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72. エーデルワイス (4)

「と言うかですよ、葵さん」

「いきなり何です」


 二人して人の隙間を抜けるようにして歩いていると、アイリスがそう切り出した。その顔は妙に真剣なもの。目付きがいつもより若干細くなっている。


「さっきから、ほとんど文化祭らしいお話とかことをしてません」


 そんな表情のまま、随分と今更な言葉が続けて飛び出してきた。気付いていて言わなかったのか、それとも気付きすらしていなかったのか。アイリスの様子から読み取ることはできなかったが、どことなく焦燥感に駆られているのだけは理解できた。


「しばらくアイリスさんの暴走に付き合ってましたからね。暴走ってよりは妄想でしたけど」


 そうは言っても、その原因の大半はアイリスにあると言っても過言ではない。話のきっかけは文化祭のことなのに、いつの間にかアイリスが話題をおかしな方向へと逸らしてしまうことが多々あった。ある意味自業自得である。


「もっと早く気付くべきでした……。妄想はいつでもできますけど、葵さんと文化祭を回ることができるのって、年に一回しかないんですよ……!」


 しまったという言葉が聞こえてきそうな表情で、アイリスがそう口にする。文化祭が年に一回しかないのは同意するが、その前の言葉が引っかかる。


「いつでも妄想ができるのも、それはそれでどうかと思いますけどね」

「私に隙はありません」

「どうして自慢げに言ってるんですか?」


 少しだけ胸を張るような仕草を見せていたが、残念ながら、今はそんな仕草をしていい場面ではない。


「……って。だから、今はそうじゃないんですよ。またお話が逸れちゃうところでした」


 思い出したように話題が軌道修正される。恐らく、放っておけばそのまま関係のない話が続いていたのだろう。その辺りは、最早いつもの流れだ。


「時間も決まってるんですから、行きたいところには早めに行っておかないと……」

「それもそうですね」


 元の軌道に戻った後のアイリスの言葉は、至極全うなものだった。


 時刻は既に午後二時近く。文化祭の終了が午後五時なので、あと三時間程は残っている計算になる。だが、あれこれと回っていれば、その程度の時間はすぐに過ぎ去ってしまうだろう。


「どこか行きたいところって決めてました?」


 上着の内ポケットに入れていたパンフレットを広げて、アイリスに問う。決まっていれば必要のないものだが、もしそうでないとしたら、全ての出し物が網羅されているこのパンフレットがきっと役に立つはずだ。


「んー……。あんまり深く考えてなかったんですよね……」

「アイリスさんにしては珍しいですね?」


 何かを思い返すように、窓の外に視線を向けてぽつりと呟くアイリス。この手のイベント事を前にしたアイリスということを考えると、ほとんど予想できなかった一言だった。


「一週間くらい前から、毎日のようにパンフレットを眺めてそうなのに」

「葵さん、たまに私のことを小学生か何かだと思ってますよね?」

「……」


 そんな言葉と共に、じっとりとした目で見つめられる。否定の言葉は出てこなかった。


「どうして何も言ってくれないんですか?」

「……」


 じっとりとした目が、責めるような目に変わる。そんな目を正面から受け止めることができず、そっと目を逸らす。


「……葵兄さん」

「うっ……」


 随分と久しぶりに聞いたような気がする、そんな呼び方。以前聞いた時は少し拗ねたような雰囲気だったはずだ。それが、今はちょっとした悪意を含んだような雰囲気に変わっている。


 それでも、少し外した視界にも入るよう、わざわざ覗き込むようにして呟かれた一言は、可愛らしさの方が圧倒的に勝っていて。何も言えなかったはずの口から、思わず小さな呻き声が漏れ出してしまった。


「何か言ってくれないと、ずっとそう呼びますよ」

「……いや、それは……」

「いずれ『葵お兄ちゃん』に変わります」

「僕が悪かったです。許してください」


 特殊過ぎる脅し文句に、とうとう観念して頭を下げる。アイリスがそう呼んだ時、周囲がどう反応するかを考えると、恐ろしくて夜も眠れなくなりそうだった。


「それで謝られるのも複雑と言えば複雑ですけど、まあいいです」


 謝ったことでようやく溜飲を下げてもらえたようで、どことなく厳しかったアイリスの視線がやや柔らかくなったような気がした。


「で、行きたい場所ですよね? ちょっと一緒に見てもいいですか?」


 柔らかくなったのは視線だけではなく、雰囲気もいつも通りに戻っていた。そんなアイリスが、手にしたパンフレットを覗き込むために距離を詰めてくる。


「そんなに近寄らなくても、パンフレットくらい渡しますって」


 言葉にすればそれだけのことだが、その距離がかなり近い。それこそ、電車の中で隣に座っている時と変わらない程の距離である。アイリスが少し腕を動かせば、すぐにでも腕を絡め取られそうな、そんな状況だ。


 例の呼ばれ方で少しだけ速くなった鼓動が、一向に落ち着く気配を見せない。


「そのままでいいですから」


 状況をどうにか打開しようと繰り出した言葉も、たった一言で封じられる。あまり頑なに渡そうとしても不自然なだけなので、それ以上強く押すこともできない。今はただ、左腕にアイリスの体温を感じることしかできなかった。


「どこに行きたいか、ですか……。考えたりしたのは少しだけですけど、結局、葵さんと一緒に回ってたら、どこに行っても楽しいんだろうなって思っちゃって……」

「……っ」

「葵さん?」


 数十センチも離れていないところで、パンフレットに目を落としながらぼんやりと呟かれたその言葉。言った本人も特段意識していないであろうその言葉は、落ち着かなかった鼓動に、さらに燃料を注ぎ込む。


 小さく反応してしまったことでアイリスの意識が自分に向いてしまったのか、顔を上げたアイリスと、驚く程近い距離で目が合った。その吸い込まれそうな瑠璃色に、いよいよ以て動揺を隠せなくなる。


「顔が真っ赤ですけど、どうかしました?」

「な、何でもないです……」


 明らかに何かあったような声しか出てこない。これでは何も誤魔化せない。


「んー……?」


 探るような目を向けてくるアイリス。先程とは全く違った理由で、その目を正面から受け止めることができなかった。


「き、決まってないなら、とりあえず色々できそうなところに行きましょうか」

「あ……」


 これ以上はまずいと、逃げるようにしてアイリスから体を離した。そのままの勢いで、急遽目的地に定めたある教室へと歩き出す。


「待ってくださいよ、葵さん」


 僅かに遅れて歩き出したアイリスが、すぐさま隣に並ぶ。


「何か、ちょっと様子がおかしいですよ?」

「気のせいじゃないですか?」

「葵さん検定一級の私の目は誤魔化せません」

「……」

「こんなことを言ってるのに何も突っ込んでこないなんて、やっぱりいつもの葵さんじゃないです」

「……図りましたね?」

「一級ですから」


 自慢げに言うアイリス。今回ばかりは、その態度も認めざるを得ないのかもしれなかった。


「何を考えてたんでしょうね」

「何も言いませんから」

「そこまで言われちゃうと、解き明かしたくなるのが人の性ですよね」


 そう言って考えを巡らせるアイリスだが、果たして答えに辿り着くことはあるのだろうか。その口から語られる解答が何になるのかは、まだ想像することができない。


 できないけれども、確実に言えることが一つだけあった。


 それは、自分もまた、アイリスと一緒に回るのなら、どこへ行っても楽しめてしまうのだろうと考えていたという正解だけは、絶対に教えることはないということだけだった。




 アイリスから顔を背けながらやって来たのは、三年生の教室が立ち並ぶ階。これまでと同じように混雑した廊下をすり抜けながら、目的の場所へと向かう。


「どこに行こうとしてるんですか?」


 行き先が分からず、ただついてくるだけの形になったアイリスが問いかけてくる。その目は、色とりどりの装飾が施された空間を忙しなく行ったり来たりしている。


 パンフレットを眺めていない今、それぞれのクラスで何をしているのかは実際に見てみないことには分からない。一通り眺めたはずの自分も、今通り過ぎた教室の出し物は何だったのか、実物を目にするまで思い出せなかった。


「アイリスさんが好きそうなことができるかもしれない場所です」

「私が好きなこと?」


 相変わらず目を合わせられないまま、そう答える。視界の端で揺れる菜の花色が、首を傾げたであろうアイリスの様子を伝えてきた。


「アイリスさん、遊びで他人と競うのが意外と好きですよね」

「誰にでも挑むわけじゃないですけど、葵さんと遊んでるのは好きですね」

「『僕で遊ぶ』の間違いじゃ?」

「葵さんだって私で遊ぶじゃないですか。お互い様です」


 少しだけ不満そうな口振りで言うアイリス。全く以てその通りなので、そう言われてしまえば何も反論することができない。


「……まぁ、そんなことは置いておいてですね」

「意外と話題の逸らし方が強引なのも葵さんですよね。私、一級なので分かります」

「置いておくんですよ」


 そんな不満が形になったのか、からかいの言葉がアイリスの口から飛び出してくる。他に受検者のいない検定だというのに、随分と誇らしげな一言だった。


「三年生のクラスに、色々とミニゲームを用意して手作りのゲームセンターみたいになってるところがあるらしいので、そこでアイリスさんを打ち負かそうかと」

「すっごく威勢がいいですけど、様子のおかしい葵さんが勝てますか?」


 今日は自らが勝つと信じて疑わない様子で、アイリスが純粋な疑問を抱く。


「葵さんと勝負するってなったら、葵さんがどんな状態でも私は全力ですからね?」

「……」


 加えて、この慈悲のない宣言。自分からその場所に誘っておいて、もう後悔が押し寄せてきた。


「……やっぱり別の場所にしましょうか。アイリスさんとはもっと穏やかに……」

「あ、ここですか?」


 手の平と踵を返そうとしたところで、辺りを眺めていたアイリスが、件の教室を見つけてしまう。その視線の先にあるのは、残念ながら自分が目指していた教室で間違いなかった。


「へぇー……、景品なんかもあるらしいですよ?」


 さらに残念なことに、宣伝を目にしたアイリスが興味を持ってしまった。こうなってしまえば、もう逃れることはできない。


「ここにしようって言ったのは葵さんですからね? 目いっぱい楽しみましょうね!」

「……はい」


 楽しめるかどうかはほとんどアイリス次第であるような気もするが、それを言ったところでどうにかなる訳でもなく。


 見る人が見れば、その場で惚れてしまいそうになる程に綺麗な笑みを浮かべながら言うアイリスに、ただただ頷くことしかできなかった。




「あれ? 見覚えがある二人組だね?」

「お久しぶりですっ、雪先輩!」

「体育祭の時以来ですね」


 どうにかなってほしいと願いながら足を踏み入れた、とある教室。そこで一番に迎えてくれたのは、数少ない、会話を交わしたことがある先輩だった。


「でも、服は見覚えがないね?」

「初めましてっ、雪先輩!」


 燕尾服とウェイトレス服が並んだ不思議な光景に、雪がそう零す。今日は様々な服装の生徒が校内を歩き回っているとはいえ、普段目にする組み合わせでないことは間違いないので、雪の困惑も当然のものである。


「僕もアイリスさんも、自分達のクラスの衣装ですよ」

「私はバイト先のウェイトレス服を借りましたけど」

「へぇー? アイリスさん、バイトしてたんだ?」

「葵さんと一緒のバイト先です!」


 雪の疑問に、アイリスが嬉しそうに答えていた。随分とにこにこ笑っているが、それ程までのことが何かあったのだろうか。


「ってことは、湊君もこれを着てたりするの?」

「そんなわけがないじゃないですか。普通のウェイター服がありますよ」

「でも、月に一回はこれを着てくれます」


 せっかく誤魔化したのに、親切な後輩がわざわざ自らのウェイトレス服を強調しながらしっかりとばらしてくれた。思わず目を向けるが、そこには悪意など一切感じられない表情を浮かべたアイリスがいるだけ。どうやら、純粋に事実を述べただけらしい。


「……ほんとに着てるんだ。冗談で言っただけだったのに」


 そんな事実に、問いかけてきた張本人が一番驚いていた。先程よりも、少しだけ目が丸くなっているような気がする。


「機嫌がいいと、猫耳か狐耳と、それから尻尾までつけてくれますよ」

「僕の機嫌ではないんですよね、それ」


 全く必要のない情報まで大公開だった。人の秘密とは、こうして広がっていくのだと実感する。最早誰もアイリスの口に戸は立てられない。


「猫耳……? 狐耳……? 尻尾……?」


 その結果、雪が混乱の渦に巻き込まれる。呟きながら動く視線が、自分の頭と腰辺りを往復する。何を考えているのか、何となく分かってしまう仕草だった。


「大丈夫? そのお店、高校生が働いていいお店?」

「店自体は大丈夫なはずなんですよね……」


 不安そうに尋ねてくる雪に、全てが大丈夫とは断言できなかった。少なくとも、人は大丈夫ではないと考えている。


「雪先輩も、よかったら遊びに来てくださいね?」

「うん……。どういうお店なのか、後でちゃんと聞いてからね……?」

「はいっ」


 そんな状態で誘われてもという歯切れの悪さで、どうにか雪が返事をしていた。対するアイリスは、妙に嬉しそうな笑みを浮かべている。


「じゃ、じゃあ、そろそろ中の案内をしようかな?」

「ですね。今すぐそうしましょう」

「ちょっと慌ててる?」


 いつまでも話し込んでいる訳にはいかないと、そう思い出したように、雪が切り出す。自分としても、アイリスがまた余計なことを言い出す前に話を進めてもらった方が、とてもありがたい。


「このままだと、いつまで経ってもアイリスさんのターンが終わりません」

「確かに。湊君は防戦一方だもんね」


 一緒にパンフレットを眺めていた時から続く、アイリスの攻めを凌ぐ時間。そろそろ身が持たなくなりそうなので、この辺りで一回リセットしておく必要がありそうだった。


「それじゃあ、そんなご要望にお応えして」


 そう言って、雪が教室の真ん中方向を向く。


 釣られて同じ方向を見れば、そこには三つのスペースが設けられていた。


「まぁ、見て分かる通り、射的と輪投げとダーツだよね」

「組み合わせが見たことないものになってますよ」

「そこが文化祭のいいところだよ。何でもあり」

「夏祭りの無念を晴らすタイミングがこんなところで……!」


 雪の言葉通り、一つの空間にはあまり共存することのない遊びが並んでいる。どれもよくできているが手作り感は満載で、いかにも文化祭といった独特の空間を形作っていた。


 そんな空気の中、アイリスの目は射的に向かっている。呟かれた言葉から察するに、まだ夏祭りでの射的のことを覚えているらしかった。


「基本的に順番に全部回ってもらうんだけど、それぞれに目標の点数が決められてるんだ。何個その点数を超えられたかで、最後に景品が貰えます」

「景品って何なんですか?」


 視線を射的から雪に戻したアイリスが問う。


「それは獲得してからのお楽しみ」


 だが、返ってきたのは、そんな答えと人差し指を立てて唇の前に置く仕草だけ。どうやら、景品が何なのか明かされないまま、一通り巡ることになっているらしい。


 アイリスもその答えを無理に聞き出そうとするつもりはなかったのか、さらに深く尋ねようとする様子は見られなかった。


「あ、でも、一個も目標を超えられなくても、ちゃんと残念賞は用意してるから」

「残念賞?」

「ポケットティッシュ」

「残念賞だぁ……」


 そこは教えてもいいらしい。聞いたアイリスの何とも言えない表情が印象的だった。


「ま、最初から残念賞のことを考えても仕方ないし、早速回ってもらおうかな?」

「はーい」


 雪の言葉を受けて、アイリスが右手を上げる。そして、何故か視線が自分の方に向いた。


「全部クリアして、葵さんからの褒め言葉を手に入れます!」

「景品じゃないので出ません」

「なんでですか!」


 上がった右手が下りた。


「やっぱりいつでもそんな感じなんだね」

「まぁ……」


 そんなやり取りをにこにことした表情で眺めていた雪の感想が、どことなく恥ずかしく感じられて。


 まるで照れ隠しのように頬を掻きながら、曖昧な言葉を返すのだった。




 そんなこんなで一つ目。目の前には無秩序に立てられた九本の棒があり、手元には五つの輪っか。言うまでもなく、輪投げだった。


「文化祭で何でもありとはいえ、輪投げって珍しいですよね」


 渡された輪っかを眺めつつ、そう雪に話しかける。この歳になって輪投げをすることになるとは、微塵も考えていなかった。


「教室の中でいくつか設置できて、誰でも遊べてって考えたら、意外とできることって少なくて」

「確かに、教室って意外と狭いですもんね」


 自分達もお化け屋敷を作っていて、痛い程実感したことだ。普段は広く感じる教室も、こういったイベント事の舞台にするとなると、意外とスペースが足りないということが多々ある。


 隣では、アイリスも小さく頷いていた。あちらもあちらで、同じようなことがあったのかもしれない。


「それに、ふらっと来て、ふらっと遊んでもらうってイメージだったから。そんなにしっかり遊ぶものは、ちょっと違うかなって。これくらいの方が、小さい子供とかでも遊びやすいし」

「なるほど」


 その言葉は何となく理解できる。実際、教室の中を見回してみれば、明らかにまだ中学生になっていないような年頃の子供の姿もあった。きっと、この学校の生徒の家族なのだろう。皆一様に、楽しそうな笑みを浮かべていた。


「そんなわけで、湊君とアイリスさんも、童心に帰って遊んでみてね」

「……アイリスさんは週一くらいで輪投げをやってそうですよね」

「誰が常に童心ですか」


 自分と同じく、教室にいる子供の姿を眺めていたアイリスが、小さく呟いただけの言葉にしっかり反応を返してきた。意識はしていなくても、音は耳に届いていたらしい。


「そんなことを言うなら、もっと子供っぽく甘えますよ」

「アイリスさんは立派な大人です」

「まぁ、まだ子供なので、甘えるのは甘えるんですけど」

「だったら今のは何だったんですか」


 どう答えても、行き着く先は一つだった。


「ということで、早速甘えようかと思います」

「宣言してから甘える人って、私初めて見たかも」


 アイリスの言葉に、雪が苦笑いを浮かべる。普段からアイリスと話していれば、この程度の言葉などいくらでも聞くことができる。ただ、体育祭が終わってから交流がなかったであろう雪からしてみれば、きっと珍しい光景に映ったのだろう。


「何をやらかすつもりです?」

「……葵さんが先に投げてくれないかなって。目安にしたいです」

「あれ。思ったより普通」

「それくらい、言ってくれたら普通にやりましたよ」


 僅かな間を置いてからアイリスが口にした願いは、随分と大人しい願いだった。それこそ、こんな流れでなくても聞き入れられるくらいには。


 けれども、「甘える」という言葉を使ってしまったからなのか、願ったアイリスの顔は、その中身と釣り合わない程に恥ずかしそうなものだった。


「いやぁ……、葵さんのことですから、何か対価を要求してきそうで……」

「湊君、そんなことをしてるの?」

「アイリスさんはしてますね」


 そんな表情のまま濡れ衣を着せようとしてきたアイリスを、今度は自分がじっとりとした目で見つめる。


「……」


 そっと、ラピスラズリが明後日の方向を向いた。


「湊君が言ってることの方が本当っぽいね」

「……そうとも、言いますね……?」

「往生際が悪いですよ」

「私の方が色々お願いしてます……!」

「うん、その方がそれっぽい」

「それっぽい!?」


 とうとう足掻きをやめて事実を認めたアイリスに、納得したように頷く雪。どんなイメージを持っていたのかは知らないが、あまり突くと蛇が飛び出してきそうなので、何も聞かないことにした。


 何より、既にダメージを負ったアイリスが、今度は致命傷を負う可能性がある。


「それじゃあ、お願いを聞いてあげる側っぽい湊君から投げてもらおうか」

「えぇ、任せてください」

「それっぽい……? わがままに見えるってこと……?」


 未だに継続ダメージを受けているアイリスを尻目に、雪に促されて輪っかを握り直す。久しぶりどころか、遊んだ記憶すらない輪投げだが、立っている棒に向かって投げるだけなら何とでもなるだろう。


 それどころか、点数が低くても何の罰ゲームもないのなら、何も気にすることはない。アイリスが復活して何かを言い始める前に、全てを投げきっておくのがよさそうだった。




「はい、十二点。残念賞に一歩近付いたね」

「……思ったより難しくないですか、これ」

「そうだよ? 障害物の場所とか、目標の点数とか、絶妙なところに設定したんだから」


 何とかなると思っていたが、どうにもならないこともあると悟っただけになった。


「二十点って、なかなかのラインを……」

「でしょ?」


 狙いがぴったりと嵌まって嬉しいのか、少し自慢げな表情の雪。悔しいが、その表情を浮かべるのも納得の設定だった。


「そんなに難しかったですか?」

「僕も見てる時はそんなに気にしてませんでしたけど、障害物が意外といい場所にあります」

「葵さんがへ……、何でもないです」

「何を言いかけました?」


 ほとんど言いきったような言葉な気がするが、念のため確認してみる。何故かその言葉の途中から目が合わないアイリスの答えはいかに。


「葵さんはあんまり童心に帰るってことがなさそうですもんね。仕方ないですよ」


 とても、とても優しい笑みでそう口にするアイリス。全力でオブラートに包んだ言葉だったが、残念ながらその中身は透けて見えている。


「で、何を言いかけたんですか?」

「葵さんが下手ってことはありませんか?」

「ぐ……」

「アイリスさんは言っちゃうし、湊君は傷付くんだ……」


 見え透いていたはずなのに、改めて言葉にされると思ったより重みがある言葉だった。そして何より、白状したアイリスが純粋な目をしているのが、一番ダメージが大きい。


 こんな様子を見れば、誰だって雪のような感想を抱く。雪の立場なら、自分も同じことを思ったはずだ。残念ながら、今回は当事者になってしまったが。


「まぁ、見ててくださいよ。私が葵さんの仇を取ってあげます」

「お、言ったね?」

「今の私には、葵さんが用意してくれた道が見えてますから!」

「よし、じゃあ、アイリスさんもいってみようか」

「はいっ!」


 先程の自分と同じく、雪に促されて準備を始めるアイリス。目標の二十点を超えることを信じて疑わないその目は、本物のラピスラズリにも負けないくらいの輝きを放っていた。




「……」

「仇はどうなったんですか」

「逃しちゃったね」

「う……」

「道が見えてたはずだったのに」

「たまには道を外れてみたいお年頃だよね」

「うぅっ……!」


 呻き声を上げることしかできなくなったアイリス。獲得した点数は十三点だった。自分よりも一点上ではあるが、五十歩百歩もいいところだろう。


「だって難しいんですもん……!」

「始める前にそう言いましたよ」

「あの時は本当に葵さんが下手なだけだと……」

「本気だったんですね」


 がっくりと肩を落としたアイリスが、今にも泣きだしそうな目で語る。一投目を投げる前の自信に満ちた表情はすっかり消え、ただただ悲しみに暮れるのみだった。


「三つ目くらいから表情は怪しかったよね」

「四つ目を投げ終わった辺りで、完全に今の表情になりましたね」

「どうやっても二十点には届かなくなっちゃったからかな?」

「最後に六点取ったのは、きっと僕よりは上の点を取りたかったからでしょうね」

「全部読まれてるぅ……!」


 二人がかりの攻撃に、アイリスが真っ赤になった顔を両手で覆う。何かを振り払うように、首は小さく横に振られていた。


「こうやって見ると、本当によくできてますね」

「ありがと。そう言ってもらえると、頑張って設計した甲斐があるよ」


 未だに恥ずかしがっているアイリスは一旦置いておいて、改めて目の前の輪投げに目を向ける。


 一点から九点の九本の棒が立っている、だけではない。五点より上の棒には、必ず障害物も一緒に配置されていた。当然、高得点になればなるほど、障害物による難易度は上がっている。


 この輪投げの目標が二十点である以上、そこへ向かうルートは二つある。


 一つは、障害物がない四点に五つの輪っかを全て投げるルート。障害物がない分得点はしやすいが、一投でもミスがあれば、必然的に難易度の高い五点以上にミスなく投げることを要求される。


 もう一つは、最初から高得点を狙いにいくルート。一投で得点できる確率は下がるが、二回までのミスなら挽回できる。


 そんな中で、アイリスは最初から高得点の棒を狙いにいき、そして見事に敗北した。


 幸先よく一投目で七点を獲得したのはよかったが、二投目と三投目は失敗。残りの二投で十三点以上獲得しなければならなくなった四投目も失敗。ここで泣きそうな表情になったアイリスが、最後に意地で六点を獲得して、合計十三点という結末だった。


「こんなの、子供が泣いちゃいますよ……!」

「今のアイリスさんみたいにですか?」

「泣いてませんもんっ」


 ようやく顔から覆いが取れたアイリスの、そんな悲痛な叫びが響く。その言葉通り、確かに泣いてはいなかったが、瞳がうっすらと潤んでいるようにも見えた。


「大丈夫だよ。小さい子供向けのはあっち。もっと簡単になってるから」


 アイリスの抗議を受けた雪が、隣のスペースを指差す。一目見ただけでは大きな違いはないように見えたが、よく見ると障害物の配置が違っている。その辺りで難易度の調整をしているのだろう。


「アイリスさんもあっちがよかったですかね?」

「……それはそれでちょっと……」

「感情が迷子だ」


 目標はクリアしたい。だが、子供扱いはされたくない。そんな葛藤が実に分かりやすく伝わってくる。あちこちを彷徨う瞳が、その心の内をとてもよく表していた。


「葵さんに甘える時だけ子供で、それ以外の時は大人のつもりですから」

「常に大人でいてください」


 高校生の、それも年下のアイリスに言うことではないのかもしれないが。


「何ですか。やっぱり葵さんは年上の落ち着いた人が好みですか」

「そういう意味で言ったんじゃないんですよ」

「あ、じゃあ、やっぱり私と……」

「先輩は静かにしていてください」

「雪先輩は黙っていてください」

「はーい……」


 いつかの冗談を持ち出す雪。この場でその話を蒸し返されると、途端に話が面倒な方向に転がり始める予感しかなかった。アイリスもそれを分かっているのか、自分とほとんど同時に釘を刺す。


「年下だって可愛いってこと、葵さんにはしっかり理解してもらう必要がありますね」

「それはアイリスさんで知ってますけど……」

「ひゃぁ……!」

「おぉ?」

「アイリスさん?」


 突然奇妙な声を上げたアイリスに、信じられないものを見るような目で見つめられる。ようやく引き始めた顔の赤みが、再び色濃くなっていく。


「またっ……! そうやってぇ……!」


 そうかと思えば、何かを迷っているような表情に移り変わっていく。それでも、その瞳だけはしっかりと自分を見つめたままだった。


「湊君、いっつもそんな感じなの?」

「そんな?」

「あ……、素か……」


 何故か諦めたような声音で、雪が一言呟いた。今の場面で諦めるようなことなどなかったはずだが、一体何を諦めたのだろうか。


「誰にでもそういうことを言っちゃだめなんですからねっ!」

「そういうことが何かは分かりませんけど、アイリスさんにだけ言えばいいってことですか?」

「そっ……れはそれで困ると言うかぁ……!」

「何なんですか」

「それはこっちの台詞ですよぉ!」


 うっすらどころではなく、はっきりと目を潤ませるアイリス。雪の言う通り、感情は未だに迷子のままのようだった。


「アイリスさんも大変だなぁ……」


 そんな中で雪が小声で何かを言っていたような気がしたが、その中身は教室の喧噪に紛れて、はっきりと耳に届くことはなかった。

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