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70. エーデルワイス (2)

「お客さんの入りはどう?」


 文化祭本番が始まってから一時間程して、ちょうど受付に並んでいた列がなくなったところで碧依がやって来た。先程から近くにいたのは見えていたので、タイミングを窺っていたのだろう。


「そこそこって感じですかね。始まってまだ一時間くらいですし、これからだと思いますよ」

「それもそっか。じゃあ、葵君が忙しくなるのはこれからだね」


 そう言って笑う碧依の表情には、随分と濃い影が落ちている。


 お化け屋敷という内容に合わせて、教室の中は普段とは比べ物にならない程に暗くしてあった。


 教室の明かりを一部消すということができれば一番よかったのだが、生憎この教室はそんな器用なことはできない。全ての明かりが消えた中、ぽつぽつと配置されたランタンの光だけが、教室の中を照らし出している。


 とはいえ、受付まで真っ暗では何もできない。そんな訳で机の上に置かれたランタンが、碧依の顔に影を落としているのだった。


「お化け屋敷なんて、文化祭の花形みたいなところがあるし、絶対にたくさん来るはずだもんね」

「でしょうね。その時は碧依さんの出番ですよ」

「任せて。完璧な列整理を見せてあげるよ」

「ここからじゃ見えませんけどね」

「たまに覗き込んで?」

「受付を放り出して?」


 それでは本末転倒である。自信に満ちた表情で言ってくる碧依には悪いが、その勇姿を直接見ることは叶わないだろう。


 準備の段階では碧依も買い出し兼雑用のような立ち位置だったが、本番では役割が全く違っている。自分は受付として教室の中で対応しているのに対して、碧依は教室の外に列ができた時の列整理を担当しているのだった。


 本来であれば、顔を合わせるのは碧依が教室の扉を開いて客を中に案内する時だけ。こうして落ち着いて話ができているのは、単にこの時間は客足が途絶えているからに過ぎない。そうでなければ、自分は今もこの薄暗い空間で一人だったはずだ。


「ちょっとくらい……」


 碧依が何かを言いかけた瞬間、薄暗い教室の中に、女性特有の甲高い悲鳴が響き渡った。今のところ、今日一番の悲鳴である。


「……凄かったね」

「ですね。怖がりな人だったのかもしれませんね」


 お化け屋敷を提供しているのだから、そんな悲鳴が聞こえてくるのは当たり前の話だ。これまでも、大きい小さいという差はあっても、定期的に悲鳴は聞こえていた。楽しんでもらえている証拠なので、いいことと言っていいだろう。


「私達は不意打ちの悲鳴でびっくりするよね」

「そうですか? 僕は聞いてて楽しいですけど」

「どんな精神をしてるの……?」


 碧依が呆れ気味だった。薄暗い空間でも、その表情の変化がはっきりと見て取れる。


「驚いてほしいところで驚いてくれてるのって、楽しくないですか?」

「あー……、まぁ、そう言われたら分からなくもない、かも……?」


 あまり納得はしていないようだった。何とも複雑そうな表情で、碧依の首が小さく傾く。


「あ、そっか。それでよくアイリスさんをからかって……」


 狙ったところでは納得してくれなかったが、狙っていないところで何故か納得していた。最近、何を話していても、すぐにアイリスに結び付くのは何故なのだろうか。


「どうしてそうなったんですか」

「だって、アイリスさんをからかってる時の葵君、妙に楽しそうだったから」

「そんなに?」

「そんなに」


 その言葉と共に、碧依が真面目な表情で首を大きく縦に振る。どうやら冗談を言っている訳でもないようだった。


「ちなみに、アイリスさんが葵君をからかう時は、もっと楽しそうにしてる」

「それは知ってます」

「お似合いだね」

「共倒れになりそうなお似合いですけど、大丈夫ですかね?」

「からかい合って、最後に立ってた方が勝ちだよ」

「何を競ってるんですか?」


 言っている意味がよく分からなかった。分からなかったが、最後に立っている方も満身創痍になっていることだけはよく分かる。


「そんな相性のいいアイリスさんに早く会いたいんじゃない?」

「どんな話の繋げ方……」


 強引にも程がある話の繋げ方だった。最初からそれが目的だったのではないかと疑ってしまう程の強引さである。こういった辺りが、話がよくアイリスに結び付くと感じる理由なのかもしれない。


「だって、朝の話からしたら、二人で休憩時間を合わせてるんでしょ?」

「まぁ、そうですね」

「葵君、担当時間を全部午前に固めてるなーって思ってたんだけど、そういうことだったんだね」

「アイリスさんも、午後を自由時間にするみたいでしたから」


 その辺りは、あらかじめお互いに話して決めたことだ。他の生徒との兼ね合いもあったが、どうにか二人して希望通りの時間に自由時間を入れることに成功した。


 そのことを話した時のアイリスの子供っぽい喜びようは、見ていて思わず頬が緩んでしまう程だった。


「どこを回るとかって決めてるの?」

「詳しくは決めてないですね。僕の方が休憩に入るのが少しだけ遅いので、向こうに迎えに行くってことになってるくらいです」

「そういえば、さっきそんなことを言ってたね」

「えぇ。そんなわけで、多分最初はアイリスさんのところですけど、その後は適当に見て回ろうかって話をしてました」

「で、ここには絶対に連れてくる、と」

「当たり前じゃないですか。ある意味、今日一番の楽しみですよ」

「その時は私も絶対にここにいるようにするから。連絡ちょうだい?」

「任せてください」


 ランタンの仄かな光に照らされながら、お互いに力強く頷く。滅多に手を組まない碧依と、珍しく一つの目的を共有した瞬間だった。




「動きが違った」

「でしょ? 慣れてるからね」


 文化祭が始まってから二時間程して。裏から接客の様子を見ていたらしい紗季が、帰ってきた自分に対してそんな感想を呟いた。


「その自慢げな顔を剥がしたいのに、本当にちゃんとしてたから何ともできない……!」

「やめてよ。どんな趣味してるの」


 やろうとしていることが特殊過ぎて、どうにもついていけなかった。悔しさを滲ませている紗季の顔を見るに、比較的本気で言っている様子だった。


「お疲れ様、アイリスさん」

「ありがとー。純奈も調理の方、大変だったんじゃない?」

「今はそんなでもないかな? この後はどうなるか分からないけど」


 そうこうしているうちに、紗季と共に調理班として動いていた純奈もやって来た。二人がこうしていても問題なく回っているのを見る限り、本当に多少の余裕はあるようで。


「私はこれくらいのんびりできる方がいいけどね。目が回る程忙しいってのは、文化祭では経験したくないかな」

「まぁ、その辺は全部、お客さんがどれくらい来るか次第だから、私達にはどうしようもないけどね」

「アイリスさん目当ての人がたくさん来そう」

「そんなことある?」


 純奈にしては、やや意外な言葉である。何となくだが、そういったことを言い出すのは、三人の中では紗季というイメージがある。そう思って目を向けてみれば、純奈の目は真剣そのもの。


「私もねー、始まるまではアイリスと同じことを思ってたけど……」

「けど?」

「クラスメイトがわざわざ客として来てるのを見るとねー……。信じざるを得ないと言うか……」

「あれってそういうことだったの?」


 紗季の言葉で思い出す。確かに、この二時間で数回、クラスメイト相手に接客をした。それも男女問わず、だ。自分としては気楽に接することができる相手ということで何も気にしていなかったが、どうやらそんな裏があったらしい。


「アイリスは聞いてなかったかもしれないけど、ちょっとだけそんな話が聞こえてきた」

「へぇ……」

「あれ? あんまり興味ない感じ?」

「興味ない……、ってことはないけど、ありがとうございますとしか……」

「慣れてるんだ?」

「これでも看板娘ですから!」


 表情は自慢げに。両手は腰に。上半身は少しだけ反らして。自分からそう言い出すことはなかっただろうが、葵から言われたことなら別である。自信を持って言いきらなければ、そう言ってくれた葵に顔向けができない。


「そう言うってことは、バイトしてるお店でもアイリスさん目当てのお客さんがいるってこと?」

「私がバイトする前のお客さんがどんなだったかって知らないから、葵さんに聞いただけなんだけど……」

「うん」

「お客さんの中に、近くの中学の男の子が妙に増えたって」

「おぉー……」


 感心したように純奈が頷く。


「で、葵さんが接客すると、ちょっと落ち込むんだって」

「単純に失礼……」


 一方、紗季は苦笑い。その光景を想像してしまったのだろうか。


「まぁ……、うん。気持ちは分からなくはない、けど……」

「そう?」

「だって、可愛い店員さんに接客されたくて店に行ったのに、可愛い『男』の店員さんに接客されたって考えたら……」

「何か複雑だよね……」

「そうかなぁ……?」


 今度は純奈も紗季と同じ表情を浮かべている。思うことは同じらしいが、自分は葵に接客をされると一も二もなく喜んでしまうので、そこはあまり納得できなかった。


「それはね? アイリスは湊先輩に接客されるのが一番嬉しいんだろうけど」

「なんっ……!?」


 そう思っていると、まるで心の中を見透かしたかのようなタイミングで、紗季がそう口にした。あまりの衝撃に、思わず言葉が途切れてしまう。


「あ、ごめん、言葉が足りなかった。『大好きな』湊先輩に接客されるのが一番嬉しいんだろうけど」

「言い直せばいいってものじゃないから……!」


 予想もしていなかった方向からの攻撃に、一気に心拍数が跳ね上がる。文化祭の模擬店の中という状況なので、大きな声こそ出さないように抑えたが、そうでなければ紗季のことを思いきり揺さぶっていたはずだ。


「違う?」

「嬉しいけどっ」

「やっぱり嬉しいんだね」


 純奈の表情は何も変わっていないのに、そこに込められた感情は全く違うものになっているように感じるのは、果たして気のせいなのだろうか。


「アイリスの担当が全部午前に固まってるのは、午後に湊先輩と一緒に色々見て回るためかなぁ……?」

「そ、そう、だけど……」

「そっかぁ……。そうだよねぇ……。せっかくいつもと違う雰囲気なんだし、便乗して押していかないとねぇ……?」

「うぅ……!」


 完全に自分をからかうモードに切り替わってしまった紗季。こうなってしまえばもう遅い。簡単には止まらないのが厄介な点だった。


「何か考えてたりするの?」

「……何にも考えてない」

「行き当たりばったりか。ま、どうせアイリスが何かを企んでても、全部無駄になりそうだしね」

「どういう意味?」

「全部湊先輩に見抜かれてそう。アイリス、隠し事が下手過ぎるから」

「そんなこと……、ない、もん……」

「心当たりがあるな?」

「……」


 あった。それはもうたくさんあった。企みが上手く進んだ方が少ないのではないかと疑ってしまう程にあった。


 何か悪いことをしている訳でもないのに、何故かそっと目を逸らしてしまう。


「まぁ、隠し事が下手過ぎるところもアイリスの可愛いところなんだから、その辺も使って攻めてみたらいいんじゃない?」

「……どうやって?」


 無責任なことばかり言っているようで、案外相手のことをよく見ている紗季の言葉だが、今回ばかりは適当に言っているように思えてならないのだった。




「で、そんなことを言ってたのに、これからアイリスは調理班、と……」

「そう決まってたんだから仕方ないでしょ」

「惜しいなぁ……。もっとウェイトレスをやってるところが見たかった……」

「それなら、私のバイト先まで来てね」


 これから先、昼過ぎに最後の接客がある以外は裏方での調理役である。慣れている接客とは違い、短い練習期間しかなかったこちらの方が、どちらかと言えば気になる方だった。


「少しは特別扱いしてくれる?」

「特別扱いしてほしそうだった碧依先輩と渡井先輩は、町ごと出禁にしたよ」

「……普通の接客でいいです」

「うん。それならいつでも大歓迎」

「アイリスさんって、たまに怖いよね」


 横で話を聞いていた純奈が、小さくそんな言葉を口にしていた。果たして、一体どこに怖い要素があったというのか。自分は身を守っただけである。


「そう?」

「だって、先輩にも結構強気でそういうことを言うでしょ?」

「それは碧依先輩と渡井先輩がおかしなことを言うからだって。羽崎先輩にはそんなこと言ってないよね?」

「今、何で湊先輩を外した?」

「……」

「わざとか?」


 気付かなくていいところに、紗季が気付いてしまった。相変わらず、妙なところで鋭い紗季なのだった。


「湊先輩に対しては、強気って言うか……」

「……何?」

「構ってほしくてじゃれついてるんだよね」

「うっ……!」


 純奈の言葉を引き継いだ紗季が、強烈な一撃を放ってきた。納得したような顔で頷く紗季をまともに見ることができなくて、思わず俯いてしまう。頬が少しだけ熱くなっているのは、目の前にあるワッフルメーカーが発する熱のせいだけではないのだろう。


「で、結果、ちょっとだけ強気に見える、と」

「細かい分析はやめてぇ……!」


 もう恥ずかしくてたまらなかった。思わず手で顔を覆いたくなるのに、その肝心の手は自動的にワッフルメーカーに向かってしまう。蓋を開ければ、そこには綺麗に焼き上がったワッフルが鎮座していた。


「恥ずかしがってるのに焼き加減はちゃんとしてるの、ほんとに意味が分からない」

「しっかり練習してたんだね」

「焼き上がりましたぁ……!」


 そう言って、ワッフルを盛り付けた皿をクラスメイトに手渡す。甘い香りを残しながら、件のワッフルは店内へと消えていった。


「アイリスが焼いてるのは初めて見たけど、意外としっかりできてたね」

「……私に何を期待してるの?」


 話題が逸れてくれたことに安堵しているのを隠しつつ、逸れた先も何やら雲行きが怪しいことに不安を抱く。これもまた、よくない流れではないだろうか。


「絶対に焦がすと思ってた」

「ごめんね、私も……」

「二人揃って……!」


 自信たっぷりに言いきる紗季と、申し訳なさそうにそれに便乗する純奈。紗季だけならまだしも、常識人であるはずの純奈にまでそう思われていたのは想定外で、思ったよりもダメージが大きい。


「私だって、ちゃんと練習したんだからね? 葵さんも美味しいって言って食べてくれたんだから」

「へぇ……。一緒に練習したんだ?」

「あ……」


 そんな想定外があったからなのか。それとも、単純に気が緩んでいただけか。どちらにせよ、紗季に新たなからかいの種を提供してしまったことは間違いなかった。


 紗季の口が、そっと弧を描く。


「何でもかんでも一緒なわけね」

「そっ、そうだけど、それが何か悪い?」

「お、開き直った」

「だって、葵さんなら何でも作れそうだもん」

「そのイメージは分かるけど。で、どうだったの?」

「作ったことがないから、レシピを調べて勉強したって言ってた」

「真面目だぁ……」


 弧を描いていたはずの紗季の口元が、そっと元に戻った。


 葵の真面目さは、紗季の暴走を止めることができる。使いどころがよく分からない知識を手に入れた、そんな瞬間だった。


「どこで練習してたの?」

「私の家」

「あー……、魔窟……」

「純奈?」


 およそ純奈の口から出てくるとは思えない単語が飛び出してくる。いつか葵が口にしていた影響だろうか。


「ってことは、またアイリスのお父さんとお母さんにからかわれながら練習してたんだ?」

「その時は私もからかう側だったし」

「それはそれでどうなんだろうね?」

「そもそも、アイリスがそう思い込んでるだけの可能性も……?」

「そこまでひどくないもん」


 随分な言われようだった。二人共真剣な表情で話しているのが、より質が悪い。


「三人がかりで葵さんを家に泊めようとしてただけだもん」

「……そんなことしてたの?」

「なかなかなことをしてるね」


 だからだろうか。むきになって、思わずその時のことを口にしてしまったのは。


「あ、今のなし」

「それは無理でしょ。何? 湊先輩を家に泊めようとしてたの?」

「違うよ? 紗季の聞き間違いじゃない?」

「純奈も聞いたよね?」

「聞いちゃった」

「二人して幻聴って。疲れてるんじゃない?」

「……」

「……」

「……」


 三人分の沈黙。二人からの視線。


 耐えきれる訳がなかった。


「……泊めようとしました」

「攻めたなぁ……」

「アイリスさん、意外と積極的だよね」

「何があったわけ? 詳しく。ほら、詳しく」


 はっきりと態度に表す紗季は言うまでもないが、普段はあまりそんな素振りを見せない純奈も、今回ばかりは興味津々といった様子だった。こうなると、あの時の行動が途端に恥ずかしく思えてくるのだから、人の感情の動きは実に不思議なものである。


「だって……」


 だが、恥ずかしく思うのと、納得ができないのは別の話だ。


「だって?」

「葵さん、湯上り姿に何にも興味ないって言うんだよ……!? そんなの、ちゃんと教えてあげないといけないに決まってるよ……!」

「力説してるところ悪いけど、話についていけてない」

「次は絶対に教えてあげるって決めたもん……!」

「あ、その時は失敗したんだ」

「逃げられました」

「やっぱり魔窟……」

「純奈?」


 その言葉が気に入ったのだろうか。気軽に他人の家を魔窟呼ばわりしないでほしい。特定の先輩を引き込もうとする、少し変わった家なだけだ。


「何がどうしてそうなったのかは知らないけど、とにかく湊先輩を家に泊めて、湯上り姿で迫ってやろうって?」

「……意識してもらうためなら、できることは何でもするって決めたから」

「随分際どいことをするね」

「……あと、葵さんの寝顔の写真が撮りたかった」

「半分はそれが占めてるな?」


 またしても自分の心の中を見抜いたように紗季が言う。当たらずとも遠からずといった割合だった。正解は四割である。


「葵さんだけが私の寝顔の写真を持ってるのはずるい」

「目の前で寝るからでしょ。それに、アイリスの寝顔の写真なら、私も持ってるし」

「え?」


 聞き捨てならない言葉が、紗季の口から飛び出してきた。一体いつの間にそんな写真を手に入れたのか。そんな隙を晒した覚えなどないというのに。


「前に図書館で一緒にテスト勉強してた時に撮った」

「……」


 自分が忘れていただけだった。正面から隙を晒した記憶が、徐々に掘り起こされる。


「あの時のアイリスさん、湊先輩の肩を枕にして寝てたよね」

「あー……」

「思い出した?」

「そんなことも……、ありましたね……」


 純奈の一言で、とうとうその記憶が鮮明に蘇った。自分が途中から寝たふりをしていたことも。紗季が写真を撮っていたのは、そのさらに前なのだろう。撮られていると分かったうえで寝たふりを続けられる程、羞恥心を捨てた記憶はない。


「一応、お願いするだけお願いしてみるね?」

「何を?」

「消して?」

「嫌」

「うん。知ってた」


 清々しいまでに綺麗な笑顔だった。即答具合も同じく清々しい。何なら、やや食い気味だった。


「せっかくの可愛い写真なんだから、消すなんてもったいないでしょ」


 そんなタイミングで入ってきた注文のワッフルを焼き始めながら、紗季がどこかで聞いたことのあるような言葉を口にする。


「可愛かろうと何だろうと、恥ずかしいものは恥ずかしいの」

「へぇ……。そう……」

「な、何?」


 生地を流し込んで蓋を閉めた紗季が、スマートフォンを取り出して、何かの操作を始める。小さく呟かれた一言は、明らかに何かを隠している雰囲気だった。


「これを見ても、おんなじこと言える?」


 そう言ってこちらに向けられた画面。そこに映し出されているのは、話の流れ通りの自分の寝顔。


 ただし、それだけではなかった。


「あ……」


 考えてみれば当たり前の話である。肩に頭を預けて寝ていたのだから、その相手が写っているのは何もおかしくない。


 頬が少しずつ熱くなっていく。


「素直に欲しいって言えば、あげてもいいんだけどなー?」

「……」


 にこやかな表情でそう言う紗季の言葉に、心が大きく揺れる。


 その写真に一緒に写っていたもの。それは、穏やかな目付きで自分のことを見つめる葵の姿だった。以前見せられた時にもその姿は目にしているはずなのに、想いを自覚してから改めて見ると、受ける印象は全く違う。


「ほんとはすぐにアイリスに送りつけようかと思ってたけど、何だかんだで忘れちゃってた」

「……」

「珍しいんじゃない? こういう湊先輩が写ってる写真」

「……」


 心の中で天秤が揺れ動く。自分の寝顔が写っているという恥ずかしさと、葵の珍しい表情が写っているという事実。


 均衡を保っていたのは、ほんの僅かな時間だけだった。想像の中の天秤は、一方の皿を高々と掲げる形で動きを止める。


「欲しい、です……!」

「はい、素直なのはいいことだ」


 今ならワッフルが焼けるのではないかと錯覚する程に熱くなった頬のまま、どうにかたった一言を絞り出す。自分のスマートフォンが何かの通知を発したのは、そのすぐ後だった。


「……!」

「動き速……」

「クリスマスにプレゼントを貰った子供みたいだね」

「確かに」


 紗季と純奈が何かを話しているのも気にせず、自分のスマートフォンを取り出す。通知欄には、紗季から何かの画像が届いたことを示すメッセージが。開いてみれば、たった今見たのと同じ写真が、画面に表示された。


「えへへぇ……」


 どんなに意識していようとも、熱くなった頬が緩むのを止められない。目の前に本人がいる訳でもないのに、自然と鼓動が速くなっていく。


「……こういう顔、多分何回も見てるはずなのに、それでも平然としてる湊先輩って何者なんだろうね?」

「強敵だよね」


 頭の中が一色に染まってしまった今の自分には、すぐ隣にいるはずの二人の言葉でさえ、意味のある音として届くことはなかった。




「入口にもう一人係の者がいるので、ここから先はそちらの指示に従ってください」


 最早今日何度目になるのか分からない言葉を口にして、軽く頭を下げる。教室の扉を開けた時の光が中に差し込まないよう設置された暗幕を、対応していた相手がくぐり抜けていく。


 それを見送ってから、そっと息を吐く。


「とりあえず列は全部なくなったよ」

「やっとですか……」

「たまたまなのか何なのか分からないけど、ひっきりなしだったね」

「まさかここまでとは……」

「まだ途中だけど、お疲れ様。はい、これ」

「ありがとうございます」


 外の列がなくなったことを報告しに来てくれた悠から、ペットボトルのお茶を受け取って蓋を開ける。一口、二口とお茶が喉を通り抜ける度、少しだけひりついていた喉が癒えていく感覚があった。


「はぁ……」

「湊君の担当時間はもう半分過ぎたし、あとちょっと頑張って」

「もうそんなに経ちました?」

「あ、そっか。ここだと時間も分からないか」

「ですね。腕時計をしてくるべきでした」


 暗幕に囲まれたこの空間で、時間を確認する術はない。普段なら時計がある方向に目を向けたところで、そこには闇がわだかまるだけ。


 そんなことを確認するように、悠が辺りを見回す。ランタンの仄かな光で照らされたスノーホワイトとコバルトブルーが暗闇の中に浮かぶ様が、いつもより綺麗に感じられた。周囲が暗い分、その色が強調されて見えるからだろうか。


「ん? 何? どうかした?」


 見られていることに気付いたのか、その首の動きを止めて、再び悠がこちらに向き直る。


「いや……。こういうところで見ても、綺麗な髪と目だなって」

「ありがとう……、で、いいのかな?」

「さぁ?」

「湊君が言い出したのに……」


 少しだけ照れたような表情を浮かべる悠は、薄暗さも相まって女の子にしか見えなかった。


「性別不詳って、羽崎君のためにある言葉ですよね」

「湊君のためだと思うよ?」

「僕はほら、今はこんな格好をしてますから」


 言いながら、燕尾服を見せつけるように両手を広げてみせる。この服を着ていれば、どこからどう見ても男にしか見えないはずだ。


 普段から男子用の制服を着ているという事実は、とりあえず頭の片隅に追いやっておいた。


「そういう格好をしてなかったら間違われても仕方ないって認めてるね」

「……」


 だというのに、返ってきた言葉はやけに強烈で。思わず黙り込むことしかできなかった。


「と言うか、そういう言葉は、もっと別の人に言ってあげるべきでしょ?」

「アイリスさんはそもそもこういう場所に入りたがらないですけどね」

「誰、なんて言ってないのに」

「……」


 また黙り込むパターンに入った。最近、悠がこの手の罠を仕掛けてくることが多くなったような気がしていたが、もう気のせいでは済まされないのかもしれない。それは、薄暗い中でもはっきりと分かる程にこにこしている顔を見ても明らかである。


「綺麗だって思ってるんだ?」

「……そうですけど、何か悪いですか?」

「悪いなんて思ってないよ。ちゃんと本人に言ってあげたら、とっても喜ぶと思うって話」


 これまた最近見ることが多くなったような、悠のからかうような表情だ。薄闇の中で見るには、ある意味ぴったりの表情だった。


「最近やたらそういうことを言うようになりましたけど、何かありました?」

「それは自分で考えてね」

「は?」

「それじゃ、そろそろ僕は外に戻るから」


 今日一番の笑みと思わせぶりな言葉を残して、悠が去っていく。僅かな時間だけ外の光が受付を照らして、その眩しさに目を焼かれる。


「……」


 再び一人となった受付の空間を、時折聞こえる悲鳴だけが彩る。


(考えろって言われても……)


 少し耳を澄ましてみれば、暗幕と扉に隔てられた外から微かに人々の騒めきが届く。どうやら、またもや入場待ちが増えてきているらしい。


 そう意識したのも束の間、入場のために扉が開けられた音が響く。悠が言っていたように考える時間は、残念ながら十分に確保できなそうだった。




「はい、お疲れさん。交代の時間だよ」

「もう時間ですか」


 担当の交代を告げる莉花に、先程と同じような言葉を返す。時間の感覚が完全に失われていたが、どうやら交代を予定していた午後一時になっていたらしい。


「どう? ずっと立ちっぱなしだったと思うけど、疲れてない?」

「立ったまま接客するのは慣れてますから」

「それもそっか。ならいいや」

「珍しいですね。渡井さんがそんなことを気にしてくれるのなんて」

「まるで私が気遣いできないみたいな言い方」

「いや、そういうつもりじゃないですけど……」

「こういう時はちゃんと気にするに決まってるでしょ?」


 少しだけ怒ったような、けれどもどこか芝居がかっているような口調の莉花。本気で言っている訳ではないのが丸分かりだった。


「すみません。今のは僕の言い方が悪かったです」

「分かればよろしい」


 だからと言って勝手に流していい話でもないので、素直に謝っておく。返事を聞くに、やはり大半は芝居だったようだが。


「と言うか、これから可愛い可愛い後輩との、楽しい楽しい時間なんだから、疲れてなんていられないもんね?」

「……」


 この場所で見た悠や碧依の表情と比較しても圧倒的に楽しそうな、からかいを含んだ表情だった。最初からこれが言いたいことの本命だったのだろうと、簡単に想像できてしまう。


「戻ってきたら、ちゃんと感想を聞くからね?」

「聞いてどうするんですか」

「別にどうもしないけど、聞くこと自体が楽しい」

「遠慮しておきますね」


 こんな莉花に話したところで、絶対にろくなことにならない。何なら、わざとアイリスがいる場で聞いてくるくらいのことはしそうだった。


「大丈夫だって。そんな恥ずかしいことなんか聞かないから」

「その表情じゃ信じられません」

「あれ」


 楽しそうな表情からにやにやとした表情へと変化していたその顔を、両手でぐにぐにとこね回す莉花。どうやら、自身の表情の変化は無意識だったようである。


「ま、とにかく早く行ってあげなよ。絶対に今か今かと待ってるだろうから」

「向かいにくいことを言っておいて……」

「気のせいじゃない?」


 そう言って莉花が目を逸らしながら、口先を尖らせる。こんな場所でなければ、口笛でも吹いていそうな仕草だ。


「はぁ……」

「今のは『早く会いたい』ってため息?」

「渡井さんがいつも通り面倒ってため息です」

「随分なことを言うな?」


 このまま莉花を放っておくのは不安ではあるが、さりとていつまでもこうしている訳にはいかないのも事実。自分と交代で受付を担当するクラスメイトには申し訳なく思いつつも、面倒な状態になってしまった莉花の相手は任せることにする。


「……服はどうしたらいいですか」

「ん? そのまま着ていっていいよ。どうせ文化祭が終わったら誰も着ない衣装なんだし、着替える時間もそんなにないでしょ?」

「誰のせいだと」

「私」


 それはしっかりと自覚しているらしい。その分、より質の悪さが際立っているが。


「それに、着ていった方が、あの子も喜ぶだろうし」


 その光景は簡単に想像できた。試着していた時の反応を見るに、むしろ着ていかないと怒られそうな気配すらある。


「分かりました。じゃあ、このままで」

「それでよし。じゃあ、行ってらっしゃい」

「……行ってきます」


 何故か親が子を見送る時のような視線で送り出される。


「……っ」


 久しぶりに教室の外に出た途端、その明るさが目を貫く。午前からずっと薄暗い室内にいたせいで、そちらに目が慣れてしまっていたらしかった。たまに外の光を浴びるだけでは、到底昼の明るさにはついていけないということである。


 何度か瞬きを繰り返して、どうにか明るさに目を慣らす。早いうちに元の調子に戻しておかないと、瑠璃色と菜の花色に目を焼かれてしまいそうだった。

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