

「と言うか、いくら葵君の力が弱くても、アイリスさんを引っ張るくらいならできるんじゃないの?」

「できますね」

「え?」

「よし、連行」

「任せてください」

「あぁっ!?」


 いつまで経っても覚悟が決まらないアイリスに業を煮やしたのか、とうとう碧依から強制連行の指示が出た。言われた通りにさらに力を込めれば、これまでの拮抗が嘘のように、あっさりとバランスが崩れる。


 結局引きずられる形となったアイリスが悲痛な声を上げるが、生憎、その程度では止まることはできない。


「ま、待って……! 待ってくださいっ! 葵さん!」


 碧依が開けてくれた扉を一足先に通り抜けたところで、アイリスが最後の抵抗を見せる。これまでのように両手だけで抗うのではなく、体全体を後ろに傾けての制止だった。


 そこまでされると、流石に引っ張りにくくはなる。思わず振り返った先、明るい景色の中に一人残ったアイリスの首が、ふるふると力なく振られていた。


「どうにか……! どうにかなりませんか……!」

「これまでアイリスさんが僕にコスプレをさせた時、同じようなことを言った僕の願いは叶えてくれました?」

「うっ!」


 苦々しい呻き声が上がる。まさかそんな攻め方をされるとは、露程も思ってもいなかったのだろう。後ろに傾く程だった抵抗が、微かに和らいだ。


「因果応報ってことです」

「許してくださいぃ……!」


 その隙を狙って、アイリスを暗闇側に引き込む。それと同時に、待ち構えていた碧依が扉を閉める。


 外の光が断たれたこの空間を照らすのは、午前中に見慣れてしまったランタンだけ。夕日に照らされていたはずの鮮やかな瑠璃色と菜の花色は、今はぼんやりとした薄明りに照らされて、どこか妖しげな雰囲気へと様変わりしてしまっていた。




「あぁ……。あぁぁ……!」

「そんなにですか」


 受付も通り過ぎ、通路の入口までやって来たところで、アイリスの呻き声がいよいよ大きくなる。見れば、明らかに腰が引けていた。


「私の怖がり具合、前にも見たじゃないですかぁ……!」

「覚えてるのは鳩尾の痛みだけです」


 今にも零れ落ちそうな程に涙を湛えた目で訴えかけられるが、ここまで来てしまったのだから、引き返すことはできない。残された道は、もう前にしか存在していなかった。


 そんな進むしか選択肢がないアイリスは、未だに左手を解放してくれていない。この期に及んでまだどうにかなると思っているのか、半歩程後ろで立ち止まったままだった。


「私はまだ全部覚えてるのに……」

「見てるこっちが心配になるくらいの怖がり方でしたね」

「覚えてるじゃないですかっ」

「あ」


 今のアイリスであれば、恐怖でそこまで頭が回らないだろうと思って油断してしまった。目の前に待ち構える入口から意識を逸らすように、アイリスが食らいついてくる。


「どうしてそんな嘘を……」

「少しはアイリスさんの気が紛れたらと思って」

「今更そんな気遣いなんて遅いんですよぉ!」


 心の底から絞り出したのではないかと思えるような声で、小さく吠える。だが、そんな程度の威嚇では誰も止まらない。


「そうですか。じゃあ、一緒に入るって気遣いもいらないですね」

「ににっ、逃がしませんっ、けどぉ!?」

「ってことは入るんですね」

「こ、このまま回れ右でも、いいと思いませんか……?」

「思いませんね」


 それでは何のためにここまで来たのか分からなくなる。それに、どうせ回れ右をしたところで、待ち構えているであろう碧依に捕まるだけの話だ。結局、この先を抜けるしか、アイリスが助かる道はない。


 無事に助かるなどとは、一言も言っていないが。


「それでは、次の方どうぞ」


 そんなやり取りの最中、とうとう入口の扉が開かれる。その先に続く通路は、今いる場所以上に闇に染まっているように見えた。


「さ、行きますよ」

「許してくださいぃ……! 何でもしますからぁ……!」


 最後の懇願と言わんばかりに、アイリスがそう口にする。普段であれば、軽々しくそういうことを口にしない方がいいと忠告したのかもしれない。


 だが、今はその発言を存分に利用させてもらうことにする。


「じゃあ、一緒に入って楽しい思い出を作りましょうか」

「悪夢ですぅ……!」


 自らの言葉を利用されたうえに許しも得られなかったアイリスが、引っ張られるままに入口の扉を通り抜ける。一瞬だけランタンの光で照らされたその顔は、恐怖の色ただ一色に染まっていた。


「あ……」


 その背後で、最後の希望だった扉が、音もなく閉じていった。




 扉が閉じきってしまえば、辺りは思った以上の静寂に包まれる。そんな訳はないはずだが、アイリスが震える音すら聞こえそうな空間だった。


 時間帯も関係しているのだと思う。もっと来客が多い時間帯なら、廊下の騒めきが多少なりとも聞こえていたのだろう。


 けれども、今は午後四時四十五分。終了まで十五分となったこんな時間では、教室の窓際に位置するこの場所まで届くような騒めきは存在しない。


 結果、今日一日で一番それらしい雰囲気が形成されていると言っても過言ではなかった。


「……リ、リタイア口は……」

「いきなり何を探してるんですか」


 入口の扉を背にしたまま、怯えきった表情で辺りを見回すアイリス。どう考えてもこの場で探すものではないものを探していた。


「さ、最近のお化け屋敷って、そういうのがある、らしいじゃないですか……!」

「ここにはありません。探すだけ無駄です」

「あ……、この後ろの扉が……!」

「入口です」


 作った側の自分がないと言っているのに、アイリスは頑なにリタイア口を探し続けている。このまま放っておけば、いずれありもしない幻覚を見始めそうな気配すらあった。


「くだらないことをやってないで、早く進みますよ」

「うぁぁ……。ま、待ってくださいぃ……」


 いつまでも入口で立ち止まっている訳にもいかない。教室と通路、二つの入口を抜けた時と同じように、その手を引きながら歩き始める。


「暗いですぅ……! 怖いですぅ……!」


 いつもよりも歩幅が小さくなったアイリスに合わせていると、そんな言葉と共に左腕にしがみ付かれた。今度は冗談でも何でもなく、本当に震えが伝わってくる。


「……前を見てないと危ないですよ」


 そして、顔はほとんど腕に押し付けるような形。当然、目は完全に閉じられていた。暗くて当然である。


「そ、そんなことを言われても……!」

「見えない方が怖いと思うんですけど」

「見えてても怖いですけどっ、何か!?」

「いや、何かって……」


 いよいよ恐怖でおかしくなり始めているのかもしれない。なるべく他の場所を見ないようにして自分を見つめてきたアイリスの瞳には、ぐるぐると渦巻きが浮かんでいるようにすら思えてしまった。


「ひっ……!?」


 突然小さな音が聞こえてきたのは、そんな時だった。何かが擦れる音のようにも、人の呻き声のようにも聞こえる、そんな音。


 暗闇で視界が奪われた分だけ鋭敏になった聴覚に、いきなりの先制攻撃。普段の喧噪の中にあれば絶対に気付かないような音も、今であればはっきりと聞き取ることができた。


 そして、それはアイリスも同じようで。引きつったような悲鳴を上げて一際大きく体を震わせたかと思うと、しがみ付く力をさらに強めてきた。


「なんっ……!? 何ですか……!?」


 音の出所を探るように、あちこちに目を向ける。見えていても怖いが、結局は見えないことへの恐怖の方が大きかったらしい。


 ただし、見たからと言って、その音がどこからしているのか分かる訳ではないけれども。


「気のせいじゃないですか?」

「聞こえてないんですか……!?」

「何のことを言ってるのか……」

「最初に襲われる人……!」


 当然聞こえていたが、それを正直に話す必要もない。この方が、アイリスもより怖がってくれることだろう。


 事実、見上げてくる瞳は揺れに揺れている。こんな場所で自身にしか聞こえない音がしたとなれば、そんな風になるのも無理はない。


「あ……、またぁ……!」

「はい?」


 先程と同じ音が微かに響く。露骨に反応したアイリスが、早くもその足を止めた。


「もう嫌ですぅ……」

「もうって。まだ始まったばっかりですよ?」


 言いながら後ろを振り返れば、そこにはまだ入口の扉がある。まだ最初の直線すら抜けていなかった。


「ほら。行きますよ」

「うぅ……」


 左腕にしがみ付いたアイリスを促すようにして、歩みを再開する。一人で取り残されるのを避けようとすれば、必然、一緒についてくるしか選択肢はない。


「ひぃっ!?」


 そうして辿り着いた、最初の折り返し。壁に隠れていて見えなかったその場所には、通路の大半を塞ぐようにして、ベッドが鎮座していた。その上には、血塗れのメイクを施し、真っ赤に染まった衣装を身に纏ったクラスメイトがうつ伏せで横たわっている。


「絶対……! 絶対起きる……!」


 まだ何も起こっていないにも関わらず、はっきりとした悲鳴を上げたアイリスが、そんな未来を幻視する。


 またも足が止まりそうになるアイリスを引っ張りつつ、その横へと近付いていく。通路の隙間は人一人が通り抜けるのがやっとで、とてもではないが二人横並びで歩けるスペースはない。


 腕にしがみ付いたアイリスは離れる気配すらないのだから、抜けるのであれば横歩きしかない。だが、そうなるとわざわざベッドの方に顔を向けて歩くことになる。


 果たして、アイリスの心臓はそんな状況に耐えられるのだろうか。


「……! ……!」


 無理そうだった。気になって目を向けた先には、必死で首を横に振るアイリスの姿があった。


「……」


 無理そうではあるが、だからと言って進むのを止めるかと問われるとそうでもなく。引っ張る力が増した分、少しだけ重たくなった足でベッドの脇に滑り込む。


「なんで無言なんですかぁ……!」


 引きずられたアイリスも、とうとうその隙間へと差しかかる。先程は腕に顔を押し付けて何も見ないようにしていたのに、何故か今は横たわるクラスメイトの横顔をしっかりと見つめていた。


 もしかすると、何かあった時にすぐ対処できるようにしているのかもしれない。何かあったところで、先には自分がいるので、すぐに逃げることはできないのだが。


「……何も……! 起こらなかったぁ……!」


 まさに恐る恐るといった表現がぴったり似合う程の足取りで、ゆっくりとベッド脇を通り抜けたアイリス。安堵したような、それでいて何かに憤るような声と共に、大きく息を吐き出した。


「あんなこれ見よがしに置いてあるの……」


 そう言って若干油断したアイリスが振り返った先で、それは突然起こった。


 これまで横たわっているだけだった体がゆっくりと動き出し、そのまま緩慢な動きでベッドから這いずり出す。そして、そのタイミングであの音。


 こうなった時のアイリスがどんな反応を見せるかなど、考えるまでもない。


「いやぁああ!?」


 間違いなく廊下まで響いているであろう悲鳴を上げ、全力で通路を進んでいく。それでもやはり腕を取られたままなので、今度は自分が強制的に引きずられていく。


「おぉ……?」


 この小柄な体のどこにこんな力が隠されていたのかと、そう不思議に思えるくらいの勢いで引きずられ続ける。


「ひぅ!?」


 やがて、二つ目の折り返し地点に設置された扉を通り抜けたアイリスが、その先で足を止めた。


 扉が閉じ、もう追いかけられなくなったと安心したところに次の仕掛け。この通路の壁には、夥しい数の人間の腕が縫い付けられている。常人にとっては、不気味に思うどころの光景ではなかった。


「あ、ちなみにさっきのベッドなんですけど、あれ段ボール製なんですよね。寝心地は最悪です」

「今はそれどころじゃないんですけどぉ!?」


 製作側としての裏話を一つ盛り込んでみたが、どうやら気が紛れることはなかったらしい。


「こ、ここを……、通らないと、いけないんですか……?」


 完全に腰が引け、普段よりも幾分か低い位置にアイリスの頭がある。絶対に通りたくないと、何よりも如実にその体勢が物語っていた。


「戻ったらもう一回追いかけられますよ?」

「うぅ……」


 そしてここに逃げてきて、再びこの光景を目にするところまでがワンセット。永遠に終わることがない恐怖のループの完成だった。


 正直な話、そこまでになると、いかにアイリスといえども慣れてしまうような気がしないでもない。


「いやだぁ……、いやだぁぁ……!」


 相次ぐ精神への攻撃に、とうとうアイリスの口調が崩れ始めていた。それでも何とか足は前に進み始めた辺り、追いかけられる恐怖よりは、この不気味な光景の中を進む恐怖を選んだらしい。


 今度の通路は、二人並んで歩けるだけのスペースがある。その分、壁との距離は近くなってしまうが、今のアイリスにそんなことに気付ける余裕はないようだった。


「ここだけの話……」

「わっ!?」


 仕掛けを知っている身として、なるべく周囲に聞こえないように小声で話したのが悪かったのだろうか。まさか声がすると思っていなかったであろうアイリスが、仕掛けとは全く関係ないところで驚いていた。


「あ、すみません」

「なんなんですかぁ……」


 非難するような言葉も、勢いというものがまるで感じられない。そもそも、歩きながらも腰が引けている時点で、そんなものが生まれるはずもないのだが。


「いや、ここの腕、紙粘土で作るのが大変だったんですよって話です」

「それも今話すことじゃないです……!」


 自分が手伝ったものがこうして雰囲気作りに一役買っているのを見ると、それがこんなものであっても嬉しくはなる。


 だが、残念ながら恐怖で震えるアイリスには、そんな嬉しさは伝わってはくれなかった。


「え……? 作った……?」

「どうかしました?」


 たくさん縫い付けられているもののうち、どれが自分の作ったものだろうかと見回していると、この教室に入ってからは初めて聞く声音でアイリスが呟いた。


 何となく、何かに気付いたような雰囲気の声ではあったが、果たして何を見抜いたのか。


「ってことは、ここのは動かない……?」


 先程追いかけられた記憶が頭に染みついてしまっているのか、ここも動くものだと考えていたようだった。


 しかし、実際には作り物だと判明して、状況は一変する。


「そ、それなら、まだ……、不気味ってだけで……」


 ほんの少しだけ気持ちを持ち直したアイリスが、恐々とした様子で壁へと目を向ける。


 またしても油断したとしか言いようがない、この上なく悪いタイミングだった。


「あ」


 アイリスが目を向けたその先で、まさに見つめていた辺りの腕がいきなり蠢き出す。


「ひゃぁぁ!?」


 そんな悲鳴が上がるのが合図だったかのように、その動きは激しく、大きくなる。自らが縫い付けられた壁から逃げ出そうとするかのように、手の平が打ち付けられる。


 そして、それに呼応して、さらにいくつかの腕が動き出した。派手な音こそ上げないものの、こちらを壁の中に引きずり込もうとするかのようにゆらゆらと揺れる腕は、先程のものとは違い、静かに恐怖感を煽ってきた。


「むりぃ……!」


 もうアイリスは全く周囲を見ていない。固く目を閉じ、必死に顔を腕に押し付けるだけ。油断したところへの不意打ちは、心の許容量を完全に超えてしまったらしい。


「さっきも言いましたけど、前を見ないと危ないですよ」

「前を見たら、私の心が危険ですっ!」


 何かよく分からないことを言っているが、きっと動揺が言葉に表れてしまったのだろう。限界が近いことの証左でもある。


 あるいは、もう既に限界を迎えてしまっているか、だ。


「もうむりですよぉ……」


 半ば幼児退行している節すらあるアイリスを連れて、どうにか次の折り返しまで辿り着く。ここまで来ても、その目が前に向けられることはなかった。


「もう通り過ぎましたよ」

「……ほんとですかぁ……?」

「流石に、今のアイリスさんに嘘は吐けないですね」


 一切目を開けることなく、疑うような声で問いかけてくるアイリスだったが、そこまで鬼になった覚えはない。仕掛けだけで十分に怖がってくれている相手に、そんな余計な真似はできなかった。


「うぁ……」


 奇妙な声を上げながら、ようやくアイリスが目を開く。


 そこに広がっているのは、これまでと違って何もない通路。最後の折り返しに当たるところにあからさまな仕掛けが用意されているが、そこまではアイリスでも鼻歌交じりに歩けるような場所だった。


「あれ、見えます?」

「見たくないです……」


 心の底から漏れたような声。憔悴しきったその様子を見ていると、実はこの教室に入った時点で限界を超えていたのではないかとさえ思えてくる。


「とりあえず行ってみましょうか。あそこまでは何もないでしょうし」

「……」


 とうとう声すら出さなくなったアイリスを連れて、件の仕掛けの前まで移動する。その折り返しの先には、アイリスがずっと待ち望んでいたであろう出口が待ち構えていた。


「最後にここを覗いて、それで終わりですね」

「……」


 無言で首を振るアイリス。その動きで、限界まで湛えられていた涙が一粒、頬を流れ落ちていった。


「見ないと終わらないですし、僕が見たところで……」


 仕掛けを知っている人間が覗いたところで、何も面白くはない。結局のところ、今回は最初から最後まで、アイリスが体験するしか選択肢は存在していない。


「見なくたって出口には行けるじゃないですかぁ……」


 そう言うアイリスの視線は、一心に出口に注がれている。早く抜け出したくて仕方がない気持ちが、これでもかと言う程に溢れ出していた。


「作った側の意見としては、ちゃんと最後まで楽しんでもらいたいです」

「楽しくなんてないですもん……」


 ぽつりと呟かれた一言。もうすぐ二粒目の涙が零れ落ちそうだった。


 このまま単純に押し問答をしていても、きっとアイリスが仕掛けに足を向けることはないのだろう。あまりにも重たいその腰を上げさせるには、何か対価が必要そうだ。


「……はぁ」

「あ、葵さん……?」


 しがみ付いている相手の雰囲気がこれまでと変わったことを察したのか、出口へと向けられていたはずのアイリスの意識が戻ってくる。そこには驚かされることへの恐怖以外の色も感じられたが、これから提供しようとしている対価で頭が満たされている今、それを気にかける余裕はない。


「……それじゃあ、アイリスさんがあれを覗き込んでくれたら、その時は一つだけ何でも言うことを聞いてあげます」

「え……?」


 言いながら指し示すのは、壁に設えられた覗き窓。アイリスが背伸びすれば覗き込める程度の高さにあるその窓は、どう考えても近付けばよくないことが起こるという雰囲気を放っている。


「な、何でも……?」

「限界はありますけど、一応は何でも」


 間違いなく驚かされることが分かっているアイリスを、それでもそこに誘導するためには、これくらいの対価しか思い付かなかった。


 諸刃の剣という言葉がこれほど似合う台詞もないだろうが、全く受け入れる様子がなかったアイリスの気持ちが揺れ始めているのを見ると、やはり効果は大きいらしい。


「どうします?」

「うぅ……! うぅー……!」


 気持ちどころか、体まで揺れ始める。それほど、恐怖と願いの天秤が揺れ動いているのだろう。


「……」


 十数秒程はそうしていただろうか。それだけの葛藤の末、アイリスが導き出した結論は。


「……見ます……!」


 死地に赴くような決意を宿し、か細いながらもはっきりとした声で、そう宣言した。


「決まりですね」

「ででっ、でもっ! て、手は、握ったままで……!」

「まぁ、それくらいなら」


 宣言はしたものの、怖いことには変わりないのか、必死にそう懇願してくる。自分からしても、しがみ付かれている今よりも大分楽な格好になるということで、特に断る理由はない。


 終了の時間が差し迫っている中、それでもゆっくりとした歩みで、覗き窓へと近付く。微かな光が照らすその覗き窓に、アイリスの顔が映り込む。最初は上半分程度だったものが、背伸びをすることで大半が映り込むようになった。


「絶対っ……! 絶対、手は離しちゃだめですからね……!」


 いつ、何が起こるか分からないそんな状況で、まさに唯一の拠り所とするように、繋がれた手の力が強くなる。


 夏休みに何の気なしに考えた、アイリスの恐怖心を示すバロメーター。あの時は一番上が「泣きそうな程怖い」だと思っていたが、その上に「既に泣いてしまったくらいに怖い」が追加された瞬間だった。


「離しませんって」

「葵さんはそう言ってはなひぁあぁぁ!?」


 そんな不満の言葉は言いきることができず、途中から悲鳴へと変わる。どの仕掛けもアイリスが何かを話している瞬間に動き始めるのは、最早タイミングがいいと言った方が正しいのかもしれない。


 ともかく、本日最後となるはずの悲鳴を上げたアイリスは、再び腕にしがみ付く体勢へと逆戻りした。


 遮るものがなくなった覗き窓に目を向ければ、そこには真っ赤に染まった手が叩きつけられていた。まるで最後の力を振り絞ってそうしたかのようにずるずると崩れ落ちていくその手は、光がほとんど存在していないこの空間にあって、異常なまでにはっきりとその存在を誇示している。仕掛けを知らなければ、自分も間違いなく驚いていたことだろう。


「あぁぁ……!」


 そんな手を至近距離で見てしまったアイリスが冷静でいられる訳もなく。もう何も視界に入れたくないという強い思いを、これでもかと全身から放っていた。


「これは怖いですよね……」


 やっと手が引っ込み、赤い手形と引きずられたような跡だけが残る覗き窓を横目に見ながら、申し訳程度に慰めの言葉をかける。そんな言葉でアイリスが落ち着くとは到底思えなかったが、無言でいるよりはいい。


「もうほんとにむりですぅ……」


 がたがたと震えるアイリスが呟く。もう疑いようもなく限界を超えたその様子は、いっそ見ているこちらが不安になる程のもの。


「あとはもう出るだけですから」

「歩けないです……!」

「あと少しだけ頑張ってください。出口はすぐそこですよ」

「あぃぃ……」


 今にも泣き崩れそうなアイリスをほとんど引っ張るような形で、最後の扉を抜ける。途端に、強烈なまでの光が目を焼いた。


 暗闇に目が慣れていたところに、いきなりこの光量は厳しいものがある。本日二度目ではあるが、何度目だろうと視界が白く染まることには変わりない。


「よく頑張りましたね」


 何とか視界が戻ってきた頃合いを見計らって、未だに縋りついたままのアイリスに声をかける。雪のクラスではなかなか言い出せなかった言葉も、今ならすんなりと口から出すことができた。


「お疲れー。外まで悲鳴が聞こえてたよ」


 そんな風に声をかけてきたのは、入る時に見送ってくれた碧依。見れば、その後ろには悠と莉花も揃っている。


「いやぁ……。作った甲斐がある悲鳴だったわぁ……」

「そんな表情で言うのもどうかと思うけどね」


 恍惚とした表情でアイリスを眺める莉花と、そんな莉花を眺める悠。朝以来の全員集合だった。


「大変だったんじゃない?」

「僕は仕掛けを知ってますから。元々怖がりでもないですし」

「葵君が怖がるとかじゃなくて、アイリスさんを引っ張ってくるのが」

「あぁ……」


 てっきり、製作側なのにお化け屋敷の感想を尋ねられたのかと思ったが、どうやら違ったらしい。


 その真意を理解して、動く気配のないアイリスへと視線を戻す。


 ただし、動く気配がないというのはその体全体のことであって、小刻みに震える動きはむしろ止まっていない。


「大変でしたね。怯えっぱなしだったので」

「だろうね。今もそんな感じだし」


 労わっているのか、それとも面白がっているのかよく分からない眼差しの碧依。単純にどちらも混ざったような目に見えるのは気のせいだろうか。


「悲鳴だけは聞こえてたけど、様子は見えなかったからさ。どんなだったか、もっと詳しく教えてよ」

「顔がにやついてなかったら、多少は考えたんですけど」

「おっと……」


 割って入ってきた莉花がそう口にする。どこからどう見てもからかう気しかないその表情を見てしまえば、迂闊に中での様子を話すことは躊躇われた。


 さらに言えば、今は過剰とも言える莉花への攻撃力を持つアイリスが完全にフリーズ状態である。途中から碧依も参戦してくるであろう会話に、戦力が乏しい状態で挑むのは得策ではなかった。


「でもまぁ、そういうのを知りたくなっちゃうのも分かるけどね」

「羽崎君までですか」

「僕のは真面目な理由だからね? どういう感じで怖がってくれたのか、とか」

「私のも真面目な理由だけど?」

「渡井さんは静かにしててください」


 一瞬悠も同じようなことを言い出したのかとも思ったが、それは杞憂に終わった。本人の言う通り、その顔には悪意の色は一切見えない。今後活かせる機会があるのかは疑問だが、体験した者のフィードバックを得ようとするのは、製作側として当然の行動ということだ。


「そうですね……。思ったより……」

「あ」

「お?」

「え?」


 本当に真面目な意味で様子を知りたがっているのだろうと判断して、中での様子を伝えようと口を開いた瞬間だった。


 もぞもぞと。動きを取り戻したアイリスが、真正面から抱き付いてきたのは。


 左腕にしがみ付いていた、その代わりと言うには随分と踏み込んだ仕草。そんな動きを見た三人の反応は、どれもほとんど変わらないようなものだった。


「アイリスさん……?」

「……」


 首元に顔を埋めて黙り込むアイリスに戸惑いつつも、何とか一言声をかける。その顔が全く見えない以上、感情を推し量ることもできない。


「……うぁ……」


 そんな呼びかけに応じた訳ではないだろうが、返事とも言えないような小さな声がようやく漏れる。それと同時に、肩の震えが不規則なものに変わっていく。


「あー……」


 何が起こったのかを察した碧依が、軽く苦笑いを浮かべる。僅かに遅れて気付いた悠と莉花も、どこか気まずそうな顔をしていた。


「泣く程ってのは、流石に想像してなかったかなぁ……?」


 莉花が呟いた通り、アイリスが漏らしたのはすすり泣きの声。外に出たことで一気に気が緩み、これまで押し止めていたものが溢れ出したのだろう。流石の莉花も、こうなったアイリスをからかうことはできないようだった。


「……大丈夫ですから。もう何もありませんよ」

「ぅぁぁ……!」


 一度溢れ出してしまったものを止めるのは、そう簡単なことではない。はっきりと聞き取れるまで大きくなってしまった声を受け止めながら、少しでも落ち着いてくれるようにと、軽く背中を撫でる。


「ちょっとアイリスさんの怖がり具合を甘く見てたかも……」

「いや、そうは言っても、文化祭のお化け屋敷で泣くくらいとは思わないって……」

「あ、あはは……」


 まさかの展開に追いつけない三人の声を聞きながら、ひたすらアイリスを宥め続ける。溢れ出し続ける感情は、まだ一向に収まる気配を見せない。





 こうして。誰にも予想できなかった光景を生み出した今年の文化祭は、目の前で揺れる視界いっぱいの菜の花色を残して、静かに終わりを迎えたのだった。

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