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68. 熱く、甘く

「今の時代、レンタルしようと思えば何でもレンタルできるんですね」

「いきなりどうしました?」

「いや、家庭用のワッフルメーカーなんて、レンタルできるとは思ってなかったので……」

「あぁ……。まぁ、こういう機会でもない限り、そもそも調べすらしませんもんね」

「です。そのおかげで練習ができるので、とっても助かってますけど」


 十一月八日、水曜日。アイリス宅のキッチンにて。夕食の時間はとうに過ぎ、既に午後八時を回っている。


 そんな中、そんな場所で何をしているかといえば。


「レシピはどうなりました?」

「昨日皆で色々試して、一つに絞りました」


 そう答えるアイリスから、一枚の紙が手渡される。受け取る時に予想した通り、そこに書かれていたのは件のワッフルのレシピ。


 つまり、約束していた文化祭に向けての練習をしようとしているのだった。


「手間のかかる工程が少なくて、材料に変わったものがない。でも味はきちんと美味しいってことで決まりました」

「なるほど……」


 このレシピに決まった経緯を聞きながら、ざっとレシピを眺めてみる。確かに、見る限りでは簡単に手に入る材料ばかりで、工程もそこまで難しいところはないように思える。強いて言えば、焼き加減の調整が難しそうなところだけが問題だが、それはどんなレシピを選んだところで変わらないだろう。


 一通りの確認を終えて、レシピをアイリスへと返す。


「言ってしまえば、材料は混ぜるだけじゃないですか」

「ですね。泡立てる、なんて工程がないだけで、大分作りやすいと思いますよ」

「でも、やっぱり気になるのは焼き時間なんですよね」


 そのレシピを見れば、辿り着くところは誰でも同じらしい。少しだけ困ったような表情を浮かべながら、アイリスがじっとレシピを見つめている。


「『三分から四分焼く』って。もっときっちりした時間を教えてほしいです」

「理系ですね」

「理系ですよ? 最近、お料理って実験みたいだなって思い始めました」

「化学が好きな人の末路ですね」

「葵さんはもう到達してますよね」


 手元に向けていた視線を自分の方に向け、からかうような笑みを浮かべるアイリス。そんな表情を見ると反論したくなるが、事実なので何も言えることがなかった。


「料理は化学です」


 そんな訳で、適当にそれっぽいことを言っておくことにした。


「認めちゃいましたね」

「アイリスさんも、早くこの境地まで達するといいです」

「そこまでは……、ちょっと……」

「アイリスさんが言い出したんですよ?」

「葵さんですよね?」

「あれ?」


 からかいの視線が、ほんのりとした呆れに変わったような気がした。


「いつまでやってるの、二人共」

「まぁ、遅くなったらなったで、葵君がこの家に泊まっていくだけの話だけど」


 そんなタイミングで、自分達以外の声がキッチンに届く。


 アイリスの家なのだから、リビングには当然アーロンとレティシアもいる。一向に練習を始めない自分達二人を見て我慢できなくなったのか、変わり種の脅し文句が飛び出してきたのだった。


「アイリスさん。今すぐ始めましょう。早く」

「そう言われるのも複雑な気がします」


 一つ下の後輩の家に泊まっていく勇気は流石になかった。しかも、その相手が異性となれば尚更だ。いかに両親がいるとはいえ、心臓に悪い状況であることには変わりない。


「……まあでも、私も寝起きとかを見られるのは……。まだちょっと恥ずかしいですし……」

「寝癖ですか」

「そこまでひどくないですもんっ」

「全く寝癖がついてない寝起きのアイリスさんなんて想像できないので、今更恥ずかしがらなくても……」

「どういうっ、ことですかっ」


 ぽすぽすと。そんな効果音が聞こえてきそうな勢いで二の腕辺りを殴られるが、所詮はアイリスの力なので何の痛みもない。言うなれば、ポメラニアンがじゃれついているだけにしか思えなかった。


「こうなったら、わざと遅らせて葵さんを泊めることにします!」

「何がしたいんですか」


 つい先程まで恥ずかしがっていた人間の発言ではない。自分を泊めて、一体何をしようというのか。


「寝起きで寝癖のついた葵さんの写真を撮ります!」

「僕より早起きできるといいですね」

「最近は私も早いですもん」


 どうやらそんな狙いがあったらしかった。自信ありげに胸を張るアイリスのその仕草に、今のところ嘘の気配は感じられない。


「そしてあわよくば、葵さんの寝顔も……」

「見ても楽しいものじゃないと思うんですけどね」

「いーえっ! 絶対に可愛いです!」

「あ、それ私も見たいから、是非泊まっていってくれる?」

「明日はいつもよりちょっと早起きかな?」

「魔窟……」


 家族総出で寝顔の鑑賞会が開かれそうな勢いだった。親子だからと言ってここまで似なくてもいいと思うのは、果たして自分だけなのだろうか。


「いつもの真面目な感じが抜けて、あどけない寝顔の葵さん……。えへ……、えへへ……!」

「具体的過ぎて怖いです」


 意識は既に明日の朝に飛んでいってしまっているのか、徐々にアイリスの頬が赤く染まり始める。両手で頬を押さえているのは、そうしていないとだらしなく緩んでしまうからなのだろう。


「写真を撮る手が止まらなくなりそうですね!」

「スタートすらさせませんよ」

「ちょっとくらいならいいじゃないですか」

「どう考えてもちょっとじゃ済まないですよね?」

「済まないですね!」

「じゃあだめです」

「なんでですか!」


 ちょっとでは済まないからである。抗議するように声を上げられても、受け入れられないものは受け入れられない。


「そんなことを言ってる葵さんだって、私の寝顔を撮ってるじゃないですか!」

「そういえばそんなこともありましたね」

「だったら、私にも撮る権利はあります!」

「散々僕のコスプレ姿を撮ってるんですから、そこはお互い様です」


 随分と一方的に負けているお互い様のような気もしたが。


「ちなみに、葵君が泊まっていくと、お風呂上がりの葵君も見られます」

「お風呂上がりの葵さん……!」

「何を想像したんですか」

「えへ……」

「……」


 またしても頬を染めるアイリスの姿は、タイミングによっては魅力的だったのかもしれなかった。ただし、残念ながらタイミングはよくない。


「色っぽい葵さんもいいですね……」

「あなたは葵君なら何でもいいんでしょ?」

「どんな葵さんでも愛でることができます!」

「どうして僕に向かって言ったんですか?」


 力強く見つめられたところで、自分が喜ぶ訳もないのに。アイリスとは、何か根本的なところで認識の違いがありそうだった。


「あ、シャンプーとかは私のものを使ってもらって大丈夫ですから」

「何も大丈夫じゃありませんって」


 主に碧依と莉花辺りが、である。髪からアイリスと同じ匂いがすると気付かれた日には、間違いなく面倒な事態に発展してしまう。言いたいかは別として、確信を持ってそう言いきることができる。


「何か嫌なことでもあるんですか?」

「嫌ってわけじゃなくて、碧依さんとか渡井さんに気付かれたらどうなるかを考えたくないだけです」

「……ほんとですね。絶対に面倒なことを言い出します」

「ですよね」

「でもまぁ、葵さんの湯上り姿を見るためなら、それくらいは気にならないです」

「捨て身に巻き込まないでもらっても?」


 ある意味欲望に素直なアイリスだった。それ自体は構わないが、巻き込まれた方は堪ったものではない。アイリスは学年や教室が違うので逃げるのは容易いが、自分はそういう訳にもいかないのだ。


「さらに言うと、あなたのお風呂上がりも葵君に見られることになります」

「っ!」

「アイリスさん?」

「み、見たい、ですか……?」

「アイリスさんの感情の緩急が激し過ぎて、全くついていけないです」


 時折挟まれるレティシアの言葉のせいで、話題がころころ変わる。その度にアイリスの感情が変化するので、まともに何かを考える暇もなかった。ちなみに、今のアイリスは恐らく恥ずかしさが原因で頬を染めている。


「あ、葵さんが見たいって言うなら……、ちょっとくらいは考えます、けど……」

「別にいいです」

「ちょっとくらいは興味を持ってくれてもいいじゃないですか!」

「湯上りだからって、何にそんなに興味を示せばいいんですか」


 普段とは違う姿なのかもしれないが、だからと言って、さして興味がある訳でもない。実際に目にすればそんな考えも変わるのかもしれないが、無理に目にする必要があるとも思えなかった。


「あったまって赤くなった頬とか!」

「頬を赤くしてるアイリスさんなんて、しょっちゅう見てますからね」

「少しだけ湿った髪とか!」

「体育祭の練習の時に見ました」

「普段は見られない部屋着とか!」

「今着てるじゃないですか」

「なかなか見られないものばっかりですよ!?」

「全部見たことがありましたけど」

「……」

「……」


 沈黙が下りた。自分達だけではなく、アーロンとレティシアすらも黙り込んでいる。


「……葵さん」

「何です?」


 何かを考えていたのか、少しだけ沈黙を続けた後、アイリスがぼそりと自分の名前を呟く。こういった時のアイリスは大抵厄介なことを考えているが、今回はどうだろうか。


「いつか絶対、うちに泊まってもらいますから」

「……」


 瑠璃色の瞳が、一切よそ見をすることなく自分を捉えている。宿る意思はとても強そうだった。


「湯上り姿のよさってものを、しっかり教えてあげます」

「……」


 何をされるのか、今から不安でしかなかった。


「まぁ、このまま順調にいけば、本当に葵君はうちでお風呂に入って、そのまま泊まっていくことになるけどね」

「いつまで経っても練習が始まる気配すらないものね」

「あ」


 そんなアイリスに気を取られているうちに、思ったよりも時間が経っていたらしい。アーロンとレティシアの言葉通り、ずっとアイリスと話してばかりで、肝心の練習は何も進んでいない。


「いや、歩いて数分の距離で泊まっていくって……」

「葵さん。いいことを教えてあげます」

「多分僕にとってはいいことじゃないと思いますけど、一応聞きます」

「私達未成年は、保護者の許可がなかったら、夜十一時より後は外に出ちゃいけないんですよ?」

「……」

「この場合の保護者って、私達でいいのかしら?」

「いいんじゃないかな? 子供の安全を守るって意味では」

「……」


 もう言葉もない。条例やら法律まで持ち出されてしまっては、反論などできるはずがない。話の入口はこんな内容ではなかったはずなのに、何がどうなってこうなってしまったのだろうか。


「つまり、その時間を回ってしまえば、私の勝ちです」

「急いで進めましょうか」


 とても綺麗な笑顔のまま、アイリスがそう宣言する。本気で言っている訳ではないと思いたいが、相手はアイリスなので、残念ながら本気であってもおかしくはない。


 どちらにせよ、練習を進めなければ待っているのは宿泊である。細かいことを気にするよりも先に、急いで準備に取り掛かる。


「練習なんですから、ゆっくりやりたいです」

「……」


 だというのに、その手をアイリスに優しく押さえられた。大した力は込められていないはずだが、何故か振り払うことができない。練習なのだからというその言葉が、ある意味当然のもので強く出られなかったからなのか。


「生地を作ってしまえば、焼く時間はそんなにかかりませんから」

「……」

「だから……」

「アイリスさん?」


 それまで穏やかだったアイリスの表情が、そこで突然崩れた。何故かさっと目を逸らされる。


「どうして自分から押さえておいて照れてるの」

「だってぇ……!」


 レティシアの指摘で、さらにアイリスの様子が崩れていく。


 そんな様子に、とある記憶が呼び起こされる。比較的最近の記憶の中で、自分から手を繋ぐのは恥ずかしいと、そう言ってアイリスが困ったように笑っていた。


 要は、今もそれを意識してしまったのだろう。


「自分から仕掛けたんだから、きちんと最後まで頑張りなさいよ」

「うぅ……」


 謎の決意に満ちていたアイリスは、もうそこにはいない。今目の前にいるのは、恥ずかしがりながらも、それでも手は離そうとしない、いつもの可愛らしい後輩でしかなかった。




「これって、本番で使うのと同じ道具なんですか?」

「そうですね。練習したい人が順番で持って帰ってます」

「じゃあ、とりあえずこれで上手く焼けるようになっておけばいい、と」

「そういうことです。本番は火加減が違うのが気になりますけど……」


 紆余曲折あって、ようやく始まった練習会。言っていた通りだった混ぜるだけの生地作りを終え、あとは焼くだけである。


「串で刺して焼き具合を確認するみたいですから、そこもそんなに気にしなくても大丈夫だと思いますよ」

「そこですよ」

「はい?」


 レシピを思い出しながらそう口にしたところ、アイリスに人差し指を突き付けられることになった。詳しいことはよく分からないが、どうやらその部分に何か思うところがあったらしい。


「串を刺して、生焼けの生地が付いてなかったら焼き上がりって。生焼けの生地ってどんなのですか」

「いや、生焼けは生焼けとしか……」

「初めて作るのに、生焼けとか分かるわけがないじゃないですか。写真で説明してください、写真で」


 ワッフルメーカーを見つめながら不満を零すアイリス。初めて体験する工程ということもあり、不安が溢れているようだった。


「その辺はやってみて感覚を掴むしかないでしょうね。何なら、最初はちょっと早めに串を刺してみますか?」

「え?」

「生焼けってどんな状態なのかを確認するってことで」

「あぁ……、じゃあ、そうしましょうか」


 アイリスは初めから完璧を目指しているようだが、今回は練習なのだから、やりたいようにやればいいはずである。多少失敗したところで、加熱さえしていれば食べられないものにはならないので、材料が無駄になることもない。


「よし、焼きます」

「いきなり火傷はいらないですからね」

「葵さんは私のことを何だと思ってるんですか?」


 予熱が終わったワッフルメーカーに生地を流し込みながら、アイリスが言う。とりあえず、火傷を心配する必要はなさそうな手付きだった。


「今言うと失敗しそうなので、後で言いますね」

「それを聞いて、『じゃあ後で聞きます』って言うと思いました? 私が動揺するようなことを言いますって宣言してるようなものですよ?」

「アイリスさんが動揺するようなことを言います」

「言ってくださいって意味じゃないです」


 生地を流し込んだアイリスが、ワッフルメーカーの蓋を閉じる。あとは決まった時間焼くだけということで、少しの待ち時間ができる。


「でも、気になりはするので、とりあえず最初の三文字は聞きます」

「どういう聞き方ですか」

「残りを聞くかは、そこで判断しようかと」

「はぁ……?」


 判断方法が独特過ぎてついていけないが、アイリスがそれでいいと言っているのであれば、自分の困惑には大して意味がないのだろう。ひとまずそう考えて、思っていたことの冒頭を明かす。


「異常に、です」

「誰が異常に不器用ですかっ。そんなに不器用じゃないですもんっ」

「いや、違いますけど」

「あれ?」


 何も判断できていなかった。


「じゃあ、何て言おうとしてたんですか?」

「最近も似たようなこと言ったじゃないですか」

「はい?」

「異常に可愛い後輩って」

「はぇ!?」


 アイリスの肩が思いきり跳ねた。やはり、生地を流し込んでいる時に言わなくて正解だったらしい。もしそうしていた場合、どんな惨事が起こっていたかなど、考えるまでもなかった。


「なっ……、え!?」

「やっぱり動揺しましたね」

「どっ、動揺してない葵さんがおかしいんですよっ!」

「今回は心の準備をする時間がありましたから」

「だからってぇ……!」


 アイリスの頬の方が、生地よりも火の通りがよさそうだった。全体が満遍なく赤くなっている。


「そんな簡単に言うことじゃないです……!」

「思ってることは口にしないと伝わりませんからね」

「おかげで私の心臓は大変なことになってるんですけど!」

「最近はやられっぱなしでしたから、たまには返しておかないと」

「むぅー!」


 いよいよ何も言えなくなったアイリスが、微かに頬を膨らませながら謎の鳴き声を上げていた。やはり、生地よりも火の通りがいい。


「よく親が見てる前でそんな会話ができるわね?」

「あ……」


 あっという間に萎んでしまうのは、ワッフルとは少し違う点なのかもしれないが。


「何? 最近はあなたの方が押してたの?」

「あぁ……!」

「娘がどんな様子だったか、僕達も知りたいな?」


 アーロンのその言葉を聞く限り、にこにこ笑う二人の矛先は自分にも向いているらしい。これは厄介なことになったと、本能的にそう悟る。ここ最近のアイリスの行動をわざわざ言葉にして、しかもそれをアーロンとレティシアに伝えるとどうなるかなど、最早意識的に考えなくても想像ができてしまう。


「絶対に言っちゃだめですからね!」


 同じくアーロンの言葉を聞いたアイリスから、そんな忠告を受ける。


「言われなくても」

「あら? 聞かれて恥ずかしいようなことでもしてたの?」

「してた!」

「……そこは認めるのね」


 無駄に勢いがいいまさかの返答に、レティシアですら少し面食らっていた。


「子供っていうのは、こうやって知らないところで成長していくものなんだね……」

「そんなにしみじみ言う場面でした?」


 そして、アーロンの感想はどこかずれているような気がしないでもなかった。


「何かしら? さっきの反応を見る感じ、手は繋いでそう……。あ、いや、夏祭りの時にもう繋いでたわね」

「余計なことは考えなくていいよ」

「ってことは、腕を組んだり、とか?」

「余計なことは考えなくていいって!」


 本当にその感想であっているのかと、そんな意味を込めた視線をアーロンに向ける自分の隣では、アイリスがレティシアの追撃を躱そうと躍起になっていた。ただし、躱しきれる未来が見えないが。


「これは当たりね」

「違うもん!」


 最初に流し込んだ生地が焼き上がるまで、あと少し。それまでは、このまま賑やかな時間が続きそうだった。




「……思ったよりたくさんできちゃいましたね」

「思ったより一個が大きいですしね」

「どうしましょうか?」

「食べる以外の選択肢はないですよ」

「そうですけど……」


 焼き上がったワッフルが、目の前で皿に積み上がっていた。最初に作った下の方は焦げているものがやや多く、最後の方に作ったものは綺麗に焼き上がっている。アーロンの言葉ではないが、この短時間での成長を感じさせる色の変化だった。


「この量を、この時間から……?」

「太りそうですね」

「あえてっ! 何もっ! 言わなかったのにっ!」

「現実から目を逸らしちゃだめですよ」


 腕をぽかぽかと殴られながらも、逃れられない現実をアイリスに突き付ける。


 時刻は午後九時半近く。あれから色々と練習するうちに、思った以上に時間が過ぎてしまっていた。


「甘いものは別腹って言いますけど、カロリーは別腹じゃないんですからね!?」

「頑張って節制しましょうね」

「むぁー!」


 またも謎の鳴き声を上げるアイリス。それだけ体型の維持に気を付けていることがよく分かる。


 だからと言って、捨てる選択肢はないが。


「まぁ、そうは言っても、今から全部食べるのは無理ですけどね」


 目の前には、そこそこの大きさのワッフルが、そこそこの数。アーロンとレティシアに一個ずつ渡すとしても、それでも二人で食べるには多い数が残る。


「……じゃあ、どうするんですか」


 当然の疑問をアイリスが抱く。食べきることもできなければ、捨てることも許されない。解決策が見えなくても仕方がなかった。


 ただし、食べきることができないのは、今だけの話であって。


「僕が食べますよ。明日の朝と昼にでも」

「え?」


 数回に分けて食べるのであれば、話は別である。調べてみたところ、保存さえしっかりしておけば、それくらいは日持ちするとのことだった。


「葵さんの朝ご飯とお弁当になるってことですか?」

「そういうことですね。アイリスさんさえよければですけど」

「……」


 そんな提案をしてみれば、アイリスが真剣な表情で黙り込む。どうするかを考えているようだが、果たしてどんな結論が出るのだろうか。


「……分かりました」


 少しだけ間が空いてから聞こえてきたのは、了承の言葉だった。これで、晴れて目の前のワッフルの行き先が決まったことになる。


「じゃあ……」

「葵さんのご飯になるなら、もっと綺麗で美味しそうなのを焼きます」

「増やしてどうするんですか」


 何も解決していなかった。


「だって、せっかくなら美味しいのを食べてもらいたいじゃないですか!」

「アイリスさんが真面目に作ったものなら、大体何でも美味しく食べますから」

「っ! すぐそういうことを……っ!」


 言わんとすることも気持ちも分かるが、これ以上増えてしまえば、それこそ本当に解決策がなくなってしまう。追加で作ることだけは、何としても阻止しなければならなかった。


「とにかく、これ以上焼くのは禁止です」

「うぅー!」

「威嚇してもだめです」


 瑠璃色の瞳に見つめられて一瞬気持ちが揺らぐが、今回ばかりは譲れない。譲った先に待っているのは、甘い網目の牢獄である。


「今食べる分は別にして、残りは引き取りますから」

「……はーい」


 あまり納得はしていないようだが、それでもどうにか引き下がってくれた。アイリス本人も、心の中ではこれ以上増やすことはできないと理解していたのだろう。


「いいのかい? 僕達も協力するけど」

「一応、学校の行事の練習ですから。僕の方で引き取らせてください」

「そう言うなら、まぁ……」

「あなたからしても、私達が食べるより、葵君に食べてもらった方が嬉しいんじゃない?」

「そ、そんなこと……」

「もっと綺麗なのを焼こうとしてたのに?」

「うっ……」


 痛いところを突かれたといった様子で、アイリスが呻き声を上げる。ちなみに、聞いているのが何となく恥ずかしい会話で、自分は黙って空気のようになっていた。


「嘘はよくないわよ」

「……」

「葵君」

「はい?」

「正直な人と、誤魔化してばっかりな人。どっちの方が好き?」

「正直な人ですね」

「葵さんに食べてもらう方が嬉しいですっ!」


 しっかりと自分を見つめながらの一言だった。そこまではっきり言われると、先程よりも大きく気持ちが揺らいでしまう。


「……いや、まぁ、ありがたく食べさせてもらいますけど」


 思わず頬を掻きながら、そう答える。何故かは分からないが、真っ直ぐその目を見ることができなかった。


「やっぱり照れてる葵君も可愛いわね……」

「写真でも撮っておくかい?」

「今はもう間に合わないから、次の機会にね?」


 アイリスに気持ちで押される中、アーロンとレティシアに対応することなど、できる訳がなかった。




「思ったより甘いです」

「ですね。トッピングなんかも考えたら、甘さはもう少し控えめでもいいかもしれません」

「そこは私達のクラスで相談しますね」


 大半は明日の朝と昼になるとはいえ、この場で味見しておかないと練習の意味がない。そんな訳で、とりあえずお互いに一つずつ食べてみることにした結果が、今の感想だった。


「そう? 私はこのままでも好きよ?」

「僕はもう少し控えめが好きかな」


 アーロンとレティシアの意見は、アイリスと自分とは違ってそんな風に分かれていた。この辺りは、もう個人の好みの問題だろう。万人に気に入られる塩梅というものは、基本的には存在しない。


「トッピングなしで出すものはこのままで、ありで出すものは控えめにして、なんて案もありますけど、高校生の文化祭でそこまでするのかって判断は任せます」

「混乱しそうですね」

「えぇ。いつか絶対に間違えます」


 そもそもの話、高校生の文化祭にそこまでのものを求める人間はほとんどいないだろう。凝ったところで、骨折り損になる可能性の方が高い。


「まぁ、その辺も含めて相談ってことで」


 アイリスもそのことはよく理解しているのか、あまり深追いせずにそう議論を締めくくる。


「……わざとそうしたわけじゃないですけど、ほんとに思ったより遅くなっちゃいましたね」


 そして、そのまま時計に視線を向けるアイリス。釣られて同じ時計に目を向ければ、時刻は既に午後十時を五分程回っていた。


「片付けなんかもありましたしね」

「今から帰って、色々大丈夫ですか?」

「明日の朝と昼の分はアイリスさんが作ってくれましたし、宿題なんかも昼の間にできるだけ進めておきましたから。心配しなくても大丈夫ですよ」

「相変わらず準備がいいですね」

「今日の帰りが遅くなるのは分かってましたから」


 そのために準備をしていただけの話だ。明日の朝と昼がここで決まったのは、流石に想定外だったが。


「アイリスさんこそ、宿題は大丈夫なんですか?」

「……」

「アイリスさん?」


 目を逸らされた。もうその時点である程度事情は察したが、まだ勘違いの可能性もある。本当にそうだと決めつけるのは時期尚早だった。


「早めに認めてくれたら、十一時前までなら手伝えますよ?」


 もちろん、代わりに問題を解くようなことはしないが、分からないところがあれば教えることはできる。ただし、今日に限っては時間制限ありだ。


「びっくりするくらい進んでません! 助けてください!」

「分からなそうなところを選んで、そこからやりましょうか」

「すぐ持ってきますから、ちょっとだけ待っててください!」


 そう言って頭を下げたアイリスが、足早にリビングを出ていく。先程自室に持っていった鞄の中身を取りに行ったのだろう。


「いいのかい?」


 そんな後ろ姿を見送ってすぐに、アーロンからそう声をかけられる。その口調は、どこか心配そうなもの。


「大丈夫です。僕の方はほとんど終わってますから」

「いや、時間の方は気にならないのかなって」

「あ、そっちですか」


 どうやら、自分が想像していた心配とは違う方向の心配だったらしい。先程のアイリスと同じく、その視線は時計へと向いていた。


「そっちも大丈夫です。アーロンさんとレティシアさんのさっきの言葉は冗談ですよね?」

「あら、ばれてたの?」

「目がそうでしたから」

「もうそんなに私達のことを分かってくれてるの?」


 そう言いながら、レティシアがうっすらと笑みを浮かべる。そこには裏など一切見当たらず、見ている自分の方が何となく恥ずかしくなってしまう。


「僕達とも親しくしてくれてる証拠だね」

「……後輩のご両親の冗談具合が分かるくらいにからかわれてる、とも言いますけどね」

「葵君。違うでしょ?」

「はい?」

「『異常に可愛い後輩』、でしょ?」

「……」


 笑みの色が濃くなったレティシアの、そんな一言。自分が言った言葉がこんな形で返ってくるとは思ってもいなかったので、咄嗟に言葉が出てこなかった。


「……そういうところですよ」

「知ってる。異常に可愛いうちの子のこと、これからもよろしくね?」

「……」

「持ってきました! ……あれ?」


 アイリスには勝てても、その両親に勝てる未来は一向に見えない。すっと目を逸らして黙ってしまったタイミングで戻ってきたアイリスが、自分達三人の間に漂う不思議な空気に首を傾げている。


「何かありました?」

「あなたは気にしなくていいわよ」

「うん?」


 何をどうしたところで、今すぐにアーロンとレティシアに勝てるようになる訳でもない。とりあえず、二人から逃げるように目の前の後輩の宿題に集中することにした。




 後日談。


 と言っても、その翌日のことだが。


「葵君。何それ?」

「ワッフルです」

「いや、それは見れば分かるけど……。何で?」


 いつもの顔触れが集まった昼休みにそれを取り出した途端、碧依から怪訝そうな目を向けられた。言葉にしているのが碧依であるだけで、悠や莉花も少なからず不思議そうな顔をしている。


「アイリスさんが焼いてくれました」

「焼きました」

「いや、だから……。何で?」


 その中で、唯一いつも通りの表情を見せるアイリス。そんなアイリスと二人がかりで答えたのに、碧依の目付きは依然として変わっていなかった。


「文化祭の練習に付き合ってたんですよ」

「碧依先輩もお話は聞いてましたよね?」

「あー……。そういえば、そんなことも言ってたような……?」


 過去の記憶を探るように、曖昧な言葉を呟く碧依。その姿を気にしながら、今度は莉花が疑問を口にする。


「何? アイリスさんのとこはそれを売るの?」

「ですね。そんなわけで、昨日葵さんと一緒に練習したんです」

「で、思ったより大量にできたので、僕の今日の朝と昼になりました」

「へー……」


 経緯を一通り聞いた莉花が、何か含みのある一言を零す。これまでは主に自分が持っているワッフルに視線が向いていたが、今ではたまにアイリスの方にも向けられている。


「美味しい?」

「美味しいですよ」

「えへ」

「へー……」


 莉花が再びそう呟く。そのたった一文字に込められた思いは一体何なのか。


「一緒のキッチンに立って料理……。……新婚?」

「へぁ!?」

「いきなりどうしました?」


 注意していたはずなのに、いつの間にか表情が変化していた。今は、どう見ても悪戯を思い付いた子供のような表情になってしまっている。厄介な時間の到来を告げる表情だった。


「ちっちゃくて可愛いお嫁さんの姿はどうだった? 新婦さん?」

「あれ?」

「性別」


 破壊力のある莉花の一言で動揺していたはずのアイリスだが、一応は冷静な部分も残っていたらしい。その後に続いた発言で、あっという間に落ち着きを取り戻していた。


「どう? 緊張した?」

「葵さんと一緒にお料理する時は、いっつもどきどきしてます……!」

「アイリスさんが新婦側なんですか?」


 今の自分の発言だけを切り取れば、何もおかしなところはない。けれども、その流れでいくと、莉花の言う「ちっちゃくて可愛いお嫁さん」が自分を指すことになる。おかしなところしかない。


 そこに気付いていないとなると、アイリスはまだ落ち着きを取り戻していないのかもしれない。


「ちっちゃくて可愛いお嫁さんは? 新婦さんの頑張ってるところを見て、何か思ったりしなかった?」

「やっぱり僕がそっちなんですね」


 意識を記憶の彼方に飛ばしていたはずの碧依が、瞬時に戻ってきて莉花に便乗する。あまりにも素早い、迷惑この上ない協力体制の構築だった。


「細かいことは気にしなくていいの」

「細かい……?」

「そんなことより。ほら、アイリスさんが褒められるのを待ってるよ?」

「……!」

「褒めるのは確定ですか」

「こういう時、葵君は絶対にアイリスさんのことを褒めるもんね」


 何故か誰よりも自信に満ちた顔でそう言う碧依。言われなくともそのつもりだったが、改めてそう言われると話しにくくなる。


「……」


 けれども、期待に満ちた目で見つめてくるアイリスを無視することもできず。


「……最初の方はちょっとだけ焦がしたりもしてましたけど」

「う……!」

「最後は綺麗に美味しく焼けるようになったと思いますよ。少なくとも、これを作るのはアイリスさんの方がずっと上手ですね」

「そ、そうですか……? えへへ……!」


 結局は、そんな言葉を贈ることになった。どうやら期待に応えることはできたようで、それはもう嬉しそうに、そして照れたように微笑む姿を見せてくれる。


「ほら。やっぱり褒めた」

「甘々か。そのワッフルよりも甘いわ」

「……」


 そして、碧依と莉花からはそんな言葉を頂戴する。特に意識していなかったが、自分の行動をそう表現されると途端に恥ずかしさがこみ上げてくるのだから、感情とは実に不思議なものである。


「ほんと、いつ見てもいつも通りの二人だね」


 ずっと黙ってにこにこと眺めていた悠の一言が、思わず黙ってしまった自分の耳に、妙にはっきりと届いた。

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