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69. エーデルワイス (1)

 十一月十一日、土曜日。いよいよ迎えた文化祭本番の日である。平日とは少しだけ違う電車の時間に合わせて、いつもよりも数分だけ早く到着した駅舎。そこにはまだ、アイリスの姿はない。


 ならばといつも通りのベンチに向かおうとしたところで、後ろから小さな足音が聞こえてきた。元々、平日の朝でも利用者が少ない駅で、休日の朝ともなればさらに利用者は減る。現に、目の前に広がる駅舎の光景の中に人影はない。


 そんな中、このタイミングで駅を訪れる人など、ほぼ間違いなく想像している通りの相手だろう。そう思って、足を止めて振り返る。


「あ……」


 何故か両手を前に伸ばした格好で固まり、悪戯がばれたと言わんばかりの声を漏らすアイリスが、そこにいた。


「おはようございます。どんな悪戯をしようとしてたんですか?」


 そんな状況でも、朝の挨拶は大事だ。ひとまずそう声をかけてから、改めて問い質す。


「お、おはよう、ございます……。べ、別に何も企んでませんでした、けど……?」


 どう考えても何も企んでいなかった人間の格好ではなく、そして、どう考えても何も企んでいなかった人間の発言でもない。本気で誤魔化せると思っているのなら、随分とお粗末な隠し方だった。


「僕が同じことをアイリスさんにしたら、アイリスさんはどうします?」

「悲鳴を上げ……、あ」

「悲鳴を上げるようなことをしようとしてたんですね」

「その聞き方はずるいですよ!」

「後ろから悪戯をしようとしてた人に言われても」

「うぐっ……!」


 痛いところを突かれたであろうアイリスが、そう呻き声を上げて黙り込む。恨めしそうな目で見上げられたところで、十割アイリスが悪いのだから、自分としてはどうしようもない。


「それで、何をしようとしてたんですか?」


 いつまでも入口近くで話している訳にもいかない。再び改札の方へと歩みを進めながら、隣にアイリスが並んだのを見て、そう問いかける。


「……脇腹をくすぐってみようかと……」

「お試し感覚で何を……」


 そっと目を逸らすアイリスは、どうやら思った以上に踏み込んだ悪戯を考えていたらしかった。


「もし弱かったら葵さんの弱点が一つ見つかって嬉しいですし、弱くなくても、驚く葵さんが見られたらそれでいいかなって……」

「弱点を知ってどうしたいんですか」


 観念したように思惑の全てを明らかにするアイリスだったが、それを聞かされた自分としては、明るい未来など見えなかった。見えるとすれば、弱点を突かれてコスプレをさせられている自分の姿である。


「葵さんが油断する度にくすぐります」

「残念ですけど、大して効きません」

「そんなぁ……」


 本気で残念そうに言っているのが、実に恐ろしかった。アイリスには弱点を知られないよう、くれぐれも気を付けて立ち回ることを固く誓う。


 そして、こんな話題になったからなのか、普段は絶対に気にしないであろうことが気になってしまった。


「じゃあ、アイリスさんはどうなんですか」

「何がですか?」

「くすぐり」

「……知ってどうしたいんですか?」


 怪しむような目付きで問うアイリス。自身も同じことを尋ねていたということに、果たして気付いているのだろうか。


「別にどうもしませんよ。弱かったら、いざという時にアイリスさんを止める切り札になるかなってくらいで」

「お、女の子のお腹に軽々しく触っちゃだめなんですからね!?」


 視線を泳がせながらの、そんな言葉。脇腹を隠すように、両腕で自らの体を抱き締めていた。もうその言葉と仕草だけで答えが分かる。


「弱いんですね」

「……悲鳴を上げるくらいには」

「碧依さんと渡井さんに気を付けておくといいです」

「もう絶対に触れさせません……!」


 また本人達の与り知らぬところでアイリスの警戒レベルが引き上げられる。そうなったきっかけは名前を出した自分だが、全ての原因は二人の日頃の行いにあるということで、何も気にしないことにしておいた。


 アイリスとそんな会話を交わしながら改札を抜けて、ホームへと進む。休日ダイヤの影響でいつもとは違うホームである。普段の朝はまず目にすることのない広告が、ちらほらと視界の端に映る。


「……あれ?」

「どうしました?」


 いくつかの広告に少しだけ意識を持っていかれていると、隣でアイリスが何かに気付いたような声を上げた。大して気になっていた訳でもない広告を視界から外して、アイリスへと目を向ける。


「葵さん、くすぐられても大丈夫な人なんですよね?」

「まぁ、くすぐったくはないですね」

「じゃあ、私が触るのは大丈夫なんじゃ……」

「触られること自体は気になり……」

「え?」

「え?」

「……」

「……」


 珍しく言葉が被ったアイリスが、何か不穏なことを呟いたような気がした。


「……葵さん」

「……何です?」

「歯を食いしばってください」

「どうして」


 虎視眈々と表現するには露骨すぎる程に、アイリスの視線が自分の脇腹に向けられている。狙いはそこなのに、何故歯を食いしばる必要があるのか、皆目見当がつかなかった。


「葵さんの脇腹ぁ……」

「どんな亡者ですか」


 両手を広げながらじりじりと迫ってくる姿は、まさに欲に取り憑かれた亡者そのものである。その欲が「先輩の脇腹を触りたい」という欲なのはどうかと思うが。


「じっくり撫で回して、男の子なのに細いって絶望するんです……」

「アイリスさんがダメージを受けるんですね」

「だってずるいじゃないですか!」

「おぉ……?」


 突然アイリスが生者に戻った。何故か両手は広げたままだったが、視線は脇腹から外れて目が合うようになる。


「葵さんなら、健康的に細そうじゃないですか! そんな女の子の憧れ体型みたいな人が目の前にいたら、触りたくなっちゃうのも仕方ないです!」

「碧依さんと渡井さんから悪い影響を受けてますね」


 出会ったばかりの頃のアイリスなら、きっとこんなことは言い出さなかったはずだ。特殊な種類の先輩との関わりは、アイリスをいい意味でも悪い意味でも成長させてしまっていた。


「触って、その秘密を解き明かします……!」

「触っただけで何が分かると……」

「全てが」

「何者?」


 またよく分からないことを言い出したアイリスが、再び彼我の距離をじわじわと縮め始める。


「大丈夫です……。しっかり撫で回すだけですから……」

「それを聞いて何を安心しろって言うんですか」


 迫ってくるアイリスの両手を掴んで動きを止める。いかに自分が男子として力が弱い方だとはいえ、流石にアイリスに負ける程は弱くない。狙い通り、止められたところから一切進むことができなくなったアイリスが、悔しそうにさらに力を込めてきた。


「手を離してください……! 葵さん……!」

「離すわけがないです」


 込められたところで、別段押し込まれる訳でもないが。


 そんな意味が分からない攻防を繰り広げているうちに、ホームに電車がやって来るというアナウンスが流れ始めた。この辺りがちょうどいい頃合いだろう。


「はい。ここまでです」

「あぁ……!」


 動きを止めるだけでなく、押し戻すように力を込める。何の苦もなくアイリスの体のすぐそばまで戻っていった両腕から、ふっと力が抜けた。純粋な力比べでは勝てないと悟ったのだろう。


「いくら僕が相手だからって、アイリスさんの腕力で勝てるわけがないですって」

「だったら搦め手で……!」

「それなら、アイリスさんの手が届く範囲に近付かないだけですけどね」


 言いながら、アイリスから距離を取る。物理的に離れてしまえば、直接も搦め手も関係ない。


 そう思っていたのに。


「あ……。い、嫌、です……!」

「え?」


 たった一歩分の距離が空いた途端に、アイリスの様子が劇的に変化した。これまでの押し込もうとするような雰囲気は霧散し、代わりに、何かに怯えるような表情が浮かんでいる。


 明らかに普段とは違う様子に、思わず離した距離を元に戻す。縋るように自分を見つめる瞳には、はっきりと涙が滲んでいた。


「アイリスさん?」

「は、離れないで、くださいっ……」

「冗談、ですけど……」


 やっと絞り出したかのようなその声に、からかいの言葉など返せるはずもない。一瞬これが搦め手かとも考えはしたが、一向に腕を伸ばしてくる気配がないので、どうやら本当に見た目通りの状況らしい。


「ほんと、ですか……?」

「今ここにいますしね」

「……」


 言葉だけでは不安なのか、存在を確認するかのように左手を握られる。当然、振り解くようなことなどする訳もない。


「……」

「……」


 ホームから電車がやって来るのが見える頃になっても、その手は離されない。アイリスが何を不安に思ったのかまでは分からないが、もうしばらくは、このまま無言で手を握っていた方がよさそうだった。




「……何かあった?」

「……」

「えへ……!」


 前の車両から歩いてきた碧依の第一声がそれだった。


 何かあったかと問われると、その答えは「あった」になる。なるけれども、その中身までは自分も知らない。


「今のアイリスさんみたいな人形があるよね。腕に抱き付くやつ」

「……人形の方が気は楽です」

「人形みたいに可愛いなんてぇ……! そんなそんな……」

「言ってません」


 緩みきったアイリスの姿を生温かい目で見つめながら、碧依が隣に腰を下ろす。アイリスの様子が若干異なるものの、組み合わせという意味ではいつもの三人組の完成だった。


「で、どうしたの? またハロウィンの時みたいなことをやってるの?」

「僕もよく分からないんですよね」

「そうなの?」


 当事者からそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのか、碧依が少しだけ目を丸くする。


「落ち着くまでこうさせてくださいとは言われたんですけど……」


 ホームでの出来事の後。やって来た電車に乗り込んで、二人揃って腰を下ろしたところでそう告げられた。


 あの時もそうで、今もそれは変わっていないが、いつもよりもアイリスとの距離が近いような気がしないでもなかった。元々距離などないと言っても差し支えないような座り方をしているにも関わらず、だ。


 時間が経つにつれて徐々にアイリスの気持ちは落ち着いていったようで、それはよかったことではあるのだが、いかんせん心臓に悪いことには変わりない。


「落ち着くまで?」

「向こうの駅で色々ありまして」

「ふーん……」


 自分の曖昧な言葉を聞いていても仕方がないと思ったのか、碧依の視線が再びアイリスへと向く。


「落ち着きますぅ……」

「落ち着くのを通り過ぎて、融け始めてない?」

「……」


 脱力していること自体には気付いていた。指摘したところでどうにもならなそうだったので、あえて何も言わなかったが。


「どきどきしますけど……」

「混乱もしてない?」

「……してますね」


 緊張しているのなら、「落ち着いている」とは言わないだろう。ぽつりと呟かれた一言に、アイリスの混乱具合が如実に表れていた。


「このままいけば、多分駅から出た後は手を繋ぐことになるね」

「当たり前じゃないですか」

「どんな当たり前……」

「もっと言うと、駅から出たらじゃなくて、ここから立ち上がったら、です」

「だって」

「……」


 うすうすそんな気はしていたが、アイリスには離す気が一切ないらしい。そうするのが当然とでも言わんばかりの純粋な目で見つめられて、最早何も言うことができない。


「何をしたら、人ってここまで甘えるようになっちゃうんだろうね? 『色々』が気になるなぁ……?」


 からかうような口調で、碧依が問いかけてくる。「格好の獲物を見つけた」という表現がとてもよく似合いそうな雰囲気を、その身に纏っていた。


「何をしたらも何も、アイリスさんに脇腹を触られそうになっていたとしか言いようが……」

「何をしてるの?」


 纏っていた雰囲気が消えた。代わりに現れたのは、呆れだろうか。言葉にするなら、「また意味が分からないことをしている」辺りだろう。


「葵さんの腰って細いじゃないですか」


 呆れを隠そうともしない碧依の問いかけに答えたのは、色々な感情を通り越してにこにこし始めたアイリス。ただし、答えになっているのか甚だ疑問な答えではあったが。


「男の子にしては細いね、確かに」


 そんなアイリスの言葉を受けて、碧依の目が今度は自分の腰に向く。何が触れている訳でもないのに、何故か少しだけむず痒い。


「なので、触ってその秘密を探ろうと……」

「触っただけで?」

「私くらいになると、触っただけで葵さんの全てを知ることができます」

「神なの?」

「健康的に細い腰を手に入れる秘訣、分かったら碧依先輩にも教えましょうか?」

「存分に撫で回すといいよ」

「はいっ!」

「はい、じゃないんですよ」


 このタイミングで碧依が敵に回るとは思っていなかった。普段はアイリスが警戒していてこんなことにはならないが、ごく稀にこうして組まれると、面倒なことこの上ない組み合わせである。


「碧依さんだって、気にする必要なんてなさそうじゃないですか」

「え、何? 私のこと、そういう風に見てたの……?」

「興味ないです」

「少しは興味を持ちなさい」

「どうしてほしいんですか」

「全く興味ないって言われるのは、それはそれで腹が立ちます」

「葵さんは私に興味津々ですもんね!」

「それは嘘です」

「なんでですか!」


 二人が敵に回ると、それはもう忙しくて仕方がない。穏やかな通学の風景は、一体どこに置いてきてしまったのだろうか。


「私は葵さんに興味津々なのに!」

「僕の腰に、ですよね」

「密着してる今なら触れる……!」

「右手は私が押さえてるから、今のうちに!」

「あ」


 その言葉通り、右手を碧依に押さえつけられる。なるべく振り解かれないようにしているのか、律儀に両手が重なっていた。普段は敵対しているはずなのに、どうしてこんな時は息が合ってしまうのか、どうにも不思議でならない。


 だが、そう考えることができたのも僅かな時間で。意外と相性がいいのかもしれない二人の連携によって、とうとうアイリスの左手が脇腹に届く時が訪れてしまった。


「やっぱり細いです……! ほとんどぷにぷにしてない……」

「……」


 何故か壊れ物を扱うような手付きで腰を撫で回すアイリス。時折指先で脇腹を突いているその目は真剣そのものだったが、真剣さを発揮する場面を間違えているとしか思えなかった。


「どう? 何か分かった?」


 右手を押さえる碧依がアイリスに問う。その答えなど、分かりきっているはずなのに。


「何にも分からないです」

「だめ神様だったね。期待外れだよ」

「だめ……!?」


 分かっていたはずなのに辛辣だった。


「もう満足しました?」

「あ、はい。とってもいい細さだったと思います」

「別に感想は求めてないです」


 どうして触られた側が感想を求めていると思ったのだろうか。どんな考え方をしたのか気になりはしたが、どうせ理解できないので何も聞かないことにした。


 何にせよ、アイリスの手が離れてくれたのならそれでいい。くすぐったくはないが、絶妙なむず痒さがあったのは事実だ。


「結局、アイリスさんがただ満足しただけか……」

「結構なお点前で」

「葵君は膝も腰もお茶なんだね」

「何を言ってるんですか?」


 これまた随分と懐かしい言葉を引っ張り出してきたものだ。言われるまで、自分の膝がそんな評価を受けていたことなどすっかり忘れていた。


「あ、そっか。膝の上に座るってのもありでしたね」

「なしです」


 碧依の言葉でアイリスも思い出したのか、何か余計なことを考え始めていた。この期に及んでまだ何か悪戯をしようと考える胆力は、ある意味では立派なものである。


「ついでに、そのまま後ろから抱き締めてもらうってのは?」

「ほぁぁ……! いいですね……!」

「僕の性格だと、まずやらないですよね」

「そんな葵さんがやってくれるからいいんですよ!」

「やりませんけどね」

「なんでですかっ」


 不満そうに頬を膨らませるアイリスだったが、何故やってもらえると思ったのだろうか。今まで、一度だってそんな素振りを見せたことなどないはずだ。


「こんな公共の場で、そんなことをするような人間に見えますか?」

「じゃあ、周りの目がなかったら大丈夫ってこと?」

「ってことは、私の家なら……」

「そういう意味じゃないですし、アイリスさんの家にはもっと見られちゃいけない人達がいます」


 最近メイド服を着た時と同じである。誰に目撃されるよりも、あの二人に目撃されるのが状況としては一番気まずい。そんな状況に自分から飛び込む訳にはいかなかった。


 だというのに、アイリスは期待に満ちた目で見つめてくる。自分がその目に弱いことを知っているのか否か。どちらにせよ、アイリスの強力な武器であることには変わりなかった。


「そんな目で見られても、やらないものはやりません」

「えぇー……」


 だが、今回ばかりは拒否の姿勢を貫く。毎回毎回アイリスの要望を受け入れていると、自分の身が持たない。


「お願いを何でも受け入れてもらえるってアイリスさんが考えてしまうのは、あんまりよくないことですからね」

「葵君はアイリスさんの親なの?」

「流石にそこまでは考えませんって」

「だったらいい……」

「葵さんが受け入れてくれる限界のラインをずらそうとはしますけど」

「もっと質が悪いじゃないですか」


 一瞬安心しかけたところに、その発言である。言った本人も意図していないであろう形で、一撃の威力が大きくなっていた。


「いつか膝の上に座るってお願いも認めてくれるように……」

「欲望が全部漏れてるね」

「本人の前で言えるってところが、ある意味大物ですよね」

「大物だなんて……、そんな……。えへへ」

「褒めてないですよ」


 その言葉をどう解釈したのか知らないが、何故か褒められてもいないのに、アイリスの顔が嬉しそうに緩む。


「そんな葵さんの期待に応えられるように、これからもちゃんと頑張りますね!」

「話を何も聞いてないですね」

「葵君は一体いつまで耐えられるんだろうね?」

「最後までに決まってるじゃないですか」

「腕を組むところまではもう受け入れちゃってるのに?」

「……」

「ラインをずらしました!」


 左腕を抱き締めながら、勝ち誇ったように言うアイリス。その表情には、一点の曇りもない。


「耐えられるといいね?」

「耐え……、てみせます」

「もう負けそうだね」

「耐え……」


 膝の上にアイリスが座っている未来も、そう遠くないのかもしれなかった。




「こうやって見ると、文化祭だなって感じがしますよね!」


 いつもと違って盛大に装飾が施された校門を見て、アイリスが興奮したように言う。繋がれた左手が、その動きに合わせて前後に揺れている。


「ねー。転校してくる前の学校はこんなに盛大にやらなかったから、私もちょっと新鮮な感じ」

「はしゃぎ過ぎて転ばないようにしてくださいよ?」

「今は葵さんと手を繋いでるから大丈夫ですっ」

「躓いた時はちゃんと言ってくださいね」

「手を引いて助けてくれるってことですか? やっぱり葵さんは優し……」

「僕も転ばないように手を離します」

「なんでですか!」


 前後への振れ幅が大きくなった。まるでアイリスの感情を表しているかのようである。


「こうなったら、何が何でも離しませんもん……!」

「転ばない、躓かない、とは言わないんだね」

「よそ見をして転びそうになったことがあるので、余計なことは言わないようにしてます」


 何か思い当たる節があって気まずいのか、言いながらよそ見をしていた。実に転びそうな格好である。


「焼き上がったワッフルを持って転ぶ、なんてお約束はいらないですからね?」

「そこまで不器用じゃないですもん」

「私的にはご褒美だし、遠慮なく転んでくれてもいいからね?」

「碧依先輩は出禁なので関係ないです」

「あれ?」


 始まる前から入店禁止を言い渡されている先輩が一人、ここにいた。これも日頃の行いの結果なのかもしれない。


「だったらデリバリーで……」

「火傷確実なくらいにあっついのをお届けします」

「葵君! この子やたらと攻撃的なんだけど!」

「全部自分のせいじゃないですかね」


 やはり、これまでの積み重ねがそうさせているだけだろう。碧依の中でアイリスの扱いを変えない限り、受け入れてもらえる未来は永劫訪れない。


「……それならそれで、こっちにも考えがあるから」

「何をするつもりか知りませんけど、おかしなことはやめてくださいよ?」


 アイリスからの扱いのひどさに、拗ねたような表情で小さく呟く碧依。こうなった碧依はあらかじめ抑えておかないと、何を言い出すのか分かったものではない。ただでさえ色々な出来事が起こりそうな一日なのに、こんな身近なところで騒動を引き起こしてほしくはなかった。


「『あおい』って名前だけ使って注文する。それなら、葵君と間違えてくれそうだし」

「巻き込まないでください」


 思った通り、おかしなことをしようとしていた。何故か妙案を思い付いたと言わんばかりの表情を浮かべる碧依を、再度言葉で抑え込む。


「せっかく同じ名前なんだから、こういうところで悪用していかないとね」

「悪用って……」


 だが、碧依は止まらない。はっきりとそんな言葉まで使って、自らの企みを披露する。碧依も碧依で、アイリスと同じように気持ちが昂っているのか、普段よりも押しが強いように感じられた。


「葵君からの注文だと思えば、下手なものは作れないもんね?」

「残念ですけど」

「え?」


 そんな勢いのある碧依を止めたのは、やはりアイリスで。


「葵さんとは、休憩時間を合わせてあります」

「……それで?」

「迎えに来てくれる時間に合わせて準備することになってるので、葵さんからわざわざ注文が入ることはありません」

「……」


 非情な宣告を突き付けるアイリス。その目と声は、アイリスにしては随分珍しく、いつもより少しだけ冷たいような気がした。


「……知ってたの?」


 何故か碧依が恨みの宿った視線を自分に向けてくる。言いたいのは、きっと「知っていたのに泳がせたのか」ということだろう。


「休憩時間を合わせたのは本当ですけど、その後は今初めて聞きました」


 だが、誓って自分にそんなつもりはなかった。碧依の視線に貫かれながらの言葉に、一切の嘘は含まれていない。


「葵さんにはこの後お話ししようかと思ってました」

「そういうことらしいです」

「そもそも、デリバリーなんてやらないですし」

「私のワッフルはぁ……?」


 策とも言えないような策をあっさり打ち破られ、文化祭当日とは思えない程の悲壮感を背負った人間が誕生した。下手をすると、このまま泣きそうである。


「はぁ……。……ちゃんとしたお客さんとして来てもらえるなら、その時はこっちもきちんと対応しますから」


 そんな姿を見て不憫に思ったのか、アイリスが条件付きでの入店を許可していた。ほとんど条件とも言えないような当たり前の条件ではあったが、それだけアイリスの警戒度合いが強いということだろう。


「ほんと!?」

「ちゃ、ちゃんとするなら、ですからね!」

「大丈夫! 多分莉花も一緒に行くと思うけど、私が全力で抑えるから!」

「ほんとに大丈夫なんですかね……?」


 一気に勢いを取り戻した碧依に、アイリスが若干気圧されている。はっきりとした碧依の宣言ではあったが、それでも不安なものは不安なのだろう。その顔には、どこか困ったような表情が浮かんでいた。


「まぁ、碧依さん達も、他の人の目がある中でそう易々と暴走はしないと思いますよ」

「ほんとにそう言いきれますか? あの碧依先輩と渡井先輩ですよ?」

「……」

「文化祭でテンションが上がった碧依先輩と渡井先輩ですよ?」

「……多分、大丈夫ですって」


 楽しみにしていたであろう碧依を軽くフォローしておくつもりだったのに、アイリスの言葉に納得してしまいそうな自分がいた。


「ウェイトレス姿のアイリスさんにまた接客してもらうの、楽しみだなぁ……!」

「不安だなぁ……」

「……」


 両対極な感情を抱く二人に挟まれながら、玄関へと辿り着く。普段は殺風景なその場所も、今日は色とりどりの装飾が施されている。その中には、自分達のクラスやアイリス達のクラスの宣伝も紛れ込んでいた。


 そんな装飾を横目に見つつ、一年生のスペースと二年生のスペースの分かれ道へと差しかかる。


「じゃあ、葵さん。約束の時間に来てくださいね?」

「分かりました。それじゃあ、また後で」


 言いながら、結局ここまで繋いだままだった手を離して、アイリスを見送る。


 しばらくぶりに自由になった左手に触れる空気は、いつもより少しだけひんやりとしていた。




「おー、おはよー。お二人さん」

「おはよ、二人共」


 碧依と二人していつもと全く雰囲気の違う教室に入ると、先に登校していた悠と莉花から声をかけられた。


「おはようございます」

「おはよー」


 いつもと違う空間にあって、いつもと変わらない二人に挨拶を返す。アイリスに入店許可を貰えて気分が高揚しているのか、碧依は小さく手まで振っていた。


「莉花。今日は暴走しちゃだめだからね?」

「いきなり何の話? 普段から暴走なんてしてないけど?」

「出禁になりそうですね」

「だから何?」


 何の説明もなしに、結論だけを伝える碧依。そして、信じられないようなことを真顔で言う莉花。入店して即退店させられる未来が見えた。


「さっきアイリスさんと話してね? 大人しくしてるんだったら、アイリスさん達のクラスに入ってもいいって言ってもらえたの」

「よし。任せて」


 どう考えても順番が入れ替わっている説明を受けた莉花が、これ以上ない程不安になる宣言を口にしていた。これこそが、先程アイリスが抱いていた感情だろうか。


「大丈夫だと思う?」

「思いません」


 一連の流れを聞いていた悠も、同じように不安に思ったらしい。碧依と莉花には聞こえない程度の小さな問いかけに、確信に変わってしまった答えを返す。


「そもそも、大人しくしてるんだったら、なんて条件、普通は言われないと思うんだけど……」

「あの二人が傷付くだけなので、それ以上はやめておきましょうか」

「あ、うん……」


 せっかく楽しい気分になっているのなら、そこに水を差すようなことは言わない方がいい。その結果、二人がアイリスからどんな扱いを受けようが、文句は受け付けるつもりはない。所謂自己責任の精神である。


「で、そんなことを言ってる湊君は、当然行くんだよね?」

「僕は招待までされてますから。あの二人とは格が違います」

「おうこら。聞こえてるぞ」

「それは格が違うと言うか……」

「何です?」

「何でもないよ」


 何かを言いかけた悠が、その言葉を誤魔化す。これまでにあまり見たことがない行動だった。


「そういう言い方をされると気になるじゃないですか」

「残念。いくら湊君でも、これは教えてあげられないかな?」

「何を……」

「おう。そこの格が違うの」

「呼ばれてるよ?」

「……」


 まるで送り出すかのように、にこやかな笑顔で告げられる。呼び方自体は真面目なものではなかったが、呼ばれてしまった以上、無視する訳にもいかなかった。


「どうしました?」

「衣装。本当に問題ないか最後に確認したいから、ちょっと早めに着替えてきて」


 呼び方とは裏腹に、内容は至って真面目なものだった。どうやら、碧依とは一通り盛り上がり終わったらしい。


「分かりました。今日は更衣室ですよね?」

「うん。流石に準備の時のだと、時間がかかり過ぎるし」

「ですね。じゃあ、着替えてくるので、少し待っててください」

「はいよ。なるべく早くねー」


 そう言ってやんわりと急かしてくる莉花から衣装を受け取って、やや急ぎ気味に教室を後にする。玄関から向かってくる時もそうだったが、廊下に漂う空気は、いつもと違って少しだけ熱を帯びているかのようだった。




「それがアイリスのバイト先のウェイトレス服?」

「そ。可愛いでしょ?」

「いい……。落ち着いた色合いも、動くのに邪魔にならないくらいのフリルも、スカートの長さも……」

「最後のは変態っぽい」


 やはり、紗季に感想を求めたのは間違いだったのかもしれない。聞くなら隣にいる純奈にするべきだった。


「やっぱり出来が違うね」


 そんな純奈は、手作りのものとは全く違う、服の造りが気になっているようだった。


「まぁ、本当にお店の接客で着てる服だからね」


 教室の中には、自分のものとは違うものの、簡単な造りのウェイター服やウェイトレス服に身を包んだクラスメイトが数人いる。その誰もが、普段は着ない種類の服に少し恥ずかしそうな表情を浮かべている。


「慣れてるからか知らないけど、全く恥ずかしそうじゃないしね」

「今日の私は無敵だよ」


 そんなクラスメイト達と比較したのか、紗季が感心したように口にする。普段とは違う場所でウェイトレス服を着ているという違和感はあるものの、今更接客に対する恥ずかしさなどあるはずもなかった。


「そういう可愛い服のお店でバイトするのって、やっぱりちょっといいよね」

「でしょ。私もいいところが見つかったなって思ってる」

「運がいいのか何なのか……」

「そんな私のバイト先をよろしくお願いします」


 羨ましがる紗季と黙って聞いている純奈に軽く宣伝をしておく。碧依や莉花は全力でからかってくるので町ごと出禁にしたが、この二人なら大歓迎だった。


「それじゃあ、お店の名前と場所は後で聞くことにする。誰かが聞き耳を立ててそうだし」

「聞き耳?」

「アイリスは気にしなくていいよ」


 不思議なことを言い始めた紗季に対して首を傾げていると、そんな言葉と共に生温かい視線を送られた。一体何がしたいのだろうか。


 よく分からなかったが、気にしなくていいということなので、深く考えないことにする。紗季の考えが分からないのは、今に始まったことではない。


「よく分からないけど、後からでいいって言うなら、そうする」

「それでよし」


 満足そうに頷く紗季を眺めていると、そのタイミングで校内放送が流れ始めた。その内容を聞くに、この放送を以て文化祭の始まりとするらしい。


 同じく放送を聞いていたクラスメイトの間に、僅かな緊張が走るのが感じられた。


「よし、それじゃあ始めようか」


 一瞬だけ訪れた静寂の中に、手を打ち鳴らした紗季の声が響く。それを合図にしたように、固まっていたクラスメイト達が慌ただしく動きを再開する。


「……!」


 そんな様子を見ながら、自分も軽く拳を握って気合いを入れる。


 こうして、この学校で迎える初めての文化祭が幕を開けた。

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