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73. エーデルワイス (5)

「はい、次はこれを使ってね」

「流石に針じゃないんですね」

「まぁ、それはね。小さい子供も遊ぶ想定だから」


 アイリスと二人して団栗の背比べを演じた少し後。雪に案内されて次にやって来たのは、ダーツのコーナー。


 そして、手渡されたのはこれまた五本の矢。先端が針になっているイメージと違って、今渡されたものはマジックテープでくっつくようになっている。雪の言う通り、小さい子供が扱うことを基準にした作りだった。


「葵さんも安心して遊べますね!」

「ですね。アイリスさんの背中に投げつけてあげますよ」


 先程子供扱いしたことへの仕返しなのか、意地悪そうな笑顔で、アイリスがそう口にする。表情だけでなく、雰囲気そのものも実に楽しそうである。


「残念でした。この服、マジックテープはくっつきません」

「じゃあ、くっつきそうな服を着る時まで温存しておきます」

「出る時には全部返してねー」

「だそうですよ?」

「……無念です」


 どうやら、その機会は訪れそうになかった。そもそも、これだけ言ってしまっている時点で、アイリスの方も警戒して当然だ。よく考えるまでもなく、最初から叶うことがない願いだった。


「本当に残念そうな顔をしないでくださいよ。そんなにですか?」

「アイリスさんといえば、背中にダーツの矢をくっつけたまま歩いてるイメージなので」

「そんなことを考えてるのは葵さんだけです」

「あんまり気が付かなそうだよね」

「先輩もみたいですよ?」

「……」


 意地悪そうな笑顔から一転、非難するような目付きに変わる。ただし、どこにも迫力は存在していなかった。やはりアイリスは怒るのに向いていない。


「そろそろ説明を始めてもいいかな?」

「あ、はい、お願いします」

「背中に矢がくっついてても気が付かなそうなアイリスさんも。いい?」

「お願いします。……気付きますけど」


 またもやいつまでも会話が続いてしまう気配を感じ取ったのか、雪が隙を見て話を切り出した。アイリスへは余計な一言が付いていたせいで、自分へ向いていた厳しい目は、今は雪へと向かっている。


「って言っても、さっきの輪投げとは違って障害物もないから、本当にただのダーツなんだけどね」


 だが、そんなアイリスの視線をものともせず、雪が説明を始める。何度も説明を繰り返してきたのか、その話し方に淀みはない。ついでに言えば、アイリスからの影響も全く見られなかった。


 結果、雪を見つめていても意味がないと悟ったアイリスの視線が、自分へと戻ってきてしまった。だからと言って自分が何かを話す訳でもないので、それも何の影響もないのだが。


「方式はカウントアップで、目標は四十点だよ」

「カウント……、アップ……?」

「単純に獲得した点数を合計するってこと」

「あぁ……。そっちのカウントアップですか」


 納得したようにアイリスがそう零す。どうやら「カウントアップ」という言葉の意味が引っかかっていたらしい。アイリスならではの違和感の抱き方とも言えた。


「そっちって、それ以外に何かあったっけ?」

「えっと……、カウントダウンの反対、とか。一、二、三って数える時の数え方です」

「あ、そっか。やっぱりアイリスさんはそういうのも浮かぶんだ?」


 唐突に始まった英語談義。雪の説明に何の疑問も抱くことができなかったので、置いてけぼりになってしまった格好である。


「葵さんが着たことのある女の子の服を数える時に使う方法ですね」

「どうしてわざわざそんな例えにしたんですか」


 置いてけぼりになっている場合ではなかった。全速力でアイリスの隣まで追いつく。


「私が知ってるのは、体育祭の時の一つだけかな」

「私は、ウェイトレス服、メイド服、あと、男女兼用でしたけど浴衣も知ってるので、全部で四つですね!」

「誰もそこをカウントアップしろとは言ってないんですよ」


 喜々とした表情で語らなくてもいい。その数が増えていく度、自分の顔が曇っていくだけだ。


「これからもっと増やしていきましょうね!」

「頷くと思いました?」


 それで頷くのは、相当に奇特な性格をした人間だけだ。もしくは脅された悠か。何にせよ、自分が首を縦に振る訳がなかった。


「そんなわけで、お正月の巫女服を賭けて、葵さんとダーツ勝負です!」

「まだ生きてたんですか、その話……」

「着てもらうまでは、ずーっと生きてます」

「迷惑……」


 一欠片も冗談が含まれていない瞳で、アイリスがそう宣言する。こうなってしまったアイリスはもう止まらない。今回の勝負を乗りきったところで、あの手この手で着せようとしてくるはずだ。


「あ、でも、その前にクリスマスのサンタ服もいいかもしれないですね……」

「どうして増やそうと……」

「それなら、ダーツでは巫女服を賭けて、射的ではサンタ服を賭けたらいいのでは……?」

「『いいのでは?』じゃないんですよ。何もよくないです」


 妙案を思い付いたという雰囲気を漂わせるのは間違っている。そして何より、徐々に瞳の輝きが増しているのが一番の間違いだった。


「それならさっきの輪投げも何か賭けておけばよかったぁ……! せっかく勝ったのにぃ……!」

「いつもこうやって着せられてるの?」

「……認めたくないです」

「着せられてるんだね」


 看破する必要のない事実をあっさり看破する雪。その目に僅かな労わりの色が浮かんでいたのは、果たして気のせいだったのだろうか。


「でも、とりあえずあと二つも勝てば葵さんも私も幸せ……。大丈夫、葵さんの可愛い姿を見るためなら、私は全力を出せる……!」

「幸せなの?」

「そんな顔に見えます?」

「半分泣きそう」

「正解です」


 やたらと気合を入れるアイリスの姿に、涙が零れそうだった。当然、感涙ではなく悲しみから来る方だったのだが。




「やっぱり、まずは葵さんからですよね」

「それは別に構いませんけど……」

「けど?」

「様子を見るって理由以外にも、何か考えてますよね?」


 お手製のダーツボードの前に立ちながら、アイリスに問いかける。至って真面目な顔をしているアイリスだが、確実に裏では何かを考えているはずだ。うっすらとだが、そんな雰囲気を感じ取ることができた。


「そうなの?」

「えぇ。何となくですけど、そんな気がします」


 そこまでアイリスの機微を読み取れる訳ではない雪からすれば、これまでのアイリスと何も変わらないように見えるらしい。頭の上に疑問符を浮かべながら、じっとアイリスのことを見つめている。


「そんなことまで分かってくれるんですかぁ……?」

「あ、これは私でも分かる。照れてるんだね」

「照れるポイントが独特ですけどね」


 そんな雪の視線の先で、アイリスが頬を緩ませる。誰の目から見ても、その心の内は明らかだった。


「で、何を企んでたんですか?」

「企むなんてそんな……。葵さんの点数を先に知っておいた方がやりやすいとか、精神的に揺さぶって低い点数を取ってもらおうとか、それくらいですよぉ……!」

「それくらい……?」

「私、今究極の正直者を見てるのかもしれない」

「えへへ……」


 照れた顔のまま、緩みきった口調で企みが語られる。その中身は、とてもではないが照れながら話すことではなかった。


「具体的には、何をしようとしてるの?」


 恐らく、今のアイリスは何を聞かれても答えてくれる状態だと見切ったのだろう。雪が果敢に切り込んでいく。


 個人的には聞いておいた方がいいような、聞かない方がいいような、そんな疑問である。何をしてくるのか分かった状態で平静を保つのも難しければ、何も知らない状態でいるのも恐怖感はある。結局、種類が違う葛藤を抱くだけの話なので、迷うのも仕方がない。


 そうこう考えている間に、アイリスの口が開かれる。


「葵さんが照れてくれることをしますっ。色々と分かってきたのでっ!」

「先輩。もう投げますね?」

「あ、うん」

「ストップです! 葵さん!」


 その発言を聞いた瞬間、アイリスが何か行動を起こす前に五本全てを投げきることを決意する。


 手には既に五本の矢。そして、立っている位置は決められた位置。細かく狙いを付けるのは難しいだろうが、アイリスに何かされた状態で投げるよりはいい。


 そう思っていたのに、アイリスの行動が思ったよりも早かった。普段はそこまで俊敏な動きは見せないのに、どうしてこういう時だけはやたらと素早いのだろうか。


「葵さんにはこうです!」

「う……」


 ほとんど飛びかかるような動きで、左腕がアイリスに絡め取られる。妙に嬉しそうな表情に意識を持っていかれている間に、さらに手まで握られた。自分から握るのは恥ずかしいと言っていたアイリスは、一体どこへ消えてしまったのか。今のアイリスには、そんな面影は一切見られない。


「わぁ……、大胆」

「葵さんにはこれが効果抜群ですから!」

「いやまぁ、多分誰にでも効果抜群だと思うけど……」


 雪の言う通りである。アイリスにこんなことをされて平気でいられる人がいるのなら、是非とも見てみたいものだ。


 そうして何も抵抗できずにいると、握られた左手に何かが蠢く感覚があった。何かも何も、アイリスの手以外はあり得ないのだが。


「……何を」

「何って……、にぎにぎって……」


 その言葉通り、力が強くなり、そして弱くなる。繋いだ手の感触を確かめるように、そんな動きが繰り返されていた。


「どうして?」

「何となく、です」


 曇りのない瞳で見つめられる間も、その動きは止まらない。


「……」

「さ、もう投げても大丈夫ですよ、葵さん。……ちゃんと高い点数が取れたらいいですね?」

「凄いことを言ってるなぁ……、この後輩ちゃん……」


 楽しそうな表情で悪魔のような言葉を突き付けてくるアイリス。その背中と腰辺りに、羽と尻尾の幻覚が見えたような、そんな気がした。




「はい、三十点」

「はい……」


 散々な結果だった。ダーツにおいて、一本平均六点は相当低いと言ってしまっていいだろう。アイリスの腕次第では、たった一本で超えられてしまう点数だった。


 そして、また一歩ポケットティッシュに近付いた。もう目の前である。


「思ったより取られちゃいましたね……。もっと低いと思ってたんですけど……」


 未だに腕に抱き付いたままのアイリスが、そんな言葉を零す。どうやら、もっと悲惨な結果を想像していたらしい。その顔には、微かに不満そうな色が混ざっていた。


「アウトボードなんかもあったし、思ったより動揺してたんだね」

「助けてください……」

「見てる側は楽しいよ?」

「見られてる側は楽しくないですよ?」

「そういうことが言える間は大丈夫そうだね」

「大丈夫じゃないです……」


 主に心臓が、である。その鼓動で手が揺れて、微妙に狙いが定まらなかったのが低得点の原因でもある。今の状況も、そして結果も、何一つとして大丈夫なところなど見当たらなかった。


「それじゃあ、次は私の番ですね」


 そう言って、ようやくアイリスが左腕から離れていく。久しぶりの自由を取り戻した左腕は、それでも何故か少しだけ動かしにくかった。


「ダーツってやったことがないんですよね。……あ、ちょっと失礼して」

「いやいや……。いやいや……」


 左腕が自由になった代わりに、右腕の自由が奪われた。


「いやいや期ってやつですか?」


 惚けるように言うアイリス。確実に自分の心の内を見透かしたうえでの一言だった。


「どうしてですか。もう僕の番は終わったんですから、あとはアイリスさんが好きなように投げたらいいじゃないですか」

「ですね。なので、好きにしてます」

「『僕を好きにしていい』とは言ってないですって」


 今度は右腕を絡め取ったまま、アイリスが空いた手で矢を一本構える。見たことも聞いたこともない構え方だが、残念ながらダーツは片腕が空いていればできてしまう。その証拠に、アイリスは何の無理もない体勢で矢を投げようとしていた。


「私が勝つのはほとんど決まってるみたいなものですからね。葵さんが逃げないように、ちゃんと捕まえておかないと……」

「逃げませんって。……多分」

「自分でも自信がないみたいじゃないですか。やっぱり捕まえておかないとだめですね」


 まるで「捕まえておく」という言葉を体現するかのように、アイリスの腕にさらに力が入る。どうやっても抜け出せる未来が見えなかった。


「大変そうだね、湊君」

「助けてください……」


 そんな一部始終を眺めていた雪が、何故かとても楽しそうに声をかけてきた。その表情を見る限り、助けを求めてもあまり意味はなさそうだったが、一応尋ねてみる。溺れる者は藁をも掴む、だ。


「アイリスさんが楽しそうだから、そのままでいいと思うよ?」

「その楽しさは、僕の犠牲の上に成り立ってますけど」

「細かいことは気にしちゃだめだよ」

「細かい……?」


 やはりどうにもならなかった。あっけらかんとしたその口調は、あくまで傍観者として楽しんでいるからこそのものだ。当事者になってしまえば、そんなことは言っていられなくなる。


「じゃあ、一本目いきますね?」

「何なら、その一本で勝ちを決めちゃってもいいんじゃない?」

「任せてください!」


 しっかり狙いを付けて放たれた、アイリスの第一投。雪の言葉に後押しされながらダーツボードへと飛翔したその矢は、しっかりと得点部分にくっついていた。いきなりアウトボードだった自分とは大きな違いがある。


「あ」

「おぉ」

「……」


 しかも、その場所は所謂「トリプル」と呼ばれる一角で。


「九点のトリプルだから、これだけで二十七点だね」

「惜しかったですね……。あとちょっとで三十点を超えたのに……」

「何も惜しくなんてないです」


 危うく宣言通りに一投で追い抜かれそうになった側としては、感じるのは惜しさではなく焦燥感である。あと一本でも四点以上を取ってしまえば追い抜かれるという時点で、その焦燥感も今更ではあるが。いかんせん、肉薄されるまでが短過ぎた。


「でも、これでいよいよ巫女服の葵さんが目の前に迫ってきましたね」

「燕尾服の湊君は、目の前どころじゃないところにいるけどね」

「上手いことを言ってないで、アイリスさんをどうにかしてもらえませんか?」


 二度目の懇願。再び迫ってきた藁の耐久度はいかに。


「アイリスさん」

「何ですか? 葵さんなら離しませんよ?」

「このまま大差で勝ったら、他にも何かお願いを叶えてもらったらいいんじゃない?」

「それいいですねっ!」

「先輩……?」


 まさかのアイリスへの提案。藁だと思っていたものは、実は悪魔の手だったのかもしれない。


 何にせよ、状況は一気に不穏な方向へと傾いた。ただでさえ巫女服が確定寸前まで迫っているのに、これ以上の要求となれば、身が持たない可能性すらある。何としても阻止しなければならない、最後の一線だった。


「アイリスさんは優しいですし、そんな無茶なことはしませんよね?」

「大丈夫ですよ、葵さん」


 穏やかな声で、アイリスが答える。慈愛に満ちた表情に見えるのに、何故か一切安心することができない。経験上、こういう時のアイリスが何を言い出すのか、本当は頭の片隅で理解しているからだろう。


「ちゃんと大差で勝って、『惜しかった』とか『悔しい』とか、そんな感想も出ないようにしますから」

「優しさの方向性がおかしい……」


 案の定、望んでいた答えは返ってこなかった。それどころか、返ってきたのは完膚なきまでに勝つという宣言。やはり悪魔はここにいた。


「じゃあ、二本目ですっ!」


 気を取り直して、といった様子で矢を構えるアイリス。その横顔には、一欠片の迷いすら浮かんでいなかった。




「六十四点です!」

「……はい」

「大勝利、ですねっ!」

「……はい」


 晴れやかな顔のアイリスと、曇りきった顔の自分。晴れ時々曇りのマークを体現する二人組の完成だった。


「これでアイリスさんは目標一つクリアだね」

「ポケットティッシュは免れましたっ」

「嬉しそうだ」


 雪がそう表現する通り、アイリスが嬉しそうに小さく跳ねる度に、揺れる髪から漂う甘い香りが強くなる。これだけの距離にいるからこその感覚で、それがどうにも落ち着かない。


「ちゃんと全部当たるのは珍しいんだよ?」

「そうなんですか?」

「うん。マジックテープだから、上手く当たらないとくっついてくれないんだ」

「じゃあ、私が上手だったってことですねっ」


 今回ばかりはその自慢げな顔を否定することはできない。半分以下の点数しか取れなかった者に、何か意見する権利などありはしなかった。


「倍以上の点数を取ったんですから、流石に褒めてもらってもいいですよね?」

「……それが追加のお願いってことでいいですか?」

「よくないです」


 即答だった。しかも、わざわざ首を横に振ってまでの即答である。聞き入れてもらえる未来が全く見えない否定のされ方に、心が八割方諦めの感情に支配される。


「そっちはこの後考えますから、とりあえず頑張ったことを褒めてもらえたら嬉しいなーって……」


 言っていることに慈悲は感じられないのに、期待するような上目遣いは可愛らしくて、心が掻き乱される。諦めの気持ちも相まって、褒めるくらいのことなら何でもないように思えてしまう。


 たとえ、すぐ近くで雪が面白そうに眺めているのが視界に入っていたとしても、だ。


「……よく、頑張りました」


 前にも言った覚えがある言葉なのに、何故かすらすらと言葉にすることができない。その原因は、アイリスとの近さなのか、それとも自分の心境の変化なのか。どちらにせよ、アイリスも自分も、もうあの頃とは色々と変わっていることは確かだった。


「……! えへ……!」

「う……」


 褒め言葉と言っても、そこまで気が利いた言葉な訳でもなく、本当に単純な言葉だ。それでも、アイリスは花が咲いたような笑みを浮かべてくれた。


 そんな表情が掻き乱された心の何かに触れて、思わず呻き声が漏れる。言葉に詰まってしまったのは、心境の変化の影響が大きいのかもしれない。


「私は何を見せられてるんだろうな……?」


 そんな声がした方へと目を向ければ、とても生温かい目でこちらを見つめる雪と目が合った。


 当然、何も言えずに再度目を逸らすことしかできなかった。




「幸せそうなところ悪いんだけど、そろそろ移動してもいい?」

「あ、はいっ。大丈夫です」


 雪に見つめられること数十秒。少しだけ控えめにアイリスに声をかけた雪は、何故か少し申し訳なさそうだった。


「それじゃあ、最後にこっちへどうぞ」

「ほら、行きましょ、葵さん」

「……腕は離してくれないんですね」


 そんな雪に導かれるまま、アイリスが先に歩き出す。それでも右腕は解放してくれないので、ほとんど引っ張られて歩くような形になる。


「当たり前です。このまま照れておいてもらって、射的でも私が勝つつもりですから」


 必勝の策を見出したかのように、アイリスがそう口にする。どうやら、この教室を出るまで解放する気がないらしい。


 確かに、この策でダーツ勝負は大勝したのだから、アイリスからすればこのままの状態が一番いいのだろう。ある意味では最善の行動と言える。


「はい、じゃあ、最後は射的です。使うのは、よく見るコルク玉を使った銃だね」

「夏祭りで見かけるやつですね。雪辱を果たします」

「何があったのかは分からないけど、やる気があるのはいいことだと思うよ。湊君はサンタ服に近付いちゃうね?」

「勝てばいいんですよ、勝てば……」

「勝てるの?」

「勝て……」


 あまり勝てると思っていなそうな雪の表情を見ていると、元からあまりなかった自信が、さらに萎んでいくのがはっきりと感じ取れた。


「ここの目標は何点なんですか?」


 自身が負けるとは微塵も考えていなそうなアイリスの関心は、既にそこへと向いていた。圧倒的強者の余裕である。


「ここは点数じゃなくて、的を倒した数だよ。コルク玉は十個渡して、目標は的五個」

「半分ですか……」

「こういうコルク銃って、意外と狙ったところに飛ばないからね。程々のところを狙って設定しておいたんだ」

「狙ったところに飛ばないのは、それはもうよーく知ってます」


 ここでも夏祭りのことを思い出しているのか、的を見つめるアイリスの視線は、いつもよりも少しだけ鋭かった。


「あれ? 倒した数、ですか?」


 そんなアイリスが、時間差で雪の言葉に違和感を抱く。鋭かった視線は、問いかける時にはすっかりいつも通りに戻っていた。


「そうだけど、それがどうかした?」

「いや、射的って、台の下に落ちないとだめなイメージじゃないですか」

「あぁ。それも考えたんだけどね。そこまで本格的じゃないのと、もっと気軽に楽しんでもらいたいってことで、倒すだけにしたんだ」

「そうですか……」


 随分と難易度が下がった雪辱の機会に、少しの間、アイリスが考え込む。大方、雪辱を果たすのなら、あの時の難易度そのままの方がすっきりするとでも考えているのだろう。


「ま、裏話をするとね? 受験勉強で忙しくて、そういうところを色々と細かく調整するような時間がなかったっていうのが、一番の理由」

「そういう生々しいお話は聞きたくなかったですっ!」


 だが、雪の言葉がアイリスの思考を許さない。茶目っ気たっぷりに、ウインクまでして語られた、この教室の事実。その中身には、一切茶目っ気は感じられなかった。感じられるのは、意外とすぐそこまで迫っている、高校生にとっては人生の大きな転機となる可能性すら秘めた、とあるものへの緊張くらいのものだ。


「ほら、よく見て。どれもそんなに準備が大変そうじゃないものばっかりでしょ? 輪投げだけは、担当したグループが張り切っちゃったからあんな風になったけど」

「純粋に表だけを見ていたかったです……!」


 雪の精神的な攻撃が止まらない。蓋をしておけば誰にも知られなかったはずなのに、わざわざそれを開けてアイリスに覗き込ませている。漏れ出した微かな闇が、その心を蝕もうとしていた。


「だめだよ? アイリスさんも二年後にはこうなるんだから。受験勉強に追われながら、放課後にどうにか時間を作るんだよ?」

「わ、私は一年生ですし? まだ高校生活を楽しめる、はず……」

「私も、ちょっと前まではそう考えてたなぁ……」

「あぁぁ……!」


 聞きたくない言葉を耳から追い出すように、アイリスが小さく首を振る。どうしてこうなったのかは分からないが、何もしていないのに射的で勝てそうな気がしてくるから不思議なものだ。


「さぁ、それじゃあそろそろ挑戦してみようか!」

「どうしてこんなタイミングで……!」

「僕は何だか勝てそうな気がするので、これはこれでありです」

「負けませんもん!」


 何故かそこだけははっきりとした思いを口にするアイリス。サンタ服への執念が成せる業だった。




「今回は私が先にやります」

「また何か企んでるんですか?」

「今度は先に結果を突き付けて、プレッシャーをかけます」

「よく次から次へとそういうことを……」


 コルク銃を手にしたアイリスから、宣戦布告以外の何物でもない言葉が飛び出してきた。とにかく勝利を得るために全力である。


「まぁ、そんなことをしなくても、今の照れに照れてる葵さんになら勝てると思うんですけど」

「どの口が……」


 元凶がよく言えたものだ。そんなことを考えながら目を遣るが、アイリスは既に自分を見ていない。手元のコルク銃にコルク玉を詰めるのに忙しそうだった。


 腕が動かしにくいのか、その作業にはやや時間がかかっている。それなら右腕を解放してくれてもいいのではないかと思うが、どうやらアイリスにその気はないらしい。


「よしっ。じゃあ、いきますっ」


 ようやく準備を整えて、そう宣言する。当然、構えて狙いを定める間も、何も解放されることはない。


 やがて、夏祭りでも聞いた覚えがある軽い音と共に、小さなコルク玉が的に向かって飛んでいく。綺麗に的へと向かうかと思われたそのコルク玉は、惜しくも的の僅かに右を素通りしていった。


「あっ!」


 すぐ隣でそんな声が上がるのと同時に、抱き締められた腕に力が込められる。感情と行動が一致した、とてもアイリスらしい動きだった。


「残念。一発目は外れだね」

「……」


 そんな雪の言葉に、アイリスの表情が微かに曇っていく。纏う雰囲気が、雪辱を果たすと言っていた時のものに近付いていくのが感じ取れた。


「……」


 無言で二発目を詰め、構え、そして撃つ。


「お」


 命中だった。雪が思わず驚きの声を上げる程の修正力である。的の右側に逸れていった一発目とは違い、二発目は的の中心を正確に撃ち抜いていた。


「……」


 三発目もやはり無言。集中しているのか何なのか、その横顔は、やけに凛々しいものになっている。普段は可愛らしさが前面に出やすいアイリスにしては、随分と珍しい表情である。


 そうして撃ち出された三発目は、これまた命中。何かコツでも掴んだのか、構えてから撃つまでの時間も、少しだけ短くなっているような気がした。


 その後も、全く集中を切らすことなく六発目まで連続で命中させ続け、あっという間に目標を達成してしまう。いよいよ自分の全敗が背後まで迫っていた。


「凄い集中力だね」

「なかなか見ることがないアイリスさんですね」


 三発目以降は黙って見ていた雪が、目標を達成してしまったところで、思い出したかのように話しかけてくる。まさかこんな達成の仕方になるとは露程も思っていなかったらしく、その声には意外そうな響きが乗っていた。


 そんな会話など聞こえていないかのように、集中しきったアイリスは見事七発目も命中させた。全敗の手が肩にかかる。


「そんな滅多に見ない表情は、湊君から見てどう?」

「これはこれで可愛いんじゃないですか?」

「ふわぁっ!?」


 相変わらず無言で八発目を撃とうとしていたアイリスの肩が、驚きの声と共に盛大に跳ね上がる。言うまでもなく、連続記録はそこで途絶えた。


「いきなり何なんですかぁ!?」

「いきなり聞かれたので」


 凛々しかった顔はどこへやら。いつも通りの慌てふためいた顔に戻って、抗議の視線を送ってくる。本人にとっては残念ながら、微塵も迫力はなかったが。


「せっかく調子がよかったのに、葵さんのせいで全部狂っちゃったんですけどっ。どうしてくれるんですかっ!」

「そう言われても……」


 自分としては、全敗が少し遠のいたので何も文句はない。もちろん、最初からそんな意図があって口にした言葉ではなかったが、結果としてそうなったものは大歓迎だ。


「嬉しくなかったの?」

「嬉しいに決まってるじゃないですかっ。だから余計複雑なんですよぉ!」

「そこは素直なんだ?」


 躊躇う素振りなど一切見せず、はっきりとそう即答したアイリスに、尋ねた雪の方が若干圧倒されているらしかった。それでも、その顔には少しだけからかうような色が浮かんでいる。


「葵さんだって、素直な人の方がいいですよね?」

「それはまぁ……。その二択なら」

「ですよね!」

「で、素直に反応しちゃって、見事に外した、と」

「ぐっ……!」


 痛い所を突かれて呻き声を上げるアイリス。どう取り繕っても事実は事実なので、何も言い返すことができないようである。


「あと二発、当たるといいね?」

「当て……、ますもん……」

「湊君」

「はい?」

「アイリスさんって可愛い?」

「可愛いと思いますよ」

「うぅー!」


 分かりやすいにも程がある雪の狙いにそのまま乗れば、狙い通り、綺麗に頬を染め上げたアイリスが出来上がる。


 その色は、二人がかりでからかってくることへの怒りが原因なのか、はたまた照れが原因なのか。心の中の深いところにあるその答えは、本人以外の誰にも推し量ることはできなかった。


 ちなみに、アイリスは残りの二発を綺麗に外して、倒した的の数は六個で終了となった。


 さらに言えば、その後に挑戦した自分は五個の的を倒して終了した。この手の勝負でも照れさせ合いでも、アイリスには全く敵わないことを実感しただけの一幕だった。

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