表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/228

7. ラピスラズリの煌めき (4)

「……」


 とある場所が範囲内に含まれていることを確認して、一瞬意識が沈みこむ。自分にとってはとても大きな意味を持つ場所なので、こうなってしまうのも仕方がなかった。


「どこに行こうか? 色々あるよね」


 地図上のある一点から視線を外せずにいると、碧依の言葉で意識が引き戻された。話の始まりを聞いていなかったが、どうも観光名所を検索しながら話しているようだ。ふと周囲を見てみれば、悠と莉花の視線も手元のスマートフォンに向かっている。


「確かに、有名な場所だけでも結構あるね」

「じゃあさ、一人ずつ行きたいところを挙げるってのはどう?」

「闇雲に話してもどうしようもないし、そうしようか」


 自分が思案の海に沈んでいる間、他の三人は既に一歩先を歩いていた。気が付けば、自分だけがスタート地点に取り残されている。


「湊君もそれでいい?」


 そんな自分に向けて、碧依が問いかけてきた。まだ何も調べていないのが見つかってしまったのかと思ったものの、碧依の様子からして、単に確認を取っただけだろう。


「大丈夫ですよ」

「じゃあ、そういうことで。それぞれもうちょっと調べてからね」

「はーい」


 自分も了承したことで、しばらくは候補地の調査の時間となった。碧依達がそうしているように、自分も手にしたスマートフォンに目を向ける。ただ、この地域なら、調べなくても誰よりも詳しいはずだ。それでも調査をしているように装ったのは、上手い言い訳を探すための、無意識の行動だったのだろうか。


 そうして選んだ候補地は、全国的に名前が知られたある場所だった。個人的な目的地とは違うが、理由を付ければ何とか十分程度は離れられるだろう。それだけの時間が確保できれば、あとはどうにでもなる。


 とはいえ、他の三人が全く別方向の場所を挙げてしまえば、この目論見は崩れてしまうが。


「……」


 それならそれで、また時間を作って足を運べばいいと考え直し、三人が候補地を決めるのを待つ。


 これ以上調べることもないので放置していたスマートフォンの画面が、決められた時間を過ぎて暗転する。その直前、何の気なしにちらりと見た画面には、見慣れた名前がいくつも表示されていた。




 たくさんの生徒の声が、教室の空気を震わせている。どの班も行きたい場所のぶつかり合いで苦労しているようだ。そんな中、それぞれが黙ってスマートフォンを操作する自分達の班は、若干異質な存在だった。


「皆決まった?」


 自分が調べるのをやめてしばらく経ってから、碧依がそう切り出した。


「んー……?」

「まだ、ちょっと……。ごめんね」

「僕は決まりました」


 とある思惑があって早々に候補地を決めてしまった自分とは異なり、悠と莉花はまだ悩んでいるようだった。それだけ色々な候補がある観光地なので、悩んでしまうのも無理はない。


「私も決まったんだけど、どうしようか」

「二人がどれで迷ってるのかも含めて、一回全員で候補を出しますか? もしかしたら、悩んでいるものが誰かと被ってるかもしれませんし」

「そうだね。ずっとそれぞれで悩んでても仕方ないか。二人もそれでいい?」


 既に候補地を決めた自分と碧依の言葉に、悠と莉花が久しぶりに顔を上げる。


「ん、分かった。一人で考えてても全然決まらないわ、これ」

「僕もそうするよ。観光地がたくさんありすぎて、ちょっと困ってたし」


 そうして悠と莉花の了承も取れたところで、相談の再開となった。自分達の班も、教室の空気に溶け込み始める。


「二人はまだ決まってないみたいだし、私と湊君から行きたい場所を出そうか。湊君はそれでいい?」

「大丈夫ですよ」

「それじゃ、まずは私からね。せっかくちょっと大きい街に行くんだから、ここ、行ってみたいなって」


 そう言いながら碧依が差し出したスマートフォンの画面を、他の三人で覗き込む。そこには、いくつもの店が立ち並ぶ写真が映っている。屋内はもちろん、屋外にまで様々な分野の店が軒を連ねた、街の中心部にある、この地方でも最大の商業施設だった。


「あ、そこ、私が迷ってたとこだ」

「ほんと? じゃあ、莉花もここにしようよ。二人いれば多数決でも負けはないよ!」


 さらっと不穏な言葉を発しつつ、碧依が莉花の囲い込みに動く。確かに、四人の中で自身を含めて二人で候補を揃えてしまえば、多数決になったとしても半数は確実に確保できる。


「咄嗟にその発想が出てきますか」

「数の暴力って言ってくれてもいいです」


 そんな場面でもないのに、何故か自慢げに言う碧依。想像以上に強かだった。


「そう、だなぁ……」


 対して、莉花はまだ決めかねている様子だった。とはいえ、傍目から見ても、気持ちはかなり碧依側に傾いていそうだった。碧依もそれを感じ取ったのか、さらにもうひと押しと言わんばかりに言葉を重ねる。


「莉花と一緒だったら、絶対に楽しいと思うんだけど……」


 少しだけ覗き込むようにして見つめながらの追撃だった。対男子生徒用としては十分な破壊力を持つその仕草だが、果たして、女子である莉花にも通用するのだろうか。


「うぁ……」


 しっかりと効いていた。明らかに莉花の頬が赤く色付いていて、心が陥落している様子を分かりやすく表していた。


「じゃあ、そうする……」


 頬を色付かせたまま、莉花が弱々しい声で宣言する。見るからに分かりやすい全面降伏である。


「よしっ、これでここはほとんど決まりだね」


 一方、碧依は恐らく嬉しさで頬を赤らめていた。




「じゃあ、次は湊君だね」

「僕はここです」


 搦め手で莉花を味方にした碧依に促され、三人にスマートフォンの画面を向けながら話を切り出す。


「あ、今度は僕と一緒だ」


 その画面を覗き込んだ悠が、そんなことを口にした。どうやら、悠が考えていた選択肢の一つと同じだったらしい。


「おー、ここの庭園か……。有名だもんね」

「確かに有名だけど、男の子がこういうところに行きたいって言うの、ちょっと珍しくない?」


 一方、碧依と莉花の二人は、意外そうな反応を示していた。スマートフォンの画面から顔を上げ、言葉通り珍しいものを見るような目で自分のことを見つめてくる。


 二人がそうなってしまう、自分が提案した候補地。それは、これまた街の中心部に程近い、とある庭園だった。


「花が好きなんですよ。ここなら、それぞれの季節で色々な花が咲いてますから」

「男子で花が好きってはっきり言うのも、それはそれで珍しいけどね」

「それは……、まぁ、自覚してます」


 莉花が口にした納得するしかない言葉に、若干苦笑いを浮かべながら同意を返す。他の誰に言われなくとも、同じことを話す男子生徒になど会ったことがない時点で、自分が珍しい好みをしているのは分かっていた。


「羽崎君は?」

「僕? 僕はね、有名なところなら、まず外れはないかなって思って」


 ここともう一か所で悩んでいた悠だったが、何か具体的な理由があって選んだ訳ではないようだった。堅実な選択をするのは、何となく悠のイメージに合っているような気がする。


「ちなみに、他に悩んでたのはどこですか?」

「ん? ここだよ」

「お寺……?」

「うん。全然有名じゃないけど、機会があればって思ってたんだ」


 差し出された悠のスマートフォンには、とある寺の外観が映っていた。こう考えてしまうのも何だが、悠のイメージからはやや離れている気がする。莉花も同じように感じたのか、視線が悠の顔と画面を行ったり来たりしていた。


「何? 羽崎君は寺好きなの?」

「そうだね。お寺だけじゃなくて、神社とかも好きだよ」

「お花好きの湊君とお寺好きの羽崎君……」

「うん?」


 碧依が謎の、それでいて若干語呂がいい言葉を零す。まるで何かの組み合わせのようである。


「でも、それならどうして悩んでたんですか?」

「僕は好きだから楽しめると思うけど、他の皆はあんまり楽しくないかなって思って」

「あぁ……、それはあるかもしれないですね」

「でしょ? 僕達くらいの歳で、こういうのを見て回るのが好きって人、あんまりいないのは分かってたからね。だから、湊君がもう一つの方の候補を出してくれて助かったかも」


 その言葉通り、どこか安堵したような表情を浮かべる悠。確かに花が好きなのは本当のことだが、全く別の思惑があって提案した場所だけに、言葉が胸に突き刺さる。悠が思う程、自分は純粋ではなかった。


 ともあれ、これで自分が提案した庭園にも二票が入った。同票である以上、相談が必要となるはずなのだが。


「まぁ、この二つならどっちも行けそうじゃない?」


 実際そうはならなかった。莉花が提案したように、今挙がった二か所は、幸いどちらも街の中心部にある。自由時間は十分な時間が確保されているので、どちらも無理なく回ることができそうだった。


「じゃあ、二つ決定でいい?」

「いいと思います」

「うん、僕も賛成で」

「よし! じゃあ決定!」


 そんな莉花の言葉を受けて、念のための確認を碧依が取って、無事に二か所が行き先として確定した。予想に反して随分すんなりと話がまとまったことを考えると、それぞれが個性的に見えて、意外と相性がいい四人なのかもしれなかった。




「よく考えたらさ」

「はい?」


 メインの行き先二か所が決まってから少し後のこと。ふと気付いたといった様子で、莉花が口を開く。


「とりあえず行き先二つは決まったけど、これだけだと時間が余ったりしない?」

「んー……? ちょっと分からないところはあるよね。それぞれにどれくらい居るのかって、今は想像できないし……」

「確かに、自由時間って結構長いもんね。他に何か探してみる?」

「だね。ちょっと調べてみようかな……」


 少し詳しく話を聞いてみると、時間配分が気になっている様子だった。悠が提案するのに合わせて、碧依が再びスマートフォンを取り出そうとしている。


「いや、とりあえずこの二つだけにしておきませんか?」


 だが、その動きを自分が止める。


「え? 二つで十分ってこと?」

「そうじゃなくて。どれくらい時間がかかるか分からないからです。それこそ、ここってかなり色々な店があったはずなので、意外と時間を使うかもしれませんし」


 碧依が行きたがっていた商業施設のホームページを見せながら、軽く説明していく。


「最初からきっちり予定を組み過ぎない方がいいと思うんですよ。この二つを回るなら、基本はずっと街の中心部にいるはずなので、時間が余ってもどこかしらには行けると思いますし」


 話しながら、商業施設のホームページから画面を切り替える。そこには、街の中心部に位置する観光名所がいくつも掲載されていた。


「たくさん行き先を決めても、時間が足りなくて駆け足で回ることになったら楽しめないですしね」


 最後にそう締めくくる。果たして三人の反応はどうだろうか。そう思いながら顔を上げると、まずは碧依と目が合った。


「うん、そう……かも。予定はしっかりしてた方がって思ってたけど、ある程度余裕があった方がいいかもね」

「私もさっき調べてた時に色々候補は見つかったし、そう言われると何とでもなりそうな気がしてきた」


 やや不安に思っている中、碧依と莉花からは肯定的な意見が返ってきた。残るは悠だけということで、すっと視線を向ける。


「僕もそれがいいと思うよ。あんまり急いで回りたくないしね」


 悠も特に反対意見はないようで、頷きながら肯定してくれた。これで、晴れて全員の了承を取れたことになる。


「だったら、とりあえず二つってことで」

「はーい」


 碧依の返事を以て、行き先が確定した。ここまで決まってしまえば、あとは細かな部分を詰めるだけだ。メインを二か所に絞ったおかげで、ホームルームの時間はまだ少し余っていた。




「さっき調べてた時も思ったけどさぁ……」

「うん?」


 あれから細々とした調べものに移ってしばらくして。莉花が誰に言うでもなくぽつりと呟く。


「今、お昼を食べるのにいいお店とかないかなって思って見てたんだけど、この街、ほんとに何でも揃ってるんじゃないかってくらい色々あるよね」

「だよね。私、引っ越してくる前もそんなに色々なお店があるようなところじゃなかったから、やっぱり羨ましいかな」

「ねー。こういうところに住みたい」


 そんな呟きに反応した碧依も、思いは莉花と同じらしかった。改めて確認するまでもなく、こうして軽く調べるだけで多種多様な店が見つかるのは、そのまま便利さに直結している。その分大変なこともあるにはあるが、二人が羨ましがるのも当然だった。


「お昼だったら、ここはどうです?」

「ん、どこどこ?」


 そんな二人の会話を切るような形で差し出したスマートフォンの画面を、碧依が身を乗り出して覗き込んでくる。その動きに合わせてふわりと揺れた髪が、自分の手を軽くくすぐった。


「あ、ごめんね」

「いえ、気にしないで大丈夫で……」


 髪が手を撫でたくらいなら、わざわざ謝ってもらう必要もないと思いつつ顔を上げると、思ったよりも近い距離に碧依の顔があった。碧依の方も、謝るために顔を上げていたらしい。


 当たり前の話だが、こんなに近くで碧依の顔を眺めることなど、これまで一度もなかった。至近距離でこちらを見つめるはしばみ色の瞳に、自分の姿が映り込んでしまいそうな程の距離である。どこか気恥ずかしくて視線をやや下げれば、やや小さめで形の整った鼻と、薄くリップクリームが塗られた唇が目に入る。


 改めて考えるまでもないが、滅多にいないと断言できる程に整った顔だった。


「何? どうかした?」

「何でもないです」


 不思議そうに尋ねてくる碧依に対して、少しだけ体を引きながら無理矢理誤魔化す。考えていたことがばれてしまえば、どうからかわれるか分かったものではない。


「で、お昼なんですけど、色々なジャンルのお店が集まってる通りがあるみたいですよ」

「あ、ほんとだ。ほら、選り取り見取りだよ」


 何か言われないうちに話を進めようとそこまで説明したところで、悠と莉花にも画面が見えるようにと、碧依が乗り出していた体を引く。目の前にあった顔が離れていって心の中で一息吐いたのは、今のところ誰にもばれていないようだった。


「おー……。確かに、ここよさそうかも」

「場所もそんなに離れてないし、いいんじゃないかな?」


 それぞれの反応を見る限り、三人揃って肯定的なようだった。意見が受け入れられたことに安堵しつつ、言い出した側として確認を取る。


「じゃあ、お昼はこの辺りに行ってみましょうか」

「賛成!」


 真っ先に賛成した莉花の後に、悠と碧依の賛成も続く。その反応速度からして、宿泊学習の間は莉花が率先して動くことになりそうだと、何となくそんな光景が頭の中に浮かぶ。


 残り僅かとなったホームルームの時間は、最後の最後に莉花らしい明るい声が響いて、緩やかに過ぎていった。




 そんなことがあった週も既に明け、迎えた月曜日。


 先週は宿泊学習の準備というイレギュラーなイベントがあった週ではあったが、自分の生活は普段と何ら変わらなかった。いつも通り登校して、放課後や休日にアルバイトに向かう。その繰り返しである。


 宿泊学習の準備については、もう一度ホームルームの時間を使って、先週のうちに完了させていた。週が変わったこともあり、クラスには一時的に日常の空気が戻ってきている。これからは、出発が近付くにつれて再び非日常の空気が広がっていくのだろう。


 とはいえ、日常をおろそかにしていい訳ではない。そんなわけで、今年度最初の図書委員の会合のため、今日は悠と一緒に放課後の図書室を訪れていた。去年と同じなら、新たに委員となった一年生との顔合わせと、当番を回す順番を決めるだけのはずだ。


「あんまり実感はないけど、僕達も一応先輩なんだよね」

「部活に入ってないと、こういうところでしか後輩を持つ機会なんてないですからね」

「ね。話しやすそうな人が多いといいな……」


 委員の数よりも多い席がちらほらと埋まっていく中、今日も今日とて、悠の人見知りは絶好調のようだった。一年生はまだ来ていないのに、早くも瞳が不安で揺れている。あるいは、まだ来ていないからこそ、不安を感じているのかもしれないが。


「そんなに気になります?」

「なるよ。これから一年、一緒に当番に入ることになるんだよ? 苦手なタイプの人と放課後の図書室で二人は辛いって」

「そんなものですかね?」

「湊君って、誰とでも普通に話せそうだもんね。いいなぁ……」


 初めて話してからまだ二週間程度しか経っていないが、やはり悠にこれ関連の話題は振らない方がいいのかもしれない。気分が底の底まで沈んでいくのを、既に何回も目にしている。


「大丈夫ですって。多分いい人もいますよ」

「そうかなぁ……? そうだといいなぁ……」


 どんよりとし始めた悠を慰めていると、図書室内が少しだけ騒がしくなり始めた。思えば、そろそろ一年生が来てもおかしくない時間である。恐らくは、その姿が少しずつ見え始めたのだろう。


 だが、自分の意識はそれどころではない。会合が始まるまでに、目の前の悠をどうにかしなければならないのだ。そもそも、縋るような目で見つめられている今、そんな簡単に見捨てることなどできる訳がなかった。


 どうやって気分を持ち上げるのが正解なのか。悠が言う程対人能力が高い訳でもない自分の頭の中に、様々な言葉が浮かんでは消えていく。こんな時、対人能力が群を抜いて高い碧依や莉花なら、きっとするすると言葉が出てくるのだろう。


 周囲の騒めきの声が少し大きくなったのは、そんなことを考えているタイミングだった。流石に気になったのか、これまでこちらを向いていた悠の視線が、ちらりと扉の方を向く。


「わ。湊君、あの子」


 分かりやすく驚いたような悠の言葉に釣られて、自分も同じく扉の方に目を向ける。


「……は?」


 そこにいる人物を見た自分の口から漏れたのは、これまで自分でも聞いたことがないような、間の抜けた声だった。


「え? あ、一年……、え?」


 その姿を見て、少し前に交わしたとある会話が頭の中に浮かんでくる。こうして思い出してみれば、確かに高校生になったばかりだと言っていた。


「え、何? どうしたの?」


 自分の様子が明らかにおかしいことを感じ取ったのか、悠が心配そうに話しかけてくる。思いがけない方法で悠の不安を払拭できた訳だが、残念ながら、その言葉に返事をする余裕すら、混乱している今の自分にはなかった。ここでこの人物に会うことになるなど、今の今まで考えていなかったのだから、こればかりは仕方がない。


 そうこうしているうちに、ラピスラズリを思わせる瑠璃色の瞳が自分を捉える。向こうも心底驚いたのか、扉から少し中に入ったところで立ち止まって目を丸くしていた。だが、それも一瞬のこと。いつまでも混乱している自分とは対照的に、口元に笑みを浮かべながら、件の一年生が軽やかな足取りでこちらに向かってくる。


「おんなじ高校だったんですね、葵さん!」


 嬉しそうに声を弾ませて話しかけてきたのは、見慣れた制服を身に纏ったアイリスだった。




「高校生になったばっかりだって聞いてはいましたけど、まさか同じ高校だったなんて、考えもしてなかったです」

「そういえば、これまではお互いずっと私服で、学校の制服を着てるのって見たことがなかったですもんね」


 自分を挟んで悠の反対側の席に腰を下ろしたアイリスが、今気付いたように話す。その言葉の通り、今になって思えば、Dolceria pescaで会う時はいつも私服姿だった。たまたまシフトの時間まで余裕があったから着替えていただけで、特に深い意味はなかったのだが、それがこんな事態を引き起こすのは流石に予想外だった。


「えっと……? 湊君の知り合い……、なのかな?」


 突然の出来事に困惑しているのは、悠も同じだった。アイリスの様子をちらちらと窺いながら、やや控えめに問いかけてくる。


「アルバイト先の新人さんです」

「へー。湊君、バイトしてたんだ。あ、湊君と同じクラスの羽崎悠です。よろしくお願いします」

「アイリス・フリーゼです。よろしくお願いします、羽崎先輩」


 自分がアルバイトをしていたという事実に驚く様子を見せながらも、悠が自ら率先して自己紹介をしていた。自分の後輩ということもあって、そこまで緊張せずに済んだのだろうか。


 何故か悠に対して保護者のような感情を抱く自分の両脇で、アイリスと悠がお互いに頭を下げる。視界の中で菜の花色とスノーホワイトが揺れた。


「先輩……。ちょっと嬉しい響きだよね」


 先程まであれだけ不安そうにしていたのに、気が付けばいつの間にかそんな雰囲気を見せなくなっている悠。きっかけさえあれば普通に話せるのか、それとも、これもアイリスの雰囲気のなせる業なのか。


「そうですか?」

「うん。僕、部活には入ってないから、なかなか先輩って呼ばれることがなくてね」

「私でよかったら、いくらでも呼びますよ? 羽崎先輩?」

「あはは……。嬉しいけど、慣れてないからあんまり言われるとくすぐったいね……」


 苦笑いを浮かべる悠を見る限り、アイリスとは上手くやっていけそうな様子だった。早速まともに話せる後輩が一人できたことに、気付かれないように自分も安堵する。やはり悠の親にでもなったかのような感覚だが、悠を見ているとどこか庇護欲にも似た感情が湧くので仕方がないと、そう割り切ることにした。


「葵さんも『先輩』の方がいいですか?」


 一人で勝手に悠の親になった気持ちでいると、流れに乗ってアイリスがそんなことを尋ねてきた。聞きようによってはからかっていそうなものだが、その目は純粋そのものである。


「もう今の呼び方で慣れましたし、そのままでいいですよ」

「じゃあ、葵さんのままってことで。……実は、私も葵さん呼びに慣れちゃったので、そのままの方がよかったです」


 自分としては大した理由もなく選んだ呼び方だったが、アイリスとしてもそちらの方が慣れていたらしく、若干頬を染めて微笑みながら喜んでいた。その可愛さたるや、そういったこととは縁遠いと自覚している自分ですら、思わず見惚れてしまいそうになる程である。呼び方一つでその表情が見られるのなら、いくらでも好きに呼んでくれて構わないと、少し照れながらそう思うのだった。




「では続いて、今年度の当番順を決めたいと思います」


 新たに所属した一年生の紹介が一通り終わった後、顧問の教師が口を開いた。ちなみに、一番注目を集めていたのは、予想に違わずアイリスである。悠を除けば日本人の血しか存在しない空間で、その存在は際立っていた。


 もちろん、その姿も注目を集めた一因だが、声の方もそれに一役買っていた。アイリスが自己紹介を始めた途端、それまで顔を上げもしなかった生徒が、思わずといった様子で顔を上げた程だ。透き通るようなアイリスの声は、働き始めてからたった一週間しか経っていないにも関わらず、Dolceria pescaでも既に評判となっている。


「今年度も、来年四月に新学期が始まるまで、二人一組で当番を回してもらいます。一年生の皆さんは、当番の仕事を教えてもらえるように必ず上級生と組んで下さい」


 軽く説明を聞いて、昨年度までと変わらないことを確認する。自分も、一年生の時は当時の三年生の先輩と組んでいた。先月卒業していったが、色々と扱いにくかったであろう自分にも丁寧に仕事を教えてくれた、優しい先輩だった。


「くじで組を決めるのは最終手段として、とりあえず、まずは皆さんで自由に組を作ってみましょうか。少し経って、それでも全員が組を作れていなかったら、その時はその人達でくじ引きをしましょう。生徒の自主性ってやつですね」


 そう言って優しそうに笑っているが、単にくじをたくさん作るのが面倒なだけだろう。その場にいた二年生、三年生の全員が、同じ思いで説明を続ける教師を見つめていた。


「いきなり一年生からっていうのは難しいだろうから、上級生が積極的に声をかけてあげて下さいね。はい、じゃあ、どうぞ」


 そうして開始の合図と言わんばかりに軽く手を叩くも、流石にすぐに動き出す生徒はいなかった。


 普段から同じ教室で生活しているならまだしも、ここに集まった生徒達は、学年もクラスもばらばらだ。何か大きなきっかけがなければ、そんな集団はなかなか動き出さないものである。誰も彼もが、近くの生徒とぽつぽつと会話を交わしながら、周囲の様子を窺っている。


 そんな形でどこか空気が停滞する中、目立つ動きがあったのは自分のすぐ隣だった。周囲の様子を眺める自分の袖が、軽く引かれる。相手を確認するまでもなく、そちら側の隣に座っているのはアイリスだ。


 目を向けてみれば、いつもよりも幾分か強張った表情のアイリスが、何かを言いたそうにこちらを見上げている。


「あの、葵さん……」

「一緒に組みますか?」

「え? あれ……、どうして?」

「いや、この状況で言いたいことなんて、流石に誰でも分かりますって」

「あー……、ですよね。あの、それじゃあ、お願いしてもいいですか?」

「えぇ、もちろん」


 既にアルバイト先でその人となりをある程度知っているアイリスが組んでくれるなら、自分としても願ったり叶ったりだ。これで、この一年の当番は大分気が楽になった。


「はぁ……。よかったです。知らない人と組むのって、やっぱり不安だったので……」


 小さくそう呟きながら、アイリスが安堵の声を漏らす。その表情は緊張が解れて、いつもの人懐っこいものに戻りかけていた。それとは対称的に顔が強張り始めたのが、反対側の隣に座っている悠だった。


「あ、湊君……」

「そういうことです」

「そんな……」


 まさかの出来事で目論見が外れた悠が、がっくりと項垂れながら悲しみの声を上げる。こればかりはどうしようもないので、諦めてもらうしかない。そもそも、アイリスにあんな風に頼まれた時点で、自分に断る選択肢は存在していなかった。


「新しく友達を増やす機会だと思って頑張って下さい」

「それができるなら、最初から苦労してないよ」

「堂々と言うことじゃないですね」


 前向きに後ろ向きな悠なのだった。




 結局、悠も含めた数人がくじ引きで組を決めた後、会合は解散となった。今日はアルバイトのシフトも入っていないので、あとは帰るだけだ。用事があるとのことで、悠は既に図書室を後にしている。


「葵さんはもう帰りですか?」

「そうですね。今日はシフトも入ってないですし、このまま帰ります」

「私ももう帰るので、一緒に帰りませんか?」


 混雑を避け、少しだけ他の生徒を見送ってから一緒に図書室を出たアイリスからの、自然なお誘いだった。向かう先は同じなのだから、特に断る理由もない。


「折角ですしね。とりあえず、鞄を取りに行きましょうか」

「はい! ありがとうございますっ」


 わざわざ感謝してもらうようなことでもないのだが、何故かアイリスは尋常ではない可愛さの笑みを浮かべていた。その顔から若干目を逸らしつつ、図書室での出来事を話しながら、それぞれの教室にて鞄を回収する。


 その後、玄関で靴を履き替え、駅までの道をアイリスと並んで歩く。つい先程まで同じ高校の生徒だと知らなかったアイリスとこうして一緒に歩くのは、どこか不思議な感覚があった。


「それにしても、さっき図書室で葵さんを見つけた時はびっくりしました」

「それは僕も同じですよ。同じ高校で同じ委員会を選んでるなんて思いもしなかったので、完全に油断してました」

「あの時の葵さん、バイトしてる時には見たことない顔をしてましたよ?」

「お願いですから忘れて下さい」


 驚きで固まって、なかなか珍しい表情をしていた自覚はある。自覚はしているが、改めて突っ込まれるとやはり恥ずかしかった。


「嫌ですっ。せっかく他の人が知らなそうな表情なんですもん。ちゃんと覚えておきます!」

「僕の驚いた表情に、一体何の価値があるって言うんですか」

「だって、前も言いましたけど、葵さんっていっつも落ち着いてるじゃないですか。そんな人の色々な表情って、何となく見たくなりませんか?」

「それ、本人に聞きます?」

「ってことで、これからも色々な表情を見つけていこうと思います」


 どうやら、アイリスは自分と違う感覚を持っているらしい。どう反応するのが正解なのかよく分からない宣言が、楽しそうに緩む口から飛び出してきた。一体何をするつもりなのか、それはアイリスのみが知ることである。


「と言いますか、僕ってそんなに表情に乏しいですか?」

「え? んー……? 乏しいってわけじゃない、と思いますよ? バイトしてる時とかは柔らかい表情ですし」


 その光景を思い出しているかのように、人差し指を口に当て、少し上を見ながらアイリスが言う。どうやら、接客している時は何とかなっているようだった。一瞬だけ、取っ付きにくい店員だと思われていたらどうしようか、などと考えてしまった。


「でも、他の人と比べちゃったら、あんまり色んな表情を見ないなって思います」

「そう、ですか。少し自覚はしてましたけど、やっぱり他の人からもそう見えるんですね」

「あ、でも、葵さんはそのままでもいいですよ? そしたら、いろんな表情を私が独り占めってことですもんね!」

「これからは表情豊かに生きていきますね」

「なんでですかっ!」


 アイリスの願いを受け流すようにして、これからの目標を立てる。そんな目標を聞いたアイリスが、分かりやすく不満そうな表情を浮かべる。初めて会った日の緊張はすっかり消え去ったのか、一足先に色々な表情を見せてくれるアイリスなのだった。




 住んでいる町が同じなら、乗る電車も当然同じ。さらに言えば、歩いて数分のご近所さんなら、最寄り駅まで同じだ。


 そんな訳で、電車が来るまで駅で少し時間を潰した後、ホームで発車時刻を待つ電車に乗り、乗降口近くの席に二人並んで腰を下ろす。


「先週も今週も、電車で葵さんのことを見かけなかったんですよね。帰りは仕方ないとして、朝も時間が違ったんですかね?」

「かもしれないですね。朝も何本かありますし」

「ちなみに、朝は何時ですか?」

「七時二十分過ぎです。アイリスさんは?」

「その一本後です。だから会わなかったんですね」


 話を聞くと、朝の時間は僅かにずれていたらしい。とはいえ、その程度のずれなら駅で見かけていてもおかしくはないが、それがなかったのはただの偶然だろう。


「そっか、一本前ですか……。うんうん、そうですか……」


 若干薄暗い駅の中だったとしても、流石にアイリスの姿を見逃すはずがない。そう考える自分の目に映るその横顔は、明らかに何かを考えている様子だった。何度か頷くのに合わせて菜の花色の髪が揺れ、窓からの光を跳ね返している。


 その様子は最近も見た覚えがあった。それも、同じく電車の中で、だ。仮に見た覚えがなかったとしても、何を考えているのかは簡単に想像できただろうが。


「あと少しの早起きって、意外と大変ですよ?」

「え?」

「二度寝、しないといいですね」

「な、何のことですか? しませんよ……?」


 目があちこちを泳いでいる辺り、普段から二度寝を謳歌していそうだった。とりあえず無言で頷いておく。


「……」


 何となく、微笑ましいものを見るような目付きになっている気がした。


「何なんですかっ、その顔!」


 まだ自分達以外に乗客のいない車内の空気に、戸惑うアイリスの声が滲んで溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ