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71. エーデルワイス (3)

「おぉー……。これが燕尾服ってやつですか……!」

「実物を見るのは初めてです」

「着てる僕も初めてでした」


 莉花に送り出されてから少しして。アイリスのクラスの片隅で、紗季と純奈から物珍しそうな目を向けられる時間を迎えていた。


「服に着られてる感が凄いんですけど、仕方ないです」

「いやいや、これはこれで……」

「ちょっとだけそれっぽい雰囲気は出てますよ?」

「紅茶とか淹れてもらえませんか!」

「もらえません」

「ありゃ、残念です」


 一つも残念そうな様子に見えない紗季の口元が緩む。どうやら、最初から自分の答えを予想したうえで言っていたようだった。


「と言いますか、二人共その反応ってことは」

「アイリスから聞きました」

「興奮したアイリスさんから聞きました」

「落ち着かせるのが大変でした」

「あの時ですか」


 アイリスが紗季と純奈に話したのは、本番前に一度だけ試着したあの日なのだろう。興奮したアイリスに二人が気圧されている様子が、簡単に想像できる。


「『とうとう葵さんが私の執事さんに』って言ってました」

「勘違いも甚だしいですね」

「大丈夫です。ああいう時のアイリスさんの話、あんまり真面目に聞いてないですから」

「つまり、アイリスが一人で空回ってるだけってことです」

「受け流し方がプロ」


 比較的真正面から弾き返そうとする自分とは、アイリスのあしらい方が違う二人だった。そういった方法もあるのかと、思わぬところで知見を得る。ただ、自分がそれを上手く使いこなせるのかと尋ねられると、あまり自信はないというのは正直な回答になるのだった。


「で、その肝心のアイリスなんですけど」

「うん?」


 突然、話が真面目な方向に向きを変えた。燕尾服がどうこうと、軽口を言い合う時間はここまでらしい。


「多分もうすぐ来るはずなので、あとちょっとだけ待っててもらってもいいですか?」

「それは大丈夫ですけど、何かあったんですか?」


 そう言いながら教室の中を見渡す。先程も一度確認したが、やはり今もアイリスの姿は見当たらない。いつもの制服とは違う衣装を身に纏ったアイリスのクラスメイトが、忙しそうにあちこち歩き回っているのが見えるだけだった。


「一番出来がいいのを焼くって言って、そのまま裏に籠りました」

「湊先輩が来る少し前に籠り始めたので、もうそろそろ出てきてもおかしくないと思うんですけど……」


 やや不安そうに、純奈が裏とやらに目を向ける。その先にあるのは、普段なら教室の中には存在しないはずの、身の丈を越える大きさの仕切り。言葉から察するに、あの裏が調理班の主戦場なのだろう。


「案外、気合を入れ過ぎて焦がしてたりするかもしれないですね?」

「アイリスならあり得ます」


 妙なところで器用で、妙なところで不器用なアイリスのことだ。そんなことが起こっていても、何もおかしくない。


「あ」


 終わったはずの軽口を再び紗季と交わしていると、ずっと仕切りのある方向に目を向けたままだった純奈が、何かに気付いたように小さく声を上げる。


 そんな声に釣られて視線を向ければ、そこには、見慣れたウェイトレス服に身を包んだアイリスの姿があった。


「焼けたみたいですね」

「焦がしもしなかったみたいですね」


 上手く焼けたであろうことは、その表情を見れば明らかだった。一片の不安も感じさせることのない、とてもにこやかな顔である。仮にこれで焦げたものが出てきたとしたら、それはただの恐怖体験でしかない。


「お待たせしましたっ」


 目の前までやって来たアイリスの弾んだ声が耳に届く。様々な騒めきが交錯する教室の中にあって、一切遮られることがない声だった。


「さっき来たところです」

「そこは『今』って言うところですよね?」

「嘘は吐けないので……」

「それは嘘じゃなくて優しさって言うんですよ」

「今来たところです」

「もう遅いですって」


 残念ながら、このやり取りは気に入ってもらえなかったらしい。弾んでいたはずの声に、ほんの少しの不満が混ざり始めていた。


「まぁ、私もこれを焼いてて少し遅れたので、何とも言えないんですけど……」


 小さく呟いたアイリスの視線が、手元のトレイに落ちる。そこには、包装紙に包まれて甘い香りを放つワッフルが一つ。その見た目からして、本来はテイクアウト用なのだろう。席まで確保してもらったのだから、このままここで食べていくつもりではあるが。


「ちゃんと焼けたかー? アイリス?」

「ばっちり。傑作」


 紗季の問いかけにそんな答えを返す辺り、相当自信がある出来栄えらしい。練習の終盤でもかなり綺麗に焼けるようになっていた覚えがあるが、ここまで言われると、さらに期待は高まってしまう。


「そんなわけで……」


 トレイを机の上に置き、正面の空いた席に腰を下ろすアイリス。そして、件のワッフルが両手で差し出された。


「どうぞっ。葵さんの分ですっ」


 これまで何度も目にしてきたはずの表情なのに、いつまで経っても見飽きることのないその表情が、またもや目の前で咲き誇る。見ているこちらが思わず照れてしまう程の笑みだった。


 そんな感情を隠すように、そっと視線をアイリスの手元に移す。練習していた時よりもやや小ぶりなそのワッフルは、本人が傑作と表現するのも頷ける程、綺麗な色に焼き上がっていた。


「ありがとうございます。本当に綺麗に焼けてますね」


 まだ温かいワッフルをアイリスの手から受け取りつつ、素直な感想を伝える。以前にも口にした通り、数回焼いただけの自分より、遥かに上手く焼き上げていた。


「気合いを入れて焼きましたから!」

「……入ってるのは気合いだけだったのかな?」

「え? 何?」

「何でもないよ?」


 手元のワッフルに気を取られている間に、どうも純奈が何かを呟いたようだった。自分と同じく聞き取れなかったらしいアイリスが不思議そうに聞き返しているが、残念ながらはぐらかされて会話が終わりを迎えてしまっていた。にこにことアイリスを見つめ返すその様子から察するに、きっといくら尋ねても答えは返ってこないのだろう。


「ふーん……。まぁ、いいけど……」


 それはアイリスも分かっているようで。あまり固執するつもりはないようだった。


「それより、今は葵さんの感想ですもんね!」


 固執するつもりがないのではなく、他のことが気になっているだけだった。


 そんなアイリスの言葉に、紗季と純奈の二人分の視線までもが自分に向く。これまであまり気にしたことはなかったが、様々な雰囲気も相まって、何となく気まずさのようなものを感じてしまう。


「そんなに見られてると、流石にちょっと食べにくいんですけど……」

「大丈夫です。葵さんは食べてるところも可愛いですから」

「大丈夫……?」


 安心していい要素が何一つなかったが、果たして何が大丈夫なのだろうか。アイリスが言う「大丈夫」と自分が知っている「大丈夫」は、もしかすると違う意味の言葉なのかもしれない。


「待ってたところで、どうせ二人は目を逸らしてくれませんよ?」

「……」

「……」

「それに、せっかくあったかいのを持ってきたのに、このままだと冷めちゃいます」

「……分かりました。このまま食べますよ……」


 からかうような雰囲気など一切なく、純粋な眼差しでそう言われてしまえば、もう抵抗することはできない。美味しいものを美味しい状態で食べてほしいという願いは、自分もよく分かっているつもりだった。


「一思いにどうぞっ」

「……いただきます」


 後輩三人から見つめられながら、そのうちの一人が作ったワッフルを口にする。妙に羞恥心が刺激される瞬間だった。


「ど、どうです……?」


 勢いよく「一思いに」と言っていたのに、結局緊張したような面持ちを浮かべるアイリス。その体は落ち着きをなくして、少しだけそわそわとしている。


「美味しいです。甘さもちょうどだと思いますよ」

「ふはぁー……。よかったぁ……!」


 甘さも焼き加減も完璧という、見た目を全く裏切らない出来に、するりとそんな言葉が口を衝く。恐らくは望んでいた通りの感想を得られたであろうアイリスが、大きなため息と一緒に安堵の言葉を漏らしていた。


「練習の時よりも美味しい気がします」

「本番ってことで、気合が入ってますから!」


 先程も聞いたその言葉。それが何やら調味料のような扱いに聞こえるのがおかしくて、思わず笑みを零してしまう。


「え? 何ですか?」


 そんな表情の変化を見られていたのか、わざわざアイリスが問いかけてくる。何か珍しいものを見たとでも言うように、ぱちくりと繰り返される瞬き。どうやら、自らの言い回しには気付いていないようだった。


「何でもないですよ?」


 答えを教えてしまってもよかったのだが、何故かその仕草をもう少しだけ見ていたくて、そうはぐらかす。


「葵さんまで……。何なんですか、もう……」


 またしても答えを教えてもらえなかったのが不満だったのか、瞬きを繰り返していた不思議そうな表情は消え、代わりに少しだけ口先を尖らせた表情が顔を覗かせる。だが、そんな不満げな表情でさえも、どこか可愛らしいものであることには違いないのだった。




「別に払わなくてもよかったのに……」

「そういうわけにはいきませんから」


 紗季と純奈に送り出されて、一年四組の教室を出る。当然、隣にはアイリスがいる。


 午前中はずっと教室の中に籠っていたので、どれだけの人がこの文化祭を訪れていたのかは分からない。けれども、今目の前に広がる混雑ぶりは、去年のそれを凌いでいるように思えた。


「ちゃんとしたものを貰ったんですから、その分はしっかり払わないと」

「……そういう風に考えるのも、葵さんらしいと言えば葵さんらしいんですけど」


 諦めたように呟くアイリス。どうやら、教室を出る時に代金を支払ったことが不満の種だったようだが、頭の中で無理矢理納得させたらしい。


「きちんと払いたくなるくらい美味しかったと思っておいてください」

「……そういうことを何でもないように言うのも、とっても葵さんらしいです」

「何がですか?」

「何でもないですよ?」


 まるで意趣返しのように、先程の自分の言葉をアイリスが口にする。表情まで真似ているのか、微かな笑みまで浮かんでいた。


「まあでも、葵さんがそうしたいって思ったのなら仕方ないですよね。いつまでも考えてたって仕方ないです」


 そう言って、気持ちを切り替えるようにアイリスが一度前を向く。再び視線が戻ってきた時には、「微かに」程度ではないくらいの笑顔だった。


「せっかく葵さんと一緒に回れるんですから、もっと楽しいことを考えないと!」

「例えば?」

「いつ執事さんっぽいこと言ってくれるかなーとか」

「文化祭関係ないじゃないですか」


 それはいつものコスプレの時にでも考えていればいいことである。少なくとも、文化祭を一緒に見て回ろうとしている今考えることではない。


「あ、いや、違います」

「葵さん? どうかしました?」


 唐突に発したその言葉に、アイリスが不思議そうな目を向けてくる。もし立場が反対だったなら、自分も同じ行動をしていたはずだ。


 そんな不思議な態度を取ってしまった理由。それは。


「今、そういうことはいつものコスプレの時にでも考えたらいいのにって思ってしまって……」

「コスプレが葵さんの日常になってきてる証拠ですね! 頑張って刷り込んだ甲斐がありました!」

「違うんです。そうじゃないんです。完全に油断していて……」

「無意識でコスプレを受け入れてたってことですねっ」

「……」


 この世の何よりも認めがたい事実だった。まさか、たった半年でここまでになってしまうとは。自分が思っている以上に、自分はアイリスの色に染められているのかもしれない。


「今日は執事さんっぽい台詞が聞けそうな気がしてきました」

「……今ので気を引き締めたので、もう何も出ません」

「そんなに緊張しなくていいですから。もっと気楽に過ごしましょう?」


 どうしてもそれらしい台詞を引き出したい様子のアイリス。今日の攻防は、いつもよりも少しだけ激しいものになりそうだった。




「冷静になって考えてみると、今の葵さんと私って、よく分からない組み合わせですよね」

「何がですか?」

「だって、執事さんとウェイトレスですよ?」

「あぁ……」


 何とかしてそれらしい台詞を引き出そうとするアイリスと、何とかしてそれを抑えようとする自分による、最高に意味が分からない争いが一段落して。


 とりあえず何かを食べようという話をして歩き出したところで、アイリスがそんなことを言い出した。


「あんまり見ない組み合わせではありますね」

「ですよね」


 その言葉を聞くまでは全く意識していなかったが、確かにそう言われてみれば、珍しい組み合わせのような気がしないでもない。一応、普段は見ないような格好をした生徒が周囲にちらほらいるので、浮いているという訳ではないのだが。


「でも、アイリスさんは見ようによってはメイド服にも見えなくはないですからね。そう考えたら、別におかしな組み合わせじゃないと思いますよ」

「そうですか?」


 着慣れたウェイトレス服を改めて確認するように、アイリスが両手を広げて視線を落とす。動きに合わせて揺れるその服は、給仕をするにはややフリルが多過ぎるような印象こそあるものの、全体的に見れば、やはりメイド服に見えなくもない。


「……あ」


 そう思って見つめていると、その先で小さく口が開いた。出てきたのはたった一文字の音だったが、何かを思い付いたというのがよく分かる一文字だった。


 歩みを止めたアイリスに釣られて、一緒にその場で立ち止まる。


「どうしました?」


 気になって、思わず尋ねてしまう。それがよくなかった。


「……ご、ご主人、様……?」

「え……」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。喧噪に掻き消されて耳に届かなかった訳ではない。はっきりと聞こえたうえで、それでもその意味を理解できなかった。


 けれども、それは本当に一瞬で。止まっていた頭が動き出して何を言われたのか理解したその瞬間から、これ以上ないくらいに頬が熱くなる。


「あ……」


 口から出てくるのは、そんな意味のない音ばかり。意味を理解して、頬が熱くなるのを自覚したところで、いつも通りに対応できる訳ではない。


「ご主人様?」

「う……」


 そんな自分の様子を見てアイリスは何をどう思ったのか、その言葉がもう一度繰り返される。二度目でもやや恥ずかしいのには変わりないのか、頬を染め、少しだけ上目遣いで見つめてくるその仕草は、相変わらず十分過ぎる程の破壊力を有していた。


「……っ」


 今度は最初から意味を理解してしまって、一気に鼓動が速くなる。その鼓動で、体が揺れてしまうのではないかと思う程だった。


「……思い付きでやってみましたけど、上手くできてました?」


 恥ずかしそうなのはそのままに、けれども軽く微笑みながらの、そんな言葉。答えなど、一つに決まっていた。


「……それはもう禁止です」

「なんでですか。せっかく頑張ったのに」

「可愛過ぎて、僕が落ち着かないからです」

「あ……、えへへ……!」


 それが望んでいた言葉だったのかは分からないが、とにかく嬉しそうな表情だった。その表情が、また心を刺す。


 以前反対の立場だった時、アイリスもこんな気持ちを抱いていたのだろうか。もしそうなら、あの時の混乱具合も納得できるというものだ。今自分が何とか普通に話せているのは、少しだけ気合いを入れているからである。


 ただ、それでも巫女服を着せようとしてきたことは納得できないが。


「これからもたまにやってあげますねっ」

「禁止だって言ってるじゃないですか」

「嫌です。もっともっと、葵さんを照れさせたいですから」

「……」


 弾むような声で明かされた願望は、この上なく厄介そうなものだった。




「たまにはこう、全力で『体に悪いですっ』って言ってるものを食べたくなりますよね」

「少しだけ分かります」

「普段は葵さんが作った健康によさそうなものを食べて、たまにこういうのを食べるのが幸せってことですね」

「自分で作ってくださいよ」


 冗談めいたことを言いながら、アイリスが自分の手元に手を伸ばしてくる。その細くてしなやかな指先が、先程立ち寄った模擬店で買ったフライドポテトを一本摘んで、口元へと向かっていった。


「今はまだ葵さんが作るお料理の方が美味しいんですもん。いつか追い抜くつもりですけど」

「先は長そうですね」

「そうやって余裕ぶっていられるのも、今だけですからね?」

「その日が来るのを楽しみにしてますよ」

「むぅー……!」


 まだまだその実力が及ばないことは理解しているのか、それ以上は面白くなさそうに口を尖らせるだけだった。先程思いきり心を揺さぶられたからなのか、たったそれだけの仕草でも可愛く思えて仕方がない。


 あるいは、揺さぶられていなくても、可愛いと思った可能性も高いが。


「ほら。せっかくこういう機会なんですから、もっと楽しいことでも考えましょうよ」

「露骨に話を逸らしましたね」

「気のせいじゃないですか? このまま話を続けたら厄介なことになりそうだなんて、微塵も思ってませんし」

「思ったんですね」


 その言葉と共に、怪しむような目を向けられる。普段は素直なアイリスだが、こんな場面では何も信じてくれなかった。


「『毎日お料理を教えてほしい』とかって言われそうだな、と」


 そして、その判断は正解である。余計なことを考えている自分なのだった。


「葵さん、家に帰るのは四日に一回くらいでいいんじゃないですか?」


 さらに言うと、自分の判断もまた正解である。頻度が具体的なうえに、とても絶妙な間隔だった。


「ほとんど同居じゃないですか」

「照れちゃいますね……!」

「自分で言い出したのに」


 両手で赤らむ頬を押さえて首を横に振る仕草は、タイミングがタイミングなら、とても穏やかな気持ちで眺めることができたのだろう。言っていることが踏み込み過ぎていて、全くそんな気分にはなれなかったが。


「朝早くに起きて、葵さんの寝顔を見に行くところから一日が始まるんですね……!」

「扉が開いたら、何か音が鳴るような仕掛けを作っておきます」

「私の家を勝手にからくり屋敷にしないでくださいよ」

「忍び込もうとするアイリスさんが悪いんです」


 これは誰が何と言おうと正当防衛である。こうでもしない限り、アイリスは毎日寝顔を狙ってくるのだろう。想像でしかないのに、しっかりと自信を持って断言できる予想だった。


「で、そのまま葵さんを起こすわけです」

「あ、続くんですね」

「寝起きでまだふにゃふにゃしてる葵さんって、絶対に可愛いですよね……!」

「寝起きがいいとは言えないですけど、可愛くないとは言えます」

「起こし方はどんなのがいいですか? ほっぺたをつんつんするとか、優しく揺するとか。そ、それとも……」


 そこで一旦言葉が途切れた。これまでは随分と楽しげな顔で妄想を語っていたアイリスだったが、今はやや俯いてしまっている。体の前で組まれた小さな両手は、複雑な心の内を表すかのように、指先が絡み合っていた。


「ね、眠り姫を起こすには……、やっぱり……!」


 やっとの思いで絞り出したかのような、小さな小さな言葉が続く。その言葉は、あまりにも不穏な一言で。


 姫扱いであることもそうだが、何より、眠り姫を起こすということは。


「何を考えて……」

「まつ毛をくすぐるとかですかね」

「本気の起こし方じゃないですか」


 心配するだけ無駄だった。


「何を想像しました? どんな想像をしました?」

「何でもないです」


 まるで碧依や莉花を彷彿とさせるからかいの表情を浮かべながら、若干前かがみになったアイリスが自分のことを覗き込んでくる。


「葵さんも、ちゃんとそういうことを考えるんですね!」

「何も考えてないって言ってるんですよ」

「絶対嘘ですっ。だって、耳が赤いですもん!」

「気のせいです」

「流石にそれはまだちょっと早いと言うかぁ……!」

「早い遅いとか言う段階じゃ……」

「やっぱり考えたんですね」

「何も考えてないです」


 口を慎むべきだった。今は雄弁に語る時ではない。


「ま、意外と葵さんもそうやって考えるってことで。次ですよ、次」

「……」


 勢い付いたアイリスは、妄想も口も止まらない。


「次は、葵さんの寝癖を直してあげてから、一緒に朝ごはんですね」

「……言う程つきませんけどね」

「それでもいいんですよ。葵さんの髪をいじるのが目的ですから」

「何を」

「色々髪型をいじってみたいんですよね」


 そんな思いを口にすると同時に、視線が自分の髪に向く。寝起きだけでなく、今も狙っているかのような目付きだった。


「編み込みとか、絶対に似合います」

「僕が大人しくしてると思いました?」

「……それもそうですね。じゃあ、今度葵さんがウェイトレス服を着てしおらしくしてる時を狙うことにします」

「発想が鬼なんですよね」

「新しい扉を開きませんか?」

「一生閉じていてください」


 どこにでも、開かない方がいい扉というものはある。可愛く首を傾げたところで、その扉を開いていい道理はない。


「今はそんなことを言ってますけど、その時が来たら、葵さんは受け入れてくれるような気がします」

「……」

「で、なし崩し的に朝も認めてくれるようになって、そのまま一緒に登校、と。この辺から帰ってくるまでは、今とあんまり変わらないですね」

「髪が編み込まれてるのに?」


 一体どの辺りが今と変わらないのだろうか。恐らく、何よりも分かりやすい間違い探しである。


「そこで『すぐに解く』って言葉が出てこないところが、まさに葵さんって感じですよね」

「……迂闊に触ると絡まりそうで」

「私も最近はやってないですけど、慣れるとすぐできるようになりますよ? やってあげましょうか?」

「お断りです」

「あ、それとも、自分でできるようになるまで練習したいってことですか?」

「それもお断りです」


 普段は比較的鋭く自分の心を読んでくるのに、こんなところでは綺麗に正解を外すアイリス。最早わざとやっているのではないかと思える程の芸当である。


「練習するとしたら、帰ってきた後ですよね。お父さんとお母さんが帰ってくるまで一緒に宿題をしながら、たまにそういうことをするのも楽しそうです」

「髪への執着が凄いですね?」

「だって、触りたいんですもん。柔らかそうな髪だなって、ずっと思ってるんですから」

「何もしないって誓ってくれるのなら、別に触られても何も言わないんですけどね」

「誓いますっ!」

「信用できません」

「なんでですか!」


 曇りなき眼で誓うアイリスだが、これまでの発言が全てを台無しにしていた。こんな状況ではないならまだしも、今のアイリスを信用できる訳がない。


「これまでの自分のせいだと思ってください」

「葵さんには割と素直ですもん」

「欲望にも素直ですよね」

「……あはっ」

「誤魔化せてませんよ」


 一瞬の間を置いて笑みを浮かべるアイリスだったが、残念ながら目は合わなかった。その様子を見るに、どうやら心当たりがあるらしい。心当たりも何も、たった今そんな話をしていたのだが。


「何のことか分かりません」

「またそういうことを……」

「よく分かりませんけど、欲望に素直なのと同じくらい、自分にも素直になってほしいって嫉妬ですか?」

「本当に分かってないですね」

「でも、今これ以上素直になっちゃったら、多分葵さんの方が大変なことになると思うので、それは追々ってことで」

「間違ったままでも進めるのが、アイリスさんの恐ろしいところですよね」

「えへへ……」

「褒めてません」


 今の言葉をどう解釈すれば、そんなに嬉しそうに微笑んでしまう意味になるのだろうか。相変わらず、アイリスの思考回路は不思議に満ちていた。


「そんなに褒められちゃったら、その先も考えちゃいますよね」

「だから褒めては……」

「お夕飯の手前までいきましたっけ? そうなったら、その後はやっぱりお風呂ですね! 前にも言いましたけど、しっかり湯上り姿のよさを知ってもらわないと!」

「まだ諦めてなかったんですか」

「葵さんが、もう照れ過ぎてまともに何も考えられないってなるまでは諦めません」

「……今でもたまにありますよ」

「え? 何ですか?」

「何でもないです」


 わざと喧噪に紛れて聞こえなくなる程度の声量で呟いた一言は、狙い通りアイリスに届くことはなかった。


 面と向かって言うのは流石に恥ずかしくて、思わず逸らしてしまった視界の外。瑠璃色の瞳が、じっと自分を見つめている気配があった。


「聞かれたくないことですか?」

「そうですね。恥ずかしいので」

「恥ずかしいことを言ったとは教えてくれるんですね」

「それで相手が引いてくれるかもしれませんから」

「私は引きませ……」

「引かなかったら、一生、何があってもアイリスさんの家に泊まることはないと思ってください」

「私は何も聞いてないです」


 欲望に素直なアイリスは扱いやすくて助かる。その欲望を受け流すのが大変なのは、一旦気にしないことにする。気にしたところで、今すぐ何かが変わる訳でもない。


「こんなところで可能性を潰すわけにはいかないんです」

「言葉だけ聞けば、様になっていそうではあるんですけど」

「見た目はどうですか?」

「可愛いです」

「もうっ……! 葵さんはすぐにそういうことを言いますよね……。えへへ……」

「アイリスさんの家に泊まる状況に問題があるって言われてることに気付きましょうね」


 言葉も見た目も問題がないのならば、もうおかしなところは状況以外にはない。残念ながら、照れ笑いを浮かべるアイリスには伝わらないことかもしれないが。


「あ、お泊りっていえば、ちゃんと寝る時に着てる服は持ってきてくださいね? 葵さんの気が一番緩む格好なはずですし」

「緩ませて何をするつもりですか?」

「単に楽な格好の方がって思っただけで、特に何も考えてなかったです」

「それならいい……」

「でも、そうですね……。せっかくですし、ちょっとした悪戯を仕掛けたくなってきました」

「僕が悪かったです。何も聞かなかったことにしてください」

「もう手遅れですよ」


 そう言って微笑むアイリスは、引くことを一切考えていなそうだった。今更ではあるが、先程の一言は完全に無駄な一言だった。自分でアイリスの妄想を後押ししてしまっていては、もう目も当てられない。


「着替えちゃったら、あとは寝るだけですもんね……。何か……、何か……」

「わざわざ考えてまで悪戯しなくていいですから」

「いえ、そのまま寝ようとしてた私がおかしかったんです。目の前に気が緩んだ葵さんがいるんですから、普段はできないことをしておかないと」

「そのまま寝ようとしてたアイリスさんの方が正しいんだと思いますよ」

「間違いです」

「……」


 思わず言葉に詰まる程に、力強い断言だった。


「そうですね……。葵さんが寝るまで、ずっと耳元で子守歌を囁いてあげましょうか」

「歌わずに?」

「囁きます」

「寝かせる気ありませんよね?」

「大丈夫です。子守歌ですから」

「世界で一番落ち着かない子守歌になってますけど、分かってます?」


 囁きの時点で歌ではないけれども。とにかく、耳元で延々と子守歌を囁かれ続ける中で寝られる人がいるのなら、是非お目にかかりたいものだ。


「そもそもの話、枕元にアイリスさんがいて、そんなにすぐに寝られるわけがないじゃないですか」

「どきどきしてってことですか?」

「寝てる間に何をされるか分からなくて怖いからです」

「なんでですか! どきどきしてくださいよ!」

「多分、寝るのは眠気の限界が訪れた時です」

「それはほとんど気絶ですっ。……あ、でも、眠たくてうとうとしてる葵さんなら、どんなことでも頷いてくれそう……」

「どうあっても無事に寝られない……」


 人の欲求の一つを抑え込む、まさに魔窟としか言いようがない家だった。既に何度もお邪魔している家だが、もしかすると、自分はとんでもないところに足を踏み入れているのかもしれない。


「あ、うとうとしてるからって、間違えて私のお部屋に入ってきちゃだめですからね?」

「その言葉、アイリスさんにそのまま返しますよ」

「残念でしたね。私は最初から葵さんの枕元にいます」

「……」


 どう足掻いても、この話題でアイリスに勝てそうになかった。そもそも、その発端となったのが自分の一言なのだから、最初から分が悪くて当然の勝負である。


「いやぁ……! 朝起きてから夜寝るまで、楽しいことがずっと続きそうですね!」

「……僕はひたすら疲れそうです」

「いつか、本当にお泊り会をしましょうね!」

「……」


 輝かんばかりの笑顔で、そう口にするアイリス。そんな表情に、簡単に押しきられる未来が見えてしまって、ただただ押し黙ることしかできないのだった。

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